狩人のテイワット観光記   作:教頭

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プロローグ:第2章「血の契約と悪夢の夜」

 石畳を踏みしめる靴音が、霧の底に吸い込まれては鈍く反響していた。

 

 ヤーナム。その街に一歩足を踏み入れた瞬間、私の肺を満たしたのは、鉄錆と内臓の腐敗臭、そして名状しがたい焦燥感が混ざり合った、鉛のように重苦しい空気だった。肌を撫でる大気は、まるで濡れた毛布のように粘りつき、毛穴の一つひとつに冷たい汗が溜まっていくのが、不快なまでの生々しさで伝わってくる。視界の端々には、高くそびえ立つゴシック様式の尖塔が、夜空を突き刺す巨大な指先のように黒々と浮かんでいた。それらは単なる建物ではなく、何か巨大な意思を持って私を見下ろしているかのように、威圧的な沈黙を保っている。

 

 私は一歩、また一歩と、覚束ない足取りで緩やかな坂道を登っていく。

 

 膝の関節が、歩みを進めるたびに軋んだ乾燥した音を立てる。体内の腐敗はすでに末期に達しており、呼吸を一つ吐き出すごとに、気管支から喉元までが焼け付くような熱を帯びる。吐息は白く濁り、そこには死期を悟った生物特有の酸っぱい臭いが混じっていた。心拍は早鐘のように打ち鳴らされ、耳の奥では常にドクン、ドクンという、自らの生存を無理やり確認させられるような不快な鼓動が反復していた。

 

 ヨセフカ診療所。その扉は、絶望の果てにようやく見つけた唯一の希望として、深い霧の向こう側にぼんやりとした輪郭を持って現れた。

 

 重厚な鉄の扉を、ありったけの力を込めて押し開けると、冷えた消毒液の匂いと、長年蓄積された微かな血の残り香が混ざり合った、死を連想させる冷気が私の顔を打った。室内の光は極めて乏しく、天井から頼りなく吊り下げられたオイルランプの炎が、壁に映る影を不気味に、かつ執拗に揺らしている。

 

「……そこへ、……座りたまえ」

 

 しわがれた、枯れ木同士が擦れ合うような、生命感の欠落した声が、部屋の奥の深い闇から響いた。

 

 視線を向けると、影の中から一台の車椅子が滑るようにして静かに現れた。そこに座っていたのは、顔の半分以上を古びた包帯で覆い、瞳の奥に底知れない深淵を湛えた老人だった。彼の指先は、細長く、節くれ立っており、膝の上に置かれた厚い革表紙の契約書を、まるで最愛の恋人の肌を愛撫するようにゆっくりと撫でている。

 

 私は、震える足に鞭を打ち、診察台へと歩み寄った。一歩踏み出すごとに、床の板張りがギィ、ギィ、と、踏まれた者の悲鳴のような音を立てて撓む。

 

 老人の前に立ち、彼が差し出した契約書に視線を落とした。紙は古く、不自然なほどに黄ばんでおり、微かに獣の毛皮や古い革靴のような、獣臭さを放っている。私は重い羽ペンを手に取った。指先の感覚はすでに麻痺しており、指の腹に触れるペン軸の滑らかな感触さえも、今はひどく異質な、この世のものとは思えない異物のように感じられる。

 

「青ざめた血について、知りたい……。ここに、その答えがあるはずだ」

 

 私の掠れた声が、室内の重苦しい静寂を破った。自分でも驚くほど、その声にはかつての教授としての理性の欠片もなく、ただ「今、この瞬間の生」への醜悪なまでの渇望だけが凝縮されていた。

 

 老人は、包帯の隙間から、細められた鋭い眼光を私の瞳の奥へと突き刺した。彼の呼吸は、極めて深くて静かだ。まるで、この世のあらゆる悲劇を見届けてきた観測者のような、冷徹な静寂。

 

「ほぉ……『青ざめた血』ねぇ……」

 

 老人が口を開くたびに、彼の乾燥した唇から微かな霧のような吐息が漏れる。

 

「確かに、君は正しく、そして幸運だ。まさにヤーナムの血の医療、その秘密だけが……君を導くだろう。君が求めた真理、あるいは逃避の終着点は、すべてこの一滴の中に凝縮されている」

 

 老人の言葉が、鼓膜を通り越し、脳髄の奥深くに直接書き込まれるような錯覚に陥る。私は彼を疑うべきだった。この街に充満する狂気の正体を、この老人が語る「医療」の正体を。だが、私の脳内独白は、もはや正常な論理を紡ぐことを明確に拒否していた。大学で培った膨大な知識も、社会で守ってきた人としての倫理も、眼前に迫る死という巨大な怪物の前では、風に舞う無力な紙細工に過ぎない。

 

「だが、よそ者に語るべき法もない。理解ではなく、まずは体験が必要なのだ」

 

 老人の骨ばった指が、私の手首に不意に触れた。その氷のような、生命の温もりを一切拒絶した冷たさに、私の心臓が一度、暴力的なまでに大きく跳ねた。

 

「だから君……まずは我ら……ヤーナムの血を受け入れたまえよ。君のすべてを、この街の理に捧げるのだ」

 

 私は意志を奪われた人形のように、導かれるまま診察台の冷たい革の上に身を横たえた。背中に伝わる台の硬質さと冷たさが、私の存在の儚さと、これから行われることへの恐怖を強調しているようだった。

 

「それでは輸血を始めようか……なあに、何も心配することはない。すべては救済への過程だ」

 

 老人が、鈍い光を放つ金属製の巨大な注射器をゆっくりと掲げた。オイルランプの微かな光が、その鋭利な針先に反射し、一筋の銀色の閃光となって私の網膜を焼き、視界を白く染め上げた。

