第一章:告白
それはいつも、声になる前に消えていく。
テーブルの上に置かれた水のグラスが、白い照明を受けて静かに光っていた。
中の氷がゆっくり形を失って、縁に触れて、からりと小さく鳴る。
向かいに座る由依が、その音に合わせるみたいにストローを回した。
指先でくるくると弄ぶ、考えごとをしているときの昔からの癖。
グラスの中で光が揺れて、テーブルに落ちた影まできらきらする。
窓の外を車が通り過ぎて、ヘッドライトが一瞬だけ店内を横切った。
くだらない話をしている。
さっきの講義、後ろの席のやつ絶対寝てたよね、とか。
レポートの締め切り、教授ぜったい忘れてるって、とか。
駅前の古本屋、また潰れたらしいよ、とか。
隣のテーブルから笑い声が弾けて、
厨房から油のはぜる音がして、
誰かのスマホが短く震えた。
どれも取るに足らない。
明日にはきっと忘れてしまう。
なのにどうして、こんなにも大事なんだろう。
由依はよく笑う。
笑うとき、少しだけ目を細める。
肩が先に揺れて、それから声が追いかけるみたいに漏れる。
高校生のころから変わらない。
放課後の教室、まだ日が高いのにもう帰り支度の匂いがしていたあの場所で、
窓際の席に座って、同じ顔で笑っていた。
プリントを丸めて投げたら、一発でゴミ箱に入ったって。
くだらないことで、いつまでも。
あのときから、隣にいる。
同じ教室で、同じ制服で。
進路調査の紙を前にして、冗談みたいに「また同じとこ選んだら笑うよね」なんて言って。
卒業して、
本当に気づけば同じ大学にいて。
偶然みたいな顔をして、ずっと一緒だ。
由依がメニューを閉じて、テーブルの端に揃える。
爪のピンクが光を弾いて、淡く瞬いた。
その仕草が、やけに丁寧で。
ああ、この時間をちゃんと大事にしているんだな、と思う。
もしかしたら。
今日こそ、なにかが変わるかもしれない。
根拠なんてどこにもないくせに、
胸の奥が勝手に期待している。
由依の笑い声が、いつもより近い気がする。
手を伸ばせば触れられる距離にあることが、
急に現実味を帯びる。
言葉は用意していない。
スマホのメモに下書きしたこともないし、
頭の中で練習したこともない。
用意してしまったら、もう駄目な気がするから。
準備して、覚悟して、
それで言えなかったときの、ダメだった未来を、想像したくない。
ただ、この時間がもう少し続けばいいと思っている。
注文した料理が運ばれてきて、
湯気がふわりと立ちのぼった。
取り皿を渡すとき、指先がかすかに触れる。
そのたびに心臓が忙しくなるなんて、
誰にも知られたくない。
「優さ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
不意に、現在に引き戻される。
「ん?」
視線が合う。
由依は一度、唇を閉じる。また、開けて閉じる。
なにかを選ぶみたいに、言葉の順番を探している顔。
その表情を、優は知っている。
高校のときもそうだった。
進路の話を打ち明ける前、
家族のことで少しだけ弱音を吐いたとき、
いつも、この前触れがあった。
少しだけ迷って、
それでも言うと決めた人の顔。
勇気を出して、怖気と闘っている仕草。
胸が、わかりやすく跳ねる。
グラスに触れた指が、汗で滑りそうになる。
「ちょっとさ、聞いてほしいことがあって」
来る。
なにかが、来る。
逃げてもいいのに、と一瞬だけ思う。
トイレに立つとか、
飲み物を取りに行くとか、
やり過ごす方法はいくらでもある。
でも、それを選ばない自分を、もう知っている。
「なに?」
できるだけ、いつも通りに。
喉が、少しだけ乾いている。
それでも声は揺れなかった。
続きを促す。
逃げ道を塞ぐのは、自分だ。
由依は息を吸って、吐いて、笑った。
その笑顔が、ほんの少しだけ固い。
うまく笑えているかどうかを、自分で確かめているみたいな顔。
テーブルの下で、脚同士が触れそうになっている。
互いに気づいているのに、どちらも動かない。
店の奥で皿が重なる音がした。
誰かが立ち上がって椅子を引く、短い摩擦。
時間が、ゆっくりになる。
「私、………私ね、女の子が好きなんだ」
