まのさばしょーと   作:頭文字

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ヒロちゃんには美術館で御高説を垂れて貰って「楽しいか。」とか聞かれたい!そうゆう欲が生んだお話を

どーぞ!!!


二人のお出かけ   −2−

数日が過ぎた。ケイジの日常は変わらないようでいて、どこか変わっていた。携帯を確認する回数が増えた。それだけの、些細な変化。

水曜日の夜、画面が光った。

 

「土曜、十時に美術館前。──ヒロ」

 

続けてもう一通。

 

「服装は自由。ただし寝癖は直してこい」

 

二階堂ヒロという人間が冗談を書く。それ自体がひとつの事件であった。しかもこの二通目、送信までに十二分の間がある。つまり彼女は十二分間かけて、あの一文を送るか送るまいか悩んだのだ。完璧超人の逡巡としては、実に愛らしい時間の浪費であった。

 

土曜日。空は前回と打って変わり、抜けるような青だった。美術館の白い外壁が朝の光を弾き、噴水の水飛沫が虹を散らしている。

 

約束の十五分前。ケイジが到着すると、既にそこに人影があった。

 

白いブラウスに紺のロングスカート。あの海浜公園とはまるで別人のような装いで、ヒロは噴水の縁に腰掛けていた。膝の上に一冊の薄い冊子──美術館のパンフレットを広げている。ケイジの気配に顔を上げた紅い瞳が、すっと細まった。

 

「……寝癖はないな。合格だ。」

 

「それ言うって事は前ちょっと跳ねてた?」

 

ヒロはパンフレットに視線を戻し、何食わぬ顔でページをめくった。

 

「さあ。覚えていないな。」

 

覚えていない人間は、わざわざ注意を送らない。しかしそこを追及する隙を与えないのが二階堂ヒロという人であった。

 

ヒロは噴水の縁から立ち上がり、パンフレットを閉じた。風がブラウスの裾をわずかに揺らす。

 

「今日の企画展は印象派だ。モネを中心に、ルノワール、ドガ。見たことは?」

 

歩き出しながら、ちらりとケイジを見る。

 

「……なくても構わない。私が解説する。」

 

その申し出は親切というより、好きなものを語りたくてうずうずしている人間の、精一杯の体裁であった。紅い瞳にかすかな熱が灯っていることに、ケイジは気づいただろうか。

 

「全くもってないかなァ〜。美術館自体初めてだ。」

 

ヒロの足が一瞬止まった。振り返る。紅い瞳が見開かれている。

 

「初めて……?」

 

その声には非難の色はなかった。むしろ、とんでもない原石を見つけた宝石商のような、抑えきれない昂りがあった。

 

ヒロはパンフレットを胸の前でぎゅっと握った。無意識の仕草だった。

 

「……そうか。ならば最初の一枚が大事だ。順路通りには回らない。ついてこい。」

 

言うが早いか、ヒロは美術館の入口へ足早に向かった。チケットカウンターで二枚分を差し出し——ケイジが財布を出す前に、既に会計を済ませていた。

 

「今日は私が誘った。これは道理だ。」

 

有無を言わせぬ口調。だがチケットをケイジに手渡す指先が、ほんの少しだけ震えていた。

 

「速っ!?ちょっと!?もうすこしゆっくりにでも。」

 

ヒロは入口の手前でようやく足を緩めた。振り返った顔に、わずかな気まずさが滲む。

 

「……すまない。少し急ぎすぎた。」

 

二階堂ヒロが素直に謝る。これもまた珍しい光景だった。好きなものを前にした人間の足は、理性より先に動くものである。完璧超人とて例外ではなかったらしい。

 

ヒロはケイジが追いつくのを待ち、並んで館内に入った。空調の冷たい空気と、どこか甘い木材の匂い。照明は抑えられ、足音すら吸い込むような静寂が二人を包む。

 

ヒロは順路の案内板を一瞥し、迷いなく左の廊下へ進んだ。いくつかの部屋を通り過ぎ、ある一枚の絵の前で立ち止まる。

 

睡蓮だった。

 

「これだ。」

 

ヒロの声が、ほとんど囁きになっていた。紅い瞳が絵の表面を撫でるように動く。

 

「ケイジ。何に見える?」

 

「花だね、スイレンの。京都のお寺と一緒だと更に映えそうないいスイレンだと思う。」

 

ヒロは一瞬、呆気に取られたような顔をした。それから、ゆっくりと目を閉じた。肩が小刻みに震えている。

 

「映え……。」

 

堪えきれず、小さく吹き出した。美術館の静寂の中でそれはやけに響き、ヒロは慌てて口元を手で覆った。

 

モネが百年以上前に描いた睡蓮を前にして「映えそう」と評した人間は、この美術館の歴史上おそらくケイジが初めてであろう。

 

