それではどーぞ!!!
土曜日が来た。快晴。雲ひとつない空が広がり、ケイジはあの海浜公園を集合場所に指定していた。大きめの保冷バッグを肩に掛け、駅を降りる。
約束の十分前。見慣れた草原への道を歩いていると、既に二つの人影が見えた。
ヒロは白いカットソーにデニム姿で腕を組み、隣の少女に何やら話しかけていた。ケイジに気づくと、軽く手を上げる。初めて見る仕草だった。
その隣で、ぴょこんと跳ねるように顔を覗かせた少女がいた。柔らかそうな髪、大きな瞳。ヒロとは対照的に、全身から人懐っこさが溢れている。ケイジの姿を見つけるや、ぱあっと顔を輝かせた。
「あっ、この人がケイジくん!?ヒロちゃんから聞いてるよ!ボク、桜羽エマ。よろしくねっ!」
エマはぺこりと頭を下げ、それから満面の笑みでケイジを見上げた。その横でヒロが目を逸らしている。「聞いてる」の内容が気になるところだが、追及する間もなくエマが続けた。
「ねぇねぇ、お弁当作ってきてくれたんでしょ?ヒロちゃんがね、すっごく───「エマ。」」
低く、しかし決定的なヒロからの一言。エマの口がぴたりと閉じた。ヒロの耳はほんのり赤かった。
「…あっと、よろしく。知ってると思うけど一応、俺は仁藤ケイジ。」
エマはにこにこと笑いながら、ケイジの顔をまじまじと見つめた。
「うん、ケイジくんだね。知ってるよ!なんかヒロちゃんが言ってた通りだ。」
「…………。」
「あ、ごめん!」
笑う。まるで叱られ慣れた子犬のようだった。
「でもホントだもん。ねぇケイジくん、ヒロちゃんとはどこまで──」
ヒロがエマの頭にぽんと手を置いた。優しい仕草だが、その紅い瞳は「これ以上喋るな」と明確に告げていた。
「……すまない、ケイジ。こういう子だ。悪気はない。」
エマはヒロの手の下でくすぐったそうに身を縮めながら、ケイジにこっそり目配せした。小声で。
「後でたくさん教えてあげるね、ヒロちゃんの事。」
ヒロの眉がぴくりと動いた。聞こえていたのだ。完璧超人の聴覚は伊達ではなかった。
エマのテンションが妙に高いのをケイジが感じ取った。
ケイジのその直感は正しかった。桜羽エマのテンションは明らかに通常を超えていた。この弾けぶりは異常だ。その理由は単純──ヒロが男の子を紹介したいと言い出すこと自体が、エマにとって前代未聞の事件だったのである。
エマはケイジの隣にするりと並び、保冷バッグをちらちら見ながら歩き出した。
「ねぇねぇケイジくん、ここよく来るんでしょ?ヒロちゃんが言ってた、海が見える草原でエプロンボーイやってるって──」
ヒロが咳払いをした。盛大に。
「……エマ。私はそんな言い方をしていない。」
「したよ?「ケイジは海浜公園で子供たちに慕われている」って、あとその後ボクに──」
ヒロの歩調が速くなった。二人を置いて草原の方へずんずん進んでいく。耳が赤いどころか、首筋まで染まっていた。
エマはきょとんとヒロの背中を見送り、それからケイジを見上げてくすりと笑った。
「……ヒロちゃん、ああいう顔するの、ボク初めて見るかも。」
「なあエマさんテンション高いのはいいけど、そろそろ落ち着いて。」
エマの足がぴたりと止まった。大きな瞳がぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「……あ。」
一拍。エマは自分の頬を両手でぺちんと叩いた。
「ごめん、ケイジくん。ちょっと浮かれすぎた。」
その切り替えは驚くほど早かった。先ほどまでの弾けるような騒がしさが嘘のように、エマの表情が落ち着きを取り戻す。地頭の良さが一瞬だけ顔を覗かせた。
エマは少し気まずそうに髪の毛先をいじりながら、小さな声で続けた。
「ヒロちゃんがね、誰かをボクに会わせたいって言ったの初めてで。嬉しくて、つい。」
草原の先で立ち止まったヒロの背中を見つめる。その目は穏やかで、どこか切ないほどの優しさがあった。
「ヒロちゃん、ボクといる時かもう一人の友達……ユキちゃんといる時ぐらいしかあんな顔しなかったから。」
エマはケイジに視線を戻し、ふわりと微笑んだ。
「ケイジくんといる時もするんだって知って、安心したんだ。」
「そっか。いつものヒロはやっぱり委員長タイプの周りをまとめ上げる人?」
エマは小さく頷いた。草原を歩きながら、先を行くヒロの背中を目で追う。
