モンドの夜は、ヤーナムのそれとは決定的に異なっていた。
頭上には、狂気的な上位者の存在を暗示する青ざめた月ではなく、ただ澄み渡った星空が広がっている。風は冷ややかだが、そこには獣の腐臭も、内臓が焼けるような硝煙の匂いも混じっていない。だが、狩人にとってそのあまりに無垢な静謐は、皮膚を撫でる冷気よりも不快な、救いようのない「停滞」として感じられた。清浄すぎる空気は、古傷を癒やすどころか、その奥に潜む渇きをいっそう鋭く抉り出してくる。
彼は今、モンドの冒険者協会から斡旋された「街道の安全確保」という、ひどくありふれた依頼の最中にあった。キャサリンという受付の女性が、機械的な微笑とともに提示したその報酬は、この街で食事を続けるために必要な代価であった。しかし、その労働の内容は、かつて神に等しい上位者を屠ってきた彼にとって、欠伸を噛み殺すほどに退屈で、不毛な時間の浪費に過ぎなかった。
(……温すぎる。やはり、ここは不毛な遊戯の場だ)
夜霧の立ち込める湖畔を歩きながら、狩人は自身の内に溜まる澱(おり)のようなフラストレーションを自覚していた。それは、この世界の「戦い」の在り方に対する、生理的な嫌悪に近い焦燥感だ。
街道の先で、彼は数人の宝盗団と遭遇した。狩人は影から滑り出し、拾い上げた木の枝を振るった。
「がはっ!?」
「何だ、どこから現れた……!」
狩人の動きは、略奪に興じていた男たちにとって視認不可能な神速であった。だが、彼はあえて喉笛を断たず、急所を外した打撃で戦意を削ぐ。モンドの「平和」という名のルールに従えば、彼らは「殺すべき獣」ではなく、「更生させるべき隣人」なのだ。あの風の神との契約――「善良な余所者」でいるという、あまりに曖昧で脆い境界線が、彼の指先に冷たい枷を嵌めている。
(……一滴も、浴びることは叶わんのか)
狩人は、無様に逃げ惑う男たちの背中を冷徹に見つめた。
この世界の人間も、傷つければ血を流す。肉を裂けば生暖かい飛沫が舞い、鉄錆の匂いが夜気を満たす。かつての彼なら、迷わずその喉を裂き、噴き出す鮮血で外套を濡らし、狂気に侵されそうな自我を現実に繋ぎ止めていただろう。血の洗礼こそが、狩人を狩人たらしめる唯一の「実存」だったからだ。だが、この世界ではそれが許されない。過剰な流血は、この平穏な「夢」を壊す禁忌であり、契約の破棄を意味する。
対して、先ほど露払いで斬り伏せた魔物たちは、どれほど激しく斬り裂いても、ただの空虚な塵となって風に消えた。
魔物には浴びるべき血がなく、人間には浴びるべき血があるのに、その権利を奪われている。この非合理な対称性が、彼の精神を苛立たせる。
ヤーナムの狩人にとって、血を浴びることは生存のための「呼吸」であった。
敵の臓物を引き摺り出し、全身に降り注ぐ血の雨を浴びることで、初めて磨耗した精神を研ぎ澄ませ、霧散しそうな「人間」としての輪郭を肉体に縫い止めることができた。だが、このモンドはあまりに「清潔」であり、それでいて「残酷」だった。牙を抜かれた猛獣が檻の中で肉の味を忘れることを強要されているような、そんな窒息感が彼を包んでいる。
(魔物は塵に消え、人間を殺すことは禁じられている。……これでは、自分が幽霊にでもなった気分だ)
目の前に「生きた肉」がある。そこには熱い血が流れている。それを熟知していながら、自らの指先をその熱に浸すことができない。このジレンマは、狩人の本能を内側からじりじりと灼き焦がし、出口のない飢餓感へと変質させていく。血を流さぬ戦いは、彼にとっては味のしない砂を噛み続けるような、終わりのない精神的な拷問に等しかった。
(いっそ、あの暗い地底へ帰るべきか。あそこなら、少なくとも『実存』の味がする)
脳裏に、古びた狩人の夢の、あの冷たい墓石が浮かぶ。ここには美食もあり、平和もある。だが、狩人の魂を繋ぎ止める「血のやり取り」が欠落している。血に塗れることができないこの清潔な世界は、彼にとってはある意味、ヤーナムの地獄よりも残酷な牢獄であった。どれほど美食で胃を満たそうとも、魂が求める赤黒い充足は、どこにも見当たらない。
