僕が教員生活を投げ出さずに済んだのはひとえに奨学金のお蔭だったと言っても大袈裟ではない。奨学金を返済しなければならない。だから仕事はやめられない。もし、奨学金がなければ、僕はさっさと辞表を提出していたかもしれない。
それにしても奨学金とは一体、誰のためのシステムなのだろうと思うことが時々ある。誰のためのと聞かれればそれは当然、就学困難な経済状況にある貧乏学生を救うためのシステムということになるはずなのだろうが、それなら貧乏学生から返済など求めるべきではないはずである。
財政が豊かであれば、償還不要の奨学金システムを構築することもできるだろう。しかし、それが許されないので、奨学金は実質的には体の良い教育ローンになっている。
もし、現行の奨学金システムがその本性を正確に表していて、教育ローンを名乗っていれば、多くの学生が進学に躊躇することだろう。借金には身の丈以上のものというニュアンスが含まれるからだ。
しかし、実際には奨学金という美名のもと、多くの貧乏学生が大学に進学してくる。結果、大学進学が当たり前のことになり、大学を出ていない方が恥ずかしい世の中になってしまっている。
勢い、それほど大学に興味がない子どもが恥ずかしさから逃れるために借金をして大学に進学してくる。結果として大学進学率はまた上がり、大学に行かないことがますます恥ずかしくなる。悪循環だ。これからますますの少子化を迎えるにあたり、既存の学校を存続させるために国はわざとこのようなシステムを仕組んでいるのではないかと勘繰りたくもなる。
奨学金という手錠をはめられた僕は、三月の末に出会った先輩教員から教えられたように三年の刑期を全うするように、一日一日が無事に過ぎ去るのを祈りながら過ごしていた。
実際、僕は祈ることしかできなかった。どこかの宗教の信者に勧誘されていたら案外はまっていたかもしれない。
そんな五月病真っ盛りのある午後、クールビズよりさらにラフな、チノパンにポロシャツ姿の僕は朝礼台に腰掛け、野球部の生徒たちを見ていた。
新緑の季節となり、暑くもなく寒くもなく爽やかな風が校庭に吹き降ろしている。スポーツをするには絶好のシーズンだ。
横堀校長に言われていた通り、生徒たちは勝手に練習するのでただ見ていれば良かった。僕の役割と言えば、時々、無茶なことをしようとする生徒に注意するといったところだった。
「先生、キャッチボールしよう」
そんな僕に一人の部員が声を掛けてきた。入学式の日にウンチを漏らした山口大地だった。大地は入学式当日こそ落ち込んでいたが、次の日からは何事もなかったかのように学園生活を送っている。
「キャッチボール?」
僕は思わず聞き返した。部員の方から声を掛けてくるなど初めてのことだったからだ。
「俺、今日、相手がいないんだよ」
相手がいない場合には三人でボールを回すのだが、大地はまだそういうコミュニケーションがとれないようだ。
「でも、先生、グローブ持ってないぞ」
野球部の監督がグローブを持っていないなどありえない話だ。でも、僕はこの学校にグローブを持って来てはいなかった。
「あっ、まあ良いよ。キャッチボールしてやろう」
僕はそう言って腰掛けていた朝礼台から飛び降りた。
グローブはないが素人が投げるソフトボールの捕球など素手でもできる。
僕は十メートルほどの距離をとって大地を前に見据えた。
「いくぞっ」
大地はそう言って恰好だけは一丁前に振りかぶり、ボールを投げたが、投げたボールは右側に大きくそれ、転々とした。
「なんだ、全然駄目じゃないか」
僕は軽くなじったが反応はない。
「ボール取って来いよ」
「え~、先生の方が近いんだから先生が取ってきてよ」
体育会ではありえない受け答えだ。仕方なく僕はボールを取りに行き、「それじゃ全然駄目だ。先生が投げ方を教えてやる」と言って大地を体育館の脇に連れて行った。
「いいか。お前は腕だけで投げてるんだ。それじゃ強いボールは投げられない。腕だけじゃなくて肩のひねり、腰のひねり、足のバネ、身体全体を使って投げるように意識するんだ。よく見てろよ。こう投げるんだ」
そう言って僕はボールを十メートルほど先の体育館の壁に向かって投げた。