 

「何があっても、悪い夢のようなものさね……。覚めれば、君は新しく生まれ変わっている」

 

 腕の皮膚に、ヒヤリとしたアルコールの冷たい感触が走る。拭われた部分だけが過敏に反応し、夜気に触れて粟立つのを感じた。そして、一切の躊躇なく、鋭い痛みが筋肉を貫き、骨の近くまで深く突き刺さった。

 

 熱い。

 

 血管の中に、沸騰した灼熱の溶岩をそのまま流し込まれたような衝撃。

 

 心拍数が物理的な限界を超えて爆発的に上昇し、視界は瞬時に、沸き立つような真っ赤な色彩に塗り潰された。

 

 血。誰のものとも知れぬ、古く、呪われ、そして強大すぎる「意志」を宿した血が、私の全身を濁流となって駆け巡る。それは細胞の一つひとつを暴力的に、かつ不可逆的に書き換えていく。私は内側から自分という人間が破壊され、再構築される恐怖に、声なき叫びを上げた。

 

 意識が急速に、奈落の底へと遠のいていく。診察台から重力に逆らって浮き上がるような浮遊感と、同時に地の底、さらにはその下の異界へと引きずり込まれるような凄まじい重圧感が同時に襲いかかる。

 

 私は叫ぼうとしたが、喉から出たのは言葉ではなく、獣の呻きに近い、湿って重い濁音だった。

 

 暗闇の中で、巨大な、あまりにも巨大な何かが動く気配がした。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 そこからの時間は、もはや私たちが知る「時間」という尺度では計れないものだった。

 

 私は死んだ。数えきれないほどに、執拗に、そして鮮明に。

 

 冷たい石畳の上で、獣の汚れた爪に喉を容易く裂かれた感触。腹部を深い刃で貫かれ、溢れ出した内臓が地面に落ちて湯気を立てる熱さ。そのたびに、私は「夢」の中で冷たい目覚めを迎え、呪われた戦場へと再び戻ることを強いられる。

 

 仕込み杖を握りしめる右手の掌には、分厚く硬いタコができ、浴び続けた返り血は皮膚の奥深くまで染み込んで、どれほど強く洗っても、もはや落ちることはなかった。

 

 鼻腔を占めるのは、常に新鮮な、それでいて熟成されたような特有の血の匂い。

 

 ある時は、大聖堂の荘厳な静寂の中で、信仰の果てに異形へと変貌した聖職者を狩った。その骨が砕ける音は、まるで古い神話が崩れ落ちる音のようだった。

 

 ある時は、光の届かない禁域の森で、泥の中を這い回る巨大な蛇の群れを焼き払った。油の焼ける臭いと、獣の悲鳴が私の正気を少しずつ削り取っていく。

 

 殺せ。狩れ。これこそが救済なのだと。

 

 脳内で繰り返される、誰のものとも知れぬ命令。私はもはや、名門大学で教鞭を執っていた教授などではなかった。ただの、血の快楽と生存本能に従うだけの、飢えた狩人。

 

 幾夜が過ぎたのか、あるいは幾百年が経過したのか。

 

 夜は終わらず、空の月は血の色に染まり、そして見るたびに不自然なほどに肥大していった。

 

 そして、最後の一戦。

 

 私は、白く震える月下の花畑で、その究極の存在と対峙した。

 

 月の魔物。

 

 それは、人間の言葉では到底形容しがたい、無数の脈打つ触手と、剥き出しの肋骨、そして星々さえも呑み込むような眼差しを持った「上位者」だった。

 

 それが私の頭に、優しく、しかし絶対的な重みを持って触れた瞬間、全世界の真理、宇宙の深淵、そして人間が知ってはならない冒涜的な知識が、耐え難い情報の濁流となって私の脳内に逆流した。

 

 脳が物理的に焼けるような、灼熱の痛み。眼球の裏側で、無数の瞳が一つずつ開き、今まで見えていなかった「世界の真の姿」を強制的に見せつけられる感覚。

 

 だが、私はそれを拒絶しなかった。いや、拒絶するだけの「人間」の部分は、すでに摩耗し、消え去っていたのだ。

 

 私は、その青ざめた血を、自らの魂の核へと受け入れた。

 

 身体が、内側から爆発し、光の粒子へと崩壊しては、再び高次元の形へと再構築される。

 

 骨が粉々に砕け、肉が神秘の粘土のように溶け、超越的な「意志」が、かつての「私」という矮小な器を内側から食い破り、無限へと溢れ出した。

 

 人間としての記憶が、古い写真が炎に包まれて焼けるように、一枚ずつ剥落していく。

 

 講義室の懐かしいチョークの匂いも、かつて私を死の淵まで追い詰めた不治の病の苦しみも、今やそれらはすべて、遠い宇宙の彼方で行われた、他人の退屈な物語のように感じられた。

 

 光が見えた。

 

 それは、生命を育む太陽の暖かな光ではない。どこまでも冷たく、澄み渡り、万物の魂を凍てつかせ、統べる、真実の「月の光」。

 

 私は、赤子のように最初の産声を上げた。

 

 いや、それはもはや三次元の空気では振動し得ない、高次の共鳴だったのかもしれない。

 

 私は、再誕したのだ。

 

 ただの人間から、世界を観測し、干渉する「上位者」として。青ざめた血の真なる継承者として。

 

 無限に続く、そして静謐な狩人の夢の中心で、私は初めて、真の意味で、その「瞳」を開いた。




【絵画】

 素人ながらどこか暖かさと悲しさを感じさせる絵。
 モデルが誰だったか、今はもう思い出すことさえできない。


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