指先の腹が、夕刻の光を透かす夕暮れの実の皮に触れた。
果実の表面は陽光の余熱を吸って微かに温かく、産毛のような繊細な凹凸が指紋の溝を心地よく刺激する。私はそれをゆっくりと持ち上げ、鼻先へと近づけた。鼻腔を抜けるのは、煮え立つ砂糖のような濃密な甘味と、死臭を一切含まない無垢な土の芳香、そして風が運んできた野生の草花の香りだ。それはヤーナムの、鉄錆と凝固した血、そして腐敗した内臓が混ざり合った、常に死を予感させる重苦しい空気とは対極にある、あまりにも無防備で、純粋な「生」の匂いだった。
私は、左手に握った無骨な仕込み杖を、傍らの巨木へと立てかけた。
カチリ、と冷徹な鋼の歯車が噛み合う音が、風立ちの地の柔らかな静寂を鋭く切り裂く。その音の反響は、ヤーナムの凍てつく地下迷宮で聞いた死の宣告にも似た冷徹な響きとは異なり、波打つ柔らかな草の海へと吸い込まれ、吸音材に触れたかのように静かに消えていった。私は、長い外套の裾を慎重に捌きながら、適度な湿り気を帯びた地面へと腰を下ろす。
お尻の下で、青々と茂った健康的な草が押し潰される瑞々しい音がする。
(この世界の土は、なんと柔らかく、温かいのだろうか。数センチ掘り返したところで、指先に触れるのは貪欲な生命の胎動だけであり、呪われた死の指先が這い出してくる気配すら微塵もない。古い死者の指先も、呪われた遺物も、怨嗟を蓄えた黒い結晶も出てこない。ただ、無垢な大地がそこに在る)
私は脳内で、かつて医療教会の中枢、あるいは聖歌隊の祭壇で目にした、石のように硬く、どす黒い血に汚染された大地の感触を反芻していた。あの場所では、土さえもが狂気に侵され、触れる者に死の腐食を伝播させていたが、このモンドという土地は、まるで見知らぬ慈悲深い神の愛を一方的に受け続けている子供のように健やかで、どこまでも無防備だ。
私は夕暮れの実を口元へ運び、擬態した白く鋭い歯を、その柔らかな果肉へと立てた。
パチン、と薄い皮が弾ける繊細な感触が顎の関節に伝わり、瞬時に溢れ出した黄金色の果汁が舌の上を暴力的なまでに瑞々しく駆け巡る。
甘い。
その甘さは、かつて輸血の際に感じた、脳を焼くような強烈な多幸感や、狂的な興奮を呼び覚ます嗜好品のそれではなく、緩やかに神経の末端を弛緩させていく、穏やかで高貴な滋味だった。私は咀醸を一つ、また一つと、この「生」を確認するように丁寧に行う。喉の奥を通り過ぎる液体の冷たさが、肺の奥底に淀んでいた「夢」の残滓や、悪夢の残り香を僅かに洗い流していくような気がした。
心拍は、驚くほど一定の、平穏な速さを保っている。
ヤーナムの夜、常に死神と肩を並べて綱渡りをしていたあの頃、心臓は狂った機械のように胸壁を叩き、全身の血管は限界まで高められた水圧に耐えかねた古いパイプのように悲鳴を上げて軋んでいた。だが今は、胸腔の奥深くで、静かな湖面を揺らす微かな波紋のような、深く穏やかな拍動が刻まれている。
私は、視線を前方、沈みゆく太陽の残滓へと向けた。
空は、薄紫色から深い藍色へと、静かなグラデーションを描きながら溶け合っている。
視界の端で、一匹の蛍が淡い緑色の光を断続的に放ちながら、気まぐれな風に煽られて不規則な軌跡を描いた。私はその小さな光の点滅を、水晶体のピントを細かく調整しながら、眼球をゆっくりとスライドさせて追った。多層的に重なり合う真実の風景の中から、人間という矮小な器が受容できる光学的情報をあえて選別し、私の脳内へと逆流させていく。
(……美しい、な。この光景を眺めるために、私はどれほどの代価を支払うべきなのだろうか。あるいは、既に支払ったあとの報酬なのだろうか)
自問自答は、形を成す前に、唇から漏れる微かな白濁した溜息となって消えた。
私は、右足の膝をゆっくりと立て、その上に重厚な革の手袋に包まれた右腕を置いた。
指先が、外套の厚手の布地を無意識のうちになぞる。布の繊維一つひとつの織り目、そこに付着した僅かな砂粒の感触さえもが、研ぎ澄まされた神経を通して脳へとダイレクトに伝達される。
不意に、周囲を流れる風の向きが変わった.
