機動戦士ガンダム Hollows' Warfare 作:怨是
この日は、
訓練カリキュラムの三日目――実機演習だった。
結論として、俺はまた戦場に立ち、
生き延びることができた。
無傷には程遠く、久々に叱責を受けたが、戦争は生き残ってなんぼだ。
少なくとも、ただの兵士である俺にとっては。
それにしても、モビルスーツとは素晴らしい兵器だ。
あんなものが自立歩行できるのか最初は半信半疑だったが、
連邦が総力を挙げて量産にこぎつけたのも頷ける。
ビームスプレーガンもだ。歩兵の支援には向かないが、
対モビルスーツ戦闘に重きを置いた運用であれば、
それは欠点にはなりえない。
住む世界が変わった、というのは大袈裟な表現だろうか?
オニールは頬に受けた衝撃と共に、ウェーブのかかった黒髪の、大柄な男――エリオット・ノークス大尉からの叱責を受けていた。尻餅を突いた拍子に、ノークス大尉の30メートルほど後ろ、四機のジムの足下で整備員達がせわしなく動き回っているのが見えた。が、その直後に胸倉を掴まれ、体勢を無理矢理直された。
「目を見ろ。初の出撃で生き延びたのはいい。よくやったと思う。だがよ、お前の経験は無駄にするものじゃないだろう!」
「申し訳ありません。大尉」
「謝っただけじゃ話は終わらねえぞ! お前は冷静さというもんを、あの61式戦車の中に置いてきちまったのか?! ええ、どうなんだ! アーヴィン!」
両肩を掴まれ、思わず顔を逸らす。実際のところ、返す言葉も無かった。あの時、取り乱すことなく通信に応じていれば、損害はもう少し減らすこともできた筈だ。ノークス大尉が伝えたいこと、その真意は理解しているつもりだ。肩を揺らされ、視線を戻した。大尉は両目を見開いてはいるものの、顔色は至って平常だった。しかし薄いスカイブルーの双眸からは、必死さが伝わってくる。立場上であるとか、激昂してとか、そういった類いでないことは明らかだ。
「しょぼくれるだけなら士官学校のガキ共でもできる。でもな、八年……八年なんだよ! 勿体ないだろ? 伊達じゃないってことを、俺達に見せてみろ! いいな!」
「は! ご指導、ありがとうございます。大尉!」
両肩の重圧が消えた事を確認するや、オニールはすぐさま――まるで重しを退かしたバネが伸びるように――敬礼した。かつてブートキャンプで鬼軍曹にこってり絞られた癖が、まだ残っていたのだ。暫く叱られることとは無縁だったが、身体というものはなかなかどうして物覚えが良いらしい。その事実に、オニールは少しばかり感謝した。
「頭で理解できたなら、お説教はここまでだな。二日で直して、同僚の連中に舐められないようにしとけよ」
オニールの右肩を二回ほど軽く叩くと、ノークス大尉は整備員のたむろする方角へと去って行った。オニールは報告書を作成すべく自室に向かいがてら、先の戦闘に思いを馳せることにした。あの時の戦闘は……。
*
オニールは恐怖と無念がない交ぜになった頭を二、三度ほど横に振り、雑念を追い払う。窮地に立たされてこそ冷静になるべきだと、これまでの経験が教えてくれた筈だ。
――こうなったら、賭けに出るか?!
スロットルレバーを限界まで押し倒し、ジムのバーニアを最大出力で噴かした。被弾による反動で思った程の速度は出ないが、それでも歩くよりはマシだ。既にシールドは大きく歪んでおり、第三波が来れば使い物にならなくなるだろう。
オニールはそのまま、自機をビル群の瓦礫へと突っ込ませた。急減速を行なうべく機体を反転させた上で。舌を噛み切りそうな衝撃の後、視界が空を向く。足下から重たい音がしたのは、ぶつかった際にビームスプレーガンを取り落とした所為だ。
それからオニールは記憶を頼りに予備電源を作動させ、メインエンジンを停止させた。これで、傍目から見れば黒焦げの残骸だろう。予備電源を作動させたのは通信機とカメラを動かしておくためだ。当然、頭部センサーの光量は落としている。赤外線のみを作動させた場合、よくよく注視せねば目立たないものだ。出撃前にあれこれと弄ったのを、外から確認しておいて良かった。
「こちらオニール伍長。ベイカー軍曹、自分はこのまま残骸に偽装しつつ待機します。連中を誘い込めますか?」
《何とかしてみる》
「申し訳ありません。軍法会議ならびに叱責は覚悟の上です」
《つくづく、可愛げの無い新人だよ。君という奴は》
ベイカー軍曹が溜め息混じりに返答し、通信は終了した。コックピットは暗がりに赤色が混じっただけの、不安を煽る色合いへと戻る。辛抱強く待て。オニールは自身にそう言い聞かせた。
ほどなくして、装甲ヘリの重たいローター音が鳴り響く。そして、空対空機関砲の掃射が開始された。ドップ編隊はその弾幕をかいくぐり、散開して行く。いくら図体の大きいT-VATがその搭載武装も比例して大型化されているとはいえ、できることは牽制程度だ。しかしながら、それこそがゴート1――つまりエリオット・ノークス大尉の狙いなのだろう。散発的に撒き散らされる弾幕のせいでドップは攻撃に集中できない。
