狩人のテイワット観光記   作:教頭

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第一話:第4章「冒険者協会と黄金の価値」

 天高くに位置する太陽が、モンドの赤い屋根瓦を白く焼き、石畳からは陽炎が立ち昇っていた。

 

 私はウェンティに教えられた通り、「エンジェルズシェア」の看板を掲げた重厚な木造建築の前に立っていた。昼時ということもあり、周囲の路地からは活気ある市民の笑い声や、荷馬車が石畳を叩くリズミカルな音が響いている。だが、この建物の周囲だけは、まるで時間の流れが凝固したかのような、排他的な静寂が漂っていた。

 

 鼻腔を掠めたのは、磨き上げられた木材の匂いと、太陽の熱に煽られて微かに漏れ聞こえる、地下室の冷気を含んだ発酵葡萄の残り香だ。それはモンドの豊穣を象徴する甘やかな香りだが、同時にどこかアルコール特有の、神経を麻痺させるような鋭さを含んでいる。

 

 私は、真鍮製のドアノブに触れた。指先を伝わる、灼熱の陽光を浴びてもなお失われない冷徹な金属の質感。だが、それを回そうとしても、ノブは頑強な抵抗を見せ、硬質な金属音を小さく立てるだけで動かなかった。私の聴覚は、扉の奥から響く「無音」を捉えていた。人の気配も、グラスが触れ合う音も、酒場特有の喧騒も、そこには一切存在しない。

 

(……昼間は営業していないのか。神が勧める場所にしては、あまりにも排他的な拒絶だな。あるいは、この世界の『天使』たちは、太陽の光を忌避する夜の住人とでもいうのか)

 

 私は脳内で、ヤーナムのオドンの教会付近にあった、常に閉ざされた民家の扉を思い出していた。あの場所では、扉の向こう側から聞こえるのは住人の啜り泣きか、あるいは獣へと変わりゆく断末魔の唸りだけだった。この静寂はそれに比べれば遥かに慈悲深いが、拒絶の重みは同質のものだ。

 

 胃の深部が、不意に捩れるような不快感を訴えた。それは擬態した肉体が発する、生存のための生理的な警告。昼の陽光の下で、私の感覚はより鋭敏になり、空腹という名の「空虚」が、存在の輪郭を削り取るように鮮明に浮き彫りになる。血管を流れる血液が、かつての輸血による多幸感を失い、ただの生理的な液体として冷たく循環している感覚。

 

 私は通りを数歩進み、路地裏で香ばしい肉の匂いを漂わせている屋台へと視線を向けた。鉄板の上で脂が弾けるパチパチという細かな音、立ち昇る白い湯気、食欲を暴力的に刺激するスパイスの芳香。店主が陽気に振るうトングの金属音さえも、今の私には神経を逆撫でするノイズでしかない。私は無意識のうちに懐へ手を差し入れ、そこで指先が、本来あるべき重みを持たない「無」に触れた瞬間に動きを止めた。

 

 この世界の通貨。モラ。私はそれを、一銭も持ち合わせていなかった。

 

 指先の腹が、外套の裏地の冷たい感触だけを空しくなぞる。心拍が、一拍だけ、自嘲気味に強く打たれた。

 

(……狩りには報酬が必要だ。そして、その報酬を受け取るための『場』も。力があってもパンの一切れさえ買えないというのは、ヤーナムの夢よりも残酷な冗談だな)

 

 私は踵を返し、大通りに面した一軒の貴金属店へと足を向けた。石畳を叩くブーツの音だけが、私の存在をこの街に繋ぎ止める唯一の証明のように響く。

 

 店内に漂うのは、磨かれた銀の冷たい匂いと、高級な香木の煙だ。カウンターの奥に座る店主が、眼鏡を押し上げながら私を見た。私は無言のまま、懐から一握りの「輝く硬貨」を取り出した。ヤーナムの深淵で道標として用いられたその遺物は、ありふれた金や銀の合金でありながら、特殊な研磨により虹色のスペクトルを放っている。

 