真っすぐに進んだボールは勢いよく壁にぶつかり、正確に僕のところに戻ってきた。
戻ってきたボールを大地に渡す。
「じゃあ、今、言われたとおりに投げてみろ」
ボールを受け取った大地は振りかぶり、さっきよりはまともなフォームで体育館の壁にボールをぶつけた。僕は跳ね返ったボールを取りに行き大地に聞く。
「どうだ?」
「うん。前よりもうまく投げられた気がする」
「そうだな。そんな感じで、手だけじゃなくて、身体全体で投げるように意識するんだ。身体を回転させるように」
僕はそう言って身体の回転をジェスチャーしてみせる。大地はまた振りかぶり、ボールを投げた。
そんなことを繰り返しながら僕は掃除のとき、矢内先生に言われたことを思い出していた。
「ちゃんと掃除しろ」
そう言っても生徒達はなかなか思うように動かない。
イライラする僕に矢内先生はこんなことを言った。
「ただ単に『掃除をしなさい』と言ってもあの子達には理解できません。かえって混乱するだけです。でも『ほうきで教室の中を掃きなさい』と言うとちゃんとできるんです。理解できるからです」
矢内先生はこうも言っていた。
「相沢先生は今まで普通にコミュニケーションできる人としか会話をしてこなかったかもしれませんが、世の中には一か十かでしか考えることができない人もいるんです。まずはそういう人もいるのだという事実を認めるところから始めなければなりません」
そうなのだ。
僕は思った。「キャッチボールしろ」とただ言ってもこの子達には難しいかもしれない。しかし、どうやってボールを投げるのかを、どうやって受け取るのかを丁寧に教えてあげれば、時間はかかるが理解できるはずだ。
随分とフォームがきれいになり、最初に比べればはるかに速い球を投げられるようになった大地を見極めた僕は小石を拾い、体育館の壁に顔の大きさくらいの丸を描いてみせた。
「大地、いいか。次はこの的を狙って投げてみろ。ちゃんとこの丸をよく見て、この丸の中にボールが入るように投げるんだぞ」
僕はできるだけ丁寧に説明した。
「よし」
大地はそう言うと振りかぶって投げだ。投げたボールは初球から正確に丸を捉えた。
「先生!当たったよ!」
大地は興奮して叫んだ。
「そうだ。うまいぞ。もう一度投げてみろ」
壁に跳ね返ったボールを取りに行った大地は元居た場所に戻り、もう一度振りかぶった。
投げたボールがまた丸を捉えた。
「また当たったよ!すげえ!」
「そうだ。すごいな。その調子だ。なんだ。できるじゃないか」
いつの間にか僕も興奮していた。
特別支援学校への配属が決まって初めて熱くなった瞬間だった。
いつの間にか僕は本気を出していた。僕が本気を出した結果として野球部という名のソフトボールチームはメキメキと力をつけた。
部の名称も変えた。野球部からソフトボール部へと正しい名前に変更したのだ。そこにはソフトボールはソフトボールであって野球ではないという僕のこだわりがあった。
結果としてその年の秋に開催された特別支援学校対抗ソフトボール大会では三位となり、翌年は優勝した。
「先生。他の連中とも話したんだけどさ」
僕が特別支援学校での三年目を迎えていたその次の年、特別支援学校の大会を連覇した帰り道で僕は、今はソフトボール部のキャプテンになった三年生の大地にそう話しかけられた。
街は秋のつるべ落としでもう薄暗い。
ソフトボールの用具を抱えたユニフォーム姿の部員達は軽い足取りで家路を急いでいた。
「俺達、普通の奴らとやりたいんだけどどうだろう」
「普通の奴らって?」
「俺達、特支の大会ではもはや無敵じゃん」
大会は連覇したし、個々のゲームでは相手をコールドに追い込んだりもしたから「無敵」という大地の表現も大袈裟ではない。
「だからさ、特支じゃなくて、普通の学校に通う連中とやってみたいんだよ」
なるほど健常者のチームとやりたいということか。その気持ちは分からないでもなかった。
「そっか、でも難しいかもしれないなあ」
僕は素直な感想を述べた。
「無理かなあ」
「まあ、何にしろチャレンジしてみるのは良いことだけど」
「じゃあチャレンジしようよ」
大地が熱く語る。この熱さを僕も無にはしたくない。
「・・・やっぱり無理かなあ」
