ノーアウト一、二塁。
チャンスだが、これは案外、相手の作戦だったのかもしれない。母校は相手チームのようなワンマンではないが、それでも技術面では陽斗と僕が傑出している。この二人に打たれなければ負けることはないとこのエースで四番は分析しているのかもしれない。
三番打者の一球目、陽斗と僕は重盗をかけた。「ストライク」がコールされ、キャッチャーは三塁に送球したが、クイックでなかったこともあり、悠々セーフとなった。恐らく、ピッチャーも後続を抑えれば良い、打たれるはずがないと考えていたのだろう。実際、後続から打たれることはなかった。
次の一球、セオリーに従えばここはスクイズだ。外野まで飛ばすことはおろか、前にすら飛ばすことはできないのだから。バントはできるかもしれないし、できないかもしれない。しかし、それでもヒットはもちろん、外野フライと比べても得点の可能性は格段に高い。
エースで四番が二球目を投じると同時に陽斗がスタートを切る。そして、ここでもセオリー通り、バッテリーはスクイズを外した。
三番打者は空振りを取られ、審判はストライクをコールする。キャッチャーはマスクを取り、ホーム手前まで来ていた陽斗を挟殺に追い込む。
陽斗が逃げる。キャッチャーはサードに送球、陽斗はサードを振り返り、今度は本塁方向に逃げる。サードが追う。ここで陽斗はフェアゾーン方向に転んでしまい、追いついたサードが陽斗にタッチした。
球審がアウトをコールするが次の瞬間、既に三塁を全力で蹴っていた僕はアウトになった陽斗を追い抜き、無人のホームベースを踏んだ。挟殺で喜色満面の三塁手のグラブから白球が送球されることはなかった。
結局、母校はノーヒットでもぎ取ったこの虎の子の一点を守り切り、決勝に進んだ。
望桜の妹と映画を観に行った次の日曜日も雨だった。
しかし、今度は部活が休みになろうはずもなかった
なぜなら、この日は全国高等学校野球選手権大会西東京予選の決勝戦で、僕は明治神宮野球場、通称、神宮球場のグラウンドに立っていたのだから。
人工芝の神宮球場は雨に強い。それでなくとも甲子園の予選は日程が詰まっている。それがたとえ決勝戦というハレの舞台であったとしても、少々の雨では試合を消化したいというのが運営の本音なのだろう。
この日も母校は持ち前の、守って守って守り抜く野球に徹していた。一回の表に犠牲フライで得た一点を守り抜き、九回の裏、ここまで順当に勝ち進んできた第一シード校の最後の攻撃を迎えていた。
ここで問題が起こった。雨脚が強まったのだ。
僕はコールドゲームになることを期待した。実際、そのくらいの強さの雨だった。
この大会を一人で投げ抜いてきた陽斗も疲れていた。さらに雨でボールが滑るのだろう、ストライクが入らなくなってきた。
先頭打者にヒットを打たれ、次の打者の送りバントで一死は取ったものの、同点のランナーがスコアリングポジションに進んだ。
強まる雨脚、グラウンドの土の部分は泥だらけだ。それでも試合は続けられた。
僕は不思議な気持ちだった。キャプテンとしてはもちろんここでコールドゲームになってもらいたい。しかし、コールドゲームで甲子園進出というのも相手チームに申し訳ない気がする。甲子園には行きたいが、やはり正々堂々と戦って行きたいのだ。
次の打者を迎えているうちに雨脚が強くなり、次の打者に陽斗はこの日初めての四球を与え、さらに雨脚が強くなって、次の打者にも四球を与えた。
僕が陽斗と一緒に野球をやるようになって初めての連続フォアボールだ。
「タイム願います」
僕はたまらずタイムを取り、マウンドに駆けつけた。
「時間稼いでんじゃねえ!時間稼いでもコールドにはならないぞ~」
そんな心無い野次がスタンドから聞こえてくる。雨は無情にも強さを増してくる。神もが相手チームを応援しているのではないか、僕はそんな気持ちになっていた。
そんな四面楚歌の中で僕は陽斗と向き合った。陽斗は焦燥していた。それは僕が出会って始めて見る陽斗の姿だった。
「駄目だ。打たれる」
陽斗は力なく言った。僕はそんな陽斗に微笑んでみせた。
