図書館を後にした狩人の足取りは、羽毛が地に落ちるような静謐さを保っていた。背後に遠ざかる西風騎士団本部の威容は、陽光を浴びて白く輝いているが、彼の網膜にはその影が落す深い闇ばかりが焼き付いている。狩人は広場へと向かう大階段の途中で、ふと立ち止まった。肺の奥まで吸い込んだ風には、シードル湖の湿り気と、どこか遠くで爆ぜる火花の、焦げたような匂いが混じっている。
「……始まったか」
脳内独白が、冷徹な予感として思考の表層に浮かぶ。彼は指先で「鹿狩り」のテイクアウト用包みを弄んだ。中には先ほど購入したばかりの「鴨肉の燻製」と、たっぷりのバターで炒められた「ハニーソテー」が収まっている。包み紙の油が指先に僅かな熱を伝え、ハーブの力強い香りが胃の腑を刺激する。狩人はその場から忽然と姿を消した。正確には、人々の視界の死角、風の流れの澱みに、自らの存在を滑り込ませたのだ。かつてヤーナムの悪夢で、幾度となく獣の背後を取るために磨き上げた、気配を断つための歩法。
モンドの城壁を越え、囁きの森の入り口に近い丘の陰。そこでは数人の冒険者と西風騎士の混成部隊が、暴徒化したヒルチャールの群れと交戦していた。
狩人は戦場の風上に位置する、一本の巨木の枝の上に腰を下ろした。視界は良好だ。眼下では、銀色の鎧を纏った騎士たちが声を張り上げ、剣を振るっている。金属がぶつかり合う「ギィン」という高い音、ヒルチャールが振り回す棍棒が空を裂く「ヒュッ」という鈍い音。それらが交互に響き、土埃が舞い上がる。その光景を眺めながら、狩人は無造作に包みを解いた。
「サクッ」
鴨肉の皮が前歯に当たり、軽快な音を立てる。咀嚼するたびに、口の中に濃厚な肉汁とスモーキーな香りが広がり、鼻腔へと抜けていく。狩人の視線は、戦場の一点を凝視したままだ。一人の若い騎士が、盾を構え損ねてヒルチャールの突進を受け、無様に土を噛む。その瞬間に見せた恐怖の表情、乱れた呼吸、跳ね上がる心拍。狩人はそれらを「美味」のスパイスとして、鴨肉とともに飲み込んだ。
脳内では、かつて自分が対峙した「ガスコイン神父」の、あの獣じみた狂暴な連撃がフラッシュバックする。眼下の騎士たちの剣技は、あまりに理性的で、あまりに脆弱だ。彼らの振るう剣には、自らの魂を削り取ってでも敵を屠るという、あの凄惨なまでの決意が欠けている。まるで、傷つくことを前提としていない、演劇のような戦い。
(……温いな。この世界は、死さえも温すぎる)
自問自答が脳裏を掠める。鴨肉を一切れ口に運びながら、彼は自由な方の手で、無意識に腰のあたりを探った。そこには今、鋭利なノコギリ鉈も、連装銃もない。あるのは、食後の指を拭うための清潔な布だけだ。その事実に、胃の奥が僅かに痙攣するような、奇妙な空虚感を覚える。かつては内臓を引き摺り出し、血の洗礼を受けることでしか満たされなかった渇きが、今はバターの香りと鴨の脂によって、ひどく歪な形に上書きされようとしていた。
「……ん? 何だ、この匂いは」
戦場の中心で、盾を構え直した小隊長格の騎士が、不自然に鼻を動かした。周囲には血の匂いなど微塵もない。ヒルチャールは倒れれば塵となり、騎士たちもせいぜい擦り傷程度だ。そんな汗と土の匂いに満ちた場所で、突如として「一流の料理」の香りが、風に乗って濃厚に漂ってきたのだ。
「誰か、何か食べているのか!? 陣形を崩すな!」
「馬鹿なことを! 戦闘中だぞ、騎士道に背くような奴が……うっ、いい匂いだ……」
騎士たちの動揺が、剣の軌道を僅かに狂わせる。ヒルチャールがその隙を突き、棍棒を振り下ろす。狩人は木の枝の上で、ハニーソテーの肉をフォークで突き刺した。甘いソースが絡んだ肉を口に含むと、ハチミツのまろやかな甘みが、脂の旨味を最大限に引き立てる。舌の上で溶けるような肉の質感は、この世の調和そのもののようだ。