僕が少し黙っていると大地が不安そうに言った。
「いや、練習試合くらいならできるかもしれない。とにかく対戦相手を探してみるよ」
僕が言うと大地は無邪気に微笑んだ。
しかし、そうは言ったもののそれがまったくの空手形であったことを間もなく僕は知ることになる。
僕はあちこちの学校に電話をかけ、ソフトボール部の顧問の先生を呼び出し、練習試合の相手になってくれるようお願いした。
「すみません、相沢先生。練習試合はお断りさせていただきます」
どの学校の先生も明らかに困惑していた。どの先生も特別支援学校のことをよく知らなかった。あるいは障害を持つ生徒たちがソフトボールをすることすら想像できなかったのかもしれない。
「どうしてですか?」
僕はどの先生にも失望した声で尋ねた。そして生徒達の熱意を伝えたが、なかなか理解してもらえなかった。
「いや、色々と理由があるんですよ」
どの先生もレベルが違うとか、怪我をさせたら申し訳ないとか色々と言い訳を言った。しかし、そもそも特別支援学校に興味がなく、面倒くさいと思っているようだった。
「せめて一度だけでも……」
僕はなお食い下がったが翻意させることはできなかった。
僕はただ生徒達にソフトボールを楽しんでもらいたいだけなのに。
しかし、そういう僕も偉そうなことを言える身分ではなかった。もし、僕が特別支援学校を知らず、学卒でいきなり普通の学校に入っていたら、そしてソフトボール部の顧問になり、突然、特別支援学校の先生から練習試合の申し込みを受けていたら、同じような対応をしたに違いないのだ。
僕は、都内はもちろん、神奈川県や千葉県、埼玉県の高校にも電話をかけ続けたがどの学校とも約束はおろか、前向きな返事すら取り付けることができなかった。検討すらしてもらえなかった。
そんな先の見えない、もやもやとした日々を過ごしていた初冬のある午後、僕は水道橋にある東京都教職員研修センターで意外な人物から声を掛けられた。
「よっ!久しぶり!」
一日の研修が終わり、僕は帰り支度をしていた。
僕は見上げ、人影を確認し、そして驚いた。
「陽斗!」
あの日以来、同級生の誰とも話してこなかったはずだったのに、懐かしさが勝ったのか、なぜか自然に声が出た。
「話してくれたんだな」
「えっ?」
「卒業してから、ってか、あの時から口きいてくれたのって初めてじゃないか。声掛けても無視してたし」
「・・・そうだな」
不思議と自然に笑みが出た。照れ臭かっただけかもしれない。
「話してくれるのか?」
僕は少し考えるふりをしてから「ああ」とうなずいた。あの時以来、誰とも、一言も口を利かなかったのは子供っぽかったと思えるほど僕は齢を重ねていた。
「どうしてお前ここにいるんだ?」
僕は陽斗に尋ねた。
「そりゃもちろん都立高校の教員だからに決まってるだろ?」
それはその通りだ。僕の質問の意図はいつ、どうやって都立高校の教員になったのかだ。少なくとも僕が一年目の時の集合研修にはいなかったはずだ。
「昼休みにお前のこと見かけたんだ。だから、絶対に声かけなきゃいけないと思ってな。良かったらこれから飲みに行かないか?」
僕は陽斗の提案に同意した。嫌な気持ちに懐かしさが勝った。また、陽斗がどのような道を歩んでこの春、教員となったのかも興味があった。
それに、将来、都立高校の野球部の監督になる場合、陽人はきっとライバルになるのだろう。あの頃と同じように共に切磋琢磨するべき相手になる。
そして研修会場から最寄り駅の水道橋まで歩いて、駅前にある安い居酒屋のチェーン店に入った。
「取り敢えず乾杯だ」
陽斗がそう言って二人は運ばれてきたジョッキを合わせ、お互いに半分くらい飲んで大きく息を吐いた。陽人に会うのは高校の時以来だからもちろん一緒に飲むのは初めてだ。
「どっちから話す?」
陽斗が聞いた。僕は思わずニヤついた。
「お前から話せよ。俺のことはどうせ誰かから少しは聞いてるんだろ?」
聞いた陽斗も少しニヤついた。
「そうだな。K体育大に行ったこと、卒業してすぐに特別支援学校に採用されたことはお前のおふくろさんから聞いてる」
「おふくろから?」
おふくろからそんな話を聞いたことのない僕は少し驚いた。
