狩人のテイワット観光記   作:教頭

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第三話:第1章「騎士団の静かなる波紋と酒場への招待」

西風騎士団本部の代理団長室。そこには、モンドの街を包み込む柔らかな陽光とは対照的な、重苦しい静寂が居座っていた。

 

窓から差し込む光の帯の中で、無数の塵が緩やかにダンスを踊っている。代理団長ジン・グンヒルドは、机の上に扇状に広げられた数枚の報告書を、あたかもそこに刻まれた文字が毒に変わるのを警戒するかのような鋭い眼差しで見つめていた。彼女の右手指先は、使い込まれた羽ペンの軸を強く握りすぎており、指関節が白く浮き出ている。その脳裏にあるのは、現在モンドの冒険者協会で「空前絶後の達成率」を叩き出している一人の男――「狩人」の姿だった。

 

「……まただ。奔狼領でのヒルチャールの暴走、それもかなりの規模だったはずだが。報告によれば、現場には元素反応の痕跡すらなかったという。まるで、嵐が過ぎ去った後というよりは、最初から何も存在しなかったかのような静けさだったと。風の翼を使った形跡も、馬を走らせた音すらも記録されていない」

 

ジンの声は低く、隠しきれない疲労と、それ以上に深い困惑を帯びていた。彼女は深く椅子に背を預け、天井に描かれた騎士団の紋章を見上げる。瞳の奥には、秩序を守る立場としての厳格な義務感と、得体の知れない「未知の力」に対する純粋な、本能的な忌避感が渦巻いていた。彼女にとって、騎士道とは透明で公正な力であるべきだった。しかし、報告書に踊る「狩人」の足跡は、あまりに不透明で、理解の範疇を超えている。

 

「これほどの実力者が、なぜ無名のままモンドに現れたのか。彼の剣筋……いや、あの奇妙な得物の扱いは、七国のどの流派にも属していない。まるで、戦いそのものを単なる作業……『清掃』か何かのように無機質に処理している。この力があれば、モンドを襲う脅威の多くを退けられるはずだ。だが、それゆえに……」

 

ジンは言葉を切り、自分の腕を抱きかかえるように動かした。それは、無意識のうちに己の心臓を守ろうとする防衛反応だった。彼女は彼に「期待」していた。風魔龍の件、それからファデュイの暗躍。戦力が不足している現状、彼のような協力者は喉から手が出るほど欲しい。しかし、その期待を上回るほどの「不自然さ」が、彼女の正義感に警鐘を鳴らし続けていた。もし彼が何らかの意図を持ってこの街に留まっているのだとしたら、その「掃除」の矛先がいつ騎士団に向かないとも限らない。

 

ジンの独白に応えるように、部屋の隅、影が濃く落ちる壁際から、軽やかな、しかしどこか冷えた笑い声が漏れた。

 

「お疲れ様、ジン。そんなに眉間に深い溝を作っていると、モンドの民が心配するぜ。代理団長の若さが失われるのは、騎士団にとって最大の損失だからな。もっとも、あの男を相手にするなら、それくらいのシワは安いものかもしれないが」

 

影の中からゆっくりと姿を現したのは、騎兵隊長のガイア・アルベリヒだった。彼はいつものように不敵な笑いを口端に浮かべ、右手の指先で一枚のモラを転がしている。チャリン、チャリンという規則的な金属音を響かせ、張り詰めた室内の空気を細かく切り刻んでいく。ガイアの眼帯に隠されていない方の瞳は、獲物を見定めた肉食獣のような鋭敏な光を宿していた。彼はただ立っているだけで、部屋の中の「温度」を数度下げているかのようだった。

 

「ガイア、茶化さないでくれ。彼は今、調査任務で清泉町の方へ向かっている。彼が不在の今のうちに、我々の方針を明確にしておかなければならないんだ。冒険者協会からの評価は高い。だが、彼らが共有しているのは『結果』だけであり、我々が知りたい『過程』は常に霧の中だ」

 

ジンは机の上の報告書を指で叩いた。そこには、狩人の足取りが詳細に記されているが、その「出自」や「過去」の欄だけが、不気味なほど真っ白な空白として放置されている。まるで、世界が彼という存在を昨日突然産み落としたかのように。

 

「分かっているさ。俺も独自に裏を洗わせてもらったが、収穫はゼロだ。足跡すら残さない。探れば探るほど、完璧すぎて不気味なんだ。ただ一つ言えるのは、彼からは『人間』の生活臭がまったくしないってことだ。いや、匂いがないわけじゃない。あまりに……不自然なほどに『自然すぎる』んだ。数多の魔物を屠りながら、怪我の一つも負わず、煤の一つも纏っていない。それは、戦いに慣れているなんてレベルじゃない。生存競争の階梯そのものが、我々とは根源的に違うような……そんな気味の悪さだ。彼は略奪者でもなければ、守護者でもない。ただそこに在り、自分を阻むものを『排除』しているだけに見える」