これでミノフスキー粒子の濃度が薄ければ文句なしの状況だったが、残念ながら敵はそういった面で抜かりが無かった。いわゆる戦闘濃度と呼ばれる状態にまで、彼らは少しずつ押し上げていたのだ。それも、気付かない内に。おかげでレーダーは殆ど機能していない。
それゆえにオニールは、メインモニタを注意深く観察する必要があった。
間もなく、ベイカー軍曹の機体が横切って行き、ザクが居るらしい方角へとビームスプレーガンを発砲する。
《ホイッスルよりベイカー軍曹へ!》
鈴の音のごとく透き通った、女性の声が入る。サブモニタに、インカムを左手で押さえた赤毛の女性が映った。オニールはサブモニタに続けて目を遣りたかったのを我慢し、敵機の動向を覗う。若い美女の顔を拝んで好機を逃し、あまつさえそれで死んだとあっては地獄で笑い物にされる。何より独断行動の最中なのだから、それ以上の馬鹿な真似は控えるべきだ。
《センサーに手応えあり、攻撃を続行して下さい!》
《こちらベイカー、了解!》
足音が二つ、すぐ近くだ。鼓膜がオニールの脳にけしかける。間もなくだ、そろそろ準備をしておけと、ささやく。付近のT-VAT装甲ヘリが高度を上げている。恐らくは散開したドップを各個撃破するためだろう。細かい指示がどうなっているのかは、こちらでは窺い知ることはできない。通信の混線を防止すべく、それぞれの部隊ごとに周波数が細分化されているのだ。それを、上の人間や作戦本部で統合的に処理する。末端の兵士は各部隊の隊長から、そうして下された命令・指示を聞いて実践するだけでよい。ジオン公国や、連邦軍の他の部隊はどうであれ、オニールが経験してきた方式はこれだけだ。では、限られた情報をどうにかまとめて、その上で判断を下す必要がある。そして、その役目はベイカー軍曹に委ねるしかない。
敵のザクが視界に入る。あと少し近くに寄せて貰おう。ベイカーの射撃はそれほど正確なものではないが、それでもオニールの機体には当てないように配慮してくれた上でのものだというのは、すぐに解った。射線上にこちらの機体が居ない時にだけ撃っていたためだ。そのせいで何度か斜めに誘導せざるを得ず、遠ざかったり、近付いたりを繰り返していた。その間にも、T-VATはドップに攻撃を加えた。時たまどちらのものともつかない機銃が自機をかすめたのは肝を冷やしたが、ルナ・チタニウム製の装甲は戦車のものより頑丈に出来ているらしい。尤も、それだけの剛性がなければこんな巨体を走らせられる筈もあるまい。
……いよいよザクが射程圏内に収まった。コンソールを幾つか叩き、メインエンジンを再始動させる。駆動音、震動、モニタの赤色、それらがオニールの鼓動を早めた。
「アーヴィン・オニール、敵を……ヤります!」
かくしてジムは再び、大地に立った。自機の手元にはビームスプレーガンが無い。足下に転がってしまっていたからだ。今から拾っても間に合うまい。オニールは背中の近接兵装『ビームサーベル』が破損していないことを確認してから、操縦桿のスイッチを親指で押し、スロットルレバーを引く。ジムはぼろぼろの足を引きずりながらも、再び加速した。ビル群に突っ込んだ時ほどではないにせよ、彼我の距離は瞬く間に縮まっていった。ザクの動きが硬いのは、中に居るパイロットが突然の事態に固まっているのだろう。
――行けるぞ、これは!
オニールは思わず舌なめずりをした。しかし――。
《伍長、避けろ! ロケットだ!》
喉から絞り出された声、焦燥感の塊とも取れるベイカー軍曹の声に、オニールは咄嗟にレバーをひねった。フットペダルで逆方向に制動を掛け、他のビルに左肩から突っ込んだ。舌を噛みそうになっただろうと、胸中で恨み言を述べるとほぼ同時に、先程自分が居た場所とあのザクの間にロケットの雨が降り注ぐ。直進していたなら頭部は粉々になっていただろう。ここまででメインカメラをやられなかったのは、もはや奇跡としか言えまい。
安堵も束の間、ザクは少しずつ離れて行く。ベイカーのジムに、マシンガンによる牽制射撃を交えながらだ。オニールの機体に弾丸が飛んでこないのは、恐らく優先順位から外れたためだ。それも道理だ。接近されなければ頭部の豆鉄砲たる60mmバルカン程度しか武装が残されていない、それも昨日今日で乗ったばかりの素人同然の機体なのだから。オニールは無性に悔しくなった。まるで、寄って集って自分だけを無力化しているみたいではないか。モビルスーツに関しては赤子だが、自分は八年も戦車に乗ってきた。あの頃は平和だったといっても、地球連邦政府に対する反政府運動は存在していた。少なくとも戦闘経験は、無い訳ではなかった。
――やめろ、やめてくれ。俺が無為に過ごしてきたみたいに嘲笑うのは!
