「エンジェルズシェア」の店内は、夜が深まるにつれて、喧騒がゆっくりと沈殿し、澱のような静寂へと移り変わっていた。
酒場の隅、ランプの火も届かぬ暗がりに沈んだテーブル席には、モンドの住人なら誰もが二度見し、思わず声を呑むであろう異様な二人組が座っていた。一人は、常に不機嫌そうな面持ちで、聖職者とは思えぬ毒を含んだ言葉を吐くシスター、ロサリア。そしてもう一人は、漆黒の外套に身を包み、この平和な街には存在し得ないはずの濃密な死の匂いを纏った異邦の狩人である。
二人の間に、世俗的な会話はない。ただ、厚手のグラスの中で氷が重く触れ合うカチリという音と、古い木造の床が客の移動に合わせて時折鳴らす、短く乾いた軋みだけが、停滞した時間を刻んでいる。
「……意外ね。その風体からして、もっと自分の凄惨な過去を語りたがるタイプかと思ったわ。不幸自慢は、酒の肴としては定番でしょう?」
ロサリアが、手元の「デス・アフタヌーン」を無造作に煽りながら、不意に口を開いた。彼女の冷めた視線は、狩人が注文した琥珀色の強い蒸留酒に向けられている。狩人は、グラスの縁を無意識に指先でなぞりながら、視線を上げることなく、絞り出すような低音で答えた。
「語るべきことなど、あそこには何もない。俺のいた場所では、言葉よりも血の方が遥かに饒舌だった。雄弁に語る前に、皆、喉を裂かれて沈黙したからな」
「そう。……道理で、あんたの周りだけ空気の密度が違うわけね。まるで、そこだけ時間の流れが歪んで止まっているみたい。あんたの影だけ、この街の月光に馴染んでいないわ」
狩人は自嘲気味に笑った。ロサリアの指摘は、恐ろしいほどに鋭い。この世界の穏やかな時間に身を浸しながらも、彼の内側にある「狩りの夜」は、一瞬たりとも明けることはないのだ。かつて上位者の悪夢を彷徨った記憶は、今も彼の神経の裏側に張り付き、安らかな眠りを拒絶している。ロサリアもまた、それを見抜いた上で、その異質な「停滞」を拒絶することなく隣に座っている。彼女もまた、光の中では正しく息をすることができない「夜の住人」であることを、この無言の酒席が鏡合わせのように肯定していた。
だが、その平穏な毒の時間は、狩人の眉間に走った僅かな、しかし鋭い緊張によって唐突に遮られた。
(……何だ。この、内臓を素手で掻き回されるような『臭い』は)
狩人の感覚が、酒場の壁を、モンドの堅牢な城壁を、そしてどこまでも続く夜の闇を突き抜けて、遠く北の方角から近づく異質な気配を捉えた。それはヒルチャールの原始的な怒りでも、アビスの湿った悪意でもない。より冷酷で、より計算され、倫理という概念を微塵も持たぬ、冒涜的な「知性」の奔流。それは、ヤーナムの地下に隠された禁断の学舎で嗅いだ、あの狂った探求者たちの腐った臭いに酷く似ていた。
「どうしたの? 奢りの酒が、急に呪いにでも変わった?」
ロサリアが目を細め、腰の槍を即座に召喚できる位置へと手を滑らせた。彼女もまた、夜の静寂を乱す「異物」の気配を察知したようだが、狩人が感じているそれは、彼女の感知能力を遥かに超えた、より深淵に近い場所からの響きであった。
「いや……。少し、風向きが変わっただけだ。……ひどく、実験的な風だな。死の味を隠そうともしない、傲慢な風だ」
狩人はグラスに残った酒を一気に飲み干し、喉を灼いた。その瞳には、先ほどまでの倦怠とは異なる、獲物を捕捉した際の「狩人」の冷徹な光が宿っていた。
同じ頃、モンドの国境に近い、冷たい雪が混じる荒涼とした峠道を、一台の漆黒の馬車が音もなく進んでいた。
馬車の窓から、一人の男が夜の帳に包まれたモンドの街を遠望していた。顔の上半分を、異形の鳥を模した金属の仮面で覆い、その下には冷徹な理知と狂気が同居する双眸が光っている。ファデュイ執行官、第二位「博士」ドットーレである。
「……面白い。実に、実に、見事な変異だ」
彼の白手袋に包まれた指先には、部下のクローバーが命懸けで持ち帰った詳細な「報告書」と、狩人が戦場で無意識に残した「僅かな残留物」の分析結果が握られていた。それは、この世界の常識では計り知れないデータを示していた。
「テイワットの元素循環(サイクル)に一切依存せず、七元素という理を暴力的に上書きし、物理的な破壊力へと変換する力。……これはもはや『神の目』などという、天空の島から与えられた玩具で語れるレベルではない。完全に独立し、完成された、異界の生態系そのものが服を着て歩いているようなものだ」
ドットーレの口元に、三日月のような、狂気じみた愉悦が浮かぶ。彼にとって、この世界は巨大な実験場であり、未知のサンプルこそが神の啓示にも勝る唯一の至福である。これまでに数多の人間を、魔神の残滓を、そしてあろうことか自分自身の「断片」すらも実験台にしてきた彼にとって、この「狩人」という存在は、抑えきれない知的好奇心と支配欲の対象であった。
「クローバー。モンドに潜伏している全部隊に伝えろ。サンプルへの直接接触、および過度な刺激は当面の間、厳禁とする、とな」
影の中から、重厚な鎧に身を包んだ士官が音もなく跪き、静かに応じた。
「……御意。しかし、あのような危険物を放置するのは……生け捕りになさるので?」
「いいや。まずは『観察』だ。あの異質な力が、この世界の邪眼(エナジー)と接触した際、どのような拒絶反応を起こすのか……あるいは、予想だにしない美しい融合を見せるのか。その化学反応の結果を、特等席でじっくりと拝ませてもらおうじゃないか。私のコレクションに加えるのは、その本質を解体し尽くしてからでいい」
ドットーレは、手に持っていた細長い試験管を愛おしそうに弄んだ。中では、青白い不吉な火花が、生き物のように蠢き明滅している。
「狩り、か。……古風で、野蛮な言葉だが、私の実験(テスト)にはちょうどいい舞台装置だ。さぁ、見せてくれ、異界の狩人よ。お前のその、どれほど洗っても落ちぬ『血の汚れ』が、私の美しく清浄な科学を、どれほど深く、魅力的に汚してくれるのかをね」
馬車は、冷たい月光を浴びながら、静かに、だが確実にモンドへと向かって進んでいく。
かつてヤーナムの悪夢をその手で終わらせた男と、テイワットの理そのものを解体し、再構築しようとする狂気の知性。二つの「夜」が、モンドという平和な箱庭で、避けられぬ運命として交錯しようとしていた。
酒場の席を立った狩人は、コートの襟を立て、帽子を目深に被り直した。
「……ロサリア、奢りと言ったが。……どうやら、お前への釣り銭を、別の形で払う必要が出てきそうだ」
「勝手にしなさい。……でも、私の仕事場をこれ以上荒らすようなら、あんたもその『臭い』ごと、まとめて掃除してあげるわよ。二度と起き上がれないようにね」
ロサリアの、冷徹ながらもどこか激励を含んだような言葉を背に、狩人は酒場を出た。夜風は依然として冷たいが、その中には、彼を再び凄惨な「狩りの時間」へと引き戻す、懐かしくも忌まわしい悪夢の予感が、不協和音のように増幅していた。