「去年・・・、だったかな?たまたま街でばったり会ってね。ちょっとだけ立ち話したんだ。俺の近況も話したんだけどそのことは聞いてないんだな」
「ああ、聞いていない」
おふくろは僕に気を使っているのだろう、高校に関することは話題にもしない。
「俺はあの後、夏の大会の後だ。猛勉してT学芸大に入ったんだ。お前は聞いてないだろうけどな」
「T学芸大っていったら国立じゃないか」
「そうだ。俺は案外頭が良いんだ」
陽斗は笑って再びジョッキに口をつけた。
「まあ、俺よりは断然、頭良かったよな」
「それでT学芸大でも野球部に入って、しばらくするとエースになって、T学芸大は東京の大学のリーグ戦にも参加しているからプロのスカウトの目にも止まるようになったんだ」
もはや僕の住んでいる世界とは別世界の話だ。
「スカウトされたのか?そんな話聞いてなかったけど」
「それでドラフトでL球団に指名されて、入団したよ」
僕は大学時代野球部にいたし、野球には興味はあったからプロ野球も見ていたが、陽斗がプロ入りしていたというのは初耳だった。
「プロになったのかすげえなあ」
僕は腕組みをし、尊敬の眼差しで陽斗を見た。
「プロっていっても育成契約だよ。あれはプロじゃない。契約金も年棒も微々たるもんだった。最初から教員になってた方が金銭的には良かったんだろうと思う。手に入ったのは元プロ野球選手という肩書だけだ」
「それにしてもすごいじゃないか。さすがは陽斗だなあ」
「まあ、たとえ育成契約だったとしてもNPBのプレイヤーだったことは事実だからそれは自慢できると思う。しかし、所詮自己満足で、二年やったけど駄目だった。球団からは慰留されたけど、自分でもう無理だと思った。幸い俺はT学芸大出てるから教員免許がある。それでこっちに来たってわけだ。面白かったのは大橋啓人覚えてるかな?」
「大橋?」
僕は首をひねった。言われて思い出す顔はない。
「西東京大会の準決勝で戦ったエースで四番だよ」
「ああ、あいつか。あいつは一位指名でどっか入ったんだよな?」
一位指名なら新聞に大きく出るし、僕も知っている。
「高卒ルーキーでな。しかし、四年たったら俺と同じL球団に拾われて育成契約さ。あいつもプロでは使い物にはならなかったってことだ」
「あいつと同じ釜の飯食ったのか?」
「結果的にはそういうことだ。でもあいつも育成二年目でもう終わりなんじゃないのかな。俺が辞めるとき俺が教員免許持ってるってことでさんざんうらやましがられたよ。自分も大学行けば良かったってそう言ってた。あいつがその後どうなったのか、今何しているのかは知らない。でもあいつは俺と違って数千万円の契約金があるはずだからそれでしばらくは食いつなげるんじゃないかな」
陽斗はお通しの小鉢を取った。
「しかし、お前はまだ若いしまだまだやれるんじゃないのか?」
「いや、俺はもう無理だ。高校の時に肩を使い過ぎた。故障するのは時間の問題だったんだ」
陽斗は僕と目を合わせることなく、箸でお通しをいじりながら言った。
僕は黙った。高校時代に肩を使い過ぎたというのであればそれは僕の責任でもある。僕は絶対的エースだった陽斗に頼りすぎた。一年生の時から連投に次ぐ連投で、あれは酷使以外の何物でもなかった。
「俺のせいだな・・・」
僕はうつむき加減に行った。陽斗がハッとした。
気まずい空気が流れた。
「ゴメン、嫌なこと思い出させたな。野球の話はやめよう。・・・話題を変えよう。・・・じゃあ、永田の話なんかどうだ?・・・永田とは相変わらず音信不通だな?」
陽人が話題を変えた。気まずさを振り切るための無理やりの話題変更といった感じだった。
「ああ、望桜か。・・・もちろん音信不通だよ。あたり前だろ。陽斗とだって話すのはあの時以来なんだぞ」
「そりゃそうだな。あいつもお前に対しては散々怒ってたよ。いつまでいじけてんだって言ってね。最後は俺に対して怒ってたなあ。お前がフォアボールなんか出してるからこうなるんだってね。まあ、それは良いとして、実は永田とは大学が一緒でね。今でもLINEでつながってたりするんだ」
「えっ?あいつもT学芸大に行ったのか?」
忘れていた望桜の記憶が急に蘇った。