黒板を叩くチョークの乾いた音が、静まり返った講義室に不規則なリズムを刻んでいた。
指先に伝わる石灰のざらついた感触。それは、かつて私が何よりも愛した、知識を伝播させるための道具の手触りだった。指の腹を滑る粉末は、私の体温を吸い取っていくかのように冷淡だ。西日の差し込む窓からは、埃の粒子が黄金色の光の中で静かに、だが無秩序に踊っているのが見える。外の世界では、初夏の柔らかな風が若葉を揺らし、生命の謳歌を響かせているのだろうが、この部屋の空気は古書特有の重苦しい黴臭さと、長年使い古された木製机の酸化した油の匂いで、ねっとりと澱んでいた。
不意に、肺の奥底から、灼熱の鉛を流し込まれたような熱い塊がせり上がってきた。
それは激しい心拍の乱れと共に、喉の粘膜を焼きながらせり上がってくる。
「……ゴホッ、……ッ」
短い咳。その直後、視界がチカチカと銀色の火花を散らして明滅し、確固たるはずの平衡感覚が足元から崩れ去る。私は咄嗟に、教壇の縁を強く掴んだ。湿り気を帯びた掌が、磨き上げられた滑らかな木肌を無様に滑る。指先の爪が、抵抗を求めて木材に深く食い込んだ。
口の中に広がったのは、圧倒的な鉄の味だった。生温かく、粘り気のある、ひどく不快な「生」の成れの果て。舌の付け根に残るその感触は、私の内側が修復不可能なほどに崩壊していることを、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
視線を落とすと、白いチョークの粉で埋め尽くされていたはずの手元に、どす黒いほどに鮮烈な紅が散っていた。黒板の縁から一滴、また一滴と、重力に従って赤い液体が床へと滴り落ちる。トツ、トツ、トツ……。静寂が支配する講義室の中で、その微かな衝撃音だけが、私の鼓膜を暴力的なまでの存在感で叩いた。
「先生……? 大丈夫ですか……?」
前列の学生が上げた小さな、怯えを含んだ声が、ひどく遠く、あるいは厚い水層の向こう側から聞こえる。世界と私を隔てる奇妙な遮断感。私は震える指で口元を拭ったが、拭えば拭うほどに紅は手の甲から手首へと広がり、仕立ての良い白いシャツの袖口を、取り返しのつかない汚辱で染め上げていった。
死だ。これは、紛れもない死の訪れだ。
脳内で、冷徹な理性が残酷なまでに冷静に囁く。
医学会で見放された不治の病。細胞が自らの方針を忘れ、内側から腐り落ち、自らの血によって呼吸を塞がれ、溺れ死ぬ病。若くして名門の教授という地位を築き、これから真理の深淵にその手をかけようとしていた私の肉体は、今、確実に、そして無慈悲にその終焉を迎えようとしていた。
肺が酸素を拒絶するように不規則に痙攣する。浅く、速い、獣のような呼吸。喉を鳴らすたびに、肺胞が砂を噛んだようにヒリついた痛みを走らせ、背筋には、死神の指先になぞられたような冷たい汗が、一筋、また一筋と伝わっていくのが分かった。
私は、学生たちの問いかけに何一つ答えず、逃げるように講義室を後にした。背後に残された学生たちの困惑、同情、あるいは生命を損なう者への本能的な嫌悪。それら全てが、死の淵に立つ今の私にとっては、風に舞う薄汚れた紙屑ほどの価値も持たなかった。
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大学の最深部、禁書庫へと続く石造りの廊下は、真昼だというのに底冷えがしていた。
一歩、足を踏み出すたびに、硬い革靴の踵が石床を打ち、頭蓋に響くような高い残響を撒き散らす。壁に掛けられた先代教授たちの肖像画が、その無機質な瞳で、死に体となった私の無様な姿を監視し、嘲笑っているような気がした。右手の指先は、まだ微かな振動を止めていない。ポケットの中で握りしめたハンカチは、先ほどの血を吸って、じっとりと重く、不気味な温もりを保持したままだ。
