モンドの夜を象徴する、重厚な木造の扉。「エンジェルズシェア」の看板が風に揺れ、ギィ、と小さな悲鳴のような音を立てる。その扉を押し開けた瞬間、ガイア・アルベリヒの嗅覚を襲ったのは、何層にも重なり合った芳醇な情報の嵐だった。
発酵し、熟成の時を待つブドウの甘い芳香。使い込まれたオーク材の樽が放つ、湿り気を帯びた木の匂い。それらに混じって、じゅうじゅうと音を立てる肉の焼ける脂の香りと、鼻腔をくすぐる香辛料の刺激が、熱気と共に押し寄せてくる。ガイアは一歩、踏み出す。靴底が磨き抜かれた床の上でカツ、と乾いた音を鳴らす。その振動が足裏から膝へ、そして背骨へと伝わり、彼の神経を戦場と同じ鋭さまで研ぎ澄ませていく。
酒場の中は、モンドの夜特有の、弛緩した、しかし活気ある喧騒に満ちていた。だが、ガイアの目は迷うことなく、店内の最も奥まった、しかし視界の開けた一角へと吸い寄せられる。
そこに、男はいた。
「狩人」と呼ばれる異邦人は、現在、そのテーブルの上で展開されている「奇跡」に、全神経を注いでいるようだった。
男の目の前には、常人なら三日はかかるであろう量の料理が整然と、かつ圧倒的な密度で並んでいる。香ばしく焼き上げられた「モンドの焼き魚」からは、焦げた皮の弾けるパチパチという微かな音が漏れ、その隣では「お肉たっぷりキノコピザ」が、とろけたチーズの重みで僅かに生地を撓ませている。
ガイアは男の横顔を観察しながら、意識的に歩調を緩めた。右足、左足。体重が移動するたびに、自身の心拍が一定のリズムを刻んでいることを確認する。ドクン、ドクン。それは警戒心というよりは、これから始まる「踊り」への期待に近い。
(さて、我らが『偉大な放浪者』様の晩餐に、無粋な騎兵隊長がお邪魔するとしようか)
ガイアは男の隣の椅子を引き、わざとらしく音を立てて座った。
「おやおや。これはまた、モンドの食糧庫を空にするつもりかい? 随分な食べっぷりだ。見ているこちらまで、胃袋が悲鳴を上げそうだよ。あんたのような高徳な方がこれほど食事を楽しまれているとは、モンドの料理人たちも冥利に尽きるだろうな」
ガイアの言葉に、男は視線を上げなかった。ただ、フォークを動かす指先が僅かに止まる。男の指は、驚くほど細く、そしてしなやかだった。その爪の間に汚れ一つなく、戦いに明け暮れているはずの者の手としては、あまりに「清潔」だった。
男はゆっくりと、まるで深海から浮上するかのような緩慢さで、手にした「満足サラダ」の一片を口に運んだ。シャキ、と瑞々しい音が静かなテーブルに響く。
「……良い組み合わせだ」
男の声は、擦れた紙のような、乾いた響きを帯びていた。
「この果実の酸味と、青々とした野菜の苦味。そして、それを纏めるこの……ドレッシングか。脂の甘みが、すべてを調和させている。私の知る地では、食事とは単なる栄養の摂取、あるいは、血の味を誤魔化すための義務でしかなかったが。ここは……驚くほど、鮮やかだ」
男はそう言って、ようやくガイアへと視線を向けた。
その瞳――無機質なガラス玉のような、光を反射するだけの色彩。ガイアは一瞬、自分の呼吸が止まるのを感じた。喉の奥が、冷たい氷を飲み込んだかのように引き締まる。この男の目に映っている自分は、果たして「人間」として認識されているのだろうか。それとも、テーブルの上の料理と同じ、単なる「観察対象」に過ぎないのか。
ガイアは内面の動揺を隠すように、慇懃な笑みを貼り付けた。
「そうだろう? モンドの風は、あらゆる美味を運んでくる。だが、最高の食事には、最高の酒が欠かせない。チャールズ、こちらに最高級の『デス・アフター・ヌーン』を二つ。それから、この貴き旅人さんのテーブルをさらに賑やかにしてやってくれ。勘定は俺のツケで構わない」
カウンターの奥でチャールズが頷き、氷がグラスに当たるカラン、という涼やかな音が響いた。
ガイアは男の正面に座り直し、テーブルの上に広げられた料理の山を見渡した。ハッシュドポテトの黄金色の輝き、パンの香ばしい匂い、そしてグラスの中で揺れる深紅の酒。
「俺はガイア・アルベリヒ。西風騎士団の騎兵隊長だ。あんたの評判は、団長室の机が沈むほどの報告書で埋め尽くされているぜ。謎の凄腕冒険者……いや、『狩人』殿。あんたのような御仁がモンドに滞在してくれるのは、我々にとっても幸運なことだ」
ガイアは右手を顎に添え、指先で自分の頬を軽く叩いた。タッ、タッ、タッ。その一定のリズムが、対話の主導権を握ろうとする彼の意志を代弁している。
対する男は、運ばれてきた「デス・アフター・ヌーン」を手に取った。グラスの縁に結露した水滴が、男の指先に触れ、一筋の細い線を引いて流れ落ちる。男はその冷たさを確かめるように、じっとグラスを見つめた。
「ガイア……か。良い名だ。君のその瞳……隠された側にあるのは、どのような後悔だろうな」
男の言葉に、ガイアの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。心拍が一瞬だけ乱れ、ドク、と強く胸を叩く。指先が僅かに強張り、掌に薄っすらと汗が滲む。だが、彼はプロフェッショナルだった。その動揺を、一切顔に出すことなく、さらに深い笑みへと変換する。
