ピュアな心に花束を   作:山田甲八

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七 妹

 怒っているかもしれないという僕の思いは杞憂で、横堀校長は僕を笑顔で迎え、応接を勧めた。

「日曜日はありがとうございました。それと申し訳ありませんでした。あんな不甲斐ない試合をしてしまって」

 頭を下げる僕に横堀校長は笑って応えた。

「結果は最初から分かっていました。それでもチャレンジしただけでも私はすごいことだと思っています。それにC女子高のシートノック。あれはすごかったですね。芸術的ですらあった。ああいうものを見ただけでもあの子達にとっては良い経験になったと思いますよ。何はともあれお疲れ様でした。相沢先生が一番大変だったんじゃないですか。相手校を探すのも相当苦労されていたと聞いています」

「ご存じでしたか?」

「十数校には電話されたんでしょ?そんなことをしていて校長の私の耳に入らないわけありませんよ」

「はあ。スミマセンでした。一人で突っ走ってしまって」

「いえいえ、何も問題ありません。実を言いますと、相沢先生はあまり意識していらっしゃらないかもしれませんが、教育庁は相沢先生に注目しています。今まであまりいなかったタイプの先生ですから」

「はあ?」

「先生は教育庁の希望の星なのです」

 言われて僕は首をかしげた。

「おっしゃることの意味がよく分かりませんが」

「先生は一体どれだけの大人があの子達と真剣に向き合っているとお考えですか?」

 改めてそう言われると僕にも理解できる。あの子達と真剣に向き合っている大人は非常に少ない。僕だって特別支援学校に配属されたからあの子達と真剣に向き合う機会を得たが、もしこういう機会が得られなかったら興味すら持たなかったかもしれない。

 横堀校長が続けた。

「あの子達、本当は良いものを持っているんです。しかし、残念ながら良い大人に巡り合えずそれを引き出すことができない。相沢先生はその数少ない大人の一人です。だから相沢先生は希望の星なのです」

「僕はただソフトボールを楽しんでいるだけです」

 不意に褒められた僕は少し照れ臭そうに言った。

「それで良いのです。あの子達とソフトボールを楽しむことすらできない大人がほとんどなのですから。C女子高の校長先生には後で私から電話をしてお礼を言っておきます」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 言って僕はもう一度頭を下げた。

「ところで先生、そろそろ人事のことを考えないといけないのですけど、どうでしょう?」 

 横堀校長はそう言って話題を変えた。

「はあ」

 突然の話題変更に、さらには昨日の今日で頭が混乱していてついていかれない。

「先生はここの勤務、もう三年になりますけど、異動は希望されますか?もし普通の高校への異動を希望されるのであれば、今の私は随分、先生のお役に立てると思うのですが」

 そう来るとは思わなかったので少しまごついた。野球部の監督になって甲子園に行くという遠い夢はそのままだがあの子達が健常者に勝つのを見届けたいという思いもある。

「先生が配属された初日だったでしょうか、他の新任の先生達と辞令交付の後、ここで少しお話しましたよね?」

「あっ、はい、覚えています」

「あの時、先生は甲子園まで後もう一歩だったという話をされていましたね?」

 確かにその話題が出て初日から少し嫌な気持ちになったことは今でも覚えている。

「実を言いますとね、私はあの日、神宮球場で先生の試合を見ていたのです」

 それを聞いていつになく嫌な気持ちが蘇った。吐き気がしてきた。

「ひどい試合でしたね。雨がザーザー降りで。私は、あの試合を生で見ていたから、先生がとても悔しい思いをされていることも知っています。だから、もし、先生がどこかの高校の硬式野球部の監督になって、今度は監督として甲子園を目指したいというのであれば、私は先生のことを応援したいと思っています」

「・・・・・・」

「私が野球をやっていたことは先日、お話ししましたよね?」

「はい。校長先生は身体つきがしっかりしていらっしゃいますから何かスポーツに打ち込んでいらっしゃったんだなとは思っていましたが、野球と聞いて納得しました」

「私は元々野球少年で学生の頃は真剣に野球に取り組んでいました。相沢先生と一緒で甲子園も目指しました」

「そうだったんですか」

「私の母校は強豪校でしたから私が在学中に甲子園に出場したこともあります」

「甲子園の土を踏まれたんですか?」

 僕がビックリして聞くと、横堀校長は首を振った。

「残念ながら私は補欠にもなれませんでした。だから学校は甲子園に行きましたが私は母校のユニホームを着て、アルプススタンドでメガホンを叩いていただけです。それを甲子園の土を踏んだとは言わないでしょう」