「いいか、お前が打たれて負けるんだったら誰も文句は言わねえ。でも、決勝点が押し出しのフォアボールだったなんて、そんなみっともないことだけはやめてくれよ」
僕はそれだけ言うと、踵を返した。とにかくストライクを入れなければならなかった。
戻る途中で球審の視線を感じ、立ち止まった。球審と顔があった。球審はマスクをしているのでその表情は分からなかったし、視線が合っていたのかどうかも分からない。
(「コールドにして下さい」)
僕は心の中で球審にテレパシーを送った。僕のこの願いはあるいはスポーツマンシップに反していたかもしれない。しかし、そのテレパシーは通じるはずもなかった。
「どうしたんだ。早くしなさい」
僕がしばらく立ちすくんでいるとダミ声の球審は冷たく言った。僕は思わず舌打ちしそうになった。
僕は黙ってマスクをかぶり、球審に背を向けて座った。
「プレイ!」
ワンナウト満塁という攻守どちらにとって絶体絶命なのか分からない状況の中、ゲームが再開した。
僕はど真ん中のストレートを要求した。とにかくストライクを取らなければならない。それに打線は下位、疲れているとはいえ、陽斗の渾身のストレートをそんなに遠くに飛ばすことはできないだろう。そう考えた。
セットポジションの陽斗は振りかぶることなく投げた。
「バキン」
鈍い音がした。明らかな打ちそこないだった。
(「やった!打ち取った!ダブルプレーだ!甲子園だ!」)
ただでさえ球速のない打球はぬかるみでさらに減速し、キャッチャーの前にボテボテと転がる。僕はそれを掴み、バッターランナーに触手しようとして一瞬、ためらった。
ここでタッチすると他のベースがフォースプレーにならない。満塁のランナーは既にスタートを切っている。実際、ボールを掴むその視界には突っ込んでくる三塁ランナーが入っていた。しかし、三塁ランナーが突っ込んでくるのは分かったものの、距離感はしっかりつかめていなかった。
雨も降っている。ここは冷静に行かなければならない。バッターランナーに触手しようとして交わされた場合、三塁ランナーの突入をタッチの差で許してしまうかもしれない。
そうしたら同点となり、試合が振出しに戻ってしまう。
そこまで考えた僕は取り敢えずホームベースを踏もうとした。そこに落とし穴が待ち受けていた。
晴れていたら、雨でもそれが優勝を決定する場面でなかったら、難なく処理できたことだろう。
神宮球場は人工芝だ。しかし、当然のことながらホームベースの周囲は土だ。しかもこのとき、ホームベースの周囲は野球の常識では考えられないほどぬかるんでいた。
僕はただホームベースを踏むだけでよかった。しかし、ぬかるみに足を取られた僕はベースの手前で滑り、転倒してしまったのだ。僕は慌てて立ち上がり、右手の白球でベースをタッチしようとした。
クロスプレーなどではなかった。僕がボールを持った手を伸ばし、ホームベースにタッチするよりもはるかに早く、頭から突っ込んだ三塁ランナーのその手はホームベースに届いていた。
同点になった。
僕は気を取り直すこともできず、体制を立て直すこともできず、一塁に送球した。しかし、その送球が一塁手のミットに収まることはなかった。
ボールは大きくそれ、ライト線を転々とした。その間に、既にスタートを切っていた二塁ランナーがサヨナラのホームを踏んだ。
この世の中に「不幸中の幸い」という出来事が本当にあるのならば、僕が雨の中サヨナラエラーを記録したあの日が夏休みの真っ最中だったということは不幸中の幸いだった。
翌日から僕は家族以外の誰とも話をしない生活を選んだ。このまま引きこもってしまうのではないかと家族は心配したがそうはならなかった。
新学期が始まると僕は学校に行き、教室の席に座った。何人かは近付いてきたし、声も掛けられた。しかし、先生も含め誰とも話さなかった。僕の周囲にだけピリピリとした緊張した空気が張り詰めていた。
それから毎日、僕は朝、ギリギリの時間に登校し、終業のチャイムと共に帰宅した。掃除当番もスルーした。誰も咎めなかった。
帰宅して、家にこもって僕は勉強をした。僕はいつまでもくよくよしていなかった。目標を変えたのだ。
