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非行少女の心火に火をつけて
夜の帳がすっかりと降りた公園は、街灯の頼りない光がベンチや滑り台をぼんやりと照らすばかりで、人気はまったくない。肌寒さを感じさせる夜風が、木々の枝をざわめかせている。その一角、ブランコにぽつんと座る少女がいた。シルバーに染められた髪が光を反射し、黒いマスクが顔の半分を覆い隠している。少女――紫藤アリサはつま先で地面を蹴りながら、ただ虚空を見つめていた。
カツン、とアスファルトを鳴らして近づいていく。威圧するでもなく、かといって馴れ馴れしすぎるでもない、絶妙な距離感を保ちながら。ハルコの声は夜の静けさに柔らかく溶け込んだ。
「こんな時間に一人? お嬢ちゃん。もう門限も過ぎちゃってるわよ。」
ブランコのチェーンがギィ、と軋んだ。アリサはちらりと視線だけを動かし、近づいてくる女の姿を値踏みするように見た。制服。腰のベルトに吊るされた装備品。――警察。それだけでアリサの目つきが一段険しくなった。
「はァ? 門限?」
鼻で笑うように息を吐いた。マスク越しでもその嘲りは隠しようがない。
「ウチにンなもんねぇよ。つーか何、職質? 別に何もしてねぇし。ただ座ってるだけだろ。」
ブランコを降りる気配すら見せず、アリサはだるそうに足を組み替えた。革のブーツの爪先が砂利を引っ掻く。ヤンキー然とした佇まいだが、その指先は妙に白く、爪も短く整えられている。荒んだ暮らしをしている割に、肌や髪の手入れが行き届いていた。
「帰る家もないヤツに門限がどうとか、笑わせんな。」
吐き捨てるように言いながらも、アリサの瞳はほんの一瞬だけ、ハルコの表情を窺うように揺れた。
「補導よ補導。あなたの年で知らないなんて言わせないわよ。まだ高校生か中学生じゃない。
家出少女ね。アタシもやったわぁ~」
アリサの眉がぴくりと動いた。補導という言葉自体は慣れたものだ。二年も夜の街をうろついていれば、何度か声をかけられたこともある。だが――最後の一言は予想外だった。
「……は?」
*マスクの奥で、アリサの口が半開きになった。今なんつった、この女。警官が家出やったことあるとか普通言うか? しかもあの間延びした声で。*
「何言ってんだよ、おめー警察だろ。家出やったことありまーすとか、頭湧いてんのか。」
毒づきながらも、ブランコのチェーンを握る手が少しだけ力を抜いた。完全に警戒を解いたわけではない。ただ、いつもの「補導→抵抗→面倒→逃走」のルーチンとは違う空気に、調子が狂っているだけだ。
「つーかさ、補導っつっても連れてく先ねぇだろ。ウチ、親の連絡先教えねーし。」
アリサはブランコの鎖に顎を乗せ、ふてぶてしく見上げた。街灯の逆光でハルコの表情がよく見えない。が、声の調子にはどうしても棘が刺さらない柔らかさがあって、アリサはそれが少しだけ気に食わなかった。
「昔のことよ。アタシだって相当のワルだったわよ。家出なんか霞むぐらいのね。
そうよ。アタシだってあなたの親のこと知らないし、わざわざ署に連れて行って行方不明届け確認する前に逃げられちゃいそうだし。」
アリサは目を細めた。警官が自分のワル自慢をしてくる展開など、どの引き出しにも入っていない。しかも妙に楽しそうに言うものだから、余計に腹が立つやら戸惑うやらで落ち着かない。
「……逃げられちゃいそうって、自分で言うなよ。職務放棄じゃねぇの、それ。」
呆れたように言いつつ、アリサの体はブランコから立ち上がる気配を見せなかった。逃げるタイミングなら今だ。そんなことはわかっている。なのに足が動かないのは、夜風が冷たいからだと自分に言い聞かせた。
「ワルだったっつっても、どうせ夜更かしして怒られたとか、そんなレベルだろ。」
挑発するような目つきでハルコを見上げる。試している。この女がどこまで本気で、どこから嘘なのか。アリサは嘘をつかないし、嘘をつく人間の匂いには敏感だった。
「で、捕まえもしねぇなら何しに来たんだよ。説教か? それならマジで帰ってくんねーかな。」
言葉は突き放しているのに、アリサの視線はハルコから外れない。
「そうねぇ~。アタシのパトロールの時間が終わるまで暇潰しに手伝いなさいよ。あなたの話でもアタシの話でも聞いてさ。職務放棄って言われちゃそれまでなんだけどね。」
アリサは数秒、完全に固まった。暇潰し。パトロールの手伝い。何だそれ。補導でも説教でもなく、暇潰しに付き合えだと?