そんな暗い思索を断ち切ったのは、背後から突き刺さるような、鋭利な「殺気」だった。
「……随分と手慣れたゴミ掃除ね。でも、その手つき、ただの自警団にしては『味』が濃すぎるわ。それも、ひどく胸の悪くなるような味」
振り返ると、そこには夜の闇を具現化したような女が立っていた。赤髪に、血を連想させる深い赤のヴェール。修道服を纏いながらも、その手には祈りの道具ではなく、禍々しい長柄武器が握られている。ロサリアだ。彼女の瞳には、逃げ出した宝盗団にはなかった、確かな「死」の気配が宿っている。
「……修道女か。こんな夜更けに、迷える子羊の懺悔でも聞きに来たのか?」
狩人は半身になり、口角を僅かに上げた。ようやく、まともな「殺意」に触れた気がした。彼女の周囲だけ、空気の密度が明らかに異なっている。
「懺悔? そんなの、バルバトス様に直接言えばいいわ。私にはその権限も興味もない。私の仕事は、モンドの平穏を脅かす『害獣』の排除よ」
ロサリアは一歩前へ踏み出し、狩人の黒い外套を凝視する。
「あんた、善良な冒険者のふりをしているけど……その纏っている空気、隠しきれていないわ。あんたの足元からは、どれだけ洗っても落ちないような、どろりと濁った血の臭いが漂っている。それも、この世界の誰よりも濃く、古い臭いよ。あんた……一体どれだけの地獄を潜り抜けてきたの?」
ロサリアの瞳は、獲物を値踏みする獣のそれであった。狩人は、彼女の中に自分と同じ「夜の汚れ仕事」を引き受ける者の気配を感じ取った。この街の清廉な光の中では正しく呼吸ができず、誰も見ていないところで汚れを被る、同業者の匂い。彼女もまた、血の重要性を理解しながら、それを隠して生きる者なのだ。
「鼻がいいな。……だが、安心しろ。今のところ、この街の連中を『狩る』つもりはない。血も流せぬ、一滴も零れぬ不毛な遊戯など、今の俺には食指が動かんのでな。俺は今、もっと熱くて粘りつくような『本物の生』に飢えているんだ」
狩人の放った言葉は、底知れぬ倦怠と渇望に満ちていた。ロサリアは槍を構えたまま動かない。彼女の直感が、目の前の男を「一瞬でも隙を見せれば、このモンドという箱庭を丸ごと飲み込みかねない深淵」だと警告していた。しかし、同時にその深淵が、ひどく孤独で、強烈な飢えに震えているようにも見えた。彼女の殺気が、彼にとっては一種の救いのようにすら感じられている。
沈黙が支配する深夜の街道。殺気が臨界点に達しようとしたその時、狩人は不意に肩の力を抜いた。
「……なぁ、シスター。あんたも、この『温い夜』に飽き飽きしている口だろう? 綺麗事だけでは癒えない乾きを知っているはずだ」
「何が言いたいのよ。無駄話なら他を当たって」
「これから酒場へ行く。この手が血で濡らせぬのなら、せめて喉を酒で灼くしかないだろう。あんたさえ良ければ、付き合わないか。……安心しろ、奢りだ。この世界の通貨というやつは、まだ手元に余っている。この不毛な依頼で得た金がな」
「奢り」という言葉に、ロサリアの眉が僅かに動いた。彼女は構えていた槍を消し、鼻で笑った。
「……フン。懺悔の代わりに酒を奢るなんて、あんたも相当変わっているわね。でも、いいわ。その耳障りな『血の臭い』、酒の煙と安酒の匂いで、少しはマシになるかもしれないし。あんたがどれほど強い酒に耐えられるか、見極めてあげる」
「決まりだな。モンドの酒が、ヤーナムの鎮静剤より効くことを願うよ。少なくとも、あの中身のない祈りや、魔物の塵よりはマシだろう」
狩人はロサリアに並び、再び街へと歩き出した。背後に広がるのは、依然として静かで不毛なモンドの夜。だが、隣に立つ刺々しい殺気の持ち主のおかげで、彼の凍てついた心にはようやく「生きた心地」という名の灯が、小さく点っていた。それは救済とはほど遠い、しかし彼にとっては唯一馴染みのある「夜」の共有であった。
(……まずは、最強の『デス・アフタヌーン』とやらを試してみるとしようか。この喉の乾きが、少しでも紛れることを期待してな)
二人の異質な影は、月光に長く伸びながら重なり合い、眠らない酒場の灯りへと吸い込まれていった。