校門をくぐったというのは厳密には正しくない。この学校には門がないのだ。ただ塀はあり、門柱もあるのでそれが学校の中と外を区別している。中と外を遮る鉄の扉がないだけだ。
キャンパスは桜の花が満開だった。僕が入り口付近でキョロキョロしているとちょうど通りかかった教員と思われる一人の男性が僕を認識し、僕の方に近づいてきた。散歩中に迷い込んだと思われたのか、あるいは単に不審者だと思われたのかもしれない。
「何かご用ですか?」
男性は丁寧に尋ねた。歳は僕よりやや上といったところだろうか。上下のトレーニングウェアを着ていて何かの作業中のようだ。きっと春休み中に片づけなければならない力仕事でもしているのだろう。
「スミマセン・・・。実は僕、四月からこの学校に採用されることになりまして、それでその~、初めてなもんですから通勤経路を確認しようと思いまして・・・、下見に来ただけです。スミマセン。もちろんノンアポなんですけど、誰とも約束はしていないんですけど、ただ、場所とか通勤経路を確認したかっただけですので。すぐに失礼します」
僕は制服警官の職務質問に向き合ったかのようにたどたどしく答えた。
「四月からこの学校に来るの?」
男性教諭は僕に興味を示したようでざっくばらんに聞いてきた。
「はい、相沢弥麻人と申します」
言って僕は一礼した。
「ってことは新規採用かな?この時間にここにいるってことは」
「はっ、はい。何分、色々なことが初めてなもので」
「そうか。じゃあ、残念だけど僕とは行き違いだね。僕はこの春、異動するんだ。相沢先生は希望したのかな?特別支援学校」
先生と呼ばれたのは教育実習以来だ。少し面映ゆい。
「いいえ。僕は、・・・専門は体育なものでして、特別支援学校のことは正直よく分かりません」
僕は正直に答えた。男性の表情が気持ち明るくなった。
「体育教員なら完全に僕の入れ替わりだね。なるほど、そう言われれば良い体格してるね。ラグビーでもやってたの?」
「いいえ、野球です」
「野球かあ。ソフトボール部の顧問が異動しちゃうからその後任になるのかな?」
男性教諭はもう一度ざっくばらんに聞いた。僕の心の中までは読めないようだ。
「何となくそんなことは聞いていますが・・・」
「そっか。相沢先生は特別支援学校の希望者ではないようだからぶっちゃげ言っちゃうけど、僕は三年前、今の相沢先生と同じで、新卒でいきなりこの学校への赴任が決まったんだ。決まった時は『ええっ』って思ったなあ」
「そうだったんですか」
「そう。それで懲役三年が満了して、この春、晴れてこのプリズンを出て行かれるってわけだよ」
教諭は明るく言ったが、懲役という言葉に僕は動揺した。
「そんなに大変なんですか?ここでの生活は?」
「まあ、変な先入観はない方が良いと思うから詳しくは言わないけど、プリズンという言い方は決して大袈裟ではないと思うよ。これはここの他の教員も同意見だと思う。でも一つグッドニュースがあるとすれば、とにかく三年間頑張れば普通の学校に異動できるということさ。そして三年は過ぎてみればあっという間さ」
心の準備ができていなかった僕は黙った。先輩の男性教諭は続けた。
「まあ、それはしょうがないよね。教員である以上、誰かがこういう役目を担わなきゃいけないんだから。でも、今思うと良い経験をさせてもらったとは思ってるよ。これからどんな辛いことがあったとしても、ここでの生活を思い出せば我慢できるんじゃないかと思ってね」
「・・・・・・」
僕は何も言えなかった。覚悟はしていたが、そんな僕の覚悟なんて甘っちょろいものなのだろう。
「じゃあ、頑張ってね」
名前も名乗らなかった男性教諭はそう言って踵を返すと小走りで校舎の中に消えていった。
四月一日が来た。桜は随分と散ってしまったが、まだ往生際の悪い何枚かの花びらは各枝に残っていた。
社会人一年生にとってこの日の朝は希望に満ち溢れた朝になるのだろう。
少しずつ気持ちの整理をつけてきてはいたが、相変わらず僕の心は重かった。当然のことながら前の日はあまり眠れていない。
それでも家族は喜んでいて、朝食の食卓には僕が頼みもしないのに鯛が並んだ。