《伍長、体勢を立て直せ! ひとまず、ビームスプレーガンを回収してから援護しろ!》
再び、ベイカー軍曹の言葉でオニールは我に返った。そうだ。悪態をついている場合ではない。ビームサーベルをバックパックに戻し、空中を念入りに警戒しながら、盾を頭上に構えてビームスプレーガンの下へと向かう。ドップはまた、T-VATの機関砲によって掻き回されていた。今が好機だと、機体を屈めてスプレーガンのグリップを握ろうとしたとき、煙を噴いたT-VATの一機が真横のビルに突っ込んだ。やはり装甲を厚くしても、ヘリの耐久力では高が知れていたということか。心拍数が跳ね上がる。間近に、死そのものを見てしまったからだ。オニールは「ひ」とも「は」ともつかぬ声を短く上げ、それから平静を保つよう努めた。呼吸が整う前に向き直り、ドップに向かってビームを乱射した。それから頭部のバルカン砲も。当たるか否かはもはや問題ではない。相手が脅威に感じてくれればそれでいい。
地上ではもう一機、形状の異なるジムタイプ――恐らくこれが俗に言う『陸戦型ジム』だろう――が到着しており、ベイカー機と共同でザクを追い回していた。ひととおり乱射したのち、自機周辺空域のドップがあらかた去って行ったことを確信した。では改めて、ザクを倒そう。三対一ならばやれる。
……事がそう単純に運んでくれたら、どんなに楽だったか。オニールは操縦桿を今すぐ引き千切って外に捨てたい衝動に駆られた。眼前でベイカー機の右脚部が『ヒートホーク』と呼称される斧で両断され、ビルの残骸に足で押し込まれていた。陸戦型ジムがそのザクにマシンガンを向けてはいるが、数の有利はすぐさま覆された。雲間から何機ものドップが降りてきて、周囲を旋回していたのだ。死骸に群がる鴉の如きその様相からは、どう足掻いても戦術的な敗北が確たるものと思えるだけの絶望感が漂っていた。あれだけけたたましく機関砲の弾幕を張っていたT-VATの姿もいつの間にか消えていたことから、オニールはそれが彼らの全滅であると結論づけた。
《連邦軍。武器を捨てろ》外部音声で、しわがれた声が流れる。十中八九、あのザクからだ。ザクのパイロットはなおも続ける。
《俺達が作戦領域から離脱するまで、そっとしておいてくれよ。お仲間の犠牲は少しでも減らしたいだろう?》
「くそったれ!」
隣の陸戦型ジムがマシンガンを地面に落としたのを見て、オニールはもはや自暴自棄になりながらスプレーガンを投棄した。
《協力、感謝する》
ザクが振り向き、頭部のモノアイがこちらへとスライドした。暗闇にまみれた中で、モノアイはひときわ不気味に煌めいた。
《――だが、不十分だ》
ザクのパイロットがそう告げるや、ヒートホークがこちらへ目掛けて投擲される。メインモニタに真一文字の傷が刻まれ、オニールは頭部に打撃を受けたことに気付いた。バルカン砲はこれでめでたくお陀仏だ。ザクはベイカー機の放ったビームを回避しながら、バーニアの光の尾と共にビル群へと姿を消した。
《ゴート1より各機に通達。戦闘終了につき帰還する。ここじゃフラウンダーで回収できないから、付近の平地まで行くぞ》
陸戦型ジムはゴート1の機体だった。ゴート1は器用にベイカー機の脇からアームを回し、ちょうど負傷兵を起こすようにしてベイカー機を立たせた。
《新入り。お前の機体、両脚は無事か?》
「はい、大丈夫です」
《じゃあ、一足先に基地へと帰還しろ。後で話があるから、格納庫で待機だ。いいな》
叱責のたぐいだろうということは、声音からすぐに予想できた。足取りが――もちろんオニール本人ではなく乗機のジムとはいえ――重かった。
*
オニールは痛みの引いた頬を撫でながら、己の無策と慢心を呪った。戦車に乗っていた頃は、直接相手にするのは戦車と歩兵、それから建築物くらいのものだった。ヘリや戦闘機と戦うのは同じ航空戦力の役目だったし、モビルスーツを相手取るときは複数かつ待ち伏せなどの搦め手が基本だ。いささか過信しすぎた結果、今回のようにジムを鉄屑同然に変えてしまったのだ。本来は訓練機として使われるべきジムは、大規模な修理が行なわれるだろう。いや、新品が届くのを待たねばならないかもしれない。眉間に指を当てながら、上層部に対していかような申し開きをすべきか思案していたところに、右肩がぶつかった。
「ああ、すみません」
オニールは反射的に向き直り、謝罪した。が、すぐさまその必要がないことに気付かされた。右肩がぶつかっていたのは、相手が差し出した右手だ。つまり、呼び止められたのだ。
訓練生の一人だ。カールした前髪、貼り付いたような笑顔、それがミゼール――フルネームで思い出せないので、本当に印象が薄い――の特徴だ。例に漏れず、今回も碌でもない会合に呼ぶつもりだろう。
「なあ伍長殿。お茶、しようや。報告書の提出は明日までだろ?」
いくらかの愉悦を含んだ声が、それを殊更に裏付けた。
