声になる前   作:5734589

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第一章 告白

第一章:告白

 

それはいつも、声になる前に消えていく。

 

 テーブルの上に置かれた水のグラスが、白い照明を受けて静かに光っていた。

 中の氷がゆっくり形を失って、縁に触れて、からりと小さく鳴る。

 

 向かいに座る由依が、その音に合わせるみたいにストローを回した。

 指先でくるくると弄ぶ、考えごとをしているときの昔からの癖。

 

 グラスの中で光が揺れて、テーブルに落ちた影まできらきらする。

 窓の外を車が通り過ぎて、ヘッドライトが一瞬だけ店内を横切った。

 

 くだらない話をしている。

 

 さっきの講義、後ろの席のやつ絶対寝てたよね、とか。

 レポートの締め切り、教授ぜったい忘れてるって、とか。

 駅前の古本屋、また潰れたらしいよ、とか。

 

 隣のテーブルから笑い声が弾けて、

 厨房から油のはぜる音がして、

 誰かのスマホが短く震えた。

 

 どれも取るに足らない。

 明日にはきっと忘れてしまう。

 

 なのにどうして、こんなにも大事なんだろう。

 

 由依はよく笑う。

 

 笑うとき、少しだけ目を細める。

 肩が先に揺れて、それから声が追いかけるみたいに漏れる。

 

 高校生のころから変わらない。

 

 放課後の教室、まだ日が高いのにもう帰り支度の匂いがしていたあの場所で、

 窓際の席に座って、同じ顔で笑っていた。

 

 プリントを丸めて投げたら、一発でゴミ箱に入ったって。

 くだらないことで、いつまでも。

 

 あのときから、隣にいる。

 

 同じ教室で、同じ制服で。

 進路調査の紙を前にして、冗談みたいに「また同じとこ選んだら笑うよね」なんて言って。

 

 卒業して、

 本当に気づけば同じ大学にいて。

 

 偶然みたいな顔をして、ずっと一緒だ。

 

 由依がメニューを閉じて、テーブルの端に揃える。

 爪のピンクが光を弾いて、淡く瞬いた。

 

 その仕草が、やけに丁寧で。

 ああ、この時間をちゃんと大事にしているんだな、と思う。

 

 もしかしたら。

 

 今日こそ、なにかが変わるかもしれない。

 

 根拠なんてどこにもないくせに、

 胸の奥が勝手に期待している。

 

 由依の笑い声が、いつもより近い気がする。

 手を伸ばせば触れられる距離にあることが、

 急に現実味を帯びる。

 

 言葉は用意していない。

 

 スマホのメモに下書きしたこともないし、

 頭の中で練習したこともない。

 

 用意してしまったら、もう駄目な気がするから。

 

 準備して、覚悟して、

 それで言えなかったときの、ダメだった未来を、想像したくない。

 

 ただ、この時間がもう少し続けばいいと思っている。

 

 注文した料理が運ばれてきて、

 湯気がふわりと立ちのぼった。

 

 取り皿を渡すとき、指先がかすかに触れる。

 そのたびに心臓が忙しくなるなんて、

 誰にも知られたくない。

 

「優さ」

 

 名前を呼ばれて顔を上げる。

 

 不意に、現在に引き戻される。

 

「ん?」

 

 視線が合う。

 

 由依は一度、唇を閉じる。また、開けて閉じる。

 なにかを選ぶみたいに、言葉の順番を探している顔。

 

 その表情を、優は知っている。

 

 高校のときもそうだった。

 進路の話を打ち明ける前、

 家族のことで少しだけ弱音を吐いたとき、

 いつも、この前触れがあった。

 

 少しだけ迷って、

 それでも言うと決めた人の顔。

 勇気を出して、怖気と闘っている仕草。

 

 胸が、わかりやすく跳ねる。

 

 グラスに触れた指が、汗で滑りそうになる。

 

「ちょっとさ、聞いてほしいことがあって」

 

 来る。

 

 なにかが、来る。

 

 逃げてもいいのに、と一瞬だけ思う。

 トイレに立つとか、

 飲み物を取りに行くとか、

 やり過ごす方法はいくらでもある。

 

 でも、それを選ばない自分を、もう知っている。

 

「なに?」

 

 できるだけ、いつも通りに。

 

 喉が、少しだけ乾いている。

 それでも声は揺れなかった。

 

 続きを促す。

 

 逃げ道を塞ぐのは、自分だ。

 

 由依は息を吸って、吐いて、笑った。

 その笑顔が、ほんの少しだけ固い。

 うまく笑えているかどうかを、自分で確かめているみたいな顔。

 

 テーブルの下で、脚同士が触れそうになっている。

 互いに気づいているのに、どちらも動かない。

 

 店の奥で皿が重なる音がした。

 誰かが立ち上がって椅子を引く、短い摩擦。

 

 時間が、ゆっくりになる。

 

「私、………私ね、女の子が好きなんだ」

 

 ああ。

 

 と思った。

 

 その言葉は不思議なくらい静かに届いた。

 もっと衝撃みたいに来ると思っていたのに、

 実際は、ただ置かれる。

 