神宮球場での一件以来、ふさぎ込んでいた僕が羽ばたいていくのであるから親にとってはうれしくもあるのだろう。僕はこれも親孝行だと嫌な顔をせずに鯛を平らげ、さらに親に感謝の気持ちを口にして自分も大人になったと変なところで感心した。
もやもやしていた僕は早めに学校につき、随分と待たされてから採用辞令の交付を受け、その後、校長室の応接でこの日、新規採用になった他の教員と共に校長と少し雑談した。
横堀と名乗る校長は、年恰好はいいおじさんというところなのだが、頭髪は保たれ、お腹は出ていなくて、筋肉質で、若い頃何かスポーツに打ち込んでいたのだろうと感じさせた。
僕の採用面接を担った前校長の後任は教育庁から異動してきた先生で、特別支援学校が長く、B学園にも以前、勤務していたことがあるという。確かに特別支援学校の経験が長くなければとてもここでの校長は務まらないだろう。
横堀校長は引継ぎを受けているのだろう、ソフトボールチームの話をして、僕への期待を口にした。西東京大会の決勝で負けたことも話題になり、僕は初日早々、少し嫌な気分になった。
それからクラス担任の貼り付けの発表があり、横堀校長から「ペアを組む」と言われた矢内楓先生を紹介された。
矢内先生はベテランの女性教諭で、短髪で、眼鏡をかけ、もう女は捨ててしまったような容貌だった。ただ、左手の薬指には光るものがはめられていて、この先生にも女を捨てていなかった時代があったことを物語っていた。
僕は職員室でこの女性教諭と隣の席になった。
「ここの配属になってビックリした?」
矢内先生はざっくばらんに隣の僕に話しかけた。
「相沢先生は新任だから、特別支援学校の経験はもちろんないだろうし、大学で専門の勉強もしてないよね?」
「ええ、もちろんです。大学では体育を専攻していましたし」
「しばらくは修行だと思って我慢してね。私は何年もやってるから、まあ、この一年は勉強だと思ってね」
それを聞いて僕は「ペア」ではなく「コンビ」であることを強く認識した。
横堀校長はなんとなく「ペア」と言ったのだろうが、同じ二人組でも「ペア」と「コンビ」は違う。同質のもの二人一組が「ペア」であり、異質のもの二人一組が「コンビ」だ。だからダブルスは「ペア」だし、漫才は「コンビ」なのだ。
でこぼこコンビとは言うかもしれないが、でこぼこペアとは言わないだろう。そしてこの時、矢内先生と僕は確実にでこぼこコンビだった。
「慣れるまではハプニングの連続だと思うよ。私はこんなことばかりやってるからハプニングでもなんでもない日常生活だけど、相沢先生には斬新かもね。まあ、しばらくは見物しててね」
矢内先生はニッコリ笑ってそう言った。笑顔だけは本物で僕は彼女に母親のような温かさを感じていた。
四月七日、入学式の日がやってきた。桜は葉桜になろうとしている。
僕は精神障害児の中でも障害の程度の軽い生徒のクラスの担当になった。
入学式は学習指導要領に基づくもので、特に都立のような公立の学校には独自性などというものはあるはずがない。
担任が新入生を引き連れて国旗が掲揚された体育館に入場する。新入生が着席する。一同起立し、音楽教諭のピアノ伴奏で君が代斉唱。着席してから校長が登壇し、担任が新入生の名前を一人ひとり読み上げ、新入生の入学を許可する。校長が式辞を述べ、来賓が祝辞を述べ、来賓の紹介があって閉会する。
それはどの学校でも同じはずで、オートメーション化された工場の生産ラインのような精密さだ。
しかし、この僕の目論見は教室に入るとすぐに崩れ去る。
僕のクラスは十二人の生徒で構成される。知的障害や自閉症、ADHDなどの発達障害で普通学級に通えない子ども達だ。
教室では数人の生徒が座っておらず、座っていても落ち着きがなく、一見して普通には見えない生徒が何人もいた。
矢内先生の方にチラッと目をやると何事もないかのように泰然自若としていた。矢内先生にはこんな光景はあたり前なのだろう。
「おはようございます!座っていない人は席についてください」
矢内先生の朗らかでかつ冷静な声が教室に響き渡る。その声を聞いて何人かの生徒が座ったが、なお、着席できない生徒が複数いた。
「ほら、君はどこの席かな?」
