狩人のテイワット観光記   作:教頭

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第一話:第3章「血の契約と天使の分け前」

 ウェンティの瞳が、エメラルドの輝きを増しながら、私の全身を走査するように僅かに細められた。

 

 彼の睫毛の一本一本が、夕闇に溶けゆく月の光を反射して白銀の糸のように輝いている。その虹彩の深部で、モンドの全方位から集まった風の粒子が、複雑な幾何学模様を描いて渦巻いているのを私は視神経の限界を超えて知覚していた。

 

 私の鼻腔を、不意に強まった夜風が吹き抜ける。そこには、モンドの草原が放つ生命の芳香だけでなく、神聖な権能が帯びる微かなオゾンの匂いが混じっていた。それはヤーナムで嗅いだ、落雷の後に残る焦げた大気の臭いとは異なり、どこまでも清廉で、暴力的なまでに純粋な秩序の香りだった。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 ウェンティが、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

 その指先は驚くほど白く、細く、まるで繊細な工芸品のようだったが、彼が動くたびに周囲の大気が物理的な軋みを上げて歪むのを私は肌表面の細胞一つひとつで感じ取っていた。

 

「……遊びに来た、か。君のその『遊び』には、僕たちの世界の理を壊してしまうほどの、あまりに冷たくて濃密な『血』の匂いが混じっているんだよ」

 

 彼の声は、肺から押し出された空気と共に、私の頬を冷たく、刃物のように鋭く撫でた。

 

 その呼気には、この世界特有の澄み切った魔力の残り香が含まれており、それが私の鼻腔を抜けるたびに、擬態した内臓が僅かな拒絶反応――本物の人間であれば嘔吐を催すような、異物への過剰な感応――を示した。胃の深部が、冷たい絶対零度の氷の塊を呑み込んだかのように重く、鈍く沈んでいく。

 

 私は、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 暗闇の中で、上位者の心拍が一度だけ、深く、重く響く。ドクン、というその拍動は、ヤーナムの地下に眠る上位者たちが交わす、時空を越えた交信にも似た重厚な質量を伴い、私の耳朶を内側から叩いた。

 

(……世界の理。この少年は、この箱庭に敷かれた『秩序』を守るための執行官に過ぎないのか。それとも、この微かな震えは彼自身の魂が発している恐怖なのか)

 

 私は自問自答しながら、網膜に残る緑の残光を振り払い、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 

 瞳の焦点を、ウェンティの眉間の僅かな皺へと合わせる。彼の表情には、神としての絶対的な威厳と、一人の少年としての割り切れない戸惑いが、複雑に混ざり合って濃い影を落としている。

 

 ウェンティは、ふわりと地面から数センチだけ身体を浮かせ、私との距離を一定に保ったまま横にスライドするように移動した。

 

 彼の移動に伴い、足元の草が風に押し流されるザザ、という微かな音が連続して響く。その動きに合わせ、私は眼球だけを動かし、彼の頸動脈の拍動と、ケープの下に隠された筋肉の弛緩状態を克明に記録し続けた。

 

「このまま君が勝手に振る舞い続けるなら、僕は『風の神』として君を拒絶しなきゃいけない。でも……」

 

 彼は言葉を切り、空中に指で透明な円を描いた。

 

 その指先の軌跡に合わせて、大気中の水分が凝集し、淡い光を放つ紋章のようなものが一瞬だけ浮かび上がっては霧散する。湿り気を帯びた冷たい空気が、私の頬を優しく叩く。

 

「……僕は争いが嫌いだし、何より君の瞳の奥にある『疲れ』が、ただの破壊者とは違うって言ってる気がするんだ。だから、ここで一つ、僕と『契約』を結ばないかい?」

 

 「契約」という言葉が発せられた瞬間、周囲の風がピタリと止まった。

 

 あまりの静寂に、自分の肺が空気を吸い込む際のシュウ、という微かな摩擦音さえもが、静まり返った草原に不自然に大きく響く。心臓の鼓動が、一段と重く、規則正しく胸壁を打つ。

 

