狩人のテイワット観光記   作:教頭

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第三話:第3章「深淵の眼差しと、星を目指す者への忠告」

テーブルの上に積み上げられていた「冷製肉の盛り合わせ」の最後の一片を、男は吸い込まれるような優雅さで口に運んだ。脂の乗った肉が舌の上で体温に溶け、燻製の香りが鼻腔を抜けていく。男はその味の余韻を確かめるように、ゆっくりと、しかし確実に、一度だけ深く喉を鳴らして飲み込んだ。

 

酒場の喧騒は、以前として止む気配を見せない。隣の席では酔客が笑い声を上げ、ジョッキがぶつかり合う鈍い音が絶え間なく響いている。だが、ガイア・アルベリヒの感覚だけは、その喧騒から完全に切り離されていた。

 

ガイアは、空になった自分のグラスを指先で弄んだ。ガラスの表面に残ったわずかな冷たさが、体温で温められた指腹に伝わる。彼は、わざとらしく明るい声色を選び、言葉を紡いだ。その声は、訓練された役者のように滑らかだった。

 

「さて、『教授』殿。あんたの故郷の思い出話は実に興味深い。だが、そろそろ本題に移ろうじゃないか。……あんたのその力だ。元素の導きもなく、神の目の輝きすら持たず、ただそこにあるだけの鉄塊で魔物を塵に変える。……あんたはいったい、何を見て、何を喰らえば、そんな『不自然な理』に辿り着けるんだ?」

 

ガイアの言葉が空気を震わせた瞬間、男の動作が止まった。

 

フォークを皿に置く、カチン、という微かな金属音。その音は、まるで処刑台の斧が落とされる合図のようにガイアの鼓膜を叩いた。

 

男が、ゆっくりと顔を上げた。

 

その瞬間、ガイアは自分の肺から酸素が完全に奪われたような錯覚に陥った。吸い込もうとした空気が、鋭利なガラスの破片に変わったかのように喉を焼き、肺胞が拒絶反応を起こして縮み上がる。ドク、ドク、ドクと、狂ったように心拍が速まり、こめかみの血管が破裂しそうなほどに脈打つ。

 

男の瞳が、変質していた。

 

それはもはや、光を反射するだけのガラス玉ではなかった。瞳孔が、まるで底なしの井戸のように広がり、その奥底から「何か」が溢れ出していた。

 

ガイアの視界から、エンジェルズシェアの暖かな灯火が消え失せる。代わりに広がったのは、星すらも窒息死するような、果てしない、冷たい宇宙の暗黒だった。無数の星々が、死に際のような不吉な光を放ちながら、男の瞳の中で渦巻いている。そこには、数え切れないほどの「死」があった。それは人間の理解しうる死ではなく、概念そのものが磨り潰され、無機質な情報へと還元される過程の集積だった。

 

(……おいおい、これが……これがあの男が背負っている『力』の正体か……?)

 

ガイアの脳裏に、かつて見た、燃え盛る終わりの風景がフラッシュバックする。だが、目の前の光景は、それすらも「小さな出来事」に思わせるほどの、圧倒的な虚無だった。指先が、自分の意志に反してガタガタと震え始める。その震えを止めるために膝に置いた掌は、すでに冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。背筋に這いずる悪寒は、もはや恐怖という言葉では生ぬるい。それは、蟻が巨象の足元で、その重みを知る前に感じる絶望的なまでの「微小」の自覚だった。

 

男は、一切の表情を消していた。

 

狩人にとって、この対話は本来、静かな月明かりの下で人形と交わす、あのお茶の時間の延長であるべきだった。無礼な踏み込みには、相応の重圧で応える。それが、長きにわたる「狩り」の中で培われた、彼なりの礼儀だった。

 

「……星を目指す者よ」

 

男の声が、ガイアの頭蓋骨を直接揺さぶった。それは声ではなく、意識の奥底に直接打ち込まれた杭のような重みを持っていた。

 

「あまり深入りしすぎないことだ。深淵を覗く者は、すでに深淵に呑まれているという自覚を持つべきだろう」

 

男が瞬きを一つした。

 

その刹那、圧迫感は霧散した。

 

酒場の黄色い灯火が、何事もなかったかのようにガイアの瞳に戻ってくる。隣の席の笑い声が、再び騒々しく耳に届き始める。鼻腔を突く酒と脂の匂い。すべてが元通りだった。だが、ガイアの呼吸だけは、浅く、苦しげに乱れたままだった。彼は、自分の指先がまだ震えているのを隠すために、テーブルの下で拳を固く握りしめた。

 

男は、元の穏やかな、どこか浮世離れした「放浪者」の表情に戻っていた。彼は、目の前の全ての皿が空であることを確認すると、ナプキンで口元を丁寧に拭った。その仕草には、先ほどまでの圧倒的な重圧の片鱗すら見当たらない。

 

「ご馳走になった。モンドの食事は、確かに心を豊かにする。……ああ、そうだ。君たちの組織の標語には、良い言葉があるな」

 

男は椅子から立ち上がった。その動きに合わせて、重厚な革のコートが微かな音を立て、男の周囲の空気を動かす。

 

「『星と深淵を目指せ』……だったか。だが、ガイア。星を見上げることに夢中になりすぎて、足元の深淵を見失わないように。深入りしすぎれば、身を滅ぼす。……これは、私の古い友人からの受け売りだ」

 

男はそう言い残すと、出口に向かって歩き出した。

 

ガイアは、その背中を追うことができなかった。いや、視線を動かすことすら、今の彼には精一杯だった。右足が重い。左足が、床に張り付いたかのように動かない。全身の筋肉が、先ほどの「恐怖」を記憶し、男との距離を置くことを本能的に求めている。

 

(……指一本、動かせなかった。剣を抜くことさえ、思考の範疇にすら入れられなかった。俺は……俺はいったい、何と向かい合っていたんだ?)