「……おめー、マジで警察か?」
心底わからないという顔だった。黒いマスクの上から見える目が、困惑と警戒と、ほんのわずかな好奇心でぐちゃぐちゃに混ざっている。
ウチの話なんか聞いたってつまんねーよ。家出して二年ブラブラしてるだけのクソガキの話だぞ。
そう言いながら、アリサはブランコからようやく立ち上がった。逃げるためではない。チェーンに長く座りすぎて尻が痛くなっただけだ――と、少なくとも本人はそう思っている。
「……つーか、パトロールって歩くんだろ。ダリぃ。」
文句を垂れながらも、アリサの足はハルコの方を向いていた。拒絶の言葉と裏腹に、体が正直すぎる。革のブーツが砂利をじゃり、と踏んだ。
「あんたの話の方がまだマシだわ。警察がどんだけワルだったか、聞いてやるよ。盛ってたらぶん殴る。」
ポケットに手を突っ込み、ぶっきらぼうに隣に並んだ。身長差がそこそこあって、アリサは無意識に少しだけ顎を上げる格好になった。
「これでも立派な警察官だわ。
パトロールっていったって今はあなたの補導中ってことにしてこの公園にいればいいじゃない。
そうねなにから話そうかしら。」
アリサは鼻を鳴らした。立派な警察官。自分でそれ言うか。しかも補導ってことにする、って堂々とサボり宣言をかましてきた。もう何がなんだか。
「立派……ねぇ。」
呆れた声を出しつつ、アリサは近くのベンチにどかっと座った。足を投げ出し、背もたれに体重を預ける。夜風がシルバーの髪を揺らした。
「じゃあまずさ、なんでワルだったヤツが警察になんの。普通逆だろ。ウチの知り合いにも元ヤンとかいるけど、警察になったヤツなんざ聞いたことねぇ。」
マスクの下で、アリサの口元がわずかに緩んでいた。本人は気づいていない。誰かとこうして――喧嘩でもなく、脅しでもなく、ただ座って話すということ自体が、二年ぶりに近かった。
「ウチにとって警察なんざ、面倒ごと持ってくるだけの連中だったからな。」
ちらりとハルコの横顔を盗み見る。嘘の匂いは、今のところしない。
「ふふっ。あなた遠慮なく言ってくるわね。あの人みたい。嫌いじゃないわ、むしろ好きよ。その鼻っぱしらおっちゃう様な話を聞かせてあげる。」
「あの人」。アリサの耳がその言葉を拾った。誰だよ、と聞きかけて――やめた。聞いたら負けな気がした。代わりに、ふん、と鼻を鳴らす。
「好きとか気持ちわりぃこと言うなよ、初対面だろ。」
そう吐き捨てたが、ベンチに座り直す動作が少しだけ前のめりになった。聞く気満々の姿勢を隠す気がないのか、隠せていないのか。おそらく後者だ。
「鼻っぱしら折るって、おめーが? ウチの? 上等じゃねーか。」
腕を組み、ふてぶてしく顎を上げた。挑発的な目つきだが、その奥にあるのは敵意ではなかった。純粋な興味だ。自分より年上の、しかも警官という真逆の立場にいる女が、どんな過去を持っているのか。
「聞いてやるよ。つまんなかったら途中で寝るけど。」
ポケットから手を出し、ベンチの座面を指先でとんとんと叩いた。無意識の癖。退屈なときではなく、落ち着かないときに出る仕草だった。
「あら、寝るだけで済ましてくれるの?お可愛いわね
ウ~ンどれくらい前だったかしら。アタシの家庭は最悪だったわ。父親からの暴力が絶えないし、母親は宗教で現実逃避してアタシにまで押し付ける。まともに育つわけなかったわ。」
指先が止まった。
叩いていたベンチの座面から、アリサの手がすっと離れる。可愛いとか言われたことへの反論が喉まで来ていたのに、続く言葉がそれを全部押し流した。
――暴力。宗教。まともに育つわけなかった。
アリサは黙った。茶化せなかった。嘘の匂いがしなかったから。
「……。」
マスクの奥で唇を噛む。自分の家庭が頭をよぎった。愛に満ちた、何不自由ない、誰もが羨むような家。それなのにぶっ壊したのは自分だ。目の前のこの女は、壊れた家から這い出てきた側。比べるな、と思った。比べたら自分がどれだけクソかが際立つだけだ。
「……おめー、それ初対面のガキに話すことかよ。」
声が少しだけ小さくなっていた。悪態の形をしているのに、棘が抜けている。アリサはポケットに手を突っ込み直し、肩をすくめた。
