ピュアな心に花束を   作:山田甲八

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この物語は架空のものであり、登場する人名、地名、団体名、組織名、肩書などは、たとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。


一 雨の日曜日

 七月×日、雨の日曜日。

 僕は京王帝都電鉄京王線府中駅の改札前で人を待っている。

 京王帝都電鉄。どこか古めかしい響きだ。

 京王は良い。東京と八王子を結ぶということなのだろう。

 埼玉と東京を結ぶ埼京線、東京と千葉を結ぶ京葉線、八王子と高崎を結ぶ八高線、みんな同じ理屈だ。

 分からないのは帝都の方だ。辞書を引くと「皇居のある都市」とある。わざわざ一鉄道会社の名前にそんな仰々しい言葉を使う必要があるだろうか。

 そんなことを考えながら僕は待ち人が現れるのを待っていたが、約束の午前十時を過ぎても待ち人は現れなかった。

 元来、時間厳守というかせっかちな僕は約束の時間よりもかなり早目に到着しているので随分と長い時間待たされている。

 日曜日のこの時間、普段なら僕はマスクをかぶり、プロテクターとレガースを着けて通っている都立A高校のグラウンドで白球を追いかけているはずである。

 たとえ雨でも、雨なら雨でウエイトトレーニングとか階段昇降とかできることをやっているはずであった。

 それでも今日、部活が休みになったのは全国高等学校野球選手権大会の西東京予選が始まっていて、我が校が予想外に、あるいは予想通りに勝ち進み、開校以来、初めてシード権を獲得した都立高校としては善戦、ベスト4に到達し、次の準決勝を前に少し休んでおいた方が良いだろうとキャプテンの僕が判断したからだった。

 全国高等学校野球選手権大会という野球の大会を知らない人はいないだろう。しかし、「あなたは全国高等学校野球選手権大会を知っていますか?」という質問をすれば、特に野球に興味のない人は「ノー」と答えるかもしれない。

 しかし、「甲子園」あるいは「甲子園大会」と問えば知らない人はいないだろう。どんなに野球音痴であっても。それほどまでに甲子園という言葉は、それこそ比喩として使われるくらい広く人口に膾炙している。

 どんな野球音痴でも知っているのだから野球に興味があり、実際にプレーヤーとして野球に取り組んでいる少年が甲子園に憧れない訳がない。

 そのとおり、野球少年にとって甲子園は憧れの舞台だ。

 野球少年にとっての憧れの最終形はきっとメジャーリーガーとして海を渡ることだろう。

 しかしその夢は壮大過ぎて、同学年に一人出るか出ないか、出ない学年の方がきっと多いだろう。可能性としては宇宙飛行士になるよりはやや高いくらいだ。

 メジャーリーガーより一段低い憧れはプロ野球選手として日本野球機構所属の十二球団のいずれかのユニホームに袖を通すことだ。プロ野球選手を名乗るだけならば独立リーグもあるし、自称プロ野球選手だって不可能ではない。だから十二球団のスカウトの目に留まることには特別の価値があるのだ。

 プロ野球の新人選手選択会議、いわゆるドラフトに指名されるのは毎年、各球団七~八人、十二球団あるから、高卒、大卒、社会人経験者、あるいはプータローと出身者の出口は一つではないが、押しなべて各学年百人くらいの野球少年がプロ野球選手として胸を張れることになる。かなり狭き門だ。

 それよりも低いハードルが甲子園に出場することだ。

 夏の全国大会では四十九の代表校が出場する。一方、ベンチ入りできるのは十八人だ。単純計算すると十八×四十九で八百八十二人が甲子園の土を踏むことができる。春の大会もあるし、連続出場で複数回、すなわち一年次、二年次、三年次と甲子園の土を踏むことができる幸運な球児もいるだろうから、実際には千人超くらいの野球少年がこの夢を果たすのだろう。プロ野球選手よりも広くはなったが、それでもなお狭き門だ。定員三千六十人の東京大学よりも狭き門であることは間違いない。

 だから本当に甲子園を目指す野球少年はそれなりの戦略を練ることになる。戦略の一つは甲子園常連校に進学することである。

 しかし、甲子園常連校の野球部に入るのは簡単ではない。中学時代から相当活躍していないと門前払いだろう。中学時代から相当活躍するためには幼い頃から、それこそおぎゃあと産まれた時から英才教育を受けていなければ難しい。そんなにも小さい頃から英才教育を受けるためには親が野球に熱心でなければならない。