 

カツ、カツ、と深夜の騎士団本部の廊下に、ガイアの足音が虚ろに響く。

 

代理団長室の扉の前で、ガイアは一度立ち止まった。彼は深く、肺の底に溜まった澱を吐き出すように息をついた。そして、震えの止まった指先で前髪を整え、いつもの不敵な笑みの仮面を顔に張り付ける。だが、その仮面の下で、彼の心臓はいまだにあの眼差しを思い出しては、警鐘を乱打し続けていた。

 

コン、コン、と二度。抑制の効いたノックの音が、静まり返った廊下に吸い込まれていく。

 

「入れ」

 

中から聞こえてきたジンの声は、数時間前よりもさらに険しさを増していた。ガイアが扉を開けると、部屋の中は依然として書類の山と、一本の蝋燭の心許ない光に支配されていた。

 

「……随分と早いお帰りだな、ガイア。酒の席は楽しめたか?」

 

ジンは顔を上げず、ペンを動かしながら問いかけた。しかし、ガイアが椅子に崩れ落ちるように座る音を聞いて、彼女の手が止まった。

 

「ああ、最高だったぜ。おかげで俺の給料袋は、今夜で完全に空っぽになっちまったよ。あんな美食家、モンドでもそうそうお目にかかれない」

 

ガイアは笑いながら言ったが、その声はかすかに上ずり、瞳は焦点が定まっていない。彼はジンの視線を真っ向から受け止めることができず、あえて窓の外の暗闇へと目を向けた。モンドの平和な街灯りが、今の彼にはあまりに頼りなく、脆弱なものに見えた。

 

「……それで? 何か掴めたのか。彼の目的、あるいはその力の源について」

 

ジンが鋭い眼差しを向ける。ガイアはしばしの沈黙の後、絞り出すように言葉を紡いだ。

 

「……一つだけ、確かなことがある。……深追いするな。あれは、俺たちが『調査』していい代物じゃない。ジン、これは警告だ。あいつが『親愛なる隣人』としてパンを食べているうちは、モンドは安全だ。だが、もし俺たちが不用意にその外套を剥ごうとすれば……この街は、一夜にして地図から消える。……いや、消えることさえ許されず、あの男が抱える『夢』の一部に組み込まれちまうだろうよ」

 

ガイアは自分の右腕を左手で強く掴んだ。革の手袋越しに伝わる体温が、驚くほど冷えていた。ジンはその様子を見て、自身の背筋に冷たいものが走るのを感じた。あのガイアが、これほどまでに動揺を見せるなど、これまでの人生で一度もなかったことだ。

 

「あれは……テイワットの理の中に収まる存在じゃない。奴の瞳の中には、数え切れないほどの『死』と、星々が磨り潰されるような虚無が詰まっていた。俺たちが神の目を使って元素を操り、秩序を守っているその横で、奴はただ『そこに在る』だけで世界の本質を歪ませている。俺たちの武器や知略など、奴にとっては風に舞う埃と同じだ」

 

部屋を包む静寂が、以前よりも重く、粘り気を帯びていく。蝋燭の炎がゆらりと揺れ、壁に映る二人の影を不気味に引き伸ばした。ジンは、ガイアの言葉に含まれる「純粋な戦慄」を測りかねているようだった。

 

「……ガイア。君がそこまで言うのなら、今は彼の動向を静観するしかないだろうな。だが、完全に目を離すわけにはいかない。モンドを守る責任が私たちにはある」

 

「ああ、分かっている。奴も言っていたぜ。『星を見上げることに夢中になりすぎて、足元の深淵を見失うな』とな。皮肉なもんだ、本物の深淵を知る男から、深淵への入り口に立っている俺たちが説教されるなんて。……ジン、あの男は敵じゃない。だが、味方でもない。ただ、偶然ここに立ち寄った、理解不可能な『現象』だと思え」

 

ガイアはそう言って、再び扉へと背を向けた。立ち上がる足取りが、まだ僅かに重い。

 

扉が閉まる音。再び一人になったジンの手元には、書きかけの報告書が残されていた。彼女はペンを握り直したが、白紙のページに何を書けばいいのか、その答えはまだ霧の中にあった。騎士道という光が、あの男の影を一層濃くしているようだった。

 

窓の外では、モンドの風が穏やかに吹き抜けている。だが、その風が運んでくるのは、かつてのような甘い花の香りだけではなかった。どこか遠く、星々の彼方、あるいは血に濡れた古都から漂ってくるような、冷たく、古びた鉄と死の匂いが、ジンの鼻腔をかすかに、しかし執拗に刺激し続けていた。

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