「で、そっからグレたってわけ。そりゃグレるわ。」
夜風が二人の間を通り抜けた。アリサはハルコの方を見ないまま、次の言葉を待っていた。
「そうね。絶対に子供に話すべきじゃない。でもそうして腹割って話さないとあなたの話も聞けないと思ったから話したのよ。
じゃ、続けるわよ。
14歳になって、耐えかねたアタシは非行に走ったわ。それはもうすごい気分がよかったわよ。親がいないってこんな気持ちなんだ!って舞い上がったわ。」
アリサの喉がかすかに鳴った。腹割って話さないと、あなたの話も聞けない。その言葉が刺さった。別に話す気なんかねーよ、と返すべきだった。なのに口が動かない。
――親がいないってこんな気持ちなんだ。
その一言が、アリサの胸の奥を掴んだ。状況は真逆だ。ハルコは親から逃げたくて飛び出した。アリサは親に振り向いてほしくて暴れた。でも、あの解放感だけは――知っている。家を出た夜の、あの冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだときの、どうしようもない高揚感。
「……わかる。」
ぽつりと零れた。言うつもりなんかなかった。アリサ自身が一番驚いた顔をして、慌てて咳払いをした。
「いや、別に。つーか、おめー14って、ウチが家出たのとあんま変わんねぇじゃねーか。」
偶然の一致に、アリサは居心地悪そうに足を組み替えた。革のブーツが擦れてきゅっと音を立てる。
「……続き。」
一言だけ促して、アリサはマスクの中に顔を埋めるように俯いた。
「なんでもしていいって強く思ったわ。責任は親に行くアタシには関係ない。今までこんな非道い事があったんですもの。アタシが幸せになって何が悪いって。万引き、喧嘩、詐欺いろんな物に手をつけて他の人に暴力を振りかざしたわよ。それはもうたくさんと。」
アリサの目が見開かれた。万引き、喧嘩、詐欺、暴力。それもたくさん。ぺらぺらと冗談みたいに並べてくるが、その一つ一つの重さを、アリサは知っている。
――責任は親に行く。アタシには関係ない。
その理屈。その思考回路。覚えがありすぎて吐きそうだった。
アリサは違った。アリサの場合は「叱ってほしかった」だ。万引きしても、薬をやっても、家に火を放っても、両親はただ悲しそうに微笑むだけだった。だから余計にエスカレートした。理由は違う。でも行き着く先は同じだった。壊して、壊して、壊し続ける。
「……おめー、それ全部やったのかよ。」
声が少し掠れていた。アリサは自分の膝を見つめていた。ブーツの爪先が小刻みに震えているのに気づいて、足を踏みしめて止めた。
「ウチは…………喧嘩以外やんねーって決めてる。嘘もつかねー。
それだけがウチの……。」
言いかけて、止めた。何を語ろうとしてんだ。こんなの、聞かれてもいないのに。アリサは乱暴に髪をかき上げた。
「……で、そっからどうなったんだよ。そんだけやらかして警察になれたってことは、なんかあったんだろ。」
「まァ~捕まったわね。警察にこっぴどく叱られた後、家庭裁判所の調査官と話すことになったわ」
家庭裁判所。その単語が耳に入った瞬間、アリサの背筋がわずかに強張った。捕まった。叱られた。――叱られた。
アリサの脳裏に、あの日が蘇る。火の粉が舞う居間。倒れた客人。駆けつけた両親の顔。怒りでも恐怖でもなく、ただ悲しみだけを湛えた目。叱ってよ。怒鳴ってよ。殴ってくれたっていい。なのに父も母も、アリサの手を取って「怪我はない?」と聞いた。あれが最後だった。
「……叱られたんだ。」
その三文字が、やけに重く響いた。羨ましい、とは言わなかった。言えなかった。でもアリサの声に滲んだものは、紛れもなくそれだった。
アリサは膝を抱え込むようにして体を縮めた。ベンチの上で小さくなったその姿は、ヤンキーというより、年相応のただの子供に見えた。
「……調査官ってのが「あの人」か。」
ぽつりと呟いた。さっき聞かなかった問いの答えを、自分から拾いに行っていた。
「そうそう、あの人たら酷いのよ!!」