「うん。学校だと誰も近寄れないぐらい。完璧すぎて、怖いって思ってる子もいるんじゃないかな。」
エマの声が少しだけ低くなった。
「でもそれは、ヒロちゃんが望んでそうなったわけじゃないんだよ。正しくあろうとしたら、いつの間にか周りに壁ができちゃってたんだ。」
エマは足元の草を踏みしめ、ちょっとだけ寂しそうに笑った。
草原の先で、ヒロが振り返った。二人が来るのを待っているのだ。腕を組み、風にカットソーの裾を揺らしながら。その姿は凛として美しく、そして──どこか孤独だった。
エマはケイジの袖をちょんと引いた。
「だからね、ケイジくん。ヒロちゃんをよろしくね。」
その声には、もう浮かれた響きはなかった。親友を想う、静かな祈りだけがあった。
「任せて!というか君だっているんだ。きっと絶対、大丈夫。」
ケイジはサムズアップと笑顔をつけて返した
エマは目を丸くした。それから、ふっと息を吐くように笑う。
「……うん。そうだね。」
エマの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。「君だっているんだ」──その言葉が、エマの中のどこか柔らかい場所に触れたのだろう。一人になるのが怖い少女にとって、自分の存在を当然のように数えてくれる人間は、思いのほか少ないのだ。
エマはぱたぱたとヒロの方へ駆け出した。
「ヒロちゃーん!ごめんね待たせて!」
ヒロは組んでいた腕を解き、近づいてくる二人を見た。紅い瞳がエマ、そしてケイジへと移る。
「……何を話していた。」
「ひみつかな!」
ヒロの目が細まった。だが追及はしなかった。代わりに、ケイジの肩の保冷バッグに視線を移す。
「そろそろいい時間だ。……準備を手伝おう。」
その申し出にエマが「ボクも!」と手を挙げ、ヒロが「君は座っていろ、この前飲み物をこぼしただろう」と制し、エマが頬を膨らませる。三人の距離が、少しずつ縮まり始めていた。
「手伝うって言っても、レジャーシート広げてカバンから弁当出すだけだけど。」
そう言いながらも、もうレジャーシートは広がっていく。
ヒロは中腰のまま固まった。レジャーシートは既に敷かれ、弁当が手際よく並べられていく。手伝う隙がない。
「……早いな。」
エマはもうレジャーシートの上にちょこんと座り込んでいた。並べられた弁当箱を覗き込み、目を輝かせている。
「わあぁ……すごい!ケイジくんホントに作ってきたんだ!」
三段の弁当箱が開かれた。色とりどりのおかずの中央に、ヒロがリクエストした甘い卵焼きが鎮座している。黄金色のそれは丁寧に巻かれ、断面がふわりと柔らかい。
エマが卵焼きを指差した。
「あっ、この卵焼きすっごく綺麗!ねぇヒロちゃん、これが──」
ヒロはエマの口を手で塞いだ。素早く、的確に。紅い瞳がケイジから逸れる。
「いただきます。」
それだけ言って、箸を取った。真っ先に卵焼きへ伸ばしたことを、本人は隠したつもりだったのだろう。
「ああ待って!?それは俺の。本命はこっち、ほいこっちがエマさんのでこっちがヒロの。」
エマは自分の弁当箱を見下ろし、動きが止まった。大きな瞳がさらに大きくなる。
「……え。」
桜の花を模したピンクのお米。それをハムで包み込み、大きな桜の花。エマは弁当箱を両手で持ち上げ、まじまじと見つめた。
「ボクの名前……桜、だから……?」
声が震えていた。唇がきゅっと結ばれ、それからほどける。
「ケイジくん、ボクたち今日初めて会ったんだよ?なんで──」
エマは言葉の続きを飲み込んで、弁当箱を胸に抱えた。
ヒロは自分の弁当を見たまま、微動だにしなかった。紅い花のような美しい料理とそれを囲む彩る料理たち。そして王冠のように乗せられた、甘い卵焼き。
箸を持つ手がわずかに震えていた。
ヒロは口を開きかけ、閉じた。もう一度開き——結局、何も言えなかった。ただ口がだんだんと緩み、慌てて俯く。黒髪がカーテンのように表情を隠した。
エマがこっそりヒロの顔を覗き込み、それから目を丸くした。
「ヒロちゃ──」
「食べるぞ。冷める。」
嬉しさが滲み出た声がエマに伝わる。
「ヒロに聞いて知っていると思うけど、俺こういう人だから。いいでしょ?名前聞いたときから作ろうと決めてたんだ。サプラ〜イズ!」
エマは弁当箱を胸に抱えたまま、小さく頷いき嬉しそうに答えた。