ヒロは笑いを収め、咳払いをひとつ。だが紅い瞳の端にはまだ笑みの残滓が揺れていた。

 

「……間違ってはいない。間違ってはいないが。」

 

ヒロは一歩絵に近づき、声をそっと落とした。

 

「モネは晩年、目が悪くなった。ほとんど見えない中でこれを描いた。輪郭がぼやけているのはそのせいだ。……見えないのに、描き続けた。」

 

紅い瞳がケイジを横目で捉えた。

 

「私はそこに惹かれる。」

 

「そりゃ凄い、そんなに強い意志があるなんて感心しちゃうな。」

 

ヒロは絵に向き直ったまま、静かに頷いた。

 

「ああ。正しいから描いたんじゃない。描きたいから描いた。それだけだ。」

 

その言葉を口にした瞬間、ヒロ自身が驚いたように唇を引き結んだ。自分が今何を言ったのか、噛み締めるような沈黙。

 

「正しさ」ではなく「望み」。二階堂ヒロの価値観の根幹を揺るがすような一言が、彼女自身の口からこぼれ落ちた。薄暗い展示室の中、睡蓮の青と緑がヒロの横顔にぼんやりと映り込んでいる。

 

ヒロは小さく息を吸い、それから何でもないように歩き出した。

 

「……次の絵を見よう。」

 

だがその足取りは、さっきまでの軽やかさとは違っていた。自分の言葉に追いつけないまま歩いている──そんな危うさがあった。

 

「そうだね、次の案内よろしく。」

 

ケイジの気負いのない返事が、ヒロの強張った背中をわずかに緩めた。二人は展示室を巡った。ヒロは一枚一枚丁寧に解説し、ケイジは時に的外れな、しかし率直な感想を返した。ルノワールの踊り子を見て「楽しそう」と言い、ドガのバレリーナに「足が痛そう」と呟いた。そのたびにヒロは呆れた顔をし、けれど決して否定はしなかった。

 

展示の終盤、人の少ない小部屋に差し掛かった時だった。

 

ヒロは一枚の絵の前で足を止めた。小さな風景画。夕暮れの野原に、二つの人影が並んで立っている。

 

ヒロはしばらく黙ってそれを見つめていた。やがて、ぽつりと。

 

「ケイジ。」

 

絵を見たまま。

 

「楽しいか。こういうの。」

 

その問いには裏がなかった。ただ純粋に、確かめたいだけの声だった。自分が好きなものを差し出して、それを受け取ってもらえているのかどうか——二階堂ヒロは今、ひどく心許ない顔をしていた。

 

「前の海浜公園と違った感じ方とかがあるのでムズいかな、楽しいかと言われれば楽しいって胸を張って答えられる。それはヒロと来ているから楽しいんだ。もうひとつ付け加えると一生懸命に楽しませようって感じたから楽しいって言えるし伝わった。だからありがとう。」

 

ヒロの手が、スカートの布を握った。きつく。それから、ゆるく。

 

紅い瞳が絵からケイジへ移る。その目が潤んでいるようにに見えたのは、展示室の照明のせいだと、彼女はきっと言い張るだろう。

 

「……ずるいな君は、本当に。」

 

掠れた声だった。ほとんど吐息に近い。ヒロは一歩後ろに下がり、自分の頬に手を当てた。熱い。自分でもわかるほどに。

 

薄暗い展示室に沈黙が満ちた。壁の風景画の中、夕暮れの二人は変わらず並んで立っている。その前で、現実の二人もまた並んでいた。

 

ヒロは深く息を吐き、前を向いた。歩き出す。けれどその歩幅はいつもより狭く、隣を歩くケイジとの距離を保つような、そんな速さだった。

 

「……出口にカフェがある。休もう。」

 

振り返らない。だが声は柔らかかった。

 

「奢らせろ。今日は、私の番だ。」

 

「やっぱり!良かったァ〜、正直今日作るか迷ったんだよ。でも美術館だし辞めておいて正解だったな。」

 

ヒロはカフェの入口で足を止め、肩越しに振り返った。

 

「……迷ったという事は、作りかけたのか。美術館に弁当を持ち込む気だったのか。」

 

その声には呆れが八割、残りの二割は別の何かだった。作ろうかと迷ってくれた、という事実を噛み締めているような、そんな二割。

 

カフェの窓際の席に向かい合って座る。ヒロはメニューを開き、迷いなくカプチーノを指差した。それからケイジの方にメニューを差し出す。

 

「好きなものを頼め。」

 

ケイジがメニューを眺めている間、ヒロは窓の外を見た。噴水の水飛沫が陽光にきらめいている。

 

「……次は。」

 

言いかけて、止まった。唇を引き結び、それからもう一度開く。

 

「次は、ケイジの弁当でもいい。」

 

「おっけ!じゃ、次は腕に縒りをかけて作っていくぜ!