「はあ」

「それから色々あって、私は東京都の教員になりました。必然的に都立高校を応援することになり、私立全盛の今の時代にあって、何とか都立高校を甲子園に行かせられないかということを考えるようになったんです」

「校長先生ご自身はもう目指さないのですか?監督として行くという」

「私はもう無理です。管理職になってしまいましたから。ですから、この私の夢を相沢先生に託したいのです」

 それまでニコニコしていた横堀校長が一転、真剣なまなざしで言った。

「スミマセン、少し考えさせてください」

 僕は素直にそう答えた。朝、いきなり言われて二つ返事で答えられる問題ではない。そうでなくても昨日の今日で頭が働かないのだ。

「それは結構ですが、人事は生モノです。賞味期限があります。急がないと来春の異動には間に合わないかもしれません。来春以降で良いと思っても、今度は私が転勤してしまうかもしれない。そうすると相沢先生の面倒を見ることは難しくなります。だから、考えていただくのはもちろん良いのですが、早めに結論をいただけるとありがたいです」

「分かりました。早めにお知らせします」

 始業時間が近付いていたので僕は横堀校長に一礼し、校長室を出た。

 

「怒られちゃいました?」

 僕が職員室の自席に戻ると隣の矢内先生が心配そうに聞いてきた。机の上では授業の準備をしている。

「・・・いや、別に怒られた訳じゃありません」

「そう、何の話だったんですか?随分長かったけど」

「異動の話ですよ」

 本当は褒められたので正直に言っても良かったのだが、何となく照れ臭かったのでそう答えた。

「そうか。相沢先生、もう三年になるんですもんね。それで何て答えたんですか?」

「えっ?何てって?」 

「ここに残るか、出るのか、それを聞かれたんでしょ?」

「・・・、ああ、そうですね・・・少し考えさせてくださいって言いました」

 始業時間が近付いていたし、ややこしくなるので野球のことは言わなかった。

「それなら」

 それまで事務机に向かって手を動かしていた矢内先生が手の動きを止め椅子を回転させて僕の方を向き、僕を見据えた。

「ここに残っていただけません?」

 僕はその発言内容よりもいつもは冷静なはずの矢内先生が少し興奮気味に力強く言ったことに違和感を覚えた。目力もあった。

「はあ?」

「もし、相沢先生がどうしてもここを出ていきたいと言うのなら止めはしません。先生も何か思いがあってこの世界に身を投じたのでしょうから。その思いは貫いてほしいし、むしろ応援したいと思っているくらいです。でも、もし迷っているなら絶対に残ってほしいんです」

「どうしてですか?」

 僕は矢内先生のその言葉の裏にある熱い気持ちの理由が知りたかった。

「この三年間、私は相沢先生とご一緒させていただいて本当に楽しかった。正直、今まで私とペアを組んできた先生にはロクな先生がいなかったんですよ。やる気のない先生ばかりでした。中にはうちの学校を『プリズン』と言っていた先生もいたんですよ」

 採用前の下見の時に校門のところで声を掛けてきたあの先生だと思ったが、口には出さなかった。

「でも、先生は違いました。あの子達と真剣に向き合い、あの子達が抱えている本当の課題に取り組んでいました。先生は体育の先生ですから私ができないこと、やりたかったけどできなかったことも一杯できました。だからもし迷っているのであればいつまでもあの子達に寄り添っていてもらいたいんです。あの子達のために」

「・・・・・・」

 僕が何も言えないでいると始業チャイムが鳴り、矢内先生は立ち上がった。

「相沢先生。先生は謙遜してるかもしれないけど、先生は素晴らしいです。どんなことがあっても、それこそ生徒のお漏らしの世話までしなければいけなくても、泣き言一つ言わない。先生こそ真の教育者です」

 矢内先生は最後に一言そう言うと、教材を持って教室に向かっていった。

 

