狩人のテイワット観光記   作:教頭

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第二話:第3章「大聖堂の祈りと苦笑」

表面上、それは「観光」という名目の立ち寄りであった。異郷の地を訪れた冒険者が、その土地の象徴的な建築物を仰ぎ見る。それはモンドにおけるあまりにありふれた日常の光景であり、狩人が「善良な余所者」を演じるための無難な隠れ蓑でもあった。しかし、大聖堂へと続く長い階段を一段ずつ踏みしめるたびに、風の音が遠のき、代わりに厳かな静寂が密度を増していく。石造りの手すりに触れると、陽光を吸い込んで温まった石の感触が、手袋越しに僅かな熱を伝えてきた。狩人は、その熱さえもがどこか偽物めいていると感じながら、巨大な両開きの扉を重々しく押し開けた。

 

「……っ」

 

扉が開いた瞬間、溢れ出してきたのは濃厚な「白」の気配だった。高い天井から降り注ぐ七色のステンドグラスの光。それが磨き抜かれた大理石の床に反射し、万華鏡のような幾何学模様を描いている。空気は清浄そのもので、微塵の埃さえもが光の粒として祝福されているかのようだ。鼻腔を抜けるのは、上質な蜜蝋のキャンドルが燃える匂いと、どこか遠い記憶にある「祈り」の残り香。この場所には、腐敗も、絶望も、そして何より「血の臭い」が一切存在しない。あまりに無機質で、それでいて温かな聖域。

 

だが、狩人の網膜が真に捉えたのは、それとは真逆の情景であった。

 

脳内では、かつてヤーナムの大聖堂で対峙した「教区長エミーリア」の、あの絶望的な咆哮が今なお鮮明に反響している。血に塗れた包帯、獣化の末に引き裂かれた聖衣、そして祈りの言葉とともに溢れ出した、黒く濁った欲望。祈りとは、救済を乞う悲鳴であり、信仰とは、狂気に呑み込まれるための言い訳に過ぎなかったあの地獄。それに比べ、このモンドの大聖堂は、あまりに美しく、あまりに欠陥がない。その完成された美しさが、かえって狩人の壊れた神経を鋭く逆撫でする。ここは魂を救う場所ではなく、傷ついた現実を忘却させるための、精巧に作られた箱庭のようであった。

 

狩人は列柱の間を音もなく抜け、巨大な風神像の前に立った。周囲には熱心に膝をつき、掌を合わせる信徒たちの姿がある。彼らの祈りは、家族の健康や、明日の実り、あるいは自由な風への感謝といった、無垢で透明なものだ。それは、誰かを呪う必要もなく、誰かに血を捧げる必要もない、この世界特有の「平穏の代償」である。狩人はそれらの無防備な背中を冷めた目で見つめた後、ゆっくりと、彼らに倣って目を閉じた。

 

(……祈り、か)

 

彼が掌を合わせることはなかった。ただ、深く沈み込むような暗闇の中で、自らの胃の腑に溜まった「ハニーソテー」の幸福な重みを反芻した。舌に残る甘やかな余韻。それは彼がこの世界で得た、数少ない「確実なもの」だ。

 

(もし、この世界の神とやらが本当に聞き耳を立てているのなら、聞いておくがいい。俺が求めるのは救済でも、過去の清算でも、輝かしい未来でもない。ただ……この温かな食事が、明日も、その次も、俺の喉を通ることを。血の味に惑わされず、この世界の芳醇な脂と蜜の味を、最後まで咀嚼できることを。それだけが、俺をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だ)

 

それは信仰というよりは、生存を賭けた契約に近い独白だった。凄惨な戦場を特等席で眺め、その直後に美食を喰らう。その倒錯したサイクルを繰り返すことこそが、今、彼が「獣」ではなく「人間」としてこの地に留まり続けている唯一の証明なのだ。狩人は心の底で、今後とも美味しい食事が食べられるようにという、ひどく即物的で、しかし彼にとっては魂の生存そのものに直結する切実な願いを、深く刻みつけた。

 

「……ふん」

 

目を開けると、そこには変わらず無機質な石の像が立っていた。神の返答など最初から期待していない。ただ、自らの飢えと欲求をこの清浄な空気の中で再確認するだけで、彼には十分だった。

 

「こんにちは。風神バルバトス様のお導きでしょうか、旅人さん」

 

聖壇の前で、透き通るような鈴の音にも似た声が響いた。シスター・バーバラが、祈りの手をほどき、こちらを向いて微笑んでいる。彼女の瞳は一点の曇りもなく、その存在自体が「癒やし」という概念を具現化したかのようだ。狩人は立ち止まり、その輝きを正面から受け止めた。網膜が焼けるような純粋さ。彼女が纏う空気は、春の朝露のように清らかで、触れれば自分の内側にある汚濁が瞬時に蒸発してしまいそうな予感すらあった。

 