ああ。
と思った。
その言葉は不思議なくらい静かに届いた。
もっと衝撃みたいに来ると思っていたのに、
実際は、ただ置かれる。
テーブルの真ん中に、そっと。
驚きより先に、理解が来る。
ああ、そうか。
そうなんだ。
胸の奥で長いこと形を持たずに漂っていたものが、
急に輪郭を与えられる。
可能性の形をしていた何かが、
手の中で音もなく、別のものに変わる。
なくなったわけじゃない。
まだ、ちゃんとここにある。
熱も、重さも、痛みも。
ただ、もう自分のためのものではない。
優はそれを理解する。
一瞬。
本当に一瞬だけ、なにも言えなくなる。
まばたきを忘れる。
呼吸がどこまで進んでいたのか、わからなくなる。
もしここで、黙ってしまえたら。
間に合わなければ。
取り繕う前に、顔が崩れてくれたら。
そうしたら、何か別の未来があっただろうか。
ふと、そんなことを思った。でも、
次の瞬間にはもう間に合ってしまう。
長い時間をかけて身につけた、
正解の出し方。
由依が傷つかない言葉。
場の空気が壊れない返事。
彼女を最優先にする選択。
それらが、自動的に並ぶ。
笑う。
唇の端を持ち上げて、
目を細めて、
呼吸を整えて。
完璧だ、と自分でも思える笑顔。
「え、じゃあさ」
喉の奥がひどく冷たい。
冬に飲み込んだ空気みたいに、
内側を擦っていく。震えは、声には出なかった。
「一緒に好みの女の子の話とかできるじゃん。いいね!」
ほんの少しの間。
沈黙があって。
由依の顔が、ぱっと明るくなる。
まるで電気が点いたみたいに。
「でしょ!? そう思ってくれるかなって思ってた!」
声が弾む。
体ごと前に出る。
安心と喜びが、隠しもせずに溢れている。
その顔を見てしまうと、
もう、なにも言えなくなる。
よかった、と優は思う。
本当に。
この笑顔を守れたことが、
胸のどこかで誇らしい。
同時に、別の場所が静かに沈んでいく。
間違っていない。
これが正解だ。
由依を困らせない。
関係を壊さない。
隣にいられる。
全部守れた。
……守れてしまった。
「ありがとう、優に言うのちょっと緊張してたんだよね」
テーブルの上で、由依の手がぎゅっと握られる。
力が抜けていくのが、見てわかる。
「なんで」
不思議そうな顔で、首を傾げる。
軽く、いつもみたいに。
「いや、だってさ。引かれたらどうしようとか思うじゃん」
「引くわけないでしょ」
即答できる。
間髪もなく。
そこに迷いはひとつもない。
それだけは、嘘じゃない。
本当に、そう思っている。
由依が好きだから、
大事だから、
守りたい。
それがどんな形であっても。
由依はほっとした顔でストローをくわえる。
さっきよりも深く椅子に寄りかかる。
氷がまた鳴る。
からり、と。
世界が動き出す合図みたいに。
店内はさっきと同じざわめきで、
料理の匂いも、
隣の席の笑い声も、
何も変わらない。
入口のベルが鳴って、誰かが入ってくる。
コートの裾が揺れる。
なにも変わらない。
変わったのは、優の胸の内側だけだ。
そこに小さな線が引かれて、
こちら側と、向こう側に分けられる。
由依はもう、向こう側に立っている。
それでも会話は続く。
どんな人がタイプなの、とか。
芸能人で言うなら、とか。
付き合うなら年上がいい?とか。
由依は楽しそうに身振りを交えて話す。
身を乗り出して、笑って、
時々、優の腕に触れる。
信頼しきった距離。
その無防備さが、愛おしくて、残酷だ。
ちゃんと笑って、ちゃんと相槌を打つ。
視線も外さない。
タイミングも間違えない。
少しも間違えない。
由依と会話をしながらふと
高校のとき、
文化祭の準備で遅くなった帰り道。
寒いね、と言いながら、
並んで歩いたことを思い出す。
あのときも、俺は隣にいられるだけで満足だった。
いまも同じはずだ。
同じで、
決定的に違う。
由依は未来の話をする。
まだ見ぬ誰かの話をする。
そこに、その席に、自分はいない。
優は水を飲む。
氷が溶けて、味が薄い。
胸の奥のほうまで、同じ味がする。
そうして、
友情が始まる。触れ合いそうだった互いの脚は、結局、元の位置に戻されていた。