彼の経歴には興味がない。深入りする必要もないし、知って仕事の足しにもならない。彼らは三人から四人ほどのグループを作り、日々なにがしかの事物に難癖を付けながら生きている。踏み台が居ることで初めて、彼らは人生の充足を取り戻せるらしいのだ。一秒、いや一日でもいいから何かを見下さずには居られないものだろうかと苦言を呈してみたいが、どうせそれをしたところで事態がよりいっそうこじれるだけだ。
「なんだったら、手伝ってやるよ。反省点を洗い出すのは、一人だと難しいもんな!」
そこにもう一人、更に二人と、彼の同類が加わる。
「それともお部屋でめそめそしたいのかい? 格納庫で殴られちゃったし!」
彼らは、げらげらと笑い出す。仮にも成人しているのだから、そういう大人気ない行為をするのはいかがなものだろうか。かといって断っても、こういう手合いは上官に先回りして「あいつ報告書サボってましたよ」などと告げ口しかねない。実際、基地に到着した当日も彼らは何かにつけて告げ口して、教官達を困らせていた。最初は相手にされないだろうが、何事も積み重ねだ。オニールの悪評が真実味を帯びて広められたら、基地で過ごしにくくなる。命が掛かっている以上、好きでもない相手であろうと仕事はしっかりこなさねばならない。
「で? ホラ、どうすんの? 断って、お部屋でめそめそするのかなあ?」
「ではお言葉に甘えて、ご一緒するよ……」
「歓迎するよ、オニール伍長くん!」
正直、今すぐ彼らをノークス大尉の所に連れ出して、根性を叩き直させたい。こうして連れて行かれた後の“会合”というものも、まさしく不愉快そのものだった。
「だいたい出来るやつってのはジャブローで訓練してるから、俺達みたいなのは余り物なんだよ。エリート気取りしちゃいけねえのさ」
「でも肝心の実機訓練用ジムもあんなザマだもんな。あーあ、どっかの阿呆が無茶しなけりゃ、俺達が明日使ってたのに。な? どう思う?」
「俺があの場に居たらもっとやれたよ。見た? アレさ、焦りすぎじゃねえか。俺だったらもっとこう――」
などといった、的外れな揶揄ばかりが飛んでくる環境下でどうやって反省点の洗い出しをしろと。そも、シミュレーターの成績に関しては微塵も差が開いていなかっただろうに、何故彼らは初めから自分達が優秀であることを前提としているのか。オニールはそれらを全て聞き流した。その上で自分は第三者にとって、こんな卑俗で悪辣な輩と同列に数えられているのだろうかと、窓の外の雪を眺めながら悲嘆に暮れた。騒ぎ立てる彼らの一人から飛来した、微細な唾液の粒がオニールの頬にかかる。オニールはそれを素知らぬ顔をして袖で拭いながら、この制服に除菌スプレーを使う計画を立てた。
「有意義だったよ。そろそろ失礼する」
オニールは、これ見よがしに溜め息を吐きながら立ち上がった。それから代用紅茶を飲み干したカップと、そのトレイをカウンターに運ぶ。
「それじゃあ、ヴェロニカさん。今度は一人で来ます」
老齢の女性が「確かに、そのほうがいいわね」と苦笑しながら、トレイを受け取った。彼女の耳に鉛筆が挟まれているのを、オニールは見なかったふりをした。
食堂を背にしていると、またしてもミゼール達から声が飛ぶ。
「たっぷり泣いておいで! 慰めてくれるママはここには居ないぜ!」
他にも何か色々と言われたが、内容は頭に残らなかった。醜悪な怪物共――たとえるなら旧世紀のパニック映画に出て来るような、夜中に餌を与えたり水を掛けたりしてはならず、なおかつ光を当てると死滅する連中――の鳴き声として、脳が処理していたためだ。
*
連邦軍の追撃を振り切って命からがら『エスパダ・ヴェルデ』に帰還したジャンゴ・セスは、不穏な空気を感じ取り、ロビーの出入り口で立ち尽くしていた。眼前では金髪の男と、銀髪の女が口喧嘩をしている。銀髪女は背こそ低いものの顔の中心に十字傷があり、獰猛な三白眼や細い眉、ぼさぼさの髪も相まって、ひどく荒んだ雰囲気を出していた。
「あのさあ、臭えんだよ。口からクソ垂れるならもっとマシなもんにしてくれねえかな? フリードリヒ・ファルサー大尉ちゃん」
銀髪女が傷だらけの顔をより一層に歪め、金髪男を口汚く罵る。
「貴様のような輩がオデッサ作戦の妨げとなったのだ! 実力主義を笠に着て、何たる不実か! 嘆かわしい!」
金髪男もといファルサー大尉の反論は言葉こそ選んでいるが、その内容をよくよく分析すれば聞くに堪えない罵詈雑言のたぐいだ。そして銀髪女がファルサーの胸を、拳で軽く小突いた。
「ああ? どいつもこいつも、この世の終わりをかたっぱしから詰め込んだフルコース料理を喰って吐き出したゲロみたいなこと抜かしやがって。地獄に落ちろ」
銀髪女はそう言ってファルサーの顔との間に拳を突き上げ、中指を立てた。
「目と口と鼻を綺麗さっぱり削ぎ落として、ついでにそのおめでてえ頭を消毒して出直してこい。お解り頂けたかな、マザーファッカー大尉」
ジャンゴは耳を塞ぎたくなった。このギャロップ級陸上艇は、いつから動物園になってしまったのか。