(集中を乱すな、小僧。獲物の動きから目を逸らせば、待っているのは内臓をぶちまける末路だけだぞ)
狩人は内心で嘲笑した。もちろん、この世界の戦場にそんな凄惨な結末は用意されていないことを、彼は既に知っている。だからこそ、この「観戦」は喜劇に近い。死の匂いが漂わない戦場。それを特等席で見物しながら、最高級の料理を堪能する。
戦闘が終わり、西風騎士団本部の代理団長執務室には、重苦しい沈黙が流れていた。ジンは机の上に広げられた数枚の報告書に、厳しい視線を落としている。その傍らでは、偵察任務から戻ったばかりの小隊長が、兜を脇に抱え、困惑を隠しきれない様子で直立不動の姿勢をとっていた。
「……以上が、本日の哨戒任務の報告です。ですが団長、報告すべき『異常』が一点ございます」
小隊長は躊躇いながらも、羊皮紙の端を指先でなぞった。
「戦闘の最中、不自然なほど濃厚な……そう、まるで『鹿狩り』の厨房の真ん中に立っているような料理の香りが漂ってきました。部下の中には、その香りのせいで空腹を覚え、一瞬だけ集中を欠いた者もおります」
「料理の香りだと? 伏兵の類や、敵の幻術ではなかったのか」
ジンが訝しげに眉を寄せ、万年筆を置く。その碧眼には、単なる噂話として切り捨てることのできない懸念が宿っていた。小隊長は力なく首を振った。
「周囲をくまなく捜索しましたが、火を焚いた跡も、何者かが食事をしていた形跡も一切ありませんでした。ですが、あの香りは……幻覚とは思えないほど実在感がありました。ハニーソテーのバターが焦げる匂い、そして鴨肉の燻製の芳香です」
ジンは深く息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。同様の報告は、ここ数日、他の哨戒部隊からも散発的に上がっている。ある者は「風立ちの地」で。またある者は「清泉町」の付近で。深刻な被害はない。実害と言えば、激戦の最中に猛烈に腹が鳴ることと、任務後の騎士たちの夕食への執着が異常に高まることくらいだ。
「実害がないとはいえ、騎士の集中を削ぐ要因を放置するわけにはいかないわね。……ガイアには伝えた?」 「はい。ガイア隊長は『風神様も腹ペコだったんだろう、いいことじゃないか』と笑っておられましたが……」 「ハァ……あの人らしい。ですが、これほど広範囲で、かつ正確な料理の香りが漂うのは不自然と言えるだろう。魔物による誘引行動の可能性も含めて、警戒を強めるよう各隊に伝えるように。それと、周囲に『不審な一般人』がいなかったかも再度確認を」
ジンの命令に、小隊長は敬礼して退出した。残されたジンは、窓の外でゆっくりと回る風車を眺める。平和なモンドの空気に混じり込んだ、実体のない「美味」の正体。それが何らかの嵐の予兆ではないことを願いつつ、彼女は再び書類の山へと向き直った。
狩人は包み紙を丁寧に畳み、既に誰もいない木の枝から飛び降りた。着地は音もなく、一粒の砂利さえも跳ねさせない。彼の胃は物理的には満たされていたが、魂の底にある、より根源的な「飢え」は、逆に激しさを増していた。血を流さぬ戦い、塵となって消える肉体。それらをどれだけ眺めても、彼の中にある、死の深淵を知る「狩人」の本能は満たされない。
(……さて。腹ごなしには、あの大聖堂にでも行ってみるか)
狩人は口元を布で拭い、再びモンドの城門へと向かって歩き出した。彼の背後では、戦いを終えた騎士たちが、自分の装備の汚れよりも、先ほどの「美味しそうな匂い」の正体について、いぶかしげに議論を交わしていた。中には「風神様が恵みをくださったのではないか」と真剣に語る者までいる。その平和的で、あまりに救いのある解釈が、今の狩人には、何よりも異質な雑音として響いていた。彼はその雑音を風に流し、ただ一人、神の坐す家へと向かう。