 元プロ野球選手とか、あるいはプロ野球選手を目指したが志半ばで夢破れ、その夢を息子に託す親を持つ球児が圧倒的なアドバンテージを握ることになる。これは別に野球に限らず、政治でも芸能界でもどこの世界でも同じだろう。

 ただ、首尾よく野球部に入れたとしても、例えば部員が百人規模ではレギュラーになることは難しい。控え選手としてベンチに入ることすら困難だろう。

 そこで二つ目の、常連校とは言えないが、それなりに強く、甲子園を目指せるような高校の野球部で頑張るという戦略が取られることになる。

 僕の親は野球に不熱心だったから、僕は必然的にこの二つ目の戦略を取ることになった。

 さらに、僕の親は、まるで貧乏というわけではないけれども、子どもを野球の強い私立高校に通わせることも難しかったから、僕は自らの力量で野球が強く、自宅から通学できる都立高校を探し出し、勉強し、受験し、野球部に入るという戦略を取らざるを得なかった。

 我々の努力で私立高校の実質無償化を勝ち取ったと、とある政治家が声高に叫んでいた。あれを嘘とは言わないけれども、正確性には欠けている。正確性に欠ける理由は「実質」という言葉に解釈の余地があるからだ。

 実際問題として、私立は公立と比較し、授業料以外にお金が出て行く機会が多く、富裕層ではない一般市民にとっては公立の方が安上がりで家計に優しくなっている。だから僕は都立高校に進学したのだ。

 もっとも、これはごくごく普通の高校球児の進む道で、特別なことではない。野球エリート校に進学して、合宿所に入り、青春のほとんどすべてを甲子園に捧げる環境が与えられる方が特別なのだ。

 ただ、エリート球児に比べて随分と後れを取ってしまってはいるが、甲子園への情熱が弱くなっているとは思わない。指導者にも道具にも環境にも恵まれてはいないが、ほぼ野球漬けの毎日を送っていることはエリート校と変わらない。

 

 それでも僕が雨を口実に練習を休みにしたのは、息抜きを、あるいは自分へのご褒美を与えたかったからだ。今日、僕はクラスメートである「彼女」と二人きりで映画を観に行く約束をしていたのだ。

 「彼女」というのは厳密には嘘だ。「彼女」という肩書の特殊な異性の友達か?と問われれば、まだそこまでは到達していないだろう。なんといっても学校の外で、二人きりで何かをしようと計画したのはこの日が初めてだったのだから。

 今日が雨の日曜日となること、しかも、かなりの土砂降りとなることは随分と前から分かっていた。だから休養という名目で部活を休みにすることも随分と前に決めていた。

 彼女に観たい映画があることも、ここから傘をささずに移動できるシネコンにその映画が上映されていることも分かっていた。

 そのチャンスがやって来たのはたまたまだった。たまたま学校で彼女と二人で話している時に映画の話になった。彼女が見たい韓国映画があるのだがマニアックな映画で一緒に観たいという人がいないといった隙を僕は逃さなかった。

「じゃあ、俺と一緒に行く?今度の日曜日は部活休みだし」

 そんなセリフが滑らかに出た。彼女は一瞬躊躇したが、すぐに笑顔になった。それほどまでにも観たい映画だったのだろう。

 僕はウキウキだった。野球部は勝ち進んでいるし、「今が青春!」そんな気分で昨日はユーチューブも見ずに早めに寝たのだ。

 

 彼女のことはいわゆる一目惚れだった。

 この世に一目惚れほどやっかいなものはないのかもしれない。

 彼女に初めて会ったのは、より正確には彼女のことを始めて見たのは、都立高校の入学試験の当日だった。入学試験のその日、彼女と僕は同じ部屋で同じ答案用紙に向かった。

 席は近かったから受験番号は分かったし、視力の良い僕は受験票に書かれている名前すらチェックすることができた。

 一週間後の合格発表の日、自分の番号はもちろん確認したけれども、彼女の番号も確認した。両方とも記載されていた。

 さらに三週間後の新入生説明会の日、仮クラスの発表があった。彼女の名前と僕の名前は同じクラスには記載されていなかった。

 三年生になってようやく同じクラスになったのだが、それまで彼女は僕の存在にまったく気が付かないわけではなかった。

 彼女はソフトボール部に所属していた。僕は一年生の時から野球部で正捕手の座を確保していた。ソフトボール部と野球部は都立高校の狭いグラウンドを巡って競合関係、あるいは共存関係にある。事務的なつながりができ、二年生の後半からはお互いにキャプテンになったので話す機会は格段に増えた。

