声になる前   作:5734589

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第二章 最高の理解者

第二章:最高の理解者

 

 それから、由依の恋の話を聞くのが日課になった。

 

 日課、という言葉にしてしまえば簡単で、

 たったそれだけのことみたいに聞こえる。

 

 けれど実際には、

 俺の一日のどこにでも、その予感は差し込んでいた。

 

 次はいつ鳴るだろう。今日は来るだろうか。

 

 講義中、机の上に伏せたスマホが

 ほんの少し震える想像をするだけで、

 指先が落ち着かなくなる。

 

 最初は週に一度だった。

 

「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」

 

 そう前置きされた夜を、正確に覚えている。

 あの時の空気、帰り道の信号の色まで思い出せるくらいだ。

 

 それが二度、三度と重なって、

 気づけば三日に一度になって、

 

 そのうち、特に用事がなくても電話が鳴るようになった。

 

 理由なんて、もういらない。

 

 声を聞いてほしい。

 その事実だけで十分になる。

 

 俺はそれを拒まない。拒めない。

 嬉しさすらあった。

 

 深夜一時。

 

 レポートのファイルを開いたまま、

 パソコンの画面はほとんど動いていない。

 

 カーソルだけが、規則正しく明滅している。

 

 部屋の照明は落としてあって、

 デスクライトの丸い光だけが手元を照らしている。

 

 ベッドに転がると、

 スプリングが小さく鳴った。

 

 片足だけ床に落として、

 脱ぎかけの靴下がひっかかっている。

 

 やらなきゃいけないことはいくつもある。

 提出期限も、起きる時間も、現実的に考えれば余裕はない。

 

 それでも、頭のどこかはずっと別のことを待っている。

 

 スマホが震える。

 

 短く、けれど確かな振動。

 

 心臓が、それに合わせて跳ねる。

 

 わかっているくせに、慣れているくせに

 毎回、初めてみたいに驚く。

 

 手を伸ばす。

 指が少しもつれて、画面の上で滑る。

 

 表示された名前に、少しだけ口元が緩む。

 

 上田由依。

 

 文字にして見るだけで、胸の奥が柔らかくなる。

 世界が少し、色を持つ。

 

 こんなふうに条件反射みたいに嬉しくなれる相手が、

 他にどれだけいるだろうか。

 

 通話ボタンを押すまでの数秒が、もったいなくて、

 でも愛しい。

 

「もしもし、聞こえる?」

 

 できるだけ普通の声で、この心の内が伝わらないように。

 

『起きてた?』

 

 少し弾んだ声。

 眠気なんて気にせずに、誰かのことを想っている声。

 

「うん、起きてたよ。」

 

 本当は、眠かった。

 

 瞼は重くて、

 レポートの文章はもう頭に入らなくなっていた。

 

 けれどそんなことは、どうでもよかった。

 

 由依の声が届くなら、それ以外のことは、

 全部あとでいい。そう思えた。

 

『ちょっとさ、相談があって』

 

 受話口の向こうで、

 布が擦れる音がする。

 

 たぶんベッドの上で寝返りを打っている。

 もしくは、枕を抱え直している。

 

 俺はそれを容易に想像できる。

 見たことがあるから。

 

 高校の修学旅行の夜、

 消灯時間を過ぎてから、

 女子部屋に忍び込んで、

 先生にバレないかドキドキしながら、

 同じ姿勢で恋の話をしていた。

 

 あのときはまだ、誰の話でもなかったのに。

 

 電話口の声が、もう甘い。熱を持っている。

 誰かを好きになっている声だ。

 

 天井を見つめる。別になんてことはない。

 そう自分に言い聞かせた。

 

 白い、何の模様もない天井。

 昼間は気にもしないのに、夜になるといやに広く感じた。

 

 由依の声だけが、その空白を埋める。

 

「どうしたの」

 

 やさしく。急かさず。

 どこまでも受け止める側の声で。

 

『今日、またあの人と話したんだけどさ』

 

 来た。

 

 小さく息を吸う。

 

 胸の奥で、準備が整う。

 

 そこから先は、だいたい決まっている。

 

 どんなふうに笑ったとか、

 目が合ったとか、

 前より長く喋れたとか。

 

 今日という一日が、

 どれだけ特別だったのかを、

 順番に並べていく時間。

 

 俺はそれを何度も聞いてきた。

 最初は、その中に自分がいないことに寂しさを感じたが聞くたびに、少しずつ上手になる。

 

 何を求められているのか。

 どこで背中を押せばいいのか。

 

 由依が求めているのは、共感と、

 ほんの少しの後押し。

 

 大丈夫だよ、と言ってほしい。

 

 その言葉の責任を、ちゃんと知っている。

 

 布団に沈めた指先が、ぎゅっと丸まる。

 

 受話口の向こうでは、

 由依が今日の出来事をひとつずつ大事そうに取り出している。

 

『それでさ、向こうから話しかけてくれて』

 

 声が少し高くなる。

 

 その温度を、俺は知っている。

 期待が、こぼれそうになっている声。

 

「うん」

 

 短く返す。

 先を促す。

 

『前はあんまり目合わせてくれなかったのに、今日はちゃんとこっち見てくれてさ』

 

 その光景を想像する。

 

 由依がどんな顔で笑っていたのか。

 どんなふうに頷いていたのか。

 

 手に取るようにわかる。

 

 長い付き合いだ。

 由依の癖も、緊張したときの仕草も、

 うれしいことがあったときの早口も。

 誰よりも見てきた。

 

 全部知っている。

 

 知っているのに。

 

 そこにいるのは、自分じゃない。

 