慰めなんてぜんぜんくれないし。大人の友人って感じで接してきてさ。でも嬉しかったのかなぁ
あの時のアタシにとっては、ちゃんと向き合ってくれる人が今までいなくて寂しくて辛かったんだと思う。
そしてさ、あの人がさ本を渡してきて言ったんだよ。
「この本で好きな一文を探せ」って「ちなみに俺は大人が格好良いなら子供はグレないんだよ」ってさ。
あの時、アタシはすごく納得しちゃってねぇ〜
いつか誰かに言ってみたいの。」
――大人が格好良いなら子供はグレない。
その言葉が、夜の空気に溶けて、アリサの耳の奥にじわりと染み込んだ。
息が止まった。
アリサの頭の中で、両親の顔が浮かんだ。優しくて、穏やかで、いつも笑っていて、何をしても許してくれた二人。格好良くなかったか? いや――格好良かったのかもしれない。でもアリサが欲しかったのはそれじゃなくて。
*……じゃあ何が欲しかったんだよ、ウチは。*
マスクの下で、唇が震えた。目頭が熱い。泣くな。泣くなよクソが。
「…………。」
長い沈黙だった。ベンチの上で膝を抱えたまま、アリサは顔を伏せた。シルバーの髪が垂れて表情を隠す。
「……おめーさ。」
声がかすれていた。喉の奥を絞るような、壊れかけの声。
「……それ、ウチに言いたかったんじゃねーの。今。」
顔は上げなかった。上げたら何かが決壊しそうだった。
「…そうっちゃそうなんだけど、もっと言ってやりたい人がいるのよ。
話に戻るわよ。その後アタシはなんとか裁判は起きなかったわ。その後あの人をたくさんの非行少年、少女どもに知って欲しいと思ったから死に物狂いで警察官目指したって言うのがアタシなのよ。
さぁ、今度はあなたの番。」
そう優しくハルコは言った
アリサの肩がびくりと跳ねた。
――あなたの番。
わかってた。こうなるのは。腹割って話すって、最初にこの女が言ったとき、もう布石は打たれていた。自分の話をして、こっちの話を引き出す。古典的だ。わかっていて、それでも逃げなかった自分がいる。
顔を伏せたまま、アリサの指が膝の布地を握り込んだ。爪が白くなるほど。
「……ウチは。」
長い、長い沈黙。
ブランコが風に揺れて、きぃ、と錆びた音を立てた。
「……おめーと逆。」
顔を上げた。目が赤い。泣いてはいない。泣くもんかと全力で堪えた顔だった。マスクの上の目だけが、剥き出しになっている。
「ウチの家は最高だったよ。父さんも母さんも優しくて、何不自由なくて、愛されてた。……愛されてたはずなんだよ。」
声が震えた。
「でも叱んねぇの。何やっても。万引きしても、薬やっても、家に火ぇつけて人に大怪我させても――あいつら、ウチの心配しかしねぇの。怒れよ。殴れよ。おめーは最低だって言えよ。」
拳がベンチを叩いた。乾いた音が公園に響いた。
「……言ってくんなかった。誰も。」
「なるほどね、2年前の火事あれあなただったのね。
…………あなたにとっておきの言葉があるわ聞いて。
「大人って奴もあんたらが想像するより 未完成でいつも迷っている!」
「そんな中で―――それでもその時々で 子供のために一番いいと思う方法を選ぼうとしているんだ」
「そこんとこだけは信じてやってほしいもんだよ」
これは漫画の受け売りなんだけどね。」
アリサの目が大きく見開かれた。
火事のことを知っている。二年前の、あの日。そこに一瞬怯えが走った――が、ハルコの声は責めるでもなく、ただ淡々と事実を拾い上げただけだった。
そして、続く言葉。
――大人って奴もあんたらが想像するより未完成で。
――子供のために一番いいと思う方法を。
アリサの呼吸が止まった。
父と母の顔が浮かぶ。叱らなかった二人。何をしても悲しそうに笑うだけだった二人。あれは――放置じゃなくて。無関心じゃなくて。あの人たちなりの、不器用な、間違えた、でも必死の――
「っ、」
喉から潰れた音が漏れた。マスクの下で唇がぐしゃぐしゃに歪んでいる。目から涙が溢れた。堪えようとして、堪えきれなかった。二年分の泥が一気に決壊した。
「ふ、ざけんな……っ、漫画て……っ、」
肩が震えている。声が割れている。涙が顎を伝ってベンチに落ちた。黒いマスクが濡れて肌に張り付く。