 私は、手に持った杖を垂直に立て直し、石突が地面の湿った土を僅かに抉る、そのミクロな感触を手のひらの皮一枚を通して楽しんだ。土の抵抗、潰れる草の繊維の弾力、微小な石の硬度。それら全てが、私の知覚の網にかかる。

 

「ならば、その神聖な秩序とやらに従おうではないか。私は無意味な破壊や殺戮を望むほど、野蛮な狩人ではない。……君の言う、その『契約』を聞かせてもらおうか、風の神」

 

 私の言葉が、夜の帳を僅かに揺らしながら、ウェンティの耳へと波紋のように届く。

 

 彼は、僅かに肩の力を抜いた。彼の胸元で揺れる飾りが、昇り始めた月の光を反射して、チカチカと鋭い青白い光を放つ。その光が私の視神経を刺激し、脳裏に過去の夢の断片――降り注ぐ血の星々、赤く濡れた月の残像、断頭台の軋み――を不意に呼び起こした。

 

 ウェンティは、再び地面を力強く踏みしめた。

 

 彼の足元の草の茎が折れる、プチ、という微細な音が、私の鋭敏な聴覚に克明に拾われる。その音の振動は、地面を通じて私のブーツの底へと伝わってきた。

 

「契約は一つだけだよ。……善良なモンド人には、決して手を出さないこと。彼らは僕が愛し、自由であることを許された子供たちだ。それを守ると誓うなら、君がこの地で何をしようと、僕は風として君の隣を通り過ぎるだけに留めるよ」

 

 彼の瞳が、真剣な光を一段と増した。その視線の圧力は、ヤーナムの大聖堂に満ちていた、あの狂信的な祈りの重圧にさえ匹敵する。私の肌を直接刺すような緊張感が、全身の産毛を逆立たせる。

 

 私は、杖を握る手に僅かに力を込めた。

 

 革の手袋が軋み、指関節が小さく、小枝を折るような音で鳴る。

 

(……善良な、か。その定義は誰が決める? この神か、それとも不完全な人間の法か。ヤーナムでは、善良さなどという脆い幻は、最初の月の出と共に消え去り、獣の咆哮の中に埋没したというのに)

 

 私は内心でその甘美な皮肉を笑い飛ばし、あえて挑発するように、ゆっくりと、蛇が鎌首をもたげるような動作で口角を上げた。

 

「……善良でないのなら、好きにして良いのか? 悪意に満ち、自らの欲望に塗れた者までも、君の温かな加護の下にあるわけではあるまい。それら『獲物』を仕留めることは、君の理に反するか?」

 

 私の言葉と共に、周囲の気温が一段階、明確に下がったような錯覚を覚える。

 

 ウェンティの身体が、微かに、目に見えないほど細かく震えた。それは冷気による震えではなく、私の言葉の裏に潜む、この世界の理では計測不能な「底知れぬ深淵」を垣間見てしまった、生物としての根源的な忌避感によるものだろう。

 

 彼は大きく、深い、重々しい溜息を吐いた。

 

 その呼吸に乗って、彼の魔力が周囲の大気を鎮めるように、穏やかな波紋を描いて広がっていく。私の肌に触れる空気が、棘を含んだ風から、湿り気を帯びた柔らかな夜霧へと変化した。

 

「……本当は、一切の手出しを禁じたいところなんだけどね。でも、そこまで言ったら、君は僕と契約を結んでくれないだろう? 君のような、星を越えてきた異邦人は、常に等価の『対価』を求めるものだから。……それ以上の譲歩はできないよ」

 

 ウェンティは、困ったような、だがどこか親愛の情を込めた苦笑を浮かべながら首を振った。

 

 彼の髪の房が夜風に揺れ、その先端が微かに青光を放つ。私はその光の推移を、まばたきを一つもせずに、水晶体の動きだけで追った。

 

「……契約成立だ、風の神。私は自由を愛する。君の愛する子供たちをわざわざ傷つけることに、今のところ興味はない」

 

 私は、右手を胸に当て、ヤーナムの古い儀礼に基づいた、エレガントな仕草で一礼した。

 