「やはり私は、君を教育してやらねばならない立場にあるらしい」
「だからなんべん言わせる? 頭湧いてんのか。俺はてめえの飼い犬じゃねえ。俺は野良犬、狂犬だ」
「……斯くなる上は」
ファルサーが拳を握り、格闘の構えを見せる。
「へえ? やんのかよ?」
銀髪女はそれを面白がって、カンフー映画のような演武を見せた。挑発だろう。いよいよファルサーの顔の赤みが耳まで達した。その両目は血走っており、目尻には涙も浮かんでいた。
「女性に手を挙げることの罪深さは、私は理解しているつもりだが……貴様は、許さん!」
「俺を女扱いしやがんのか。さっすが、大尉は紳士的ですなあ。ふざけんなボケ。戦争してんだぜ俺達は。男とか女とか気にするかよ? スマートアスが調子こきやがってよ!」
銀髪女の声が、彼の両腕を降ろさせる。だが彼の指先は怒りの矛先を探して、絶え間なく痙攣していた。隙を見た銀髪女は手頃な設備――使われなくなった自動販売機を殴り、それから再びファルサーの胸を小突く。彼の耳を引っ掴み、大声でがなりたてる。
「はっ、返す言葉も無えってか! 骨のある奴だと思ってたが、とんだ期待はずれだ。くたばっちまえ、不能! チキン野郎! 子宮に戻ってやりなおせ!」
「言わせておけば、貴様という奴は!」
とうとう金髪男が銀髪女の胸倉を掴んだ。胸元まで軍服を開けているから、さぞかし掴みやすいだろう。しかし根は純朴なのだろう金髪男は、少しだけ躊躇してから掴んだ。
「そら来た。やっぱそう来なくちゃな。ほらどうした。宣戦布告したんだ。最後までやりきれよ。俺をファックしてみろ!」
「叩き直す!」
現状をようやく冷静に理解して、ジャンゴは卒倒しかけた。これが末端の軍隊の実情だというのなら、ジオン独立など夢のまた夢だ。ジャンゴは内心では他の若者達ほど熱心に独立を信奉してなどいなかったが、人並み程度には熱意があった。可能ならばスペースノイドの独立の、その立役者となって本国に凱旋してみたかった。だが、これが現実だ。下らない小競り合いに心血を注ぎ、己の異名……そう、銀髪女は確かに彼女自身のことを“狂犬”と称した。それを振りかざしている。“オデッサの狂犬”といえば、知る人ぞ知るという程度ではあるが、エースの一人だ。もしも彼女が本当にオデッサの狂犬ならば、こんな野生児寸前の者がエースとして戦場を闊歩していたことになる。
掴み合い、殴り合いの喧嘩が収まる気配は今のところはない。下手に止めに入って、怪我を増やすのは面倒だ。ジャンゴは入り口付近に座り込んで、こちらの存在などまったく意に留めず仲良くじゃれあう二匹の狂犬達を見物した。
それから、ふと五年ほど前に見たトーク番組にて、とあるコメディアンが発した「スペースノイドは我々アースノイドに比べ、はるかに原始的な生活をしているらしい。何と彼らはシラミを食べ、草原に酒を注ぐのだ」というブラックジョーク――LとRの発音を茶化したもの――を思い出して、口元に薄ら笑いが浮かんでいた。こうして眼前にて惨事が繰り広げられていると、彼の言葉もあながち見当違いではないと思えた。同時に、無性に虚しくなった。こいつらの口に、シラミというやつをたらふく放り込んでやりたい。スペースコロニーには、少なくともサイド3にはシラミという生物が生息していた話を聞いたことがない。米粒と同程度の大きさで、白い虫に違いない。もしかして、ハエの幼虫の別名だろうか? 地球から輸入されてきた作物にはハエが混入していたこともあったから、その説は違うかもしれない。
などと物思いに耽っていると、ジャンゴの居る場所とは反対側のドアが開いた。
「てめえら……ケツの刺激が足りてねえみてえだな」
我等がボスであり、ヴァイパー小隊の隊長であり、毒蛇でも何でもないコールサイン『アナコンダ』であり、このエスパダ・ヴェルデの艦長でもあるテルシオ・テルマルト中佐だ。そのテルマルト中佐はこめかみに青筋を浮かべ、しかし口角を上げている。袖のない軍服から伸びる両腕は筋骨隆々で、至るところに刺青が彫られている。テルマルト中佐はその腕で二匹の狂犬を引き剥がし、床に叩き付けた。老齢とは思えぬ強さだ。あれで腰を痛めたりしそうにはとうてい思えないのだから、恐ろしいものだ。
「動物園は今日限りで閉園だ。檻にブチ込んでやる」
そう言って、両者の襟首を掴み上げる。
「おいハゲ。クソジジイ。こっちはお楽しみ中なんだよ。横から邪魔して下さりやがって、何様だコラ」
「このクソッタレな無法地帯の王様だよ。ケダモノは保健所に送るのが法治国家のやり方なんだろうが、あいにく俺の艦はご覧の有様でよ。銃殺というのは、どうだね?」
テルマルトはこちらに顎をしゃくる。ジャンゴはその意図を理解して、腰のホルスターから拳銃を取り出し、構えた。
「……」
「賢いワンちゃんは所構わず吠えたりはしないもんだ。実際、俺が昔飼ってた奴は図体こそでかかったが、俺が許可するまで吠えなかった。荒れてるのは解るがよ? いつまでもスネにションベンかけられて知らんぷりはできねえのよ……」
