星拾いの崖の頂。モンドの夜風はここでは一段と鋭く、湿り気を帯びた草の匂いと共に、儀式の後の微かな焦げ跡の臭いを運んでいた。
アンバーは、震えるコレイの肩を支える自分の掌に、少女の限界に近い心拍の鼓動を感じていた。ドクン、ドクン。それは、壊れそうな硝子細工が必死に形を保とうとするような、危うい拍動だった。コレイの肌は冷たく、封印の反動による虚脱感が彼女の小さな体を苛んでいる。
だが、その静寂は、闇を切り裂く不浄な高笑いによって無残に踏みつけられた。
「……素晴らしい。魔神の残滓、その封印の瞬間。これこそが、神の英知を凌駕する『進化』の苗床となる!」
影の中から這い出してきたのは、ファデュイの伝教師だった。彼の纏う外套が邪悪な力に膨れ上がり、その背後から赤黒い邪眼の力が噴き出す。それは次第に実体を持った質量へと変わり、伝教師の肉体を核として、悍ましい「蛇」の如き、あるいは翼を欠いた「地這う竜」のような異形へと作り替えていく。
伝教師の喉からは、もはや人間のそれではない、地を這うような低い唸り声が漏れた。赤黒い鱗が彼の皮膚を突き破って現れ、首は異様に長く伸び、その先には三つの顎を持つ蛇の頭部が形成される。バチバチという不快な放電音と共に、魔神の残滓による不浄な霧が、巨躯を包む黒い炎となって崖の上を焼き焦がした。
アンバーは反射的に弓を構えた。弦を引く指先が、冷たい夜気に触れて僅かに強張る。
「コレイから離れなさい!」
彼女の叫びは、しかし異形と化した伝教師が放った漆黒の咆哮によって容易く掻き消された。地を噴き上げるような衝撃波がアンバーの全身を叩き、彼女の足元、湿った土が泥となって跳ね上がる。コレイは声を上げることもできず、ただ自分の内に封じられた「何か」が、外側の強大な毒気に共鳴して暴れ出そうとする苦痛に、歯を食いしばって耐えていた。
絶体絶命の窮地。アンバーが視界を霞ませ、膝を屈しかけた、その時。
重く、しかしどこか優雅な足音が、異形の咆哮を割って静かに響いた。
闇が、物理的な質量を持って動き出したかのように見えた。アンバーの視界の端で、一人の男がゆっくりと歩を進めてくる。煤けた黒いシルクハットに、幾重にも重なる重厚な狩装束。男は右手の仕込み杖を軽く地面に突き、帽子の庇の下で冷徹に獲物を品定めした。
狩人は、眼前にのたうつ巨大な肉の塊を眺め、誰に聞かせるでもなく、吐き捨てるような低い独り言を漏らした。
「……あの飲んだくれの詩人との約束は、『モンドの自由を愛する者を害さない』だったな」
狩人の脳裏に、リンゴ酒の香りを漂わせながら「この街の風を楽しんでよ」と笑った、あの風神の飄々とした姿がよぎる。男は視線を僅かに動かし、地面に這いつくばって絶望に瞳を揺らす少女たちと、傲慢な殺意を撒き散らす異形の怪物を交互に見た。
(自由を愛する者。……それは、この怯える子供たちのことだ。そして――)
狩人の視線が、伝教師だった「蛇」の瞳に固定される。
(――貴様のような、他者の自由を磨り潰して悦に浸る害獣は、最初からあの神の『契約』の対象外だ。むしろ、間引くことこそが対価の一部だったな)
男は左手の短銃を僅かに持ち上げた。その動作には一切の迷いもなく、銃口は正確に伝教師の核を捉えている。呼吸は深く、驚くほど静かだ。
「貴様……何者だ。騎士団の狗か?」
伝教師の、複数の口が重なり合った不協和音の問いに対し、狩人は冷淡に告げた。
