練習が終わると、僕は優里奈とならんで通学路を飛田給の駅まで並んで歩いた。
西日が右から二人を照らす。
優里奈と並んで歩いていると何かとても懐かしい気持ちがした。
高校の頃、僕は野球部の練習の後、望桜と二人で並んで通学路を歩いたものだった。時々、二人でファストフード店に寄り道なんかもした。
「ねえ、どっかでお茶しない?」
僕が思い出にふけっていると不意に優里奈が言った。
「あっ、ああ、お茶か」
「まあ、今日の反省会ってことで。初日だったし」
「そうだなあ」
監督とコーチとはいえ、二人でカフェに入るのは何となく気まずい。教育公務員には他の職業とは比べ物にならないくらい高貴な倫理性が求められるのだ。その倫理性は警察官や税務職員をもはるかに凌ぐものであり、もし匹敵するものがあるとするならば宮内庁職員くらいのものだろう。
しかし、今日は練習初日だし、年度初めとして一年間の練習方針を話し合う必要はある。僕はそんな風に自分に言い訳し、優里奈を駅の近くのカフェに誘おうとした。
ところが優里奈はスタバの新作が飲みたいと言い出し、飛田給の駅の近くにはスターバックスはないので結局、府中まで京王線で移動して、駅ナカのスタバに入った。
夕方ということもあり、あいにくテーブル席は満席で優里奈と僕はカウンター席に並んで座った。
僕はホットコーヒーを頼んだが、優里奈はあの日のようにレジのお姉さんにスマホの画面を見せながら複雑なトッピングを注文し、訳の分からなくなった飲み物をカウンターの上に置いていた。
「じゃあ、まずはカンパ~イ!」
そう言って優里奈はグラスを僕のコーヒーカップにぶつけ、ストローをすすった。
「今日は初日にしてはうまく行ったね」
優里奈はポツリと言った。僕はコーヒーに砂糖とクリームを入れスプーンでかくはんする。
「うまく行き過ぎだよ。ボールの握り方から入るとはなあ。僕にはそんな視点はなかったね。確かにキチンと握ることができなければキチンと投げることはできない。何で今まで気が付かなかったんだろう。ボール握るなんてあたり前のことだと思ってたからかなあ」
僕はつぶやくように言った。
「それは基礎からやってないからだよ。あたしはソフトボールの基礎の基礎から、それこそボール握るところから始めたからね。これで少しは強くなれそうかな?」
「そうだね。その調子で指導してくれれば」
「健常者のチームにも勝てるかな?」
「まあ、C女子高にはかなわないけどね。実は、秋頃かな、市民スポーツ大会っていうのがあるんだ。それこそ市内のクラブチームが老若男女問わず参加してくるんだけど、その大会なら近いうちに初戦突破くらいはできるんじゃないかなって今は考えてる」
「できそう?」
「まあ、専門家がコーチに入ってくれたし、今年は無理でも近いうちにはね」
「そっか。じゃあ、あたし、少しは役に立ってるかな?」
「少しなんてもんじゃないよ。さっきの指導も、ホント、生徒の視点に立って指導してて、初めてなのにすごいなあと思ったよ。しかも手弁当で来てくれて。感謝してますよ」
僕は素直な気持ちを伝えた。
「そっか、感謝してくれるのか。じゃあ、あたしに御礼とかしたい気分だよね?」
優里奈が不気味な笑顔で僕を見た。
「実はね、あたしから弥麻人先生にお願いがあるの」
僕は嫌な予感がした。嫌な予感しかしなかった。
「お願いって何?僕にできること?」
「うん。でもそんなに難しくないよ。弥麻人先生にとっては簡単なことだよ」
「だから何?」
「あたしの勉強を見てほしいの?」
「勉強?」
「そう。あたし、教職課程を受けるって言ったでしょ?でもあたしバカだからさあ、授業についていく自信がないし、教員採用試験も自信がない。だから色々教えてほしいのよ。個人レッスン」
「早くない?まだ授業始まってないんじゃないの?」
「始まってないよ。てか、オリエンテーションもこれからだよ。入学式が終わったばっか」
「じゃあ、大学が始まって、しばらくしてからでも良いんじゃない?まだ、一年生でしょ?少し様子見てからでも。四年間あるんだし、早過ぎると思うけど」
「それじゃ間に合わないってお姉ちゃんには言われてるの。だから一日も早く弥麻人先生に見てもらえって」
「はあ?」
「実はね、白状しちゃうと、あたしがB学園のコーチを引き受けることになった最大の理由はそこだったんだよ。黙ってたけど」