禁書庫の、重厚なオーク材の扉の前に立つ。鉄製の取っ手は、冬の朝のように冷たく、私の皮膚から僅かな残熱を容赦なく奪い去った。ギィィ……と、長い沈黙を破る不快な音を立てて開いたその空間は、数世紀分の沈黙と塵が積み重なった、言葉の墓所のようだった。
鼻腔を突くのは、枯れた羊皮紙の乾燥した匂いと、長い年月を経て酸化したインクの微かな香り。
私は、意識を集中させ、棚の奥へと這うように歩を進める。視線は、背表紙に刻まれた金文字の列を、飢えた獣のように這いずり回る。光の届かない隅、蜘蛛の巣が幾重にも張った棚の最下段。そこに、それは、私を待っていたかのように静座していた。
装丁も判然としない、黒ずんだ革表紙の書物。その革は、かつて何の生物の皮であったのかを想像することすら恐ろしい、異様な質感を持っていた。
私は膝をつき、埃っぽい床に膝が汚れることも構わず、その本を両手で恭しく手に取った。表紙に触れた瞬間、指先の皮膚が微かな静電気、あるいは、微小な生き物が這い回るような刺激を感じる。まるで、本自体が意思を持ち、私の血の温度に反応して脈動しているかのような錯覚。
頁を捲る。乾燥しきった紙の端が、鋭利な刃物となって私の指の腹を薄く切り裂いた。ジュク、という小さな痛み。だが、その痛みが、混濁し始めた脳を強烈に覚醒させる。
「……ヤー、ナム……」
掠れた、自身のものとは思えない声で、その名をなぞる。
東の最果て、峻険な山間に、歴史から切り離されたように閉ざされた古都。奇妙な風土病「獣の病」と、それを一瞬にして治癒せしめると謳われる、神秘的な「血の医療」についての記述。
歪な活字が、紙面の上で生き物のように躍動し、私の網膜へと飛び込んでくる。科学的根拠など、この文明社会のどこを探しても見当たらない。それは、呪術であり、禁忌であり、狂信の産物でしかない。だが、その一文字一文字が、絶望によってひび割れ、乾ききった私の心に、抗い難い甘美な誘惑として染み込んでいった。
獣の病。人間としての理性を失い、姿形さえも悍ましい獣へと変質する病。
血の医療。あらゆる外科手術を凌駕し、内科的疾患を根絶やしにする、神の如き奇跡。
心臓の鼓動が、制御不能なほどに激しくなる。ドクン、ドクン、ドクンと、耳のすぐ隣で巨大な太鼓が乱打されているかのようだ。視界が急速にトンネルのように狭まり、世界の中心には、この古い頁に刻まれた暗い知識だけが存在していた。
一流と呼ばれる医者たちは皆、一様に首を振った。親愛なる友人たちは、憐れみの視線で私を「過去の人」として扱った。だが、ここには……この禁忌の地には、確かに答えがある。
私の体内で、刻一刻と腐敗し続けるこの穢れた血を、別の何か――もっと強く、もっと根源的な何かに入れ替えることができれば。
指先が、挿絵に描かれた奇妙な意匠を、震えながらなぞる。歪な鐘、あるいは、複数の触手を持つ月を模したような、生理的な不快感を呼び起こす形状。
窓の外では、いつの間にか陽が完全に落ち、不気味な紫色の薄闇が禁書庫を支配し始めていた。空気はさらに密度を増し、吸い込むたびに肺が底なしの泥の中に沈んでいくような感覚に陥る。
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それからの日々の記憶は、ひどく断片的で、泥濘のように濁っている。