 カウンターに置かれた瞬間の、チャリンという澄んだ音。店主の呼吸が止まり、彼の瞳孔がその異様な多色性の輝きを求めて極限まで見開かれるのを、私は冷めた目で見つめていた。店主の指先が、その名状しがたい光沢を放つ金銀の塊に触れるのを躊躇うように震えている。

 

 結果として、私は革袋がはち切れんばかりの膨大なモラを手に入れた。

 

 だが、その重みを感じながら店を出た私の脳内では、冷徹な理性が警告を鳴らしていた。この重量は、そのまま私に対する「疑念」の重さへと変換されかねない。

 

(……まずいな。これは『多すぎる』。出所不明の金貨、それも見たこともない意匠の貴金属を一度にこれほど換金すれば、遠からずこの街の治安維持機構……西風騎士団だったか、彼らの耳に届く。身元の定まらない異邦人が、突然これほどの大金を手に街を歩き回れば、それは監視の対象になるための招待状を送るようなものだ。平和な街ほど、説明のつかない富を嫌悪するものだ)

 

 叡智は囁く。社会という巨大な機構の中で自由を保つためには、その歯車の一部として正当に機能しているという「擬態」が必要だ。正体が知れぬままでは、いずれ袋小路に追い詰められる。

 

(客観的に稼いでいるという実績、そしてこの金に正当な理由を与えるための『肩書き』を用意しなければならない。ただの浮浪者(バガボンド)ではなく、剣を振るうことで対価を得る、公認の狩人(ハンター)としての立場をな。労働という名の隠れ蓑が、私の深淵を覆い隠すはずだ)

 

 私は迷わず、広場の一角にある、一際目立つ緑色の受付へと足を向けた。そこには「冒険者協会」という看板が掲げられている。

 

 太陽の光が影を短くし、広場には依頼を求める冒険者たちの喧騒が満ちている。金属製の鎧が擦れる音、地図を広げる紙の音、そして名声と金を求める若者たちの粗野な笑い声。その中心に、彼女はいた。

 

 「星と深淵を目指せ!冒険者協会へようこそ!」

 

 キャサリンという名のその受付嬢から発せられた言葉の周波数は、驚くほど安定しており、人間特有の感情の揺らぎや、喉の疲れによるかすれが一切存在しなかった。私の聴覚は、彼女の胸の奥から響く、極めて小さな「カチ、カチ」という、歯車が精密に噛み合うような音を捉えた。

 

(……同類、か。あるいは、上位者の悪戯か。ヤーナムの工房で私を見守っていたあの人形も、これほどまでに無機質な『義務』を纏っていたのか。それとも、あの白く冷たい指先には、もっと別の、救済に似た何かが宿っていたのだろうか。どちらにせよ、この『人形』は私を裁くことはないだろう)

 

 私は迷うことなく、自らを「流浪の傭兵」と称し、登録の手続きを済ませた。これで、私が手にした大金は「凄腕の冒険者が危険な依頼をこなして得た報酬」という、社会的に受理可能な物語へと変換される準備が整った。真実など、この平和な日向の下では誰も求めていないのだ。

 

 私は、提示された「ヒルチャール討伐」の依頼書を、無機質な眼差しで見つめた。

 

 その瞬間、私の内側に潜む「上位者の叡智」が、その単語の裏側に潜む「真実」を、望まずして引き出してしまう。情報の断片が、脳裏を火花のように駆け巡る。

 

(……ヒルチャール。この世界の先住者。いや、違うな。かつて人間であった者が、神々の理を剥奪され、その尊厳ごと異形の姿へと堕とされた成れの果てか。ヤーナムの獣たちがそうであったように、彼らもまた、逃れられぬ円環の犠牲者というわけか。そして今、私は新しい世界の秩序を守るために、旧い世界の残滓を間引く役を仰せつかったというわけだ)

 

 私は依頼書を手に取り、モンド城の正門へと続く坂道を下り始めた。私の背後で、キャサリンが再び同じフレーズを、全く同じ音程で繰り返すのが聞こえた。

 

 城外の草原。昼の光は依然として強く、木々の影が地面に濃く焼き付いている。

 