*
「じゃ、しっかり頭を冷やしてきな」
フリードリヒ・ファルサー大尉は、イース・バローネ中尉と共に懲罰房――モビルスーツ輸送用のコンテナだったものを流用しただけのようだが――へ放り込まれた。
「痛え!」
「うぐっ」
揃って尻から地面に落下する形となり、フリードリヒは己の尻にアザができていないだろうかと心配するはめになった。テルマルト中佐が、作業員が出入りするためのドアに寄り掛りながらこちらを見下ろした。
「てめえらの幸運は主に二つ。ここがカタギの部隊じゃないこと、そして俺の機嫌がたまたま良かったことだ」
「カタギの部隊だったらどうなんだよ?」
イースが挑発めいた声音でテルマルト中佐に問うた。フリードリヒはそれを咎めようとしたが、そんな暇もなくテルマルトが返答する。
「降格させられたか、顔にアザを増やしたかもな。あと、本来は三日ぐらい出れないところを、ここじゃあ俺の機嫌次第ですぐ出られるかもしれん」
フリードリヒもイースに倣って質問する。
「その。機嫌が悪かったら……?」
「てめえらを素っ裸にひんむいて、フックに縛り付けて外に吊す! なあに、たがいに抱き合えば寒さも薄らぐだろ? 俺は外にそういう悪趣味なオブジェが付いてても気にしねえよ。戦局はとうに傾いて、堅物連中も素行不良を正す暇なんざねえって話だ」
テルマルトは仁王立ちしたまま片方の眉を吊り上げ、にやりと笑う。サングラスの奥から表情は窺えないが、怒気と狂気の入り交じったような目付きであることは想像にかたくない。フリードリヒは己の両肩を抱え、身震いした。寒さだけではない。あれは、軍隊に内包される暴力的側面よりも、更に奥深くのもっとおぞましい何かを含んでいる。この得体の知れない新たなる上官に対してまず抱いたのは、畏怖や尊敬ではなく恐怖だ。常識のレールには乗らない、無秩序で残忍な暴力の意志……。テルシオ・テルマルト中佐はそれを中核に人生を歩んでいるに違いない。
懲罰房とは名ばかりの、隙間風の吹くコンテナのドアが閉ざされる。フリードリヒは重圧からようやく解放され、安堵した。隣に狂犬が居なければ、もっと気が楽だったが、贅沢は言えまい。先に攻撃を仕掛けたのはあちらとはいえ、挑発に乗って喧嘩を始めてしまった責任は自分にある。
「で? まだ俺に説教かまそうってクチじゃねえだろうな。第二ラウンドをおっぱじめたいってえんなら、付き合ってやらなくもねえぜ! アハハ!」
これを教育しようという、ジオン本国より与えられた試練を乗り越えねばならない。しかるに、これに勝利することこそがジオン公国を勝利に導く礎の一つとなりうるのではないのか。フリードリヒは、そのように己を鼓舞し、納得させようと試みた。さあ戦え、フリードリヒ。悲しみを怒りに変えて、立てよ、フリードリヒ!
「君を更生させるまで、諦めるつもりはない」
「じゃあ力でねじ伏せてみろや。戦争ってのはそういうもんだよ。強い奴だけが、ものを言えるんだ」
イースが立ち上がり、ファイティングポーズを取る。すると備え付けのスピーカーから艦内放送が流れた。
《……ああ、そうそう。運動不足でお悩みなら近くで熊でも捕まえてきてやるよ。てめえらなら、素手でも何とかできるだろ? 仲良く遊んでやってくれ》
「BEAR? おいおい、ビール風味で有名な栄養ドリンクでもくれるのか?」
《熊にブッ殺されるスナッフムービーのネタにされたくなけりゃ、大人しくしとけってことだよ、カンフーマニアのお嬢ちゃん》
イースはその場にあぐらをかき、手だけで力無く敬礼してみせた。
「お見通しかよ。降参だ」
《わんぱく盛りのお嬢ちゃん、新しいオモチャは整備中だ。いい子にして待っとけよ。さもなきゃ熊の餌か、反ジオンのゲリラ連中に売り払って慰み者にしてやる》
「了解したよ、旦那。ただ“お嬢ちゃん”はやめてくれ。吐きそうだ。もしかしたら仕事に差し支えるかも……」
《じゃあクソガキと呼ぼう。これで満足か?》
「さっきよりゃマシだ。ありがとう、クソジジイ。今後も、それで頼むわ」
フリードリヒは、泣きそうになった。こんな暴れ牛も同然の輩が、あのマ・クベ大佐の所属だったというのか。オデッサ制圧に貢献したというのか。しかも、今後しばらくは彼女を従えねばならないというのか。まったくもって嘆かわしいと言うほかなかった。
――ガルマ様、祖国の英霊の皆様がた。どうか我等の行く末を見守って下さいますよう。
フリードリヒは、かつてはガルマ・ザビ麾下の地球制圧軍に所属していた。それより以前はドズル・ザビ麾下だったが、地球制圧軍が新設されたおり、転属となったのだ。決して楽な道程ではなく、むしろ苦難を極めるものだった。何度も砂をかじり、凶弾に斃れた同胞を前に慟哭したことは数え切れない。