「……不快だな。これほどまでに醜悪な残飯の臭いは、せっかくの食後の散歩を台無しにする。契約に従い――いや、私自身の『狩り』の本能に従い、貴様のその無粋な命をここで終わらせてやろう」
「死ね、無礼者が!」
竜の如き姿となった伝教師が吼え、赤黒い雷光を凝縮させた吐息を放った。それは空気を焼き、ジジ、という嫌な音を立てて狩人の胸元へと迫る。
だが、狩人は動かなかった。
雷光がその体に触れる寸前。狩人の体が、一瞬だけ、残像を残してブレた。アンバーの目には、彼がただ一歩、横に滑ったようにしか見えなかった。雷光は空を切り、背後の岩を爆砕させる。
「……あまりにも、弱すぎる」
狩人の呟きと共に、仕込み杖が変形した。ガシャン、という冷酷な機械音が、アンバーの耳の奥で、骨が砕ける音のように不吉に響く。杖の中から飛び出した鋭利な刃の連なりが、月光を反射して白銀の蛇のようにのたうった。
狩人が地を蹴った。
アンバーの網膜に焼き付いたのは、もはや人間の動きではなかった。彼は風よりも速く、影よりも鋭く、巨竜の懐へと潜り込んだ。
伝教師が悲鳴を上げる暇もなかった。
「あ、が……っ!?」
銀色の刃が空を舞う。シュ、シュ、という肉を断つ軽快な音が、崖の上に響き渡る。一撃、二撃。狩人は、まるで精肉店で家畜を解体するかのような、無慈悲で正確な手際で、伝教師の鱗を剥ぎ、蛇の如き首を切り刻み、四肢をバラバラに解体していった。
「ひ、あ、あああああああ!!!」
伝教師の絶叫が夜空を裂いたが、それすらも狩人にとっては心地よい伴奏に過ぎなかった。刃が振るわれるたびに、異形の肉体から鮮紅の液体が噴水のように噴き出し、夜の闇を塗り替えていく。
噴き出した血が、夜の空気に舞い、雨のように降り注ぐ。
暖かい、粘り気のある生々しい血の飛沫が、狩人の顔を、白い顎を、そして重厚な狩装束のすべてを容赦なく汚していく。狩人はその熱い感触を肌に感じ、陶酔にも似た、本能的な充足感に眉を僅かに動かした。
(ああ……これだ。この感触こそが、久しく忘れていた『日常』だ)
狩人は目を細め、滴る血を払うことすらせず、絶叫する異形の肉塊へとさらに刃を叩き込んだ。バラバラになる肉体、断裂する神経。竜の如き威容は見る影もなく崩れ去り、最後にはただの肉塊が地面に崩れ落ちる音だけが残った。
そこには、もはや「人間」の原型を留めたものは何一つ存在していなかった。
狩人は、その肉の残骸から這い出そうとする赤黒いエネルギーの塊――伝教師を突き動かしていた邪眼と魔神の残滓の根源――を、無造作に左手で掴み取った。それは断末魔のような不快な音を立てて抵抗したが、狩人が掌を握りしめると、観念したように収束していく。
狩人はそれを口元へ運ぶと、迷うことなく咀嚼し、飲み下した。
(……酷い味だ。不純物が混ざり、泥を噛んでいるような不快感がある。先ほど酒場で食した冷製肉の方が、これの数万倍は潤いがあったな)
狩人の体内で、魔神の残滓がその暴力的な意志を誇示しようとしたが、彼の中に棲まう「上位者」の位階によって瞬時に磨り潰され、ただの無機質な力へと還元された。
しかし、狩りの時間はまだ終わっていなかった。
狩人の視線が、地面に倒れ伏すコレイへと向けられた。彼の瞳は、もはや人間の慈愛などは宿しておらず、ただ「不純物」を排除しようとする冷徹な捕食者のそれであった。
血塗れの狩人が、一歩、また一歩と、少女たちへと近づいてくる。
「っ……来ないで!」
その時、アンバーが叫び、コレイの前に身を投げ出した。