 

ガイアは言葉を吐き出しながら、脳内で狩人の行動パターンをシミュレーションしていた。彼の指先の動き、呼吸の深さ、歩幅。そのすべてが、モンドの穏やかな風には馴染まない、鋭利な刃物のようだった。ガイアの内面では、軽薄な仮面の裏側で、冷徹な計算機が高速で回転していた。この「異物」がモンドの喉元に突き立てられた刃なのか、それとも幸運な偶然なのか。ガイアは自らの故郷にまつわる古き知識を総動員しても、彼のような「歩く深淵」を説明できる言葉を見つけられずにいた。

 

「彼を呼び出して尋問すべきだろうか……。だが、現状彼はモンドに害をなしていない。それどころか、多くの民を救っている事実は否定できない。強引な手法は、騎士団の信頼を損なうだけでなく、もし彼が本気で抗えば……」

 

ジンの呼吸が僅かに早まる。彼女は、かつて一度だけ狩人と視線を交わした時の感覚を思い出していた。あの瞳。光を完璧に反射しながらも、その奥底に何も映さず、ただ果てしない宇宙の虚無を閉じ込めたような、透明なガラス玉。その瞬間、自分が「観察される対象」に成り下がったかのような屈辱と恐怖が背筋を走ったのだ。それは、剣を向けられる恐怖ではなく、自分が「知性ある生命」として認識されていないのではないかという、根源的な孤独感に近かった。

 

「ははっ、正論だ。あんな『親愛なる隣人』を狭い部屋に閉じ込めて質問責めにするなんて、俺だって御免だぜ。それこそ、眠れる獅子の髭を引っこ抜くようなもんだ。それに、彼は意外とこの街の『文化』を楽しんでいるようだしな。彼が街の食堂でパンを食べているとき、その周囲だけ時間の流れが止まっているように見える。まるでお伽噺から抜け出してきた死神が、つかの間の休暇を楽しんでいるかのようにね」

 

ガイアは窓際まで歩調を緩めずに進み、モンドの街並みを見下ろした。活気ある噴水広場、焼きたてのパンの匂い。その平和な景色の中に、異質の存在が紛れ込んでいる。

 

「幸いなことに、あの得体の知れない冒険者様は、美食という名の世俗的な愉悦をこよなく愛しているらしい。特にモンドの郷土料理を口にしている時の奴は、不思議と、ほんの少しだけ『人間』の側に歩み寄っているように見える。そこが唯一の、付け入る隙だ。理性や論理では測れない相手でも、胃袋の満足度なら交渉の余地があるかもしれない」

 

ガイアは空中でコインをパシッと掴み取り、それをポケットに滑り込ませた。彼の口元には、獲物を罠に誘い込む直前の猟師のような、冷酷な確信が滲んでいた。彼は知っていた。どれほど強大な存在であっても、何かに執着を見せる限り、そこから綻びを見つけ出すことができるのだと。

 

「ジン、ここは俺に任せてくれないか? 騎士団としての硬い対話は、あいつには通用しない。だが、酒の席なら……適度に酒精が回り、美味い肴があれば、どんなに堅い口も少しは綻ぶってもんだ。彼が本当に観光に来ただけのご隠居様なのか、それとも地獄の底から這い出してきた死神なのか……俺がこれから行って、その正体を暴いてきてやるよ。なに、俺の得意分野だ」

 

ジンはガイアの提案を耳にし、長い、あまりに長い沈黙の末に、ゆっくりと、しかし重々しく頷いた。彼女の肩にかかっていた重圧は、ガイアに一端を預けることで幾分和らいだが、それでも消えることはなかった。

 

「……分かった。任せるよ、ガイア。だが、決して深追いはしないでくれ。彼は……あまりにも隙がない。まるで、こちらの出方を全て測った上で、あえてそこに立っているような……そんな恐ろしさを感じるんだ。失礼のないよう、慎重に頼むよ。彼を怒らせることだけは、今の騎士団には許されない賭けだ」

 

「ああ、分かっているさ。俺も自分の命は、まだしばらくは使い道があると思っているからな。……さて、どんな『餌』を撒けば、あの巨大な魚は食いついてくれるかな。最高級のデス・アフター・ヌーンか、それとも語り明かすに足る退屈な秘密か」

 

ガイアはひらひらと手を振り、音もなく、影に溶けるように執務室を後にした。残されたジンは、再び白紙の多い報告書に目を落す。窓の外を、一羽の鳥が鋭い鳴き声を上げて横切った。その羽ばたきの風圧すら、これからの不穏な夜の始まりを告げるように、彼女の鼓膜を重く、執拗に叩き続けていた。彼女はペンを取り、書きかけの書類に視線を落としたが、その思考はすでに、今夜エンジェルズシェアで繰り広げられるであろう「対話」の行方へと飛んでいた。

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