狩人のテイワット観光記   作:教頭

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バカめ!シリアスは死んだわ!!

ここからは飯テロシーンじゃ!!!


第一話:第5章「狂気の美食と博士の眼差し」

 モンド城の石畳に、夜の帳がしっとりと降り積もっていた。

 

 街灯の放つ淡い琥珀色の光が、私の外套の縁を撫で、背後に長く歪な影を落としている。一歩を踏み出すたびに、右足のブーツが石の凹凸を捉え、革が軋むギュ、という微かな音が、静まり返った路地に反響した。夜風は日中の熱気を運び去り、代わりに湖からの湿り気を帯びた冷たさを運んでくる。鼻腔を突くのは、石が放つ乾いた熱の残り香と、どこか遠くで咲く風車アスターの瑞々しくも淡い香り、そして……目的地から漂い出す、抗い難い「生の予感」だった。

 

 「エンジェルズシェア」。その木製の看板が夜風に揺れ、キィ、という短い金属音を立てている。

 

 私は立ち止まり、その重厚な扉を視線でなぞった。使い込まれた木材の表面には、無数の小さな傷があり、それらが一つひとつの物語を持って、店を訪れた人々の喧騒を記憶している。私はゆっくりと右手を持ち上げ、指先を扉の表面に滑らせた。指の腹を伝わるのは、長年の風雨に耐えた木材のざらつきと、扉の向こう側から伝わってくる微かな、だが力強い振動だ。それは人々の笑い声や、床を叩く足音が合わさった、生命の拍動そのものだった。

 

 心拍が、わずかに早まる。それはかつてヤーナムの路地裏で獣を追っていた時の、獲物の息遣いを感じた瞬間の昂ぶりとは決定的に異なっていた。もっと根源的で、極めて人間的な、そして浅ましいまでの飢餓感。

 

(……天使の分け前。かつてヤーナムで啜ったのは、聖女の祈りを模した煤けた血液か、あるいは狂気に至るための劇薬だった。だが、この扉の向こうにあるのは、純粋な、生者のための快楽なのだろうか。神が民に分かち合うのが『酒』であるならば、この地の神は、かつての医療教会の賢者たちよりも遥かに慈悲深く、あるいは救いようもなく享楽的だ)

 

 私はドアノブを握った。冷たい。真鍮の感触が、掌の体温を急速に奪っていく。

 

 ゆっくりと、自らの境界線を押し広げるように扉を押し開く。

 

 その瞬間、溢れ出したのは、黄金色の暖かな光と、暴力的なまでに豊かな香りの奔流だった。

 

 暖炉で薪が爆ぜるパチパチという軽快な音。数多の酒瓶が触れ合う澄んだクリスタル音。男たちの太い笑い声と、木製のジョッキが分厚いテーブルを叩く鈍い音。それらすべてのノイズが、私の過敏な聴覚を心地よく刺激し、ヤーナムの静寂に慣れきった鼓膜を揺さぶった。鼻腔を満たしたのは、熟成された葡萄の芳醇な残り香と、焼きたてのパンが放つ香ばしい小麦の匂い、そして肉の脂が強火に煽られて焦げる、抗い難い暴力的なまでの芳香だ。

 

 私は、視線をゆっくりと室内に走らせた。

 

 磨き上げられたカウンターの光沢は、油灯の光を反射して深い琥珀色の道を作っている。一歩、店内へ足を踏み入れる。床の板張りが、私の体重を歓迎するように、あるいは警告するように小さく軋んだ。室内の空気はモンドの夜風よりも数度高く、私の頬を優しく、それでいて湿り気を帯びた熱を持って包み込む。

 

 カウンターの奥には、燃えるような赤い髪をした男が立っていた。彼の眼差しは鋭く、まるで客の魂の奥底にある秘密を暴き立てるような、深い静寂を湛えている。

 

「……いらっしゃい。一人か?」

 

 彼の声は低く、よく響く。その声に含まれる微かな警戒心と、接客としての最低限の礼節を、私は彼の網膜の微細な揺れだけで測り取った。

 

「ああ。……風の少年に勧められてな。この街で最も『美味い』場所だと」

 