士官学校時代は模範的な軍人として教官達の誉れとされ、ブリティッシュ作戦でもルウム戦役でも、数多のエースパイロット達の足下にも及ばぬとはいえ相応の戦果は残した。お荷物などでは断じてないと自負している。この部隊に転がり落ちるまでに付いてきた部下は皆、フリードリヒをよく慕ってくれていた。共同戦線を張る友軍の士気が落ちていれば、部隊総出で激励に向かった。ギレン・ザビ総帥の真似事で、格納庫にて演説などもした。あのオデッサ防衛戦でも、絶望的な状況から抜け出すべく奮戦した。フリードリヒを視界に入れる者すべてに、戦場に於ける模範解答というものを示したつもりだ。すなわち、勝利の運命は自ら掴み取るということを。
『フリードリヒ隊長はいつか必ず、後世に名を遺す偉人となる筈です! 自分にはその確信があります!』
部下の一人が、両手を握り締めてそう言ってくれた。オズワルド・パーキー。それが彼の名だ。今はもう、この青くて重たい星の片隅に眠っている。骨すら残されていないが、その魂は。何と不憫なことだろう。せめて宇宙で死なせてやりたかった。
栄光には届かずとも、満ち足りたあの日々は、もう二度と戻って来ない。部下達と一緒に、ジャブローに散ってしまった。矜持の炎は風に消え、燃えかすだけが此処に残っている。
気が付けば、フリードリヒの頬を涙が伝っていた。傍らに女が居ても、お構いなしに鼻をすすり上げた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。どこで、道を間違えてしまったのだろう。悔恨と憎悪が涙腺を加熱する。イースが無言なのは、己の悪行が招いた結果だと自覚した上で慰めたりなどすれば「ならば今すぐ改めろ」と言われるのを恐れたのだろうか。
「メソメソしやがる。そんなにママが恋しいかよ? マザーファッカー大尉」
――少しでも彼女に反省を期待した私が愚かだったよ。
フリードリヒは嗚咽がよりいっそう激しくなったのを自覚した。
*
オニールはベイカー軍曹に謝罪を述べると同時に報告書を提出し、付近を散策することにした。自室の空気は暫く御免だと思ったためだ。窓の無い、コンクリートが剥き出しの壁に、簡易ベッドと申し訳程度の机と椅子、天井はパイプ類が乱雑に走り、そこから吊されて金属の細い棒で固定されただけの蛍光灯……。あんな部屋に、長居すべきではないのだ。故郷で兄が勾留されていた留置所ですら、もう少し明るい。オニールはかぶりを振った。地球で仕事をしている間に、兄は宇宙の塵と化した。彼を収容していた船がジオン公国に襲撃されたのだ。原因は囚人移送用の船が、一般的な輸送船と酷似していたことによる誤認だった。元より素行の良い兄ではなかったし、ほとんど家にも帰ってこなかったような生活態度だったので特別な思い入れはない。さっさと頭の片隅に戻しておくべきだ。
――だが、どこへ行くべきだ?
当てもなくうろつけば、周囲から白眼視されるだろう。食堂は駄目だ。まだ夕食の時間ではないし、先刻の連中が居座っている。カリキュラムの消化がまだ途中だった従来とは異なり、極めて深刻な状況だ。復習をしようにもシミュレーターの貸し出しは前日に申請するという予約方式であるために、それも不可能だ。予約は次の候補生の名前で埋まっているし、実機演習の見通しが崩れてしまった以上、シミュレーターによる仮想訓練が主軸になって行くに違いない。
そう考えると「基地司令官には謝罪しなくてよい」という処分は常識的に考えて不自然に軽い。訓練機を実戦に持ち込んだのが上官命令によるものだとはいえ、大破寸前にまでさせてしまったのだ。何らかの形で責任を取るのが、道理というものではないのか。
否、不要であるとされた上でなおも謝罪に向かうのは、却って己の処遇を悪化させてしまうリスクがある。「他の候補生に比べて能力的に劣っている」と自ら宣言するようなものだ。
「失礼、伍長? どこか具合が悪いのか?」
声をかけられたので、オニールは振り向いた。黒髪に、凹凸に乏しい顔立ちと切れ長の目は、東洋人のものだろう。確か、先刻ノークス大尉の傍らに立っていた、ダン・イサカ少尉だったか。
「実は……」
オニールはここまでの経緯を、あくまでノークス大尉からの叱責は理解していると前置きしてから話した。イサカ少尉は顔色一つ変えず、時折「そうだな」と相槌を打ちながら聞いていた。その途中、イサカ少尉が得心したような面持ちで踵を返す。
「格納庫に行こう。多分、その悩みは必要ない」
――先刻、俺が殴られた場所だ。何を見せたいのだろうか。
表情が今一つ読めないイサカ少尉だが、第一声がこちらを気遣う言葉だったことから、オニールは彼に対して悪印象を抱かなかった。
しかし、あの場所で何か面白い催し事をするなどといった噂話は聞かなかった。ここに初めてやってきた折、食堂でヴェロニカ女史が色々と話してくれた行事の中に、格納庫で行なわれるものは無かった筈だ。
いや、一つだけ思い当たるものはある。たった一つ、格納庫で起こりうる行事はある。まさかそれを見せようというのだろうか。途端にオニールの、黒革手袋に覆われた両手が汗ばむ。