「よし、少し休憩しよう。水分補給だ」

 ボロ負けの翌日でもソフトボール部の練習は普通にある。

 放課後のグラウンドで生徒達はいつもと変わらず、練習に励んでいた。ボロ負けのショックは少しも見えない。

 横堀校長も凛としていたし、ボロ負けでショックを受けていたのは案外僕だけなのかもしれなかった。

 そんなことを考えながら水分を取る生徒達を見ているとキャプテンの大地が僕のところに寄ってきた。

「先生、昨日のC女子高の監督って高校時代のクラスメートって言ってたよな」

 大地がニタニタしながら聞いてくる。

「ああ。先生は野球部のキャプテンであっちの永田先生はソフトボール部のキャプテンだったんだ。同じクラスになったのは一度だけだったけどな」

「えらい美人だったな」

 こういうことを話す大地は普通の男の子だ。

「そうか?大地はああいうのがタイプか?」

「彼女だったのか?」

 子ども達の質問は残酷で容赦ない。

「そうだ。彼女だったんだ。今となっては元カノというところだな」

 僕は冗談ぽく言った。

「じゃあデートにでも誘えば良いじゃないか。どうせ試合してくれたお礼をしなきゃいけないんだろ?『お礼と言ってはなんですが、一緒にお食事でも』とか言って誘えばよりが戻せるかもしれないな」

 大地は冗談ぽく言ったが僕はそれを単なる冗談と受け止めることはできなかった。

「先生、どうせ今、彼女いないんだろ?丁度いいじゃん」

 何も知らない大地は無責任に煽ってくる。

「まあ、お礼の電話はしないといけないな」

 ボロ負けのショックでそんなことも忘れていた。本当は当日の夜にでも電話をするべきだったのだ。

 食事に誘えばよりが戻せるかもしれないというのはその通りかもしれなかった。高校時代、別に喧嘩別れしたわけでもなかった。あの事件が起こるまでは望桜と僕は仲の良いカップルだった。あの神宮球場での出来事のショックで僕が望桜を含め、誰とも話をしなくなっただけだったのだ。

 実際、僕が今回、連絡した時、望桜は何事もなかったかのように、自然に僕と接してくれた。LINEもブロックされていなかった。それどころか、メッセージを送ったら間髪入れずに電話がかかってきたのだ。

 もっとも望桜と僕は高校時代、それほど深い仲でもなかった。お似合いのカップルとして冷やかされてはいたが、それは校内だけの話で、お互い、休日返上で部活にのめりこんでいたため外でデートしたことは一度もなかったのだ。 

 これは案外、やり直すチャンスなのではないか、これまで報われたことのなかった僕に対して神が与えてくれたギフトなのではないか。僕はそんな都合の良いことを考え始めていた。

 僕はひと時思いにふけった。

「先生、そろそろ練習再開しようぜ」

 ぼうっとしている僕を大地が促し、僕はハッとした。

 

 その日の夜、僕は望桜のLINEに電話を掛けた。

 本当はC女子高に電話をかけ、望桜を呼び出してもらうのが筋なのかもしれない。あくまでも練習試合のお礼で、プライベートでの話ではないのだから。

 しかし、そうすると大地にアドバイスされた「お礼に食事でも」の展開がなくなってしまう。学校の電話で他校の先生をデートに誘うなど非常識な話だ。

 大地は望桜のことを「えらい美人」と言っていたが僕もそう思った。あたり前の話だが、高校の時に比べてはるかに垢抜けした。まぶし過ぎるくらいだった。僕は高校生の望桜しか知らなかったのだ。

 LINE通話のコール音が数回聞こえ、望桜が出た。

「もっしも~し。昨日はお疲れ様でした」

 望桜の元気な声が聞こえた。

「夜分遅くにスミマセン。昨日はありがとうございました」

 望桜の元気さに比べて僕の方は相変わらずぎこちない。

「いいえ、こちらこそ。もっと手加減すれば良かったのかもしれないけど、部員には日頃から全力でプレーするように指導しているし、相手が特別支援学校だからって手を抜かせることはできなかった。それに全員ごつい男子だったしね」

「いや、それで良かったんだよ。うちの子達にも良いものを見せることができた」

「うちの校長も喜んでたよ。良いボランティア活動ができたってね。私学の校長会で自慢できるって、そう言ってた」

 それを聞いて僕は軽いショックを受けた。分かってはいたが普通の学校にとって特別支援学校との試合など所詮はボランティア活動なのだ。

 僕は気を取り直して本題に入った。

「それで、お礼と言っては何なんだけど、一緒に食事なんかどうかなと思ってさ。久し振りに会えたんだし、ごちそうするよ。どうだろう?」

 もやもやしていた割には滑らかにセリフが出た。

「それって放課後とかだよね?」

 望桜が確認する。その口調からは明らかに警戒心が読み取れた。やはりいきなりの誘いは良くなかったのかもしれない。

「あっ、まあ、休日とかでも良いんだけど。望桜が空いていれば。でもそっちは休日でも部活あるのかな?うちは基本、休日は部活ないけど」

「休日ねえ・・・」

 望桜がさらに言い淀む。

「二人きりが嫌だというのなら陽斗を呼んでも良いし。陽斗も久し振りだし」

 僕は自らハードルを下げた。確かに再会していきなりデートではためらいもあるだろう。でも陽斗と三人というシチュエーションは高校時代にも何度もあったし、三人で飲みに行くというのもおかしな話ではない。高校時代、同じ時を過ごした三人が数年後、三人とも教員になり、偶然再会して飲みに行くというのは自然ですらある。