「おっと、初対面で他人のプライバシーに踏み込むのは、モンドでは少しばかりマナー違反だぜ。だが、あんたのような洞察力に優れた方に指摘されると、隠し事も無意味に思えてくるな。代わりに、あんたの話を聞かせてくれないか? 七国のどこを探しても、あんたのような御仁の記録は見当たらなかった。空から降ってきたのか、それとも地面から湧いて出たのか……あんたはいったい、どこから来たんだ?」
男は酒を一口、含んだ。酒精の刺激が喉を通り、胃に落ちていく。男はその余韻を味わうように目を閉じ、そして静かに語り始めた。
「……私のいた場所は、ここほど光に満ちてはいなかった。かつて、私は『教授』と呼ばれていた。ある古い学び舎……ビルゲンワースという、真理の墓場のような場所でね」
男の言葉と共に、酒場の空気が一変した。ガイアの耳には、周囲の喧騒が遠のき、代わりに、冷たい風が吹き抜ける石造りの廊下の足音や、どこか遠くで響く、形容しがたい獣の咆哮が聞こえたような気がした。
「ヤーナム。それが私のいた地の名だ。閉鎖され、血の病に侵され、夜が永遠に続くかと思われた場所。そこでは、言葉は刃よりも無力だった。私たちはただ、血に酔い、夢を彷徨い、終わりのない狩りを続けていた。そこには……このような、祝福された酒など存在しなかった」
男はそう言って、再び「モンドの焼き魚」の一片を口に運んだ。咀嚼するたびに、男の表情から冷たさが僅かに剥がれ落ち、純粋な感銘が顔を出す。
「この魚の身。塩の加減が、これほどまでに生命の脈動を肯定している。信じられるか? 私の世界では、生命とは守るべきものではなく、解体し、抽出されるべき素材に過ぎなかったというのに」
男は、ガイアの「探り」を完全に理解していた。ガイアが自分をどう定義しようとし、どこに罠を仕掛けようとしているのか。それらすべてを、まるで子供が積み木で遊んでいるのを眺める大人のような、寛容な眼差しで受け流している。
ガイアは、自分がこの男にとって「脅威」にすらなっていないことを悟った。その事実は、彼の矜持を深く傷つけたが、同時に、かつてないほどの好奇心を燃え上がらせた。
「ヤーナム……。聞いたことがない地名だ。だが、あんたのような高潔な方の話しぶりを聞くと、ただの作り話とも思えないな。美食を堪能されている立派な旅人様が、なぜ今、この自由の都にいる?」
ガイアは身を乗り出し、グラスを男のグラスに軽く当てた。チン、という澄んだ音が、二人の間の張り詰めた空気を震わせる。
「休暇さ」
男は短く答えた。そして、注文していた「北地のスモークチキン」が運ばれてくると、その薫製の香りに再び意識を奪われた。
「果てしない夢から目覚めた男には、これ以上の贅沢はない。ガイア、君も食べるといい。この……『ハニーソースポーク』というのか? 甘みと酸味、そして肉の弾力。これは、私に人間としての呼吸を思い出させてくれる」
男は、ガイアの手元に皿を押しやった。その動作はあまりに自然で、友好的ですらあった。
ガイアは差し出されたフォークを見つめ、自身の指先が、無意識のうちに小さく震えていることに気づいた。それは恐怖ではない。この男の背後に広がる、底知れない「深淵」の断片に触れてしまったことへの、生物としての戦慄だった。
(教授、そして狩人。あんたがどれほどの苦難を乗り越えてきたのか、だんだん分かってきた気がするぜ……。だが、ここはモンドだ。そんな不吉な思い出は、すべて酒と一緒に飲み干させてやるよ)
ガイアは覚悟を決め、男が勧めた肉を口にした。
舌の上に広がる濃厚なソースの味と、炭火で焼かれた香ばしい風味。その瞬間、ガイアは自分たちを包む重苦しい疑惑が、料理の熱気によって一時的に中和されていくのを感じた。
「……確かに、これは傑作だ。チャールズ! 次は『リンゴ酒』だ。この肉の脂を洗い流すには、それしかない!」
ガイアの声は、以前よりも少しだけ、本当の意味での活気を帯び始めていた。
夜はまだ始まったばかりだ。モンドの酒場という、世界で最も平和で最も欺瞞に満ちた場所で、一人の騎士と一人の異邦人は、皿を空にしながら、互いの境界線を静かに、しかし確実に踏み越えようとしていた。
男の注文は止まらない。「山幸の麺」、「お肉ツミツミ」、「冷製肉の盛り合わせ」。テーブルの上は、もはや外交の場ではなく、未知の生命体によるテイワット文明の「吸収」の場と化していた。
ガイアは、男が次々と料理を平らげていく様子を、半分呆れ、半分感嘆しながら見守った。男の喉が鳴る音、グラスを置く仕草、そして時折漏れる、満足げな溜息。そのすべてが、男の正体へと繋がる唯一の手がかりのように思えた。
(食え、食いまくれ、親愛なる隣人。あんたが人間であることを、その胃袋で証明してくれ……さもなきゃ、俺は今夜、眠れそうにないからな)
酒場の外では、モンドの風が優しく吹き抜けていた。だが、エンジェルズシェアの店内だけは、異質な熱狂と、古き土地の幻影が混ざり合い、独自の時間を刻み続けていた。