「どういうこと?」
「つまりね、あたしには教員採用試験をマンツーマンで指導してくれる家庭教師が必要だったてこと。そして弥麻人先生に白羽の矢が当たっちゃったってわけ」
「そんなの望桜に見てもらえば良いだろ?」
「あたしもそう思ったよ。でもお姉ちゃんは、知ってるでしょ?赤ちゃんがまだ小さいから無理なのよ。それにお姉ちゃんはT学芸大で卒業すれば自動的に教員免許もらえる大学だったから教職課程のことも知らない。随分早くにC女子高の採用が決まったから都の教員採用試験も受けてない。お父さんやお母さんは受けた経験があるけど、それは何十年も前の話だから役に立たない。だからね」
そう言って優里奈は僕の目の前で掌を合わせ、懇願の眼差しをした。
なるほど、父親と望桜は最初からそういう作戦で優里奈をB学園に送り込んだのかもしれない。
僕は憮然とした表情でコーヒーをゴクリと飲んだ。
秋になり、B学園ソフトボール部は市民ソフトボール大会に参加することとなった。
健常者のチームと試合をするのはほぼ一年ぶり、C女子高との練習試合以来だ。
これまでもこの大会は開催されていたが、B学園が参加するのは僕が赴任する前も含めて初めてである。それまでは健常者の大会に参加することなど考えもしていなかったのだ。
一回戦の相手は市内の自治会のチームでメンバーの平均年齢はかなり高く、僕は対健常者戦初勝利を期待したが、結果は十点以上の差をつけられての大敗だった。
この日は前校長で今は教育庁の指導主事をしている横堀先生も応援に駆け付けたが、初勝利をプレゼントすることはできなかった。
試合終了後、他の試合の審判を務めるため優里奈と僕は少し残り、多摩川の土手に腰掛けて他の試合を見ながら少しボーっとしていた。
十一月にしては気温が高く、晴れ渡った気持ちの良い一日で会場の是政公園は小春日和と呼ばれる陽気だった。
「何か口数少ないけど負けたのショックだった?」
僕が黙っていると優里奈が聞いてきた。
「まあ、もう少し良い戦いができると思ったけど」
「十分頑張ったよ。去年の試合覚えてるでしょ?」
もちろんだ。忘れるわけがない。
「あれは全然試合にならなかったじゃない。バットに当てることすらできなかったんだから。でも今日は三塁にまで行けたんだし、ファインプレーもあった。今日は点が取れなかったけど、来年は取れるようになるんじゃない。それでいつかは勝てるようになる」
「分かっちゃいるけど、現実を突きつけられるとつらいなあ」
「あんまり結果出すの急がない方が良いよ。あたしもそうだけど、他の人に比べてゆっくりっていう人が世の中にはいる。あの子達もそう。でもゆっくりだからダメってわけじゃない。周りの大人がじっくり付き合ってあげなきゃ」
そう言われると優里奈自身もゆっくりっていう人の一人なのかもしれない。懇願されて優里奈の勉強を見るようになったが、学力はひどいものだ。
「それに大切なのはソフトボールを楽しむこと。今日の試合思い出してよ。みんな笑顔だったでしょ?エラーしてもドンマイとか言ってヘラヘラ笑って。大切なのはそこだよ」
審判のお手伝いが終わると優里奈と僕は徒歩で府中駅に向かった。
是政公園から府中駅までは歩くと二十分くらいの時間がかかるのだが、バスが一時間に二本くらいしかなく、結局、歩いた方が早く着く。
大國魂神社の前を過ぎ、駅への方向を優里奈と並んで歩いていると不意に「あれ~」という声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
優里奈が声を上げる。望桜だった。
望桜は秋らしいカラーのワンピースにカーディガンを羽織り、黒いパンプスを履いていた。十一月にしては暑いからか、肩甲骨の辺りまで伸びた髪を一つに結わいている。
相変わらず抜群のスタイルで子持ちとは言われても信じられないくらいだ。
「どうしたの今日は。二人でおデイト?」
望桜が冗談ぽく聞いた。
「デートの訳ないじゃん。こんな格好でデートすると思う?」
優里奈が軽くいなした。
優里奈と僕はソフトボール大会の帰りでB学園のお揃いのユニホームを着ている。
「二人ならバッティングセンターでデートとかもありそうだけどね。一応、ペアルックじゃない」
「バッティングセンターにユニホームは着ていかないよ。お姉ちゃんは?」
