磁器の触れ合う繊細な、それでいてどこか寒々しい音が、静謐な「狩人の夢」の空気に波紋のように広がった。
私は、一面に白く咲き乱れる――その一つひとつがかつての狩人たちの墓標のようにも見える――花々の中に置かれた、古びた木製椅子の背に深くその身を預けている。指先に伝わるティーカップの滑らかな質感は、かつて人間であった頃にロンドンの高級店で手にしたどの名品よりも、どこか非現実的な完璧さを帯びていた。微かな罅(ひび)一つない表面は、まるでこの場所が「本物の世界」の出来損ないの模倣であることを嘲笑っているかのようだ。カップの縁から立ち昇る蒸気は、アールグレイの芳醇な香りと、この場所特有のどこか甘やかな、それでいて死を忘却させるような、微かな防腐剤にも似た香りが混ざり合っている。
私は、微かに指を動かし、カップを唇へと運んだ。
液体が舌の上を滑る。温かい。だが、その温もりは胃の腑に落ち、消化という人間的プロセスを経る前に、私の超越的な肉体の中に霧散し、そのまま概念として同化していく。
「……おかわりはいかがですか、良き狩人様」
穏やかな、それでいてどこか機械的な正確さを伴った、湿り気のない声が、すぐ傍らで響いた。
視線を向けると、そこには等身大の人形が、いつものように深い慈愛と無機質な献身をその瞳に宿して佇んでいた。彼女の指関節が動くたびに、精巧な磁器と古い革が擦れ合う、小さく、乾いた音が、私の敏感な鼓膜を撫でる。彼女が纏うケープの縁を揺らすのは、この世界のどこからも吹いてこない、だが確かに存在する「夢の風」だった。それは、かつての私が知っていた空気の震えではなく、誰かの意志が空間を揺らした名残のようなものだ。
「いや、十分だ。ありがとう、人形。お前の淹れる茶は、いつもこの場所の静寂によく馴染む」
私の声は、もはやかつての不治の病に冒された、湿った掠れ声ではなかった。それは低く、落ち着き、まるで多層的な弦楽器が共鳴するような響きを含んだ「上位者」のそれへと変貌していた。私はカップをソーサーに戻した。カチリ、という硬質な音が、永遠に続くかのような午後の静寂を肯定するように響く。この音だけが、今の私にとって唯一の現実的なリズムだった。
瞼を閉じれば、脳裏には無数の情報の糸、あるいは星々の瞬きにも似た情報のネットワークが張り巡らされているのが見える。
かつて人間であった頃、私は知識を「獲得」し、「蓄積」するものだと思っていた。だが今は違う。知識は、酸素や重力と同じように「そこに最初から在る」ものであり、私はただ思考の焦点を合わせ、視線を向けるだけで、その深淵を覗き込むことができる。
私は、自身の内側に溶け込んだ「月の魔物」の残滓、その膨大な、あるいは冒涜的な記憶の深淵へと、意識の指先を沈めた。
それは深海よりも暗く、凍てつくように冷たい記憶の海。そこには、先代の魔物がかつて侵食を試み、そしてひどく無様に、無残に失敗した世界の断片が、打ち捨てられた難破船の破片のように漂っていた。
心拍が、一拍だけゆっくりと、重厚に打たれる。私の胸腔に宿るその鼓動は、もはや一分間に何十回と規則的に打つ必要などない。世界との調和を保つための、巨大な時計の振り子が時を刻むような、重厚で稀有な運動だ。
記憶の断片を、ひとつ、思考の海から拾い上げる。
そこには、七つの元素の光が統べる、眩いほどに広大な大地が見えた。
自由な風が吹き抜け、不変の岩が聳え、永遠を誓う雷鳴が轟く。月の魔物は、かつてその世界の一角――璃月と稲妻の間に浮かぶ小さな島国へと、その醜悪な触手を伸ばした。獣の病を撒き散らし、自らの顕現を望んだ。だが、その世界の守護者――七神と呼ばれた存在たちによって、その触手は一片の慈悲もなく切り払われた。魔神戦争の余波が残る中、その地は邪神の降臨を阻むため、島ごと海へと沈められたのだ。
「……ふっ、実に見苦しい。弱いものだな、先代(あいつ)は」
私は、思わず独白した。喉の奥から漏れたその乾いた嘲笑は、白く揺れる花々の下で微睡む、小さな使者たちを、一瞬だけ不安げに身悶えさせた。
月の魔物。かつてヤーナムを支配し、狩人の夢を司った存在。その不様な敗北の記憶は、上位者としての力を継承した今の私にとっては、三流劇作家の書いた喜劇のようなものだった。あのような不完全で粗野な顕現の仕方をすれば、その世界の理にしっぺ返しを食らうのは自明の理だ。あいつは、ただ広いだけの、この停滞した「夢」の中に引きこもりすぎ、外の世界の理(ルール)を忘れ去っていたのだ。
私はゆっくりと目を開けた。
視界に入る光の粒子一つひとつが、私に膨大な情報を与えてくれる。
人形の指先の、動力源が発する極微な熱。地面の下で蠢く使者たちの、粘り気のある、それでいて健気な忠誠心の気配。そして、遥か頭上に浮かぶ、あの冷酷なまでに美しい巨大な月の、肌を刺すような圧力。