 前方の焚き火の周囲で、三体のヒルチャールが耳耳障りな声を上げながら踊っていた。彼らが手にする棍棒が空気を切るシュッ、という音。焚き火の中でパチリと爆ぜる木の爆音。その光景は、一見すれば滑稽な野生の営みに見えるが、私には彼らの纏う「呪い」の臭いだけが際立って感じられた。

 

 私は、仕込み杖の柄を強く握りしめた。革の手袋が軋み、指関節が小さく鳴る。心拍が、戦闘の予感に呼応して、緩やかに、だが一撃が重い「狩人」のリズムへとシフトしていく。肺胞の一つひとが、戦場の空気を取り込むために大きく広がる。

 

 一歩、踏み出す。

 

 草を踏む音は、風のざわめきの中に完全に隠蔽した。私の視覚は、先頭に立つヒルチャールの、仮面の裏に隠された虚ろな瞳の焦点距離までをも正確に測定していた。彼の筋肉の弛緩、呼吸の周期。全てが私の脳内で数値化され、必殺の軌道が描かれる。

 

 刹那、私は仕込み杖を横一閃に振り抜いた。

 

 カチリ、という変形機構の作動音。鋼の節々が伸び、鞭のようにしなって虚空を裂く。銀色の軌跡が太陽の光を乱反射させ、次の瞬間には、先頭のヒルチャールの喉元を正確に断ち切っていた。

 

 だが、その瞬間に私の期待は裏切られ、内側に潜む「狩人」の本能が激しい不快感に身悶えした。

 

 手応えはあった。刃が皮を裂き、気管を断ち、脊椎の隙間に食い込む確かな感触。本来ならば、そこからは沸騰するような熱い紅が噴出し、私の外套を濡らし、鉄錆の芳香が戦場を満たすはずだった。だが、この異形の喉元から溢れ出したのは、生命の証である「血」ではなかった。

 

 傷口から漏れ出たのは、煤のような、あるいは古い記憶の残骸のような、実体のない黒い霧に過ぎない。

 

 崩れ落ちる肉体は、重力に従って地面を叩く前に、その輪郭を急速に失い、光の粒子となって霧散していく。

 

(……血が出ない? 生命の源たる、あの温かな汚辱が。これでは、まるで影を斬っているのと同じではないか)

 

 私は、自身の掌を見つめた。そこには一滴の飛沫も、一筋の紅も付着していない。

 

 狩りとは、血を浴びることで完結する神聖な儀式であり、生命のやり取りを実感するための唯一の手段だ。だが、この世界の「魔物」たちは、死と同時にその存在自体を世界の理(システム)へと返却し、物理的な痕跡を一切残さない。

 

 残る二体が驚愕の声を上げ、棍棒を振り上げる。

 

 私は一歩、後方へスライドするように下がり、攻撃の軌道をミリ単位で回避した。風が頬をかすめ、わずかな熱を奪っていく。

 

(救済でもなく、清掃ですらない。これは、虚無を刈り取っているに等しい。……不愉快だな。ヤーナムの獣たちの方が、まだしもその生に対して誠実だったと言える。彼らは死ぬとき、その恨みも悲しみも、すべてを等しく血の中にぶちまけてくれたのだから)

 

 私は再び杖を振り抜き、円を描くような軌道で二体の生命の糸を、呼吸を整えるよりも早く断ち切った。

 

 結果は同じだった。

 

 静寂が戻る。残されたのは、急速に灰となって崩れていく異形の残骸……それすらも風に吹かれて消え去り、鼻腔に残るのは、不浄な血の匂いではなく、ただの無機質な塵の臭いだけだった。草花がその血を吸うことさえ許されない、あまりにも潔癖で、あまりにも虚しい世界の理。

 

 私は、仕込み杖に付着した「何も存在しない汚れ」を、鋭いスナップを利かせて振り払った。

 

 石畳を汚す黒い染み一つ残らない。私はそれを、隠しきれない不満と共に一瞥し、再びモンド城の灯火へと向かって歩き出した。私の懐には、今や正当な手段で手に入れた「報酬」が、ジャラリと虚しく、連綿と続く悪夢の余韻のように音を立てていた。それは、渇きを癒やすことのできない「乾いた勝利」の証でしかなかった。

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