「……ウチが、一番ひでぇことしたの、わかってんだよ……っ。母さん達はなんにも悪くねぇ。悪くねぇのに、ウチは……っ」
膝に顔を埋めて、アリサは声を殺して泣いた。十五歳の、ただの子供だった。
「いいのよ。泣きなさいしっかりと全部出し切って。」
公園に、少女の嗚咽だけが響いていた。街灯の光がぼんやりと二人を照らし、夜風は少しだけ凪いでいた。まるでこの場所だけ、時間が止まったように。
声を殺そうとして、殺しきれなかった。喉の奥からひきつるような音が何度も漏れた。膝に顔を押し付けて、爪がジーンズの生地に食い込む。
二年間、泣かなかった。泣く資格がないと思っていた。家に火をつけた。人を傷つけた。親を裏切った。そんな人間が泣いていいわけがない。自分を罰し続けることだけが、唯一アリサに許された贖罪だった。
なのにこの女は、泣けと言う。
数分か、十数分か。やがて嗚咽の波が少しずつ引いていった。しゃくり上げながら、アリサは濡れたマスクを乱暴に引き下げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの、年相応の顔がそこにあった。
「……っ、かっこわる。最悪。」
赤く腫れた目で、アリサはハルコをにらんだ。にらんでいるつもりだった。だが、その目尻からまだ雫が伝っている。
「……おめーの、せいだからな。」
掠れた声で、精一杯の悪態。それが今のアリサに出せる全力だった。
「はっはっは!良いのよ大人になってから格好良くなればいいじゃない。」
――大人になってから格好良くなれば。
その言葉が、さっきの「大人が格好良いなら子供はグレない」と重なった。アリサの涙で濡れた目が、一瞬だけ丸くなる。
こいつ、今ウチに――将来の話をした。大人になってから、と。まるでアリサがこの先まともに生きていくのが当たり前みたいに。二年間夜の街をうろつき回って、前科ものみたいな人生送ってるクソガキに、当然のように未来の話をした。
「……っは。」
鼻を啜りながら、アリサは袖で顔をごしごしと拭いた。マスクはもう使い物にならない。くしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込んだ。素顔が晒されている。整った顔立ちが、泣き腫らした赤い目と相まって酷いことになっていた。
「格好良い大人ねぇ。」
ベンチの背もたれに体を預けて、アリサは夜空を見上げた。星はほとんど見えない。都会の空は不親切だ。
「……おめーはなれたのかよ。格好良い大人に。」
問いかける声は、もう棘がなかった。ただ静かに、隣にいる女の答えを聞きたがっている子供の声だった。
「アタシは警察官になった日からずっとそうよ。これは自信を持って胸をはって言えるわ。」
アリサは横目でハルコを見た。胸を張って言い切るその姿が、街灯の逆光を背負って妙に眩しかった。
嘘の匂いがしない。虚勢でもない。こいつは本気でそう思っている。
「……はっ。」
短く息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、アリサ自身にもわからなかった。ただ、胸の奥のぐちゃぐちゃした塊が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
しばらく黙って夜空を見つめていた。風が吹いて、シルバーの髪が揺れる。泣き腫らした素顔は年相応で、ヤンキーの皮を剥がした中身はただの十五歳だった。
「……なぁ。」
ぽつりと、独り言みたいな声。
「ウチさ、帰った方がいいのかな。家。」
自分で言って、自分で驚いた顔をした。二年間、一度も考えなかったわけじゃない。でも口に出したのは初めてだった。
「……いや、無理だろ。あんだけやらかして。今更ノコノコ帰れるわけ――」
言いかけて、口をつぐんだ。さっきの言葉が頭の中で反響している。大人も未完成で、迷っていて、それでも一番いいと思う方法を選ぼうとしている。
……あの二人は、まだ迷ってくれているだろうか。
「あなたアタシと逆なのよね?