 そういう状況で三年生になり、同じクラスになったので一緒に行動することも増え、さらに修学旅行では同じ行動班で平和記念公園を散策したり、USJに遊んだりした。さらにUSJではおそろいの耳を付けてツーショット写真を撮ったりもした。

 野球部とソフトボール部のキャプテンということもあり、校内では二人で行動する時間も増えた。傍目には既に相思相愛に見えたかもしれない。そう誤解するクラスメートも何人もいた。事実、「お前の彼女」という言われた方をしたことも何回もあった。

 三年生の夏の予選を勝ち進めたのは案外、彼女の力があったからかもしれない。彼女がいたからここまで頑張れたと言ってもあながち言い過ぎではない。

 

 そしてやってきた雨の日の日曜日。

 電車が到着した音がして、吐き出された乗客がぞろぞろと階段を下り、改札に向かってやって来る。その中に、スマホの画像でだけ見たことのあるツインテールの少女が僕に手を振り、近付いてきた。

「お待たせ~、着る物が決まらなくてさあ。ちょっと遅れちゃった。ゴメンね」

 ツインテールは悪びれずに言い、僕の手を握り、引っ張った。

「ねえ、お兄ちゃん、早く早く!」

 その少女は僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶが、その少女は僕の妹ではない。実の妹ではないことはもちろんのこと、義理の妹ですらない。

「おい、お兄ちゃんというのはやめろよ」

 ツインテールに手を引かれながら僕は静かに抗議した。

「いいじゃない。お姉ちゃんの彼氏ということは、いずれは結婚してあたしの義理のお兄ちゃんになるんだから」

「別に彼氏って訳じゃないよ」

「えっ、まじ!付き合ってもいないのにデートとかおかしいと思うけど」

 妹は少し歩を緩め、僕の方を振り向いた。

「まあ、彼氏というより、彼氏見習いといったところだよ。二人きりで休みの日に会うのは今日が初めての予定だったし」

 僕は言葉を選び、小学校五年生にも理解できるように説明した。

「そっか~。それはごめんなさいね。初デートの邪魔しちゃったね」

 妹はあまり申し訳なくはなさそうに言った。その表情を見て、僕はもう一度落胆した。

 

 ウキウキの僕を落胆させたのは早朝の彼女からのLINEだった。

 

(ミオ)ゴメン

(ミオ)体調不良

(ミオ)熱がある

 

 LINEで済むような話ではない。僕はスマホの画面の受話器のマークを押した。

「もしも~し。ごめんねえ」

 すぐに望桜が出た。声は元気そうだった。

「大丈夫?」

「いや、あんまり大丈夫じゃない。熱が八度を超えててフラフラだよ」

「そっか~。じゃあ、今日はキャンセルということだね」

 僕が落胆した声で言うと望桜は意外なことを口にした。

「いや、キャンセルはしないでほしいんだ」

「はっ?どゆこと?」

「私の代わりに、妹が行くから、妹と一緒に映画観てもらっても良いかな?」

「はあ?なんで妹さん?」

 僕は訳が分からず、キョトンとした声で言った。

「つまりねえ、私、今、体調悪いでしょ?妹に家にいられるとうるさくって安静にできないのよ。両親は朝から出かけてて、帰りは夜遅くなる予定だし。お願い。この埋め合わせは必ずするから」

 埋め合わせをするということは、これがこれでおしまいではなく、次があるということなのだろうし、ここで望桜に貸しを作っておくことは何か心地良いような気もした。

「分かった。良いよ。今日はどうせ部活休みだし、映画観に行くつもりだったから」

「ありがとう」

「一緒に映画観るだけで良いんだよね?」

「う~ん、映画の後にスィーツとか食べさせてくれるとありがたいけどな。もちろんお金は私が出すから」

 女子からお金を出すと言われて、「じゃあお願いします」というのも格好悪い。

「いいよ、そのくらい」

 都立高校生のくせにバイトをしていない僕はいつも金欠だったがここは見栄を張った。

「いいよ、お金は持たせるから。じゃあ、待ち合わせは予定通り府中駅の改札に十時ということで。これから妹の画像をアップするね。弥麻人の画像も妹のLINEにアップしとくから」

