それは、実体のない「青ざめた月」が、モンドの青い空を内側から食い破るような感覚だった。
風が止まっていた。
モンド城の広場に降り注ぐ柔らかな陽光が、一瞬にして粘りつくような紫がかった灰色の光へと変質し、石畳の上に落ちる影を異様に長く、鋭く引き伸ばしていく。
街の住人たちが一斉に足を止め、あるいは白昼夢のような眠りの中で、同時に同じ「光景」を網膜の裏側に焼き付けられた。
視界の全てを埋め尽くすのは、無数の星の死骸が降り積もったような銀色の砂漠と、天を塞ぐほどの巨大な「眼球」に見える、血管の浮き出た月。鼻腔を突くのは、生命の燃えカスが放つ焦げたような不快な匂いと、嗅いだこともないほど濃厚で、鉄分を含んだ異質な「血」の香り。それはこの世界の家畜の血よりも重く、冷たく、宇宙の真空をそのまま溶かし込んだような、理性を凍りつかせる芳香だった。
「……あ、……ぁ……」
広場でパンを運んでいた商人の手が、氷像のように止まる。指先が微かに、しかし断続的に震え、抱えていた籠の編み目が手のひらに食い込む。腕の筋肉は硬直し、籠が重力に従って滑り落ちようとしていることにさえ、彼の意識は追いついていない。
彼は感じていた。自分の喉元を、目に見えない巨大な「指」が優しく、だが逃れようのない圧倒的な質量を持ってなぞる感覚を。皮膚の産毛が一本残らず逆立ち、背筋を冷たい粘液状の蛇が這い上がるような戦慄。心拍数は異常な領域まで跳ね上がり、胸腔の中で心臓が肋骨を激しく叩く音が、静まり返った広場に鐘のように響くかのような錯覚。
彼の脳裏に、幼い頃に一度だけ経験した、暴風雨で家が揺れた夜の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。あの時、逃げ場のない闇の底で感じた、自分という存在がこの世の理から切り離され、虚空へ消え去ってしまうのではないかという、根源的な「存在の喪失」への恐怖。
(なんだ、これは。私は、死んでいるのか? それとも、世界が死んだのか? 呼吸が……仕方が、わからない……)
自問自答は、論理的な形を成す前に、冷たい重圧によって霧散する。
思考の全てを暴力的に塗り潰すのは、天から降り注ぐ「青ざめた血」の、拒絶を許さない意志。
広場にいた人々は、一歩も動くことができない。右足を前へ出そうとする運動野の指令よりも、数千年の進化を経て脊髄に刻まれた生存本能が「動けば死ぬ」と細胞レベルで絶叫している。膝は笑い、肺胞は閉塞し、吸い込んだ僅かな空気が気管支を針のようにヒリつかせる。
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その瞬間、風の神ウェンティは、大聖堂の広大な屋根の上で、愛用のライアーを奏でようとしていた。
白くしなやかな指先が、銀の弦に触れる、その数ミリ手前。
世界の法則そのものが、一瞬だけ剥離した。
彼が愛し、何千年も守り続けてきた「自由な風」が、一瞬にして物理的な質量を伴う「鋼の重力」へと変貌し、彼の小柄な肉体を屋根のタイルに縫い付けようとした。
彼の網膜を射抜いたのは、光の反射などではない。次元の壁を無理やりこじ開け、このテイワットという完璧に構築された箱庭に侵入してきた「絶対的な異物」の輝き。
それは、五感を超越した、神の座にある者だけが感知し得る「理の歪み」だった。
風の中に、かつて七神が寄り集まってようやく退けた、あるいは淵へと封印したはずの、古き邪神たちの腐敗した残滓にも似た、だがそれよりも遥かに純粋で、洗練され、頂点に君臨する「捕食者の気配」が混じっている。
ウェンティの指先が、弦の上で激しく、痙攣するように震えた。
彼の透き通るような緑色の瞳が、極限まで大きく見開かれる。
(……あり得ない。セレスティアの監視を嘲笑い、これほどまでに強大で、完成された『意志』が、直接このモンドに降り立つなんて。これは、どこから来た? 暗黒の外海か、それとも、失われた古の国の影か? いや、それらよりもずっと遠い……星の向こう側からか?)