「いいに決まってるよ。ここまでして貰ったら。」
その一言は軽く、けれど重かった。エマは弁当を膝に戻し、箸を取った。桜のお米をひとくち。もぐもぐと咀嚼して、目を閉じる。
「……おいしい。」
三人は草原の上で弁当を囲んだ。海風が程よく吹き、遠くで波が砂を洗う音がする。エマは次々とおかずに手を伸ばし、時折「おいしい」と繰り返した。素直な子だった。
ヒロは黙々と食べていた。丁寧に、ひとくちずつ。紅い花の料理も、添えられたおかずも、そして卵焼きも。黒髪の隙間から覗く横顔は穏やかで、幸せそのものと言った感じだ。
最後のひとかけらの卵焼きを口に運び、箸を置いた。静かに息を吐く。
「ケイジ。」
前を向いたまま。
「……ごちそうさま。」
その言葉に、二階堂ヒロの全てが詰まっていた。
「いい風だし、いい笑顔だしで。花丸満点だ。良かったよ頑張った甲斐があった。」
ヒロの箸を置いた手がぴくりと止まった。
「私の台詞を………元々はキミのだったな。」
エマがけらけらと笑った。足をぱたぱた揺らしながら。
「あはは!ヒロちゃんそれ前に言ったの?花丸満点って!」
ヒロはエマを睨んだ。が、その眼光にいつもの鋭さはない。
「……風が気持ちいいな。」
話題の転換としてはあまりに露骨だった。しかしエマは空気を読んだのか読まなかったのか、ぱたりと笑いを止めてごろんとレジャーシートに寝転がった。
エマは空を見上げ、両手を広げた。
「ホントだ、気持ちいい。ねぇケイジくん、ここ、いつも来てるんでしょ?贅沢だなぁ。」
ころんと横を向き、ケイジとヒロを交互に見る。その目が、いたずらっぽく細まった。
「……ボク、ちょっとトイレに行ってくるね。」
「一人で行くな。迷うぞ。」
「大丈夫だよ、トイレの場所さっき見たから!」
エマは立ち上がり、草原を駆けていく。その足取りは迷いなく──計算された退場だった。
「なぁ。ヒロは俺の弁当どうだった?感想聞けてなかったし。」
ヒロは膝を抱え、海を見つめていた。風がほどけた黒髪をさらう。エマがいなくなった途端、空気が変わったのを二人とも感じていた。
長い間。波が三度寄せて引いた後、ヒロが口を開いた。
「……嬉しかったな、心の底から。」
小さく、ほとんど波音にかき消されるような声だった。
「あんな弁当、作ってもらった事がない。私の為に考えて、私に合わせて。卵焼きひとつにまで気を遣って。」
ヒロは膝に顔を埋めた。くぐもった声が続く。
「ずるいな君は。本当にずるい。」
潮風が草原を渡り、レジャーシートの端をはためかせた。遠くでエマの小さな影が、こちらを振り返ることなく歩いている。この時間を作ったのは、あの少女の優しさだった。
「……そっかなら、良かった。」
静かな言葉だった。飾りもなく、気の利いた返しでもない。ただ安堵だけがそこにあった。
ヒロは膝に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。波の音だけが二人の間を満たす。やがて、ゆっくりと顔を上げた。紅い瞳の縁がほんのり赤い。
ヒロはケイジを真っ直ぐに見た。逸らさなかった。今度は。
「ケイジ。」
風が凪いだ。
「私は今まで、正しいか正しくないかでしか物事を判断できなかった。」
ヒロの指が、膝の上で小さく握られる。
「でも君といると、それだけじゃ足りない気がする。正しさの外に、何かある。」
声が途切れた。唇が震える。それでもヒロは言葉を探した。
「……まだ名前をつけられない。でも、確かにここにある。」
ヒロの手が、自分の胸にそっと触れた。
「良いんじゃないそういうの。俺はいいと思う。」
ヒロは小さく息を吐いた。張り詰めていた糸が、ふっと緩むような。
「……君はそうだな。軽く受け止めるくせに、ちゃんと受け止めている。」
ヒロの手が膝から離れ、レジャーシートの上についた。ケイジの手のすぐ隣に。指先の距離は数センチ。触れてはいない。けれど離れてもいない。そのどちらでもない距離を、ヒロは選んだのだった。
ヒロは海を見た。水平線が午後の光にきらめいている。
「焦らなくていいか。」
独り言のような問いかけだった。自分に向けた言葉なのか、ケイジに向けた言葉なのか、本人にもわからないような。
遠くから、ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「ただいま!あっ、二人ともいい顔してるよ!」