「分かった。じゃあ、お大事にね」

 そう言って通話を切ると、すぐにツインテールにVサインの画像がアップされ、「妹の優里菜です」というコメントが付されていた。

 

 望桜は韓国の青春映画を観たがっていて、僕もそのつもりだったが、僕は妹のリクエストに屈し、女の子が変身して悪と戦うテレビアニメの映画版を観た。僕はどこが面白いのか分からず、途中から寝ていた。

 映画が終わってからは再びツインテールに手を引かれ、階下のスターバックスに行った。スターバックスでツインテールはレジの向こうのお姉さんに向かい、トッピングをたくさん載せる、とても複雑な注文をしていた。僕は単純にアイスコーヒーを注文した。

 席について向かい合う。妹は今日の映画のこと、家庭のこと、自分のこと、色々とまくしたてた。望桜が男子からモテモテで、今まで何人の男子に告られたかということまで話してくれた。自分で話すのに忙しく、僕の話を聞くことはおろか、存在にすら興味を持っていないようだった。

 飲み物がなくなったタイミングで僕は席を立ち、妹を府中駅の改札まで送っていった。

「お兄ちゃん、またデートしようね。バイバイ!」

 妹は元気にそう言うと、スキップしながら僕の視界から消えていった。

 

 帰宅し、しばらくするとスマホが望桜からのLINEをキャッチした。

 

(ミオ)今日はありがとう

(ミオ)優里菜、今、帰って来た

(ミオ)イケメンのお兄ちゃんとデートできたって喜んでたよ

 

 「イケメン」を見て僕は思わず笑ってしまった。

 

(やまと)それは良かった

(やまと)今度は望桜と行きたいね

 

(ミオ)次は甲子園の後だね

 

(やまと)そう願いたいね

 

 それは僕の本当の気持ちだった。甲子園もそうだが望桜とのデートもそうだ。

 それにしてもあのツインテールは何者だったのだろう。

 

(「いずれ義理のお兄ちゃんになるんでしょ?」)

 

 もしそうならうれしいに違いないが。

 

 週が明けると天気は回復し、僕はチームメイトと準決勝の舞台に立った。

 準決勝の相手は母校と同様、この大会で初めてシード校に名乗りを挙げたチームだった。

 相手はエースで四番が率いるワンマンチームで、この選手を打ち、抑えれば決勝に進出できるはずだった。

 試合は予想通り投手戦となった。相手のエースは中学時代から有名人で、全国各地からのスカウトを振り切ってあえて地元の無名校に進学し、三年間、自らの力量でチームを鍛え、準決勝にやって来た。例えて言うならば茂野吾郎のような選手だった。

 一人で無名のチームを西東京大会の準決勝にまで引っ張ってきたのだからその腕力は相当のものだ。ヒットを打つどころかバットに当てることすらできない。バットに当たっても前に飛ばすことができない。それでも僕はなんとかバットに当て続け、とにかく球数を投げさせた。

 自軍はスーパーエースの和田陽斗がゼロに抑えていた。

 陽斗との出会いはある意味、僕の人生の最大の幸運事だったのかもしれない。別の意味では陽斗との出会いにより、僕の一生分の運が使い果たされたといっても良かった。

 陽斗は未完の大器だった。高い身体能力を持ち、非凡な才能を持っていたが、小中の指導者に恵まれなかったため、その才能が花開くことはなかった。

 もし、中学時代にその才能が花開いていたら、強豪校のスカウトの目に留まり、チームメイトにはなれなかっただろう。

 陽斗も、相手チームのエースで四番同様、予選が始まってから無失点を続けていた。

 スコアボードにはゼロが更新し、七回の裏を迎えた。いつもは四番を打っているが、この試合に限り、少しでも打撃機会を増やすため二番に座った僕に回ってくるこの回になんとしても得点しなければならない。

 一回戦から一人で投げ抜いてきた相手チームのエースで四番は疲労が溜まっていた。僕も、そしてこの日に限り一番を打つ陽斗も臭いボールをカットしてファウルにするくらいはできるようになっていた。

 陽斗が歩いた。これで相手チームの完全試合は消えた。初めてのランナーだ。

 続く僕も、たちまち追い込まれはしたものの、臭い球をカットし、確実なボール球を見送る。

「ボール!ボールフォア!」

 審判の声が気持ち良く響き渡る。僕も一塁に歩き、ノーアウト一、二塁になった。

 

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