研究室の重い鍵を閉め、外界との接触を一切断ち切った。食事を取ることも、身なりを整えることも忘れ、ただ「血」についての、断片的で狂った記述を追い求めた。
時折、扉の向こう側で、遠く離れた場所のような音がした気がする。何度も執拗に扉を叩く音。心配を装った同僚の偽善に満ちた声、あるいは、職務放棄を宣告する理事会の、法に基づいた無味乾燥な使い。だが、私には、それらに応えるための言葉も、一分一秒の猶予も残されてはいなかった。
私は狂ったようにペンを握りしめ、無意識に紙の上に文字を、記号を、血肉を削るようにして書き殴った。
インクが枯れ果てても、私はなおペンを動かし続けた。ペン先が紙を突き破り、机の硬い木肌を直接抉り、摩擦で指先が火傷を負うまで。
ふと、意識が深海から浮上するようにして戻ってくる。
どれほどの時間を、こうしていたのだろうか。窓の外の景色は、果たして何回入れ替わったのか。
首筋を、開いたままの窓から入り込んだ、湿った夜風が容赦なく冷やす。安っぽいカーテンが、首を吊った幽霊のようにだらりと揺れている。
机の上には、もはや判別不能なほどに書き潰された書類。その混沌とした山の中に、一枚の、場違いなほどに白い紙が混じっていることに気づいた。
そこには、震えるような、だが、石に刻んだような力強い筆致で、こう書かれていた。
「青ざめた血を求めよ」
私は、息をすることさえ忘れてその一文を見つめた。
自分自身の手を見る。指は黒いインクで無惨に汚れ、爪の間にまで、いつのものとも知れぬ乾いた血が黒々と詰まっている。
……覚えがない。私が、これほどまでの執念を込めて、こんな言葉を書いた記憶など、どこを探しても見つからない。
だが、その不気味な筆跡の言葉を目にした瞬間、私の脳内を駆け巡ったのは、名状しがたい恐怖ではなかった。
それは、雷に打たれたような、絶対的な啓示だった。
青ざめた血。Pale Blood。
その言葉が、私の思考回路の全ての隙間を、冷たいセメントを流し込むように埋め尽くしていく。
呼吸が、奇妙なほどに深く、静かになる。これまで私を苦しめていた肺の疼きが、この瞬間だけは消失し、全身が冷徹な目的意識によって統一されたかのような錯覚。
瞳孔が大きく開き、窓から差し込む青白い月の光を、過剰なまでに反射する。
そうだ。行かなければならない。ヤーナムへ。
あの呪われ、忌み嫌われ、しかし唯一の祝福が残された、夜の街へ。
私は椅子を、乱暴に蹴立てるようにして立ち上がった。筋肉は衰え、足がもつれて床に激しく膝を打ち付ける。石床を叩く鈍い骨の音。だが、私は、裂けた唇を歪めて笑っていた。
壁に映った自分の影が、ゆらゆらと揺れる月の光に引き伸ばされ、一瞬、人間とは到底かけ離れた、背中の丸まった異形の怪物に見えた。
私は窓を、壊さんばかりの勢いで開け放つ。
凍てつくような夜気が一気に室内に流れ込み、机上の書類を乱雑に舞い上げた。それは、まるで役目を終えた死者の魂が飛び去っていくようでもあった。
遠く、黒い山々の向こう側に、大きく、あまりにも冷酷なほどに青ざめた月が浮かんでいる。
あそこへ行かなければ。あそこに、私のすべてがある。
私は、狂気という名の絶対的な確信を胸に、教授としての名誉も、積み上げた知識も、そして今や重荷でしかないこの肉体ですら、すべてを投げ打つ準備を始めた。
ただ、あの血を。あの絶対的な救済を。
夜の静寂の中に、私の歪な、乾いた笑い声が、誰の耳に届くこともなく、ただ夜の闇へと溶け込んでいった。
【古びた書物】
人の皮で表紙を覆った書物。
古都ヤーナムの血の医療について記されている。
それは呪われ、そして忘れ去られた街の残り香である。
……病み人よ、血の医療を求めよ。