 私は、あえて低く、それでいてこの平和な空間に調和する知性を混じらせた声で答え、カウンターの隅にある空席へと歩を進めた。椅子を引き、腰を下ろす。木製の座面が、私の肉体の重みをしっかりと受け止める。指先でカウンターの縁をなぞれば、そこには丁寧に手入れされたオイルの滑らかさと、幾千ものグラスが置かれてきた歴史の跡が残っていた。

 

「赤ワインを。それと……この店で最も、生命の味がする料理を」

 

 私がそう告げると、赤い髪の男――ディルックと呼ばれているようだ――は、わずかに、しかし確実に眉を動かした。彼は無言のまま、棚から一本の重厚なボトルを手に取り、慣れた手付きで抜栓した。

 

 ポン、という小気味よい音が、店内の喧騒を一時的に切り裂く。

 

 その瞬間に放たれた、凝縮された太陽の熱と大地の滋味を孕んだ香りに、私の擬態した内臓が激しく波打った。喉の奥が引き攣り、嚥下反応が勝手に促される。

 

 彼は透明なグラスを私の前に置き、滑らかな、無駄のない所作で液体を注ぐ。トクトク、というリズミカルな注ぎ音。液体がグラスの壁面を伝い、渦を巻きながら溜まっていく。照明を反射し、それはまるで溶けたルビー、あるいは美しく精製された「上位者の血」のように輝いていた。

 

 私は、震える指先を抑えながら、そのグラスを慎重に手に取った。

 

 ガラスの冷たさが指を冷やし、透過した赤い光が掌に不気味な斑紋を描き出す。私はグラスを鼻先に寄せ、深く、肺の限界までその香りを吸い込んだ。

 

(……ああ。これは、血ではない。だが、血よりも濃厚に『生』を肯定している。ヤーナムの暗い路地で、死に体となって啜ったあの鉄錆混じりの冷たい液体とは、根源からして違うものだ。あちらが絶望を繋ぎ止めるための延命装置なら、これは生の喜びを爆発させるための火種だ)

 

 私はゆっくりと、その滴を舌の上に落とした。

 

 最初に訪れたのは、葡萄の皮を思わせる柔らかな渋みと、オーク樽の香ばしさ。続いて、熟しきった果実の濃密な甘みが、爆発的な勢いで口腔内の粘膜を駆け巡った。それは熱を帯び、喉を下る瞬間に、私の全身の細胞を一つひとつ叩き起こしていくような、鮮烈な錯覚を覚えさせた。

 

 胃に落ちた瞬間の、腹の底から広がるあの温もり。

 

 私は思わず、深く、長い溜息を吐き出した。私の肺から押し出された空気には、ワインの芳香が混じり、夜の静寂の中に静かに消えていく。

 

 心拍が、ゆったりとした、満ち足りたリズムへと変わる。指先の僅かな震えが止まり、世界が、これまでになく鮮明な、あるいは過剰なまでの色彩を持って私の目に映し出された。

 

「……素晴らしい。これは、救済だ」

 

 私は誰に聞かせるでもなく、低い声で呟いた。それは感謝でも祈りでもなく、ただ圧倒的な事実に対する降伏の言葉だった。

 

 その時、カウンターに一皿の料理が差し出された。

 

 「モンドのステーキ」。分厚い肉の塊が、熱された鉄板の上でいまだジュウジュウと音を立てている。滴る脂が弾け、白い湯気が私の顔を覆い、まつ毛に小さな露を結んだ。私は備え付けの、重厚なナイフを手に取った。

 

 鋼の感触。それは仕込み杖の冷たい柄に似ていたが、今は殺戮のためではなく、享受のためにその力を振るう。

 

 ナイフを肉に突き立てる。ス、と抵抗なく刃が沈み込む。

 

 切り開かれた断面から溢れ出したのは、温かな肉汁と、太陽の光を閉じ込めたような美しいピンク色の質感。

 

 私はそれを一口、口へと運んだ。

 

 咀嚼するたびに、弾力のある肉が歯を押し返し、閉じ込められていた旨味の爆弾が舌の上で弾ける。粗挽きの塩がジャリ、と音を立て、肉の野生的な甘みをさらに引き立てる。その強烈な生命の波動に、私の網膜の裏側で、かつての白黒の夢が強引に色彩を持って塗り替えられていくのを感じた。

 