甲子園は僕の憧れだった。その道は僕が自らのミスで絶ってしまった。
しかし、甲子園の土を踏むことが永遠に立たれたわけではない。指導者として甲子園の土を踏む道もあるのではないか。
僕は早速、インターネットで「高校野球の監督になるには」を検索した。色々なサイトが色々なことをガチャガチャと書いていたが、近道は高校の先生になることのようだった。
もちろん大学の野球部や社会人、あるいはプロで実績を積むという道もあるようだった。
プロアマを問わず、野球で実績を挙げれば、例えば監督として都市対抗野球で優勝したりすれば、私立の甲子園常連校に目を付けられ、高校野球のプロの監督として招聘されることが可能かもしれない。
プロの監督、監督業を専業とし、それだけで食べていく人達のことだ。そういう人種がこの国に何人か、あるいは何十人かいることは確かだ。しかし、それは間口が狭すぎて僕には合わない。甲子園の土さえ踏めなかった僕には高いハードルだろう。
結局、僕にとって近道でもなく、遠回りでもない現実的な道は大学に行って教員免許を取り、どこかの野球部のある高校に教員として採用されるという道だった。
僕は新しい目標に向けて舵を切った。
僕の周囲の誰もが、家族も先生も友人も、すべての人が僕に気を使ってくれているのはそんな僕にとってはラッキーであり、僕は、そこはしたたかに、最大限これを利用した。
親はネット予備校の安くはない月謝を払ってくれた。
学校では掃除当番はおろか、体育祭や文化祭の面倒な役割も免除されていた。授業中に指されることすらなかった。修学旅行が一学期に終わっていたことも幸いした。もっとも、二学期に開催されていたら僕は行かなかっただろうし、それを咎められることもなかっただろう。
望桜とはあの決勝戦の朝以来、没交渉だった。あの日以来、LINEには恐ろしい数のメッセージが送られてきていた。
「ドンマイ!」、「人生こういうこともあるよ」、「誰も咎めてないよ」、「元気出して」、「いつまでそんな態度なの?」
慰める口調が段々励ます口調になり、それがさらに僕を非難する口調に変わっていったがすべてスルーし、それもそのうちに来なくなった。
学校ではもちろん顔を合わせたが、話しかけることも話しかけられることももはやなかった。最後のLINEメッセージは「妹のことありがとう」だった。
東京からは出たかったので僕は鹿児島にある国立の体育大学を受験し、合格した。スポーツは元々万能だったから、机に向かう勉強を一心不乱に半年もして、偏差値をそれなりに上昇させれば合格自体はそれほど難しくない。甲子園に比べれば簡単だとすら言えただろう。
卒業式には行かなかったが、卒業は認定されていたので、卒業証書は次の日、速達の書留で送られてきた。学校としても腫物の僕がいなくなりやれやれといったところだったのだろう。
大学では結局、野球部に入った。野球自体が嫌いになったわけではないし、環境が変わったためか、割とすんなり、ボールを握ることができた。結局、野球は四年間続けることになり、最後はバイスキャプテンにも任命された。高校時代、弱小チームを引っ張り、地方大会の準決勝までいったのだから、キャッチャーとしてのレベルはそれなりで、一年の秋にはレギュラーをはった。
ただ、チームはそれ程、強くはなかったし、リーグも強くなかったから、レベルとしては、例えば東六とか東都とか強豪リーグに加盟する大学だったら同好会レベルだったのだろう。
同好会レベルだったから勉強にも集中できた。机に向かう癖は高校三年生の夏からしっかり身についていたから教員採用試験の勉強は一年生のときから大学受験の勉強に集中するように集中できた。
大学四年生のときに東京都の教員採用試験を受験し、合格した。採用試験のための勉強は一生懸命したし、教職課程ではいつもトップクラスだったから不合格になることは想定していなかったし、周囲もまさか僕が落ちるとは思ってはいなかった。
それであたり前のように、合格するわけだが、それから先が一筋縄にはいかなかった。