私は、背中を椅子の背から離した。関節が鳴るような物理的な音はしない。ただ、私の動作に従って、周囲の空間そのものが歪み、そして瞬時に修復される。
……退屈だ。
地底の聖杯ダンジョン、あの腐敗と狂気が充満した迷宮を彷徨い、永遠に続く血晶石のマラソンに興じるのも、一時の気晴らしにはなる。だが、この根源的な渇きは、どれほど強い血を浴びても癒えることはない。かつての名門大学の教授としての尽きせぬ好奇心が、上位者としての全能感と混ざり合い、未踏の地への「観光」という、ひどく楽観的で、かつ身勝手な欲望へと変質していくのを私は感じた。
あの大地。テイワットと呼ばれていたか。
月の魔物が手を伸ばし、それゆえに拒絶されたあの世界の「食」は、どのような味がするのだろうか。
かつてのヴィクトリア朝風の、重く、脂ぎった、それでいて素材本来の味を殺したような、あの灰色で退屈な料理とは違うはずだ。色彩豊かな、神々の祝福と大地の生命力を宿した、輝くような食卓。
私は、想像だけで口腔内に唾液が分泌されるのを感じた。擬態した肉体は、私の意思に従って忠実に、それでいて滑稽なほど「人間」としての生理反応を模倣する。
「少し、出かけてくるよ。……人形、留守を頼めるかな。この庭を、変えずに守っておいてくれ」
私は立ち上がった。一歩。足元に咲く白い花が、私の物理的な体重ではなく、私の存在そのものが放つ、高次元の重圧に耐えかねて、微かに首を垂れる。その一歩ごとに、私の周囲の因果律が微かに揺らぎ、夢の境界が軋みを上げる。
人形は、静かに、流れるような動作で膝を折り、深々と一礼した。彼女の動きは優雅で、それでいて、やはり血の通わない完成された芸術品としての硬質さを保っている。彼女の指先が地面に触れる際、カチリと硬質な音が響く。それは、彼女が「人形」であることを再確認させる唯一の証左だった。
「承知いたしました、良き狩人様。あなたの旅路が、新たな夢を形作るものとなりますよう。……いってらっしゃいませ」
私は、自身の全能に近い力を、内側へと幾重にも折り畳んでいく作業を開始した。
上位者としての強大すぎる霊子と意志を、人間という、あまりにも小さく、脆い器の中に無理やり押し込める。それは、大海のすべてを、一滴の雫の中に閉じ込めるような、ひどく繊細で、肉体的な苦痛を伴う「圧縮」の作業だ。
骨が軋み、密度を増し、筋肉が驚異的な力で凝縮される。かつて不治の病に蝕まれていたときとは対極の、過剰なまでの生命の凝縮。その負荷によって、私の周囲の花々が一時的に色を失い、灰色へと変色する。私の肺は、もはや必要のないはずの呼吸を求め始め、空気が肺胞を膨らませる感覚が、懐かしくも疎ましく蘇る。
視界が少しずつ低くなり、色彩が「人間」の網膜が知覚できる程度の、限定的な範囲へと狭まっていく。
私は、自身の姿を鏡で確認する必要さえなかった。脳内にある完璧な人間のプロトタイプを、今、この瞬間に現実へと出力する。
長身の、三十代後半に見える、知的で落ち着いた面持ちの男。
トップハットを深く被り、慣れ親しんだ狩人の装束を纏う。腰には、幾多の獣を断ち切ってきた仕込み杖と、鈍い銀色の光を放つ、獣狩りの短銃。その重みは、かつて私の命を繋ぎ止めるための命綱であったが、今やそれは、未知の世界を楽しむための小道具に過ぎない。
私は一歩、夢の境界、その薄い膜を突き破るようにして歩み出した。
空気の密度が劇的に変化する。狩人の夢の、あの冷たく停滞した時間から、活発に流れ、移ろい、そして残酷に崩壊していく「生きた時間」の、騒がしい匂いへと。鼻腔を抜けるのは、死の停滞ではなく、草木の呼吸と土の湿り気、そして生命が燃焼する際の微かな焦燥の香りだ。
私は、悪夢の道筋を複雑に経由し、テイワットの理を壊さぬよう、空間の裂け目へと静かに指をかけた。
ここを通り抜ければ、あの大地だ。
かつて月の魔物を追い返したという七神とやらが、私をどう迎えるのか。それとも、私が彼らをどう「見物」して楽しむのか。彼らが私を「邪神」と呼ぼうが「異端」と呼ぼうが、私にとっては劇場の観客席から眺める喜劇の役者に過ぎない。
私は、境界の向こう側、暗闇の中に手を伸ばした。
指先に触れたのは、冷たく、だがどこか懐かしい「外の世界」の風の感触だった。その風は、私の頬を撫で、擬態した皮膚の産毛を微かに揺らす。
心拍が、人間としての早さに、一拍ごとに近づいていく。トクン、トクン、トクン。それは生を祝福する音ではなく、この世界への侵入を告げる不吉な秒読み(カウントダウン)だ。
私は、擬態した唇の端を微かに上げ、深い闇の中へとその身を投じた。背後で、狩人の夢へと続く扉が静かに、だが確かな拒絶を持って閉じる音が響いた。
【数え板】
十ごとに分けられた線が刻まれた木版。回数を経るごとに荒々しく、千を超えたあたりで途絶えている。
それは終わりを迎えたことを示すものか。
……もはや数えることに意味はないと理解したものか。