 テーブルの真ん中に、そっと。

 

 驚きより先に、理解が来る。

 

 ああ、そうか。

 そうなんだ。

 

 胸の奥で長いこと形を持たずに漂っていたものが、

 急に輪郭を与えられる。

 

 可能性の形をしていた何かが、

 手の中で音もなく、別のものに変わる。

 

 なくなったわけじゃない。

 

 まだ、ちゃんとここにある。

 熱も、重さも、痛みも。

 

 ただ、もう自分のためのものではない。

 

 優はそれを理解する。

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬だけ、なにも言えなくなる。

 

 まばたきを忘れる。

 呼吸がどこまで進んでいたのか、わからなくなる。

 

 もしここで、黙ってしまえたら。

 

 間に合わなければ。

 取り繕う前に、顔が崩れてくれたら。

 

 そうしたら、何か別の未来があっただろうか。

 

 ふと、そんなことを思った。でも、

 

 次の瞬間にはもう間に合ってしまう。

 

 長い時間をかけて身につけた、

 正解の出し方。

 

 由依が傷つかない言葉。

 場の空気が壊れない返事。

 彼女を最優先にする選択。

 

 それらが、自動的に並ぶ。

 

 笑う。

 

 唇の端を持ち上げて、

 目を細めて、

 呼吸を整えて。

 

 完璧だ、と自分でも思える笑顔。

 

「え、じゃあさ」

 

 喉の奥がひどく冷たい。

 

 冬に飲み込んだ空気みたいに、

 内側を擦っていく。震えは、声には出なかった。

 

「一緒に好みの女の子の話とかできるじゃん。いいね!」

 

 ほんの少しの間。

 

 沈黙があって。

 

 由依の顔が、ぱっと明るくなる。

 

 まるで電気が点いたみたいに。

 

「でしょ!? そう思ってくれるかなって思ってた!」

 

 声が弾む。

 体ごと前に出る。

 安心と喜びが、隠しもせずに溢れている。

 

 その顔を見てしまうと、

 もう、なにも言えなくなる。

 

 よかった、と優は思う。

 

 本当に。

 

 この笑顔を守れたことが、

 胸のどこかで誇らしい。

 

 同時に、別の場所が静かに沈んでいく。

 

 間違っていない。

 これが正解だ。

 

 由依を困らせない。

 関係を壊さない。

 隣にいられる。

 

 全部守れた。

 

 ……守れてしまった。

 

「ありがとう、優に言うのちょっと緊張してたんだよね」

 

 テーブルの上で、由依の手がぎゅっと握られる。

 力が抜けていくのが、見てわかる。

 

「なんで」

 

 不思議そうな顔で、首を傾げる。

 軽く、いつもみたいに。

 

「いや、だってさ。引かれたらどうしようとか思うじゃん」

 

「引くわけないでしょ」

 

 即答できる。

 

 間髪もなく。

 そこに迷いはひとつもない。

 

 それだけは、嘘じゃない。

 

 本当に、そう思っている。

 

 由依が好きだから、

 大事だから、

 守りたい。

 

 それがどんな形であっても。

 

 由依はほっとした顔でストローをくわえる。

 さっきよりも深く椅子に寄りかかる。

 

 氷がまた鳴る。

 

 からり、と。

 

 世界が動き出す合図みたいに。

 

 店内はさっきと同じざわめきで、

 料理の匂いも、

 隣の席の笑い声も、

 何も変わらない。

 

 入口のベルが鳴って、誰かが入ってくる。

 コートの裾が揺れる。

 

 なにも変わらない。

 

 変わったのは、優の胸の内側だけだ。

 

 そこに小さな線が引かれて、

 こちら側と、向こう側に分けられる。

 

 由依はもう、向こう側に立っている。

 

 それでも会話は続く。

 

 どんな人がタイプなの、とか。

 芸能人で言うなら、とか。

 付き合うなら年上がいい?とか。

 

 由依は楽しそうに身振りを交えて話す。

 身を乗り出して、笑って、

 時々、優の腕に触れる。

 

 信頼しきった距離。

 

 その無防備さが、愛おしくて、残酷だ。

 

 ちゃんと笑って、ちゃんと相槌を打つ。

 

 視線も外さない。

 タイミングも間違えない。

 

 少しも間違えない。

由依と会話をしながらふと

 高校のとき、

 文化祭の準備で遅くなった帰り道。

 

 寒いね、と言いながら、

 並んで歩いたことを思い出す。

 

 あのときも、俺は隣にいられるだけで満足だった。

 

 いまも同じはずだ。

 

 同じで、

 決定的に違う。

 

 由依は未来の話をする。

 まだ見ぬ誰かの話をする。

 

 そこに、その席に、自分はいない。

 

 優は水を飲む。

 氷が溶けて、味が薄い。

 

 胸の奥のほうまで、同じ味がする。

 

 そうして、

 

 友情が始まる。触れ合いそうだった互いの脚は、結局、元の位置に戻されていた。

 

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