途中、見目麗しい女性士官達が横並びに歩いて和気藹々と談笑していた。その中には先程のオペレーター、赤毛の女性――確かコールサインはホイッスルといったか――がいた。多少は目の保養になったが、士官学校気分が抜けていないのか、その歩調は恐ろしいほどに遅い。この瞬間にサイレンが鳴り響かなかったのは、互いにとって幸いだっただろう。結局数十秒ほど足止めされたのち、堪えかねたオニールが話し掛けて道を譲って貰った。イサカ少尉はといえば、赤毛の女性に「先程は、どうも」と涼しい顔で語り掛けただけだ。オニールはそれについて両者は知り合い同士なのだろうと推測しつつ、以降は無言を貫いた。
目的地に辿り着き、イサカ少尉が通用口のゲートを開く。と同時に、格納庫全体を覆い尽くすかのような怒声が鳴り響いた。案の定、ノークス大尉だ。ノークス大尉が整備班と不仲であるという話を、ヴェロニカから聞いたことがあった。
「だから! 実戦に配備したら壊れるのは当たり前だろうが! それを修理するのがお前らの仕事だろ! なんでお互いの役割というもんを無視して、ケチを付けやがる!」
ノークス大尉は大袈裟な身振り手振りを交えつつ、整備員に檄を飛ばしていた。如何なる不都合があって、このような口論に発展したのかは判然としないが、噂が正確なものだとしたら整備士の一人がノークス大尉に突っかかったのだろう。
「あのクソッタレ――いや何でもない……。お上の皆様がたも“訓練生によるモビルスーツの実戦データが取れた”とご満悦だ! 幹部会議で意見が纏まり次第、あの新入りが俺の部隊に加わるとも聞いた!」
最初に突っかかったと思しき整備士が、ノークス大尉の前に出た。見覚えがある。
ライナー・メルツ技術大尉だ。腕も弁も立つが、とにかく毒舌で誰も関わろうとしない。理路整然と相手を言いくるめ、容赦なく追い打ちまでかける彼と、誰が茶を片手に和やかな対話をしようというのか。三十路も半ばになるノークス大尉をして、先刻とは打って変わって遠目からも判るほどに顔を紅潮させるような相手だ。
そのメルツ大尉は、腫れぼったいまぶたをしばたかせながら、自分の眼鏡を拭いている。唾でも掛かったか。
「じゃあその新入り君を連れて来て、破損箇所を一緒に調べさせたらどう? どういう動かし方をしたら、こうなるかっていうのがよく解るじゃないか」
「映像ファイルを再生すれば、そういうのは解るようになってるんだよ! その間に、お前らがこれを修理する、完璧な役割分担だ! お前は整備が出来るからって、モビルスーツに乗るのか? 乗らないだろ! 俺達も同じだ。お互いの領域に、無闇に首突っ込んで、情けないでしょうが!」
「だったら途中で様子見なんてしなきゃいい。次の日にでも見に来ればいいだろう。君の言葉には矛盾がある」
「馬鹿野郎! こういうのは理屈じゃねえって、何度言ったら解るんだ!」
ひときわ激しく、肉と骨のぶつかり合う音がした。あれをオニールも間近で聞いたばかりだが、あれよりも強く殴打されたに違いない。メルツ大尉の眼鏡が、よく冷えた床に転がって行く。
「逐一殴らないと正当性を証明できない、幼稚で野蛮な奴。君は自分が出来のいい大人だと錯覚しているだけで、その実、頭の中身は中世で止まってるのさ。コールドスリープから目覚めたのか? 現代というものを勉強し直したらいいよ」
眼鏡を拾いながら放った言葉は、やはり床と同じく熱を感じさせないものだった。怒っているそぶりを全く見せていない。メルツ大尉のその態度は――恐らく彼の目論見通りに――ノークス大尉の逆鱗に触れたらしい。メルツ大尉が立ち上がるのを待たず、ノークス大尉はその襟首を引っ掴み、何度も揺らす。
「殴らなきゃ伝えられない言葉だって、沢山あるんだ。ここは軍隊なのよ、命が掛かってるんだ! 一人一人の!」
「君はそう思っているんだろうが、他人を巻き込むのは辞めて貰える? 少なくとも僕はそうは思わない。自分の言葉が正論で一般的だと勘違いするな。バカ。それと論点がすり替わってる。僕の修理に対する態度が気に入らないという言い掛かりから、何をどう考えたら君の教育理論の話になるんだ? 僕を教育するだって? 上官でもない奴が?」
オニールは遠巻きにそれらをひとしきり眺め、傍らのイサカ少尉に助けを求めた。イサカ少尉は苦々しげに口元を噤んだまま、何も言わなかった。
「……すまない。あれは、俺には止められない」
「少尉は、あの口論を見せに私を呼んだのですか?」
「違う。彼が動くとは思わなかった」
そう言って、イサカ少尉は上を指差した。イサカ少尉はポケットから拳大の、紙の箱を取り出す。
「一本あげるよ。これは謝罪だ」
「申し訳ありません。煙草は苦手でして」
「わかった、すまない。じゃあ飲み物にしよう」
再び視線を下に戻すと、ブロンドの女性が両者を引き剥がしていた。戦争というものは、やはりそのようにして終止符が打たれるのだろうか。などとオニールは漠然と考えながら、格納庫を後にした。