この世界のどこかでは、誰かが幸せを感じていて……
この世界のどこかでは、別の誰かが満ち足りた生活を送っている。
でも、それって裏を返せば…………
この世界のどこかには、
『何とでもなる筈だ』という言葉。
なんて無責任で都合のいい励ましなのだろう。
未だに、そう思ってしまう事もある。
過去は消えない。
植え付けられた憎しみを簡単に捨てることなんて……きっと誰にだってできない。
私たちは今日を生きる事ができるようになった。
もう明日の心配をしなくてよくなった。
だから私は……『明後日』の事を考えるようになってしまった。
これから私たちは一体どうなっていく……?
次第に忘れていくのだろうか。
あの日感じた筈の怒り、恨み、嫉み、憎しみを。
私からすれば、それは『消える』事よりも恐ろしい。
温かくて美味しいパンを食べても、清潔で透き通った水を飲んでも、雨漏りも隙間風もない部屋のベッドで眠っても。
それで、私の憎しみが薄れていって、新たな幸福を望もうとしても………
私の中の私が言う。
『|全て虚しい。どこまで行こうと全て虚しいものだ《vanitas vanitatum et omnia vanitas》』
トリニティ。
私たちが渇いている時に、紅茶を嗜んでいた。
私たちが飢えている時に、お菓子を食べていた。
私たちが耐えている時に、お喋りをしていた。
指先一つで暖を取り、溢れる程の湯水を浴びて身体を清めていた。
そんなヤツらに迫害されてきた。
その結果、私たちは『あんな大人』なんかに良いように使われ、全ては虚しいと教えられ、戦争の道具にされ、いざ解放されたら、私たちは明日食べるパンと水が手元にあるだけで簡単に喜んでしまうようになってしまっていた。
野良犬如きには、この程度の
私たちの憎しみは、所詮それまでのものだったのか?
ふざけるな。
そんな筈はない。
私たちの戦争は、まだ終わっていない。
私たちの復讐は、まだ終わっちゃいないんだ。
夜になって過去の傷を思い出す度。
私は不思議と『彼』の事を考える。
彼………ハサウェイ・ノアという男。
棄てられた子たちを守ってくれていた大人。
赤井セイラ、赤井レム、安室チエ、北本キッカ、矢島チエミ、浦木コウ、天田シロ、村雨ナミカ……………
行方を眩ませていた彼女たちを保護していた青年。
彼がいなければ、彼女たちの殆どは…………恐らく、消えていただろう。
彼がどのような手段を用いて、あの子たちを保護していたのか……?
それは『金』というツールを利用したやり方だった。
企業という『組織』を操る手法。
トリニティの連中と似たやり口。
しかし、ハサウェイ・ノアという男は、キヴォトスに来てから直ぐにアリウスの存在を知り会社を興したと言っていた。
トリニティのお嬢様方の皆々様のように、親の力だとか、コネだとか、そんなものはなかっただろうに。
ではその元手となる金は、一体何処から調達したものなのか。
それを知ったのは偶然だった。
まだ『アリウス復興計画』が始まる前……………
私たちは自由に外の世界を出入りできるようになり、様々な理由で外へ出て行った。
私が外に出た理由は『出稼ぎ』だった。
これからのアリウスには……きっと金が必要になると思ったからだ。
だが、エデン条約の騒動の件で、アリウスの悪名が世に轟いた影響で、私たちがマトモな職にありつける事はできなかった。
そして、必然的に
それはつまり、裏の仕事。
暗殺とか破壊工作とか、そういう依頼。
私は、裏社会の中で金を稼ごうとした。
その為ならば、自身の凡ゆる尊厳を切り売りする覚悟があった。
しかし、『暗殺』の依頼を請け負い……いざ目の前で恐怖で震え蹲る者を見た時………
私の手は、震えてしまっていた。
私はまず、ターゲットの心を徹底的にへし折る事にした。
致命傷にならないように『痛み』を与え続け、脅しの言葉を投げかけ続けた。
そして、ターゲットの身柄を依頼者に明け渡し、口八丁で依頼者を丸め込もうと思った。
しかし、私がリロードをしている一瞬の隙をついて、ターゲットは逃げ出してしまった。
私は依頼を失敗した。