それは気圧の変化による自然な変化ではなく、まるで大気が明確な意志を持って私の周囲を避け、あるいは検閲するように包み込もうとする、物理法則を僅かに無視した異質な挙動だった。
背筋を、一筋の鋭利な氷の破片が駆け抜けるような冷気が通り抜ける。
皮膚の産毛が一本残らず逆立ち、毛穴が収縮する。私の身体の防衛本能が、穏やかな休息モードから、一瞬にして捕食者に対する警戒体制へとシフトしようとしていた。呼吸が、周囲に悟られぬほど深く、そして極めて静かな、獲物の心音を数える「狩人」のそれへと切り替わる。
私は、視線を前方から動かさぬまま、全神経を背後の空間、死角となる領域へと集中させた。
カサリ、と、足元の枯れ葉が踏まれる音がした。
それは極めて軽く、重力から解き放たれた鳥が枝に降り立つような、物理的な質量をほとんど感じさせない、空気を震わせるだけの音だった。
続いて、鼻腔を掠めたのは、新緑の清々しい匂いと、どこか懐かしい古びた弦楽器の乾燥した木の匂い。そして……数千年の時をかけて洗練され、醸造されたような、神聖で、それでいてひどく軽やかな「風の意志」が放つ芳香。
「……こんなところでピクニックかい? 旅人さん。あるいは、モンドに悪夢を運んできた主さん、と呼ぶべきかな」
背後から響いたのは、少年のように高く澄んだ、だが氷の芯を包み込んだような冷徹な響きを湛えた声だった。
私は、右手に持っていた夕暮れの実の食べ残しを、ゆっくりと地面に置いた。
指先から果実が離れるその瞬間まで、私の意識は指の腹に残る果汁の僅かなベタつきと、それが夕風にさらされて急激に熱を奪われていく感覚を鮮明に捉えていた。
私は、逃げることも隠れることもせず、ゆっくりと、しかし確実に首を巡らせた。
視線の移動は、数ミリ単位で周囲の全情報をスキャンしていく。
夕闇に沈む草を食む風の揺れ。巨木の根に這う湿った苔の質感。そして、そこに音もなく佇む少年の姿。
彼は、緑色のケープを夕風に鮮やかに翻し、白いストッキングに包まれた足を軽く交叉させて立っていた。その瞳は、深まりゆく夕闇の中でエメラルドのように怪しく発光し、私の存在の根源を、擬態した皮膚の下に潜む上位者としての魂の質量を、冷徹に品定めするように見つめている。
ウェンティ。
かつて先代が記憶の片隅に、あるいは存在の影に追いやっていた、この世界の「風」を統べる神の一柱。
私は、右手を地面につき、太腿の筋肉を慎重に緊張させて、腰を浮かせてゆっくりと立ち上がった。
大腿四頭筋が収縮し、脊椎が最下部から一つずつ、垂直に積み重なっていく感覚。私の視界が、少年の位置よりも遥かに高く、圧倒的な高みへと移り変わっていく。
心拍が、一拍だけ、警告を鳴らすように強く打たれた。
(……やはり、来たか。もっと早い段階で介入されると思っていたが、案外、この世界の神は慎重、あるいは臆病らしい。それとも、私の持ち込んだ『毒』が、この地の風に十分に馴染むのを待っていたのか?)
私は脳内で、ヤーナムの地下深く、嘆きの祭壇で対峙したエーブリエタースの、星の輝きに似た底知れぬ殺気を思い出していた。あの時の、絶望と狂気が幾層にも重なり合った、血塗られた死闘。目の前の少年は、それとは全く異なる性質を持ちながらも、同等の、あるいはそれ以上に巨大な「世界の理」そのものをその小さな肩に背負っている。
私は、木に立てかけていた仕込み杖を、吸い付くような動作で手に取った。
手のひらに馴染む、冷たく、無骨な金属の鈍い感触。それは私の身体の延長であり、この未知の世界における唯一の、そして不変の拠り所だ。私は杖を地面につき、少年の宝石のような視線を真っ向から受け止めた。
「……挨拶にしては、少々物騒で詩的すぎる呼び方だな。私はただ、この風光明媚な景色を静かに楽しんでいたに過ぎない。この地の美しさは、余所者にとっては何よりの毒になる」
私の声は、冷え込み始めた夜の風に乗って、周囲の木々を揺らしながら静かに広がった。
肺から押し出された空気は、擬態した咽頭を微細に振動させ、この世界の共通語へと変換される。
ウェンティは、ふわりと浮かぶような足取りで、一歩だけ前に進み出た。
彼の靴が地面に着くとき、周囲の風が彼を祝福し、あるいは守護するように小さな渦を巻いた。
「景色を楽しむだけ、ねえ。君のその『楽しみ』のせいで、モンドの街は昨夜からひどいパニックなんだよ。みんな、生きた心地がしないほど濃密な悪夢を見て、夜が明けた今も震えているんだ。……風の神として、そんな不穏な空気を纏った旅人を、黙って見過ごすわけにはいかないだろう?」
彼の声は、柔らかな歌を奏でるような響きを保ちながらも、その言葉の一つひとつが周囲の気流を凍りつかせ、見えない檻のように私の全身を縛り上げ始めた。
私は、杖を握る右手の力を僅かに緩め、親指で杖の頭にある装飾を優しくなぞった。
指の腹を伝わる、無数の戦いを潜り抜けてきた傷跡や凹凸の感触。
私の脳内では、この少年の「力」の正体を探るための演算が、上位者の叡智によって火花を散らすほどの速度で展開されていた。
(風、か。形なき刃であり、全方位からの圧力、あるいは真空。この世界においては絶対的な理だが、宇宙の深淵、星々の間の静寂から見れば……。いや、今はまだ敵対する時ではないな。私は、まだこの世界の『味』を、その芯まで理解していない)
私は、ゆっくりと、白濁した呼吸を吐き出した。
鼻から抜ける空気は体温を宿して温かく、外界の冷えた空気と混ざり合って、擬態の証拠である僅かな白さを夜の帳に刻む。
私は、あえて少しだけ、肩の力を抜いて無防備な姿勢を演じてみせた。
「……悪夢、か。それは私の意図するところではないな。私はただ、かつての過酷で、終わりのない夜から逃れ、この地で穏やかに過ごしたいだけなのだ。……いわば、遊びに来た、と言い換えてもいい。神が子供の遊びを禁止するほど、狭量ではないことを願うが」
私は、少年の瞳の奥にある、神としての「揺るぎない義務感」と、未知なる上位者に対する「根源的な恐れ」の混じり合った複雑な揺らぎを、じっと見つめ続けた。