なら大丈夫よ。帰りなさいな。
そういう親は子供のからずっと羨ましく見てきた。アタシが言うわ、大丈夫よ。ただ、今日のアタシみたいに腹割って話すんだよ!いいね!」
強く子供を叱りつける親のようにハルコは言った
びくっ、と肩が跳ねた。
叱られた。
たったそれだけのことだった。語気が強くなっただけ。「いいね」と念を押されただけ。それだけなのに、アリサの目からまた涙がぼろぼろと溢れた。
――ああ、これだ。
これが欲しかった。ずっと。ずっとずっと。こうやって真正面からぶつかってきて、ダメなもんはダメだと、やれと言ってくれる声が。
「っ……、うるせぇな……っ、わかったよ……っ。」
顔をぐしゃぐしゃにしたまま、アリサは袖で目を擦った。何度拭いても止まらない。さっきより酷い。声も鼻もめちゃくちゃで、不良の威厳もへったくれもなかった。
「……おめー、名前。」
しゃくり上げながら、アリサはハルコを見上げた。素顔のまま。マスクも虚勢も全部剥がれた、ただの十五歳の顔で。
「教えろよ。……また会ったとき、おめーって呼ぶのダセぇだろ。」
「ふふっ、アタシは意地悪なの。知りたきゃ自分で調べなさい。できるでしょ。
ヒントは朝火よアタシの苗字」
アリサの涙がぴたりと止まった。一瞬の沈黙。それから、泣き腫らした目がぎらりと光った。
「はァ!? 意地悪すぎんだろ!何だよヒントって、クイズ番組かよ!」
声が裏返った。涙の余韻もへったくれもない。ベンチをバンと叩いて身を乗り出す。
「朝火……朝火ねぇ……。」
悔しそうに繰り返しながら、アリサはその苗字を頭に刻んだ。忘れるわけがなかった。忘れたくなかった。
「……ちっ。覚えたからな。絶対調べてやる。」
立ち上がった。足元がまだ少しふらついている。泣きすぎだ。ポケットからぐしゃぐしゃのマスクを引っ張り出して、つけようとして――やめた。もういいか、と思った。
アリサはハルコに背を向けた。数歩歩いて、立ち止まる。振り返りはしない。
「……紫藤。ウチの苗字。ヒントじゃねぇよ、まるごとやる。」
それだけ言って、シルバーの髪が夜の中に揺れた。革のブーツが砂利を踏む音が、一歩ずつ遠ざかっていく。
公園に静寂が戻った。ブランコが風に揺れて、きぃ、と一つ鳴いた。少女が座っていたベンチには、まだほんのりと温もりが残っていた。
「やっぱり、あそこの火事の娘かァ〜」
ハルコの呟きは誰に届くでもなく、夜の空気に溶けた。紫藤。二年前の火事。当時ニュースにもなった。裕福な家庭で起きた不可解な火災。負傷者一名。そして行方不明になった娘。点と点が繋がっていく。
遠ざかるブーツの足音が、公園の出口あたりでふと止まった。
振り返らないまま、アリサは夜空を仰いだ。涙の跡が頬に冷たく残っている。ポケットの中で拳を握り、それからゆっくりと開いた。
――腹割って話せ、か。
二年ぶりに帰る道なんか覚えているのかと思ったが、足は勝手に駅の方角を向いていた。体が覚えている。当たり前だ。たった二年だ。たった、二年。
アリサは歩き出した。もう振り返らなかった。
公園には朝火ハルコだけが残された。ベンチの座面には、泣きじゃくった少女が握り込んだ跡が薄く残り、砂利の上にはブーツが引っ掻いた線が幾本か走っている。
風が凪いだ。街灯が一つ明滅して、また灯った。深夜のパトロールの時間は、まだもう少しだけ残っていた。
それから三日が経った。
朝火ハルコの勤務する交番に、一通の手紙が届いた。封筒は白く、宛名は「朝火のババァへ」。差出人の欄には「紫藤」とだけ、妙に丁寧な字で書かれていた。