彼女の体は恐怖でガタガタと震えていた。目の前で繰り広げられた「屠殺」を、そしてその血を浴びて満足げに微笑んだ男の異常性を、彼女は誰よりも近くで目撃していた。本能が、この男から逃げろと警鐘を乱打している。それでも、彼女は友を背負ったまま、震える腕で弓を構え、狩人の進む先を遮った。
「助けてくれたのは……感謝するわ! でも、コレイに……コレイにこれ以上、乱暴なことをするのは許さない!」
アンバーの瞳には、死への恐怖を上回る、揺るぎない献身の光が宿っていた。
狩人は足を止めた。彼は帽子の庇の下から、自分を見上げる小さな騎士を眺めた。
「……勇気ある言葉だ、小娘。だが、勘違いするな」
狩人の声は、先ほど伝教師を切り刻んだ時と同じ、温度を欠いた響きだった。
「私はその娘を救うつもりなどない。ただ、その娘の中に宿る『出来損ないの神』の欠片……そのあまりに不快な臭いが、鼻について我慢ならないだけだ。……そこを退け。邪魔をするなら、貴様もろとも『掃除』することになる」
「させない……絶対に!」
アンバーが弦を引き絞る。だが、その刹那。
狩人の姿が掻き消えた。
「え……?」
アンバーが目を見開いた時には、すでに狩人は彼女の背後に立っていた。物理的な移動というよりも、世界の一部が書き換えられたかのような不自然な転移。狩人の血に濡れた左手が、アンバーの肩越しに、コレイの背中へと伸ばされる。
「コレイ!!」
アンバーの絶叫。しかし、狩人の指先がコレイの肌に触れた瞬間、爆発的な吸引力がその場に発生した。
コレイの体内で封印され、今まさに暴走しようとしていた「魔神の残滓」。セノの封印さえも食い破ろうとしていたその凶悪なエネルギーが、狩人の掌という名の底なしの淵へと、濁流のように吸い込まれていく。
コレイの口から、声にならない悲鳴が漏れた。しかし、それは苦痛によるものではなく、自分を長年苛んできた呪縛が、根こそぎ引き抜かれることへの衝撃だった。
黒い霧が狩人の腕を伝い、彼の体内へと消えていく。
先ほど伝教師から奪ったものよりも、遥かに純度が高く、そして荒々しい力。狩人はそれを正面から受け止め、深く息を吐き出した。
(……ほう。こちらは、少しばかり『マシ』な味だ。かつて学長が啜っていた秘儀の血を、僅かに思い出させる。……が、やはり不快だな。これに比べれば、あの蜂蜜チャーハンの方が、余程『生きる力』に満ちていた)
すべての残滓を吸い尽くすと、狩人は手を離した。コレイの肌から、あの不味な黒い紋様が消え去り、彼女の呼吸は驚くほど穏やかなものへと変わっていた。
狩人は立ち上がり、返り血で濡れた顔のまま、茫然自失としているアンバーを一瞥した。
「……毒は抜いた。あとは、その娘自身の生命力次第だ」
返り血が、彼の白い顎を伝い、地面にポタポタと零れ落ちる。その瞳に宿る満足感は、もはやこの世のものとは思えないほどに深く、暗い。
「……後始末は、騎士団に任せよう。お嬢さん、次はもう少し、美味しいものを奢ってくれ。……それこそ、酒場の冷製肉ではなく、もっと『実体』のあるものをな。……この程度の残滓では、あの店の前菜ほどにも腹は膨れんよ」
狩人はそう言い残すと、血の海と化した惨劇の場から、闇に溶けるように立ち去った。
後に残されたのは、震えながら友を抱きしめるアンバーと、信じられないほど深い眠りに落ちたコレイ。そして、強烈な鉄の匂いだけが立ち込める、星拾いの崖の静寂だった。アンバーは、自分の心臓がまだ動いていることを不思議に思うほど、その魂に「深淵の影」を刻みつけられていた。