彼の脳内には、数千年前の魔神戦争の最中、血と泥に塗れた戦場を無我夢中で駆け抜けた記憶が火花のように散る。あの時の、終わりの見えない殺戮、耳を劈く叫び、そして最愛の友との、二度と埋まらない別れ。それら全ての苦い、忘れたはずの記憶が、今、目の前の空気を支配する異質な気配によって、鋭い刃でえぐり出されるように呼び起こされていた。
ウェンティは、浅くなっていた呼吸を一度深く整えようとするが、肺に入るのは死の沈黙を帯びた、鉛のように重苦しい大気だった。
彼の白い頬を、一筋の冷たい汗が伝う。
心臓が不規則に、だが胸を突き破るほど力強く脈打つ。神としての本能が、全身の神経をかつてないほど鋭利に研ぎ澄ませ、この場で敵対すべきか、それとも風となって隠れるべきかを、狂おしいほどに問いかけていた。
彼は視線を、モンド城を囲むシードル湖の向こう側、風立ちの地の古木の方角へと向けた。
肉眼には、何一つ変化はない。
だが、風だけが知っている。世界が、その中心をそこに定めたかのように撓んでいるのを。
そこには今、一人の「男」が、重力と因果をその身に纏って立っている。
トップハットを被り、長い外套を翻し、片手には血の匂いを吸い込んだ無骨な杖を握り、この世界の風景を「美しい」とさえ感じながら、悠然と、だが確実に大地を踏みしめて歩みを進めている――異形なる、再誕した上位者が。
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数分後。
いや、人々にとっては永遠にも感じられた、呼吸の仕方を忘れた「十秒間」の悪夢が去った。
広場に再び、いつもの軽やかな風が吹き始め、陽光は本来の柔らかい温かみを取り戻す。
「……え? ああ……」
籠を落としたパン屋の商人が、深い水底から浮上したかのように、大きく瞬きをする。
掌は冷たい汗でびっしょりと濡れ、膝の震えが自分では制御できないほどに続いている。彼はゆっくりと、首の関節を軋ませながら周囲に向けた。
隣の八百屋の主人は、腰を抜かしたまま地面に座り込み、虚空を見つめて口をパクパクと動かしている。
大聖堂の方角からは、シスターたちの祈るような呻き声と、何かが壊れるような音が、微かに、震えを帯びて聞こえてくる。
誰もが、今起こったことが単なる幻覚ではないと確信していた。だが、目の前にあるのは、不変の、あまりにも平和なモンドの昼下がりの風景だ。
噴水の澄んだ水音。遠くで鳴く鳥のさえずり。風車の回る微かな軋み。
(何だったんだ、今の夢は……。みんな、同じ顔をしている。顔が青ざめて、脂汗をかいて……まさか、私だけではないのか? 街全体が、毒に冒されたのか?)
商人は、震える手で地面に散らばったパンを拾おうとしたが、指先に感覚が戻っておらず、何度もパンを石畳の上で転がした。そのたびに、湿った土の匂いと小麦の香りが鼻を突き、彼を残酷なほど平和な現実へと引き戻す。
周囲の人々が、一人、また一人と、震える声で、確認し合うように言葉を交わし始める。
「お前も、見たのか……あの眼のような月を」
「ああ、冷たくて、恐ろしい、全てを見透かされるような青ざめた月を……」
モンド城は、かつてない静かなパニックに包まれようとしていた。しかしそれは、目に見える破壊がないゆえの、より内省的で深い不安の始まりだった。
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翌朝。
太陽が再び東から昇り、モンドの街角には普段通りの活気が、まるであの悪夢などなかったかのように戻りつつあった。
しかし、住人たちの会話の端々には、昨日の出来事が澱のように残っていた。
「いやあ、驚いたね。サラさんの店でも、騎士団の詰め所でも、みんなその話さ。全員が同じ日に同じ悪夢を見るなんて、デカい地震の前触れか、それとも誰かが変な薬草でも焚いたのか」
噴水の前で、一人の騎士がぎこちなく笑いながら、同僚と肩を叩き合っている。
彼の目はまだ微かに赤く充血しており、昨夜はろくに眠れず、暗闇を凝視し続けていたことを示唆しているが、言葉だけは努めて明るく、軽薄に振る舞っている。
人は、あまりにも強大で説明のつかない恐怖に直面すると、それを日常の一部として無理やり解釈し、矮小化しようとする。それが正気を保ち、生存するための、魂の防衛本能だ。
一晩明け、特に天変地異も起こらず、魔物の異常な襲撃も報告されなかったことから、人々は次第に「あれは奇妙な集団幻覚だった」と笑い飛ばす方向に、無意識のうちに流れ始めていた。
「神様が、ちょっとお戯れになられたのかもな。ほら、風の神様はいたずらが大好きだって言うし。きっと僕たちを驚かせたかったのさ」
「全くだ、笑い話にしてしまおうぜ。次の祭りのネタにでもすればいい」
そんな住人たちの、必死に平和を繋ぎ止めようとする楽観的な笑い声を、大聖堂のバルコニーから、冷たい石の縁を握り締めて見下ろしている少年がいた。
ウェンティだ。
彼は昨夜から一度も目を閉じていなかった。まどろみの中へ沈もうとすれば、あの青ざめた影が夢の入り口を塞いでいるのを感じるからだ。
彼の細い指先は、今も微かに震え続けている。
ライアーの弦に触れるたび、あの「青ざめた血」の意志が、清らかな風の旋律を切り裂いて不協和音を奏でるような気がしてならない。
(みんな、忘れてしまいたいんだね。それでいい、それがモンドの自由であり、たくましさだ……。でも、忘れても、無かったことにはならないんだよ)
彼は視線を、城壁を越え、郊外の果てしない緑の平原へと向けた。
そこから流れてくる風の中に、彼は確かに感じていた。
新緑の清々しい匂いでも、花の芳香でも、あるいは朝露の湿り気でもない。
深く、重く、宇宙の深淵からそのまま抽出してきたような、冷たくて、それでいてどこか「品定め」をするような他者の視線を。
悪夢の主は、去っていない。それどころか、この地の空気に馴染み始めている。
彼はただ、そこで陽光を浴び、風景を楽しみ、自身の「変革」を待つための、穏やかな休息をしているだけなのだ。
ウェンティは、左の掌を自身の胸に強く当て、狂おしいほどに高鳴り続ける心臓を静めようと、何度も深く、そして震える浅い呼吸を繰り返した。