だが次の日、私の…闇銀行の口座に金が振り込まれていた。
困惑したし、罠か何かだと思った。
尾行されている可能性を考慮して、しばらくブラックマーケット周辺の自治区を彷徨ったりもした。
しかし、なにもなかった。
日々は平穏に過ぎ去っていった。
つまりこれは、誰かが私の代わりに『ターゲット』を消した、という事になる。
その事実に気づいた時、ゾッとした。
目的がわからない。
だけど現にそれは行われていた。
私を追跡していたのか、それとも、この予想はやっぱり的外れで、ただの完全なる偶然なのか。
だがもし仮に私を追跡していた場合、一体何が目的なのか。
それを解明したくなった私は、もう一度、また別の組織の暗殺依頼を請け負い、今度はターゲットを気絶するまで叩きのめしてから、土壇場で怖気付いて逃げたフリをして、現場の物陰に隠れて様子を伺った。
暫く待って、気絶していたターゲットが目を覚そうとした瞬間。
『かぼちゃマスク』をした男が突如現れ、サブマシンガンでターゲットの頭を撃ちまくった。
マガジン丸々全弾を、全く同じポイントに。
私は、アリウスで培われた追跡術を活用して、現場から立ち去るかぼちゃマスクを尾行した。
彼が向かった先は………『
その瞬間、私は頭の中に埋まっていた、数多の違和感の
彼は『
すると、彼は廃屋の真ん中でただ静かに佇んでいて、私を待っていた。
私は言った。
「驚きましたが、それと同時にわからない」
「何がだい」
「私は貴方を
「ならば私はそうでないと」
「貴方は……『持っていたから施した』のではない、ということ……だから余計にわからないんです」
「……………………」
彼は、私の問いかけに対して暫く沈黙した。
そして、彼は『かぼちゃマスク』を外すと、やはり予想通りの顔を露わにして、こう言った。
「改めて申し上げる、僕の…………いや、私の名は『マフティー・ナビーユ・エリン』、アリウスだけでなく、全ての哀しい世界の為に、人々の『過ち』を『粛清』する者だ」
その瞬間、頭に浮かんだ言葉があった。
──────────狂人。
それは『佯狂者*1』の戯言ではないと感じさせる迫力があった。
「梯スバル……君が望むなら…私は明日にでもいなくなる。私は既に遺書に『ロンド・ベル代表の後継者は梯スバルとする』と書いてある」
「……………………………………は?」
「だがもし君が『マフティー・ナビーユ・エリン』である私を許すのならば、協力を要請する」
「なんの、為に………」
「『誰か』がやらなきゃいけないからだ」
「その為に『誰か』を消してでも、ですか?」
「君たちの言葉を借りるのなら、力なき正義は空虚な叫びに過ぎないという事さ」
それは狂気だった。
世界の歪みを破壊したいという渇望。
『人殺し』さえ行える執念。
私は、彼の迫力に強烈なプレッシャーを感じた。
ハサウェイ・ノア。
無垢に、綺麗に、純粋に輝く目を持つ大人。
トリニティを憎む夜が来る度…………
私は『彼』の顔を思い浮かべてしまう。
◆
僕は神ではない。
人々が持つ哀切………報復の回廊を破壊する方法なんて、さっぱり分からない。
だが、
僕は、成し遂げる必要がある。
アリウス分校の旧生徒寮。
その談話室。
僕はそこで『貴婦人と一角獣』を見た。
6枚のタペストリー。
描かれているのは
そして……『
その『望み』の正体は誰も知らない。
一説によると、それは『愛』や『理解』だ、と言う人もいる。
だけどそれは、所詮は『解釈』の一つに過ぎない。
だから考えない。
僕は、僕のたった一つの望みを考える。
『わたしはあなたにラプラスの箱の鍵を授ける』
今、このタペストリーの裏に書いた文言は、僕が作り出した『嘘』だ。
今、このタペストリーに貼り付けた『鍵』は、僕が作り出した『偽りの真実』だ。
僕は神ではない。
憎しみを消す方法なんて、わからない。
ならば代替案が必要だ。
憎しみは無くせなくても、憎む『方向』を変える事はできる。
「断ち切ってみせるさ……アリウスの憎しみも………トリニティの過ちも………!」
例え『偽りの真実』を用いたとしても。