えとじゃあ俺はこのパフェをひとつ。」

 

ヒロの視線がメニューからケイジの顔に移った。

 

「パフェ。」

 

一拍。

 

「昼食の後にパフェ。……いや、何も言うまい。」

 

何も言うまいと言いつつ、その紅い瞳は雄弁に「正気か」と語っていた。しかし注文を止めはしない。それが二階堂ヒロなりの尊重なのだろう。

 

やがて運ばれてきたカプチーノと、やけに背の高いチョコレートパフェ。その対比はそのまま二人の性格を映しているようだった。

 

ヒロはカプチーノを一口含み、カップを置いた。視線がケイジのパフェに吸い寄せられる。てっぺんのホイップクリームを、紅い瞳がじっと追った。

 

気づいて、すぐ窓の外に目を逸らす。

 

「……それで。次の弁当だが、リクエストしていいか。」

 

「いいでしょう!リクエストは子供たちに良くねだられるから慣れっこだ。」

 

ヒロはカプチーノのカップを両手で包んだまま、少し考え込むような間を置いた。

 

「卵焼き。」

 

短く、それだけ。

 

「……甘い方で。」

 

その注文は、完璧超人の威厳からはおよそかけ離れた、ささやかなものだった。甘い卵焼き。子供が遠足の弁当にねだるような、そんな一品。ヒロは言った直後にカプチーノを口に運び、カップの陰に表情を隠した。

 

カップを置く。泡が唇の端にわずかについていることに、本人は気づいていない。

 

「作れるか。」

 

「いけるよ、他に食べたいものはない?ないんだったら卵焼きに合うように俺が見繕うけど」

 

ヒロは首を横に振った。

 

「任せる。」

 

二階堂ヒロが「任せる」と口にすることの意味を、ケイジは正しく理解していただろうか。すべてを自分の判断で制御してきた人間が、他者に委ねるという行為。それは信頼の証であり、同時に小さな降伏でもあった。

 

ヒロはふと、ケイジの口元を見た。それから自分の唇に指を当て——カプチーノの泡に気づいた。

 

さっと拭う。耳が赤い。何度目だろう、この光景は。

 

「……ケイジ。」

 

声を整えるように、一度咳払い。

 

「言っておくが、エマにも会わせる。私の友人だ期待して損はないぞ。」

 

それは脅しのようでいて、実のところ紹介したくて仕方がないという意思表明に他ならなかった。自分の大切な友人に、もうひとりの大切になりつつある人間を引き合わせる。その意味をヒロ自身が自覚しているかは、甚だ怪しかった。

 

「じゃあ、楽しみにしてる今回みたいにさ。」

 

カフェを出た二人は、噴水の前でしばし立ち止まった。午後の日差しが強くなり、水飛沫が虹の欠片を撒き散らしている。

 

帰り際、美術館の外階段を降りる時、ヒロの足がふと止まった。

 

「ケイジ。」

 

振り返らず、一段上に立ったまま。その姿勢だと、ちょうどケイジと目線が同じ高さになる。

 

「今日の事、忘れるな。」

 

それだけ言って、階段を降りていく。前回と同じだ。振り返らない。けれど今度は携帯を取り出す気配もなかった。その代わり、ヒロの右手がそっと胸元に触れた。美術館のチケットの半券を、ブラウスのポケットにしまい込むように。

 

二人はそれぞれの帰路についた。その夜、ケイジの携帯は鳴らなかった。翌朝も。しかし月曜の昼、一通だけ届いた。

 

「エマが土曜空いている。場所はケイジが決めろ。弁当、頼んだ。──ヒロ」

 

弁当の二文字だけ、句点の打ち方がどこかぎこちなかった。

 

「エマさんの分は必要か」と連絡を返した

 

返信は三分後に届いた。

 

「当然だ。三人分頼む。エマは好き嫌いはないが量は多めにしてやってくれ」

 

続けてもう一通。

 

「あと、エマの前では敬語でなくていい。あの子は堅い空気が苦手だ」

 

そしてさらに一通。

 

「私の前でも敬語はいらない。念のために言っておく」

 

三通。立て続けに三通。二階堂ヒロは明らかに、この土曜日に向けて何かそわそわしていた。友人に会わせるという行為が、彼女にとって想像以上に重大な意味を帯びていたのだろう。あるいは単純に、ケイジの弁当が楽しみなだけかもしれなかったが───その両方であることを、本人だけが認めようとしなかった。




俺の話になるんですが最近好きな作者にお気に入り登録して貰ってモチベーションが"超天元突破"してるんだァァァあああああああああああああ!
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