「平日は子どもを保育園に迎えに行かないといけないから私は無理だ」

 僕の心配をよそに望桜は無機質に言った。

「えっ?子ども」

「休日は休日で、部活があるのはもちろんだけど、溜まってる家事もこなさないといけないからやっぱり難しいね。ごめんね。せっかく誘ってくれたのに」

「望桜、・・・結婚してるの?」

 陽斗からその話は聞いていない。

「やだ、聞いてないの?私のこと陽斗から聞いたって言ってたからてっきり知ってるもんだと思ってた。陽斗のこと結婚式にも呼んだし、子ども生まれたときにはお祝いもくれたのに」

「だけど、名字、永田のままでしょ?この前、学校に電話くれたときも」

「そんなの旧姓使用だよ。今時、珍しくないよ」

「早くない?」

「まあ、世間相場よりちょっと早かったけど、でも結婚して子どもがいてもおかしくない年齢だよ。一昔前はクリスマスケーキなんて言葉もあったくらいなんだから」

「そうだね。俺なんかまだまだ先だと思ってたけど」

「だから、弥麻人のその気持ちだけ受け取っておきます」

「はい。とにかく試合してくれてありがとう」

「どういたしまして。じゃあおやすみなさい」

「おやすみなさい」

 そう言って電話は事務的に切れた。切れて良かったと思った。あれ以上会話を続けるのは正直辛かった。

 何だか泣きたい気持ちだった。昨日のボロ負けよりもはるかにショックが大きかった。

 しかし、その理由は分からなかった。ボロ負けの方がはるかにショックが大きいものであるべきなのにそう思えない、そんな自分にも腹が立った。

 僕はそのまま部屋のベッドに横になった。

「望桜・・・」

 天井を見つめたままそうつぶやいた。

 

「ピピーッ」

 ホイッスルの音がグラウンドに響く。

「イチ、ニッ、サン、シー、ゴー、ロク、シチ、ハチ」

 僕が大声で叫びながら整理運動を始めると、グラウンドに散っていた部員達が身体を動かしながら僕の近くに集まってきた。

 B学園ソフトボール部の練習が終了するときの光景だ。

 冬至が近付いてきていてもう日は暮れ始めている。

 部員が丸くなると不意にキャプテンの大地が身体を動かしながら僕の側に近付いてきた。

「先生、あれこないだのピッチャーじゃないか?」

 腕を回しながら大地は顎をしゃくって校門の方を示した。

 視線を送ると校門の側には制服を着た高校生と思われる少女が立っていた。

 その顔は忘れるはずもない、先日の練習試合でパーフェクトなパーフェクトをやってみせたC女子高のスーパーエースだった。

「何しに来たんだろう?」

 大地が続けた。

 理由は何であれ、勝手な他校訪問は禁止されている。生徒間同士でトラブルになるとよろしくないからだ。

「なんだろう?ちょっと行ってくる。大地、後、頼む。終わったら解散させてくれ」

「了解!」

 大地はそういうと僕の掛け声を引き継いだ。

 僕は駆け足で校門に向かった。

 少女はスマホをいじっていたが、僕に気が付くと笑顔で大きく手を振った。

「やあ、先日はどうも。何かご用ですか?」

 僕はそんな風に声を掛けた。

「お久し振りっ!ねえ、あたしのこと覚えてる?」 

 少女はいきなりそう言った。

 一度顔を合わせているとはいえ、ほぼ初対面の、しかも他校の先生に向かっていきなりタメ口で来たので僕は少し面食らったが、すぐに気を取り直した。

「もちろん忘れるわけないさ。うちのチームが完璧に抑えられたんだから」

 少女に合わせて僕も気さくに言った。

「そうじゃなくて、・・・ねえ、覚えてないの?二人でデートもしたでしょ?映画観に行ったりしたじゃない」

 そう言われて頭の中が混乱した。記憶を整理したが追いつかない。

「そっか、ホント久し振りだもんね。あたしがあまりにも良い女になったんで気付かないのかな?・・・優里奈だよ、優里奈。永田望桜の妹の優里奈だよ」

 そう言われても僕はなお、自分の記憶を整理していた。

 

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