中身は短かった。
「帰った。母さんが泣いた。父さんも泣いた。ウチも泣いた。腹割って話した。全部。めちゃくちゃ怒られた。生まれて初めて。最高に最悪だった。」
「あと調べた。朝火ハルコ。覚えたからな。」
その下に、一行だけ付け加えられていた。消しゴムで何度も消した跡が残る、震えた筆跡。
*「ありがとう。」*
手紙の底には、コンビニのレシートが一枚挟まっていた。おにぎり二個とお茶。金額の横に走り書き。「ちゃんと買った。盗んでない。」
ハルコは交番の椅子にもたれて、その手紙を読んでいた。同僚が怪訝そうに覗き込もうとするのを、ひらひらと手で追い払う。
朝火ハルコは手紙を丁寧に折り畳み、胸ポケットにしまった。
窓の外では、朝の陽が街を照らし始めている。パトカーのボンネットに光が反射して、眩しかった。
――数ヶ月後。
朝火ハルコがあの公園の前をパトロールで通りかかると、ベンチに見覚えのあるシルバーの髪が見えた。ただし今度は深夜ではない。放課後の夕暮れ時だった。制服を着ている。着崩してはいるが、ちゃんと学校指定のものだ。隣には同年代らしき女の子が二人、何やら騒がしく笑い合っている。
アリサはふとパトカーの気配に気づいて振り返った。マスクはしていない。泣き腫らしてもいない。少しだけ日に焼けた顔が、一瞬だけ目を見開いて――
アリサは立ち上がりかけて、やめた。友人たちの手前、走り寄るのは死んでもごめんだった。代わりにポケットに手を突っ込んだまま、ふん、と顎を上げてみせた。
それから、ほんの一瞬だけ。本当に一瞬だけ、口の端が上がった。誰が見ても笑顔と呼べるほどのものではない。でも、あの夜の公園を知っているハルコには、わかるはずだ。
パトカーが通り過ぎていく。夕陽がシルバーの髪をオレンジに染めた。ブランコが風に揺れて、きぃ、と鳴いた。あの夜と同じ音。でもその響きは、もう寂しくなかった。
紫藤アリサ、十五歳。不良の家出少女。
――だった。
朝火ハルコは窓を開けたまま、パトカーをゆっくりと走らせた。バックミラーの中で、シルバーの髪がどんどん小さくなっていく。隣の友人に「誰?」とでも聞かれたのだろう、アリサが何か言い返して、三人がまた笑い声を上げるのが微かに聞こえた。
ハルコの胸ポケットには、あの手紙がまだ入っている。角が擦り切れるほど何度も読み返した、「朝火のババァへ」。
パトカーが角を曲がる。公園が視界から消えた。
ハルコは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手で胸ポケットを軽く叩いた。手紙の感触がある。それだけで十分だった。
夕焼けが街を茜色に塗り替えていく。ラジオからは間の抜けた天気予報が流れている。明日も晴れ。洗濯日和。
朝火ハルコは、あの調査官の言葉を思い出していた。「大人が格好良いなら、子供はグレない。」あの人が蒔いた種が、今ここで一つ芽を出した。それだけのことだ。
――それだけの、途方もないことだ。
パトカーのウインカーが点滅する。次の交差点を右へ。パトロールはまだ続く。この街のどこかに、あの夜のアリサみたいな子供が、きっとまだいる。
朝火ハルコは小さく笑って、アクセルを踏んだ。
──おしまい──
出てきた漫画はクロスボーンガンダムゴーストです。おもしれーので是非見てください!
あの人が言った本って言うのは伊坂幸太郎先生のチルドレンです。これもバカおもしれーので読んで欲しいです!!
感想くれぇぇえええ!!(強欲の雌豚)