「ああ、買い物だよ。旦那が見ててくれるって言うんで久し振りに羽伸ばしてるところ」
そう言うと望桜は僕の方を向き、「妹がいつもお世話になっております」と言って頭を下げた。
「いえいえ。僕の方こそ妹さんにはお世話になって。今日も休みだっていうのに付き合ってもらって」
望桜と会うのは久しぶりだが、他人行儀がちぐはぐだ。
「試合?」
望桜は優里奈と僕、どちらともなく聞いた。
「そう。負けちゃったけどね。今、帰るところだよ、・・・そうだ、せっかくだから、久し振りにお姉ちゃんと弥麻人先生でお茶でもしてくれば。あたし先に帰ってるから」
「じゃあ、優里奈もくれば良いじゃない」
「あたしはやんなきゃいけない課題があるからさ。じゃあごゆっくりね」
言うと優里奈はすたすたと歩いて行ってしまった。振り返って手を振ることもなかった。
「相変わらず最後まで話聞かないなあ」
望桜は僕に聞こえるようにポツリと言った。
望桜と僕は以前、優里奈と行ったことのある駅ナカのスターバックスに入った。
やはり夕方の混んでいる時間帯で二人はカウンター席に並んで座った。
前に優里奈ともこういうシチュエーションがあったが望桜は優里奈と違って複雑な注文はしないし、「カンパ~イ」と言ってグラスを合わせることもない。
カウンターの上にはホットコーヒーのSサイズが二つ並ぶ。いつも優里奈の相手ばかりしているので望桜が何だかとても大人に見える。
既に一児の母なのだから大人に見えてあたり前なのだが。
「ねえ、優里奈どう?うまく行ってる?」
望桜が少しいたずらっぽい表情で聞いた。
「そうだね。コーチとしては良く指導してくれてるよ。子ども達にもうまく接してくれてて、何しろソフトボールの技術力は本物だから俺も勉強になる」
僕は普通に説明したが、望桜は不満そうな表情を見せた。
「そう来たか」
「そう来たかって?」
「今の『優里奈どう?』には少なくとも三つの意味があったんだけどまあ良いや。そのうちの一つ目。コーチとしてはまずまずなのね」
「まずまず以上かもしれない。夏休み前頃、いきなり部員達にウインドーミルを教え始めたんだ」
ウインドーミル投法は腕を風車のように回して投げる投げ方で相当の技量がいる。
「はあ、そんなの無理じゃない?」
「俺もそう思ったんだけど、子ども達がさ、教えてくれって言うんだよ。自分達もコーチみたいにカッコ良く投げたいって。それでまあ静観してたんだけど、最近、一人の子が投げられるようになった。教わる方もそうだけど教える方もなかなか根気がいるよ」
「へ~っ、あの優里奈が根気強いとはね」
「そうでなくてもうちの生徒、難しい面があるけど、それでも子ども達の目線で接しててうまくコミュニケーションを取ってるよ」
「まあ、優里奈もそんなにレベル高くないからね」
望桜が軽い口調で言った。僕はB学園の生徒をバカにされたような気がして少しもやっとした。
「・・・で、二つ目は?」
話題を変えたくなった。「少なくとも三つ」と言っていたから二つ目と三つ目もあるのだろう。
「二つ目は優里奈の勉強よ。教員採用試験の準備。弥麻人には迷惑かけてると思う。ホントありがとね」
望桜は、今度は本当にすまなさそうに言った。
「そうだね。そっちの方が問題だね」
「うまく行ってない?」
「子ども達とコミュニケーション取るのは上手なんだけど、いかんせん学力がなあ。正直、教員採用試験は厳しいと思うよ」
「それはある程度覚悟してる。優里奈、ぶっちゃけ頭良くないもんね。まあ、まだ時間あるんだし、何とかお願いしますよ」
そう言って望桜は手を合わせて僕を拝んだ。
「それに一次試験受かっても、あの態度じゃ二次の面接とか厳しいと思うけど」
普段の優里奈は僕以外の学校関係者に対してもフランク過ぎる。校長先生にすらタメ口で接するのだ。それが優里奈の持ち味だともいえるが、それが教育公務員としてふさわしいかはまた別問題だ。
「ああ、それは良いの。一次さえ突破できれば後は父が何とかするから。でも一次だけは父の力でもどうにもならない」
それを聞いて僕はうなった。確かに父親は教育庁の重鎮だと聞いている。前校長の横堀先生をして「雲の上の人」と言わせしめる存在なのだ。
「それでも教員は厳しいと思うけどなあ。他の進路も考えれば良いのに。今のところ教員一択でしょ?あの性格だったらサービス業とか使える業種もあると思うけど」