 腰を曲げる動作に伴い、外套の革が擦れる低い音が、周囲の草のざわめきと混ざり合う。私の視界が一時的に地面の草の根元へと下がり、そこに這う小さな虫が、節足で地面を叩く微かな振動までもが、研ぎ澄まされた知覚の網にかかる。

 

 立ち上がると、ウェンティの表情から、刺すような鋭い警戒の色が僅かに消えていた。

 

「よかった。……それなら、君を歓迎するよ。……一応はね、旅人さん」

 

 彼はそう言って、くるりと背を向けようとして、ふと思い出したように踵を止めた。

 

 彼の右足が、地面の土を僅かに後ろへと蹴り出す。

 

 私は、その僅かな隙を見逃さなかった。彼の重心が不安定になり、神としての鎧が僅かに綻んだ瞬間、私の知覚は反射的に、彼の首筋にある透き通った頸動脈の、神聖な脈動を捉えた。一突きで、この理の具現を仕留められる――そんな狩人の本能が、脊髄を焼くような熱を伴って駆け巡るが、私はそれを鋼の意志で、深い淵の底へと押し込めた。

 

「……せっかくだ、風の神。君の推奨する、この世界の『味』を教えてくれないか。私は、美味しい場所に飢えているのだよ。この空腹を埋めるのも、旅の目的の一つだ」

 

 私は、無機質な仕込み杖を再び地面につき、少年の背中に向けて、親愛を装った低い声で問いかけた。

 

 ウェンティは、一瞬だけ動きを止め、驚いたように細い肩を小さく揺らした。

 

 彼がゆっくりと、月明かりを背負ってこちらを振り返る。

 

 その瞳は大きく見開かれ、宝石のようなエメラルドの輝きが、夜闇の中で一際強く瞬いた。

 

「……え? あ、……あはは! 君、本当に面白いね。悪夢の主が最初にする質問がそれかい?」

 

 彼は堪えきれないといった様子で、屈託のない、幼子のような笑い声を上げた。

 

 その笑い声は、モンドの草原を吹き抜ける、透明な風そのもののように軽やかで、一瞬前までの張り詰めた死闘の予感を、鮮やかに、残酷なほどあっさりと打ち消していく。私の胸腔に溜まっていた重苦しい圧迫感が、その声と共に僅かに緩和され、肺に新鮮な酸素が流れ込む。

 

 私は、彼の笑い声の残響が、大気中に溶けて拡散していく過程を、耳の奥でじっと聴き取っていた。

 

「そうだね、それなら……『エンジェルズシェア』に行くといいよ。モンド城で一番美味しいお酒と、最高の雰囲気が楽しめる場所さ。……僕も、時々そこで喉を鳴らしているからね」

 

 ウェンティは、茶目っ気たっぷりに、右の瞼を閉じてウインクをしてみせた。

 

 彼のまぶたが閉じる一瞬の間、その睫毛の影が彼の頬に落ち、短い暗闇を作る。

 

 彼はそのまま、ふわりと重力を無視して身体を浮かかせると、一陣の清風となって、深い夜の闇の中へと消え去っていった。

 

 残されたのは、草がそよぐ静かな音と、鼻腔に残る甘いセシリアの花の香り、そして、私の掌に残る仕込み杖の、冷たくて確かな、無機質な重みだけだった。

 

 私は、彼が去った方向の空間を、数秒間、瞳孔を開いたまま、網膜に焼き付いた緑の残像を見つめ続けた。残像が次第に夜の闇に呑まれ、消えていく。

 

 私は、一歩を踏み出した。

 

 右足のブーツが、湿った土を力強く、確信を持って踏みしめる。ギュ、という古い革の軋みと、土が崩れる抵抗。その感触を脳に刻みながら、私はゆっくりと、モンド城の灯火が星々のように揺れる方向へと、歩調を速めていった。

 

(エンジェルズシェア……。天使の分け前、か。狩人の報酬としては、悪くない名前だな)

 

 自問自答の声は、冷たくなり始めた夜風にかき消され、私はただ、暗闇の中に揺れる文明の光へと視線を固定し、規則的な呼吸を繰り返しながら進んでいった。

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