矢内先生がその生徒に近寄って腕をつかむ。
「君はここだね」
矢内先生がそのまま誘導し、着席させた。本来ならば僕の仕事なのだろう。でも僕は何もできずにただ矢内先生を見守ることしかできなかった。
「では、これから入学式について説明します」
矢内先生が説明を始めた。
僕は矢内先生の隣に立って生徒達を見ていたがやはり生徒達には落ち着きがない。僕はできることはないかと考え、顔と名前を一致させるように努めた。
「先生」
矢内先生の説明が一段落すると不意に椅子に座っている一人の女子生徒が手を挙げた。
「どうしました、青木さん」
矢内先生が応じる。
「なんか~、その~うんちくさいんですけど」
そう言われれば確かに異臭が漂ってくる。矢内先生は教室を見回すと窓際の男子生徒の席に近づいた。男子生徒は顔を真っ赤にして席から立ち上がろうとしていた。
「大丈夫?どうしたの?」
矢内先生は優しく声をかけた。
「ごめんなさい…おなかが痛くて…」
男子生徒は泣きそうな声で言った。
「いいよ、いいよ。泣かないで。相沢先生。お願いします。下のシャワー室に連れて行ってください。私は着替えを取ってきますから」
そう言うと矢内先生はクラス全員の方を向き
「皆さん、すぐに戻りますから静かに待っていてくださいね」
笑顔でそう言うと、小走りで職員室の方に向かった。
僕は歩きにくそうな男子生徒を連れて一階のシャワー室に移動した。
こういうことが少なくないのだろう。シャワー室の中にはシャワーの横に洋式の便器がむき出しで置かれている。
僕は生徒の下半身を脱がせ、汚れたところをシャワーで洗ってやった。
二人とも無言だった。僕もなんと声を掛けて良いか分からない。
汚物を便器に捨て、流し、近くにあったタオルで下半身を拭かせていると着替えを持って矢内先生がやってきた。下着はもちろんだが、制服のズボンも持っていたのには少し驚いた。こんなことまで準備しているのだ。もっとも入学式にジャージで参加させるわけにもいかないだろう。
「お待たせしました。さあ、これはいて」
矢内先生は明るく言ったが黙っている生徒は今にも泣き出しそうだ。
「大丈夫だよ。誰でもこんなことあるよ」
矢内先生は優しく声をかけ、タオルを持っていない方の手を両手で握りしめた。
「でも…クラスのみんなに笑われる…」
男子生徒は、小さくつぶやいた。
「笑われないよ。みんなも同じように困ってることがあるんだから」
矢内先生が笑顔で言った。
「本当?」
男子生徒は、疑わしげに聞いた。
「本当だよ。だから、元気出してね」
生徒は、黙ってうなずき、矢内先生の持ってきたパンツとズボンをはいた。
「ありがとう…先生…」
はき終わると生徒が言った。
「どういたしまして。これからも仲良くしようね」
矢内先生は、優しく微笑んだ。
三人は教室に戻り、「では、これから体育館に移動しますので全員、出席番号順に並んでください」との矢内先生の号令で生徒達が教室前に並んだ。
そして何事もなかったかのように体育館へ行進していった。
入学式から一週間が経過した日の放課後、僕は横堀校長から野球部のメンバーと顔合わせをするので来るように言われた。
野球部を名乗るソフトボール部の顧問になる覚悟は既にできてはいたが、その話が一向に出て来なかったので、それよりなにより、入学式当日にうんちをもらすような生徒の相手をしなければならなかったのでクラスの運営に追われ、自称野球部のことは頭の隅に追いやられていた。
だから、横堀校長から今日が練習初日だと言われても何の準備もしていなかった。グラブはもちろん、トレーニングウェアすら準備していなかった。それは体育教師としては非常識なことだ。それでも、スーツで良いから来てくれと言われ、僕は慌てて横堀校長の後を追った。
「今日は顔合わせ程度で良いですからね。あの子たち、勝手に練習するようなので」
廊下を歩きながら横堀校長が言った。
「勝手に練習ですか?」
「勝手に練習は言い過ぎかもしれませんが、要するにキチンとした指導者がいなかったのです。ですから、相沢先生も着任したばかりで右も左も分からないでしょうけど、落ち着いたら先生のやり方で指導してやってください」