「よかったじゃん」

 

 自然に出る。

 滑らかに、迷いなく。

 

 胸の奥で何かが軋んだ気がしたけれど、

 声には混ざらない。

 

『これってさ、ちょっとは期待していいやつかな』

 

 不安と希望が半分ずつ。

 両手に抱えて、差し出してくる。

 

 天井を見つめたまま、慎重に言葉を選ぶ。

 

 間違えてはいけない。

 

 軽すぎてもだめ。

 重すぎてもだめ。

 

 由依が踏み出せる強さだけを、

 正確に。

 

「いいと思うよ」

 

 一拍置いてから、続ける。

 

「少なくとも、嫌われてはないと思う」

 

 事実だけを言う。

 

 嘘はつかない。

 

 言わないことは、たくさんあるけれど。

 

 例えば、

 うまくいってほしくない、なんて。

 

 そんなことは、絶対に。

 

『そっか……』

 

 電話越しに、

 息がゆるむ。

 

 緊張がほどけて、

 頬が緩んでいるのが見えるみたいだ。

 

 それだけで、胸がきゅっとなる。

 

 痛いのに、

 どうしようもなく愛おしい。

 

『優がいてくれてよかった』

 

 簡単に言う。

 

 何気なく。

 日常の中の、ただの感謝みたいに。

 

 きっと、本心から。

 

 だから困る。

 

 その言葉の真っ直ぐさに、

 逃げ場がなくなる。

 

「大げさ」

 

 笑う。

 

 いつもの調子で。

 軽く流す。

 

 受け取りすぎてしまったら、

 立っていられなくなるから。

 

『だってさ、こんなの誰にでも話せるわけじゃないし』

 

 由依は本当にそう思っている。

 

 俺だけなのだ。

 深夜一時に電話をかけて、

 声を預けられるのは。

 

「……うん」

 

 わかってる。

 

 その信頼の重さも、

 尊さも。

 

 全部、理解している。

 

 信頼されている。

 特別だと思ってもらえている。

 

 ただしそれは、

 

 一番になれるという意味ではない。

 その席は違う人のために空けられていると、理解できる。

 

 ゆっくりと瞬きをする。

 

 涙が出るほどじゃない。

 でも、目の奥が少し熱い。

 

 由依はまだ話している。

 

 次はどうしたらいいかな、とか。

 今度会えたらもう少し踏み込んでもいいかな、とか。

 

 未来の話。

 

 俺の知らない未来。

 

 そこに、俺の居場所はない。

 

 それでも。

 

 隣で地図を広げる役目がある。

 

「もうちょっとさ」

 

 体を横に向ける。

 枕に顔を埋めて、声を柔らかくする。

 

「相手の反応見ながらでいいと思う。急がなくていいし」

 

『うん』

 

「由依はちゃんと、大事にできる人なんだから」

 

 これは、本心だ。

 

 好きになった相手を、

 きっとまっすぐに想うだろう。

 

 俺がそうしているみたいに。

 

『なんかさ』

 

 由依が小さく笑う。

 

『優に言われると、ほんとに大丈夫な気がしてくる』

 

 その言葉が、

 俺の役割を完成させる。

 

 安心を与える人。

 道を照らす人。

 

 背中を押す人。

 

 ――選ばれない人。

 

 通話時間が一時間を超えるころには、

 由依の声はすっかり軽くなっている。

 

 最初の不安は消えて、

 明日のことを考える余裕が生まれている。

 

 笑い声が増えて、

 冗談が戻ってくる。

 

 それを確認して、小さく安堵する。

 

 役目は果たせた。

 

『また進展あったら連絡するね』

 

「いつでもどうぞ」

 

 本当に、いつでも。

 

 眠れなくても、

 予定があっても。

 

 呼ばれたら、行く。

 

『ありがと。おやすみ』

 

「おやすみ」

 

 名残惜しそうな間があって、

 それから通話が切れる。

 

 ぷつり、と。

 

 世界が静かになる。

 

 さっきまで耳元にあった熱が、

 一瞬で引いていく。

 

 しばらくスマホを耳に当てたまま、

 動けずにいる。

 

 切れたことを認めたら、

 本当に一人になってしまうから。

 

 やがて画面が暗くなって、

 そこに自分の顔が映る。

 

 笑っているような、困っているような、

 どちらともつかない顔。

 

 練習した覚えのない表情。

 

 スマホをゆっくり胸の上に置いた。

 

 重みが、じんわり伝わる。

 

 静かな部屋に、エアコンの音だけがある。

 遠くで誰かが水を流す音。

 廊下を歩く足音。

 

 世界は、もう由依を必要としていない。

 

 少し前までここにあった、由依の気配が

 もうきれいに消えている。

 

 助けられたのは、由依だ。

 

 軽くなったのも、

 勇気をもらったのも、

 前を向けるのも。

 

 自分じゃない。

 

 それでいい。それがいい。

 

 そう思うのに、喉の奥に小さな何かが引っかかっている。

 

 吐き出してしまえば楽になるのかもしれない。

 名前をつけてしまえば、整理がつくのかもしれない。

 

 でも。

 

 それをしてしまったら、自覚してしまったら、

 この場所にいられなくなる。

 それだけは、嫌だった。

 

 目を閉じる。

 

 暗闇が降りてきて、

 やっと呼吸が整う。

 

 声にしない。

 

 できない。

 

 胸の奥で、

 形になりかけたものが、

 また静かにほどけていく。

 

 だから今日も、明日も、

 正しい位置にいる。

 

 選ばれなくて、

 それでも隣に立てる場所。

 

 最善の席に。

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