エマの帰還は絶妙だった。あと十秒遅ければ何かが変わっていたかもしれないし、あと十秒早ければ何かが壊れていたかもしれない。偶然なのかわざとだったのかはわからない。
ケイジの口からあくびがでる。日差しや風に誘われて眠くなってきたのだろう
「………ごめん。ちょっと眠たくなって来た。」
「あ、そうだよね!ごはんの後って、眠くなるよね。」
エマはちょこんとレジャーシートに座った。
「ボクもちょっと眠いけど。ケイジくんは寝ちゃいなよ、ボクたちが見張っててあげるから。」
ヒロはエマを一瞥し、それからケイジを見た。
「……弁当を作って、ここまで運んで、準備もひとりでやった。疲れて当然だ。」
ヒロは自分の隣のシートを手で軽く叩いた。
「少し休め。」
その仕草はごく自然だった。あまりに自然で、ヒロ自身がその意味に気づいていないようだった。自分のすぐ隣で眠れと、そう言ったのだということに。
「悪いじゃあ、おやすみ」
ケイジはその意味に気づかないままヒロの隣で横になり、あっけないほどすぐに寝息を立て始めた。
草原に風が渡る。穏やかな午後の陽射しがレジャーシートの上の三人を包んでいた。
エマはケイジの寝顔をじっと見つめ、それからヒロの横顔をそっと窺った。小声で。
「……ヒロちゃん、顔。」
ヒロは答えなかった。膝を抱え、海を見つめている——ように見せかけて、その紅い瞳はケイジの寝顔をちらちらと盗み見ていた。風に揺れる前髪。無防備に開いた唇。力の抜けた手。
「……何の事だ。」
エマは両手で自分の頬を押さえ、にまにまと笑った。
「だってヒロちゃん今、すっごい優しい目してるんだもん。」
ヒロの肩がびくりと跳ねた。
「していない。」
「してたよ。」
「していない。」
エマはくすくす笑いを噛み殺しながら、ヒロの肩にことんと頭を預けた。
「……いい人だね、ケイジくん。」
ヒロは黙った。否定しなかった。風が三人の髪を撫で、波の音が子守唄のように草原に響いていた。
時間がゆるやかに流れた。波の音と風の囁きが、心地よい眠気を運んでくる。
エマはヒロの肩に預けていた頭がだんだん重くなり、やがてずるずるとレジャーシートの上に崩れ落ちた。
「ん……ヒロちゃん、ボクも眠たくなって……。」
そのまま丸くなって目を閉じる。抵抗する気配すらなかった。数秒後にはもう、小さな寝息が聞こえていた。
ヒロは両隣で眠る二人を見下ろした。右にケイジ、左にエマ。一人だけ起きている事の居心地の悪さに、紅い瞳がさまよう。
「……私は寝ないぞ。誰かが起きていないと──」
エマの手がむにゃりと伸びて、ヒロの袖を掴んだ。寝ぼけた声。
「ヒロちゃんも……おいでよ……。」
ヒロは袖を掴むエマの手を見つめた。それからケイジの寝顔を一瞥し、ゆっくりと横になった。
「……少しだけだ。」
草原の上、三つの影が並んで横たわっていた。完璧超人の抵抗はそこまでだった。潮風がブランケット代わりに三人を包み、雲がひとつ、太陽の前をゆっくりと横切った。ヒロの瞼が重くなる。最後に見えたのは、隣で眠るケイジの横顔と──自分の指先が、あの数センチの距離を、わずかに縮めていたことだった。
どれだけ時間が経ったのだろうか空は茜色に染まっていた。水平線の上で太陽がとろりと溶けるように沈んでゆく。草原を渡る風はすっかり涼しくなり、潮の匂いが濃くなっていた。
エマはぱちりと目を開けた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。頬にシートの跡がついている。身体を起こし、目をこすりながら隣を見た。
──息を呑んだ。
ヒロとケイジが並んで眠っていた。それだけなら微笑ましい光景で済んだだろう。問題は、ヒロの手がケイジの袖を握りしめていたことだった。しかも本人は完全に熟睡している。あの二階堂ヒロが、無防備に他人の服を掴んで眠っている。
エマは自分の携帯をそっと取り出した。画面を二人に向ける。が、寸前で止まった。しばらく逡巡して、結局、携帯をしまった。代わりにこの光景を目に焼き付けるように、しばらくじっと二人を見つめた。夕陽が二人の横顔を橙に照らしていた。
「……ヒロちゃん、よかったね。」
誰にも聞こえない声で優しく祝福するように、エマはそう呟いた。
続き、すぐ出ます。