そんな言葉を聞きながら横堀校長と僕は外履きに履き替え、校庭に向かう。
その間、「そう言えば、野球部は春休みどうしていたのだろう」という疑問が心の中に湧いた。僕が野球部に在籍していた頃は中学でも高校でも大学でも春休みは毎日、練習していたはずである。しかし、僕が着任してから、春休み中に野球部を見かけたことはなかったし、もし練習していれば、既に前の顧問は転勤していないのだからその時、僕のことが紹介されてしかるべきだっただろう。
しかし、そんな疑問も僕はすぐに自分で打ち消した。春休み中の活動などあるわけないのだ。所詮は「自称」野球部に過ぎないのだから。
校庭では朝礼台の前にグローブをはめた生徒たちが待っていた。生徒たちを見て僕は初めて性別を気にしていなかったことに気付くのだが、グローブをはめている生徒たちは全員が男子だった。
「お待たせ、お待たせ。じゃあ、皆、こっちに集まって」
横堀校長はそう言って生徒達を近くに集めた。二人の周りを生徒たちが取り囲む。
「〇〇先生が✕✕高校に転校されましたが、〇〇先生の後をこの四月から本校に赴任されました相沢先生にお願いすることになりました。相沢先生は小さい頃から野球をやっていて甲子園にあと一歩のところまで行ったこともあるんです」
余計なことを言うなあと思った。嫌な記憶が蘇った。横堀校長が続けた。
生徒達はつまらなさそうに話を聞いている。
「ですからこれまで以上に皆さんの指導ができるんじゃないのかなと、それで皆さんは強くなれるのではないかと期待しています。じゃあ相沢先生、後はよろしくお願いします」
横堀校長はそう言うと一人さっさと校舎に帰っていった。
僕は「えっ?」と思ったが、横堀校長の背中はあたり前のように遠ざかっていく。
しかたなく、僕は部員達と向き合い、キョロキョロと部員たちを見回した。
部員は十五人ぐらいいた。統一されたユニホームはなく、服装はバラバラ。オフィシャルの体操着に身を包んでいる部員もいたが、それぞれまちまちのトレーニングウェア姿だった。各々グラブをはめ、ボールを持っている部員はボールを自分のグラブに叩きつけてみせ、バチバチと音を立てている。
「・・・キャプテンは誰だ?」
部員を見回しながら僕は言ったが部員たちはキョトンとしている。
「誰だ、キャプテンは?」
僕はもう一度、今度は少し強い口調で言った。
「・・・キャプテンって何だ?」
しばらく静寂の後、僕の目の前でボールをグラブに何度も叩きつけている生徒がポツリと言った。聞き違えたのかと思った。
「・・・キャプテンを知らないのか?」
言ったが、部員たちは相変わらずキョトンとしていて、僕の言葉を待っている。
「キャプテンというのはな・・・」
そこまで言って僕は言葉に詰まった。
キャプテンをうまく説明できないのだ。キャプテンはキャプテンだ。それ以上、説明のしようがない。というより、説明する必要があるだろうか?僕は今までの野球人生でキャプテンという言葉を説明している場に出くわしたことがない。
もちろん僕自身キャプテンやバイスキャプテンを務めたことはあったので、「キャプテンとは何か?」という哲学的なキャプテン論というものはあったかもしれない。しかし、それは哲学であり、今、ここで行われている言語的な説明ではない。
「分かった。キャプテンはまだ決まっていないということだな?キャプテンというのはチームのまとめ役だよ。まだ決まっていないのならこれから決めよう」
僕は諦めた口調で言った。
「チームをまとめるのは先生じゃないのか?」
さっき質問したキャプテンを知らない生徒がまた聞いてきた。僕は自然とため息が出た。
「もちろん先生は顧問として部の運営には関わるけど、君達の代表も必要だよ」
「めんどいなあ」
他にも生徒はいるのだが、目の前の生徒と二人だけの会話になっている。
「で、どうやって決める?」
僕は自然と目の前の生徒に聞いた。
「先生が決めれば良いじゃないか」
目の前の生徒が言った。
「分かった。じゃあ今日から君がこのチームのキャプテンだ」
こうしてキャプテンの意味を知らない生徒が野球部を名乗るソフトボールチームのキャプテンとなった。