「……導きか。もしそうなら、ずいぶん悪趣味な神だな。道に迷った迷い子を、わざわざこんな眩しい場所に引きずり出すとは。俺のような影の住人には、些か光が強すぎる」

 

低く、掠れた声。バーバラは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに慈愛に満ちた笑みを湛え直した。彼女の周囲には、水元素の微細な粒子がキラキラと舞っている。それは、傷を塞ぎ、痛みを散らすための奇跡の断片。それはヤーナムの輸血液のように、他者の命を奪って自らを繋ぎ止める呪いではなく、ただ純粋に「与える」ための輝きであった。

 

「何かお悩みがあるなら、歌でお力になれるかもしれません。バルバトス様は、自由な風に乗って、人々の悲しみを遠くへ運んでくださるんです。貴方の肩に乗っているその重荷も、きっと軽くなりますよ。どんなに深い夜でも、朝は必ず来ますから」

 

(悲しみを運ぶ、か)

 

狩人は自問自答する。自らの手で引き裂いた獣の粘りつくような感触、首を撥ねた瞬間に浴びた返り血の熱、そして消えぬ死臭。それらを風がどこかへ運んでくれるというのか。脳裏には、実験棟で絶望の果てに死んでいった者たちの、虚ろな眼球が浮かぶ。彼らの「悲しみ」は、神が歌を歌ったところで癒えるような性質のものではなかった。それは魂に刻まれた消えぬ刺青であり、剥がせば命そのものが崩れ去るほどの深い傷跡なのだ。

 

バーバラが歩み寄り、狩人の手を取ろうとした。その瞬間、狩人の身体がわずかに強張る。指先が、反射的に彼女の喉笛を、あるいは心臓を突くための最適な軌道を一瞬で弾き出してしまう。それはもはや、生命としての生存本能、あるいは決定的な断絶の証明であった。バーバラの掌から伝わるのは、春の陽だまりのような温かさ。その熱は、狩人が遠い昔に忘却し、あるいは自ら捨て去った「生」の温もりそのものであった。

 

「……触れるな。その手は、守るべき者のために取っておけ。俺のような、既に終わりを迎えた男に使うのは無駄だ。俺の傷は、光では塞がらない」

 

狩人はそっけなく手を引き、彼女の視線を逸らすように窓の外を仰いだ。ステンドグラスの向こうには、どこまでも青く、無関心なモンドの空が広がっている。バーバラの「癒やし」は紛れもない本物だ。だが、それは生者のためのものであり、死の淵を歩み続ける狩人のためのものではない。彼が求めているのは救済ではなく、終わりなき狩りの結末、あるいは永遠の眠りだけだ。

 

「あら、ごめんなさい。でも、貴方の目……なんだか、とても遠い場所を見ているみたいで。まるで、まだ終わっていない悪夢の中に一人で立ち尽くしているような、そんな悲しい色をしています。でも、忘れないでください。モンドの風は、いつでも貴方の隣にあるんですよ」

 

バーバラの言葉に、狩人は再び自嘲気味に苦笑した。この少女は、知らず知らずのうちに急所を突いてくる。夢。そう、彼はまだ夢の中にいる。ヤーナムの悪夢を物理的に抜け出し、このテイワットという「新しい夢」に迷い込んだに過ぎない。あるいは、この平和なモンドこそが、死の間際に見る最も残酷で美しい幻影なのかもしれない。

 

「……夢、か。そうだな。この夢が覚めた時、何が残っているのかは、俺にもわからん。だが、今はまだ、その夢の続きを歩くしかないようだ。たとえそれが、出口のない回廊だったとしてもな」

 

狩人は背を向け、大聖堂の出口へと歩き始めた。光の洪水の中を、一塊の異質な闇が横切っていく。バーバラの祈りの歌が、背後で静かに、しかし力強く始まった。その清らかな旋律は、彼の魂の傷を完全に癒やすことはなかったが、わずかばかり、騒がしい脳内の咆哮を鎮める効果はあった。まるで、荒れ狂う嵐の海に、一滴の澄んだ真水が落ちたかのように。

 

扉を閉める間際、彼は一度だけ振り返った。聖壇に飾られた巨大な風神像。その無機質な石の瞳と、狩人の虚ろな瞳が交錯する。

 

「……ふむ、悪くない。だが、俺に祈りを教えるのは、もう少し先にしてくれ。まだ、この手は血の温もりを、そして今さっき食べた食事の味を覚えているからな」

 

独白を風に託し、狩人は大聖堂を後にした。階段を下りる彼の歩調は、来た時よりも僅かに、しかし明確に軽くなっていた。それは救われたからではなく、この世界の「神」がいかに無力で、いかに優しいかを理解し、自らの目的を再確認したからだ。彼は自らの右手に残る、木製の箒の感触を思い出し、再びモンドの日常という名の戦場へ、静かに溶け込んでいった。その背中には、夕日に照らされた大聖堂の影が、長い尾を引くようにいつまでも付き従っていた。

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