僕は勉強ばかりしていたので筆記も面接も難なくこなしたのだが、現実に都立高校に教員として採用されるということがどういうことかということを十分に理解していなかった。
いや、理解不十分という言葉では生ぬるいだろう。僕は大きな誤解をしていたのだ。
都立高校の教員採用は普通の公務員の採用と同じ、あるいは民間企業の採用と同じとすら思っていたのだ。もちろん、採用試験の合格と実際に教員としての採用が別の話であること、すなわち採用試験の合格は採用候補者になったに過ぎず、翌春からの教員としての生活を保障するものではないことを理解しているつもりではあった。しかし、採用方法は一般の公務員あるいは民間企業と同じだと考えていたのだ。
東京都には教育庁という教育を司る機関がある。さらに教育庁には人事部という人事を司る部署がある。それは民間企業でも同じことだろう。さらに人事部には選考課という教員の採用を担当する部署がある。
その担当部署が採用候補者名簿の中から来春の欠員に応じて必要数を採用する。四月が近付くにつれ既存の教員の定期異動もあるだろうから、それもからめてバランス良く新人教員を配置する。
それでも教員数が多過ぎる、少な過ぎるといった需給バランスのずれは避けられないだろうからそこは非常勤講師などを活用し、穴を埋める。僕はそう考えていたのだった。
ところがこの考えは根本的に間違っていた。採用のイニシアチブを取るのは、すなわち合格した採用候補者に現実に募集をかけ、採用面接を実施するのは現場の高校だったのである。
採用試験の勉強は準備万端過ぎるほどだったが、現実の採用のプロセスには疎かった。しかし、捨てる神あれば拾う神ありだ。
強い助っ人が現れた。少なくともその時は助っ人だと思っていた。大学の野球部の先輩で東京都教育庁の人事部に勤めている人がいて、監督が紹介してくれたのだ。
僕はその一度も会ったことのない先輩に「野球部の監督になりたい」という不躾なメールを送り、面接の約束を取り付けた。そして、年が明けた一月のある平日、僕は都庁第二庁舎のオフィスを訪れた。
都庁の庁舎には第一庁舎と第二庁舎と議事堂がある。都庁と言われてまず思い浮かぶのは第一庁舎、いわゆる一庁の方だ。しかし、教育委員会や教育庁はその隣の二庁の方にある。
先輩は僕より一回りほど年長で、教員として採用されたものの、ここしばらくは教育庁で行政官として教育行政に携わっていた。今は人事の仕事をしているという。
約束の時間にオフィスを訪れると、事務室に案内され、先輩の席の隣の空いている椅子を勧められた。僕は応接のようなところに通されると思っていたので少し面食らった。もっとも、採用候補者名簿に登載されている僕は既に半分身内とも言えるし、相談者は僕以外にも多数いるだろうから一々時間を取って応接ブースに案内するのも面倒だったのかもしれない。少なくともお客さんではなく、お茶も出ない。
「メールを読んだけど、野球部の監督になりたいんだってね?」
僕が自己紹介し、今日のお礼を述べると先輩は自分も軽く自己紹介し、早速、本題に入った。
「はい。ご存知かもしれませんが、実は、僕は長いこと野球をやっていまして、・・・高校生のときにはギリギリのところで甲子園の土を踏みそこなっているんです。ですから、今度は監督として甲子園の土を踏みたいと、そういう夢を持っているんです」
僕が語ると先輩は一度大きくうなずいた。
「ああ、それは知ってるよ。っていうかあの試合は見ていたからね。テレビでだけど。私も今は教育庁でデスクワークだけど、あの頃は教壇に立っていたから、同じ都立高校が甲子園に出られるかもしれないというので一生懸命応援したのは覚えているよ。ちょうど日曜日だったから、家で見たよ。でも、雨でひどい試合だったね。解説者も君に同情していたなあ」
「はい」
聞いた途端に嫌な記憶が蘇ったが、ぐっとこらえた。
「まあ、回りくどい話も嫌なので、結論から言ってしまうと、君はこの春、どこかの高校の教壇には立てるかもしれないが、野球部の監督になるのは無理だ」
「はあ?」
いきなりの直球ストレートに軽い衝撃を受けた。デッドボールといっても良いくらいだった。