(……美味い。……ただ、それだけのことだ。だが、この単純な事実が、これほどまでに私の魂を揺さぶるとは。月の魔物が求めても得られなかったものは、この一皿の料理、この一杯の酒の中にこそあったのではないか。我々が求めた『啓蒙』とは、何と空虚なものだったのか)

 

 私は、意識の半分をこの至福に預けながらも、残りの半分で周囲の「影」を監視していた。

 

 店内の賑わいの中に混じる、一筋の冷たい、計算された「視線」。

 

 私を観察している者がいる。それは、酒に酔った市民の好奇心ではなく、解剖医が実験動物を眺めるような、あるいは収集家が珍品を値踏みするような、冷徹で乾いた、人間味を欠いた眼差しだ。その視線が私の背中に触れるたび、狩人の本能が「獲物」ではなく「天敵」の接近を告げて、産毛を逆立たせる。

 

 同時刻、モンド城の北に位置する秘密拠点の一室。

 

 薄暗い部屋の中で、ただ一枚の書類が、緑色の不気味な炎を上げるランプに照らし出されていた。

 

 そこには、昨夜モンドを襲った「集団悪夢」の分析結果が、異常なほど整然とした、機械的な筆致で記されている。被害者の心拍数、瞳孔の反応、発熱の度合い。

 

「……面白い。実にも興味深い。この世界の法則を無視した、未知の神経汚染だ」

 

 革製の手袋を嵌めた指先が、書類の角をゆっくりと、愛しむようになぞる。カサ、という乾いた紙の音が、静寂に包まれた部屋に不気味に響いた。

 

 「博士(ドットーレ)」。

 

 そう呼ばれる男は、椅子の背にもたれかかり、仮面の奥で瞳を細めた。彼の呼吸は極めて浅く、一定で、周囲の空気さえも凍りつかせるような無機質な冷徹さを纏っている。

 

「精神汚染による集団ヒステリーではない。これは、高次元の意識体がこの世界の理に干渉した際、その余波が『夢』という脆弱な回路に漏れ出した結果だ。かつて我々がカ―ンルイアの遺物から抽出した、あの『深淵』の波動に極めて近い。だが、決定的に異なる質量の……より根源的で、混沌とした『何か』が、この街に紛れ込んでいる」

 

 ドットーレは立ち上がり、ゆっくりと窓辺へと歩み寄った。

 

 彼のブーツの踵が、石床を打ち、コツ、コツ、という正確な、死への秒読みのような音を響かせる。

 

 窓の外、遠くに揺れるモンド城の灯火を見つめながら、彼は唇の端を吊り上げた。

 

「七神は気づいているだろう。だが、彼らは守ることに必死で、その正体を解き明かす勇気を持たない。……だが、私は違う。未知の変数は、解析し、分解し、我が血肉とすべきものだ。それがたとえ、世界そのものを書き換えるほどの猛毒であったとしてもな」

 

 彼は右手を空中に掲げ、何か目に見えない獲物を掴み取るように指を曲げた。指関節が小さく鳴る。

 

「部下を向かわせろ。……『特異点』を特定する。必要なら、モンドの一部を実験場に変えても構わん。あの青ざめた月の光が、どのような色に焼けるのか、この目で確かめなければならない。新しい『神』の誕生か、あるいは究極の『素材』の発見か……どちらにせよ、退屈はせずに済みそうだ」

 

 『エンジェルズシェア』のカウンターで、私は最後の一口を飲み干し、グラスを置いた。

 

 カラン、という氷が溶けて崩れる音が、私の脳裏に心地よい、しかし冷徹な終止符を打つ。

 

 私は、背後に潜む「博士」の刺客たちの気配を、皮膚の毛穴一つひとつで感じ取っていた。彼らの殺気は、モンドの夜風よりもずっと、私に馴染みのある「狩場」の匂いをさせていた。鉄と、薬物と、歪んだ意志の匂いだ。

 

(……観光客を歓迎するパーティーとしては、少々騒がしくなりそうだな。だが、腹は満たされた。……さて、次はどの獲物を料理しようか。私の『食事』を邪魔する者には、相応の対価を支払ってもらう必要がある)

 

 私はゆっくりと立ち上がり、カウンターに輝くモラを数枚置いた。硬貨が木に触れるチャリン、という音。私はそれを合図に、再び夜の闇へと、静かな、しかし確かな殺意を秘めた足取りで消えていった。

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