「そうなんだけど、うちって父も母も教員の家系でいとことかもほぼほぼ教員なのよ。だから優里奈だけが教員じゃないってなるとかわいそうなの。それに親の希望でもあるしね。優里奈を教員にしたいって」
「親の希望ねえ。まあ、本人にやる気がなければ話にならないけど、今のところ本人には教員になる意思が強くあるみたいだから、後は今後の努力次第だね」
「弥麻人の努力次第ってことね」
そう言われたので僕はもう一度もやっとした。
「・・・それで三つめは?」
また話題を変えた。
「三つ目はねえ、実はさっきの『優里奈どう?』って質問はこの三つ目のことだったんだけど、弥麻人が優里奈とうまくやってるのかなあということだよ」
言って望桜はブラックのままのコーヒーに口をつけた。
「さあ、うまく行ってるんじゃない?てか、部活の監督とコーチってこんなもんだと思うけど。可もなく不可もなく」
「そうだよねえ。でも、優里奈は『ディズニーはおろかよみうりランドにすら連れて行ってくれない』ってぼやいてたよ』
それを聞いて僕の表情は少し険しくなった。
「そりゃそうだよ。俺にはそんなつもりはないし」
「そうかなあ。さっきもどこのカップルだろうって感じだったけどなあ」
「優里奈と俺は言ってみれば市場経済だよ。優里奈がこれだけのことをしてくれるから俺も優里奈にこれだけのことをしてあげるってね。対等な物々交換だよ」
僕は優里奈のことをそういう目で見たことはない。
目の前の望桜のことはそういう目で見たことがある。今でもそういう目で見ているのかもしれない。でも残念ながら望桜は僕の手の届かないところに行ってしまった。
「正直ねえ、私は弥麻人と優里奈が引っ付けば良いなあと思ってるの」
「はあ?」
「優里奈変わってるでしょ?我がままで人の話をあんまり聞かない。だから弥麻人みたいな優しい男性に支えられないと生きづらいと思うの」
望桜がそう言うとテーブルの上に置いてある望桜のスマホが鳴った。LINEを着信したような音がした。
望桜がスマホを手に取り、画面をいじる。
「ゴメ~ン。旦那からヘルプ要請だ?」
「ヘルプ要請?」
「そう。男の人って偉そうなこと言ってるけどギリギリのところで駄目だね」
そう言って望桜はスマホをバッグにしまった。
「ということで私は急遽、帰宅しなければならないことになりました。今日はありがとう。久し振りに弥麻人と話せて楽しかった」
望桜は席を立ち、「じゃあ、優里奈のことよろしくね」と言って手を振り、颯爽と僕の視界から消えていった。
一人残された僕はカウンターの上のコーヒーに口をつけた。砂糖とクリームが入っているはずなのにとても苦い味がした。
時はせわしく過ぎ去り、優里奈は大学の最終学年を迎え、僕のB学園での勤務も七年目を迎えていた。
その年の八月八日、僕は夏休みにしては珍しく、ソフトボール部の練習を入れていた。
夏休みの真っ最中で、しかもお盆休みが近付いていることもあって出られる人のみ参加ということにしていた。生徒からは夏休みのど真ん中に練習などだるいと不評だったが、表向きは「生存確認」ということで了承を取り付けていた。
その日、練習することにしたのには訳がある。どうしてもその日、優里奈に会いたかったからだ。会わなければならなかったからだ。
優里奈に会うのが目的だから本来、ソフトボール部の練習をわざわざ組み込む必要はない。
しかし、平日の日中は夏休み中で授業がないとはいえ、勤務時間中だから部外者と会うのは気が引ける。ソフトボール以外、優里奈にはB学園に用はないから、もし優里奈に会おうとすると僕の方から優里奈のところに出向かなければならない。これは、ソフトボール部の監督とコーチという間柄があったとしても少し不自然だ。
結局、ソフトボール部の練習を設定して、コーチである優里奈もその場にいるというのが一番、自然じゃないかと思い、この日の午前、あえて練習を設定したのだ。
九時に始まった練習は炎天下の中、休み休み進行し、十二時前には終了した。
この間、優里奈には何の変化も見られなかった。
練習終了後、優里奈は普通に帰ろうとしたので、僕は後を追いかけ、飛田給の駅までの道すがらの喫茶店にランチに誘った。
僕の方から優里奈を食事に誘うのは珍しい。優里奈はキョトンとしていたが、それでもついてきて、クーラーがガンガンに効いた店の中で向かい合った。