声になる前   作:5734589

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第三章 後押し

第三章:後押し

 

 

天井から降りてくる白い照明は影をほとんど作らなくて、どの服も、どの人も、少しだけ現実よりきれいに見えた。

 ガラス張りの店先が連なり、マネキンたちは季節より半歩先の顔で立っている。

 

 エスカレーターを上がり切ったところで、由依は一度立ち止まり、ショーウィンドウをざっと見渡した。

 

「……ね、やっぱ緊張してきた」

 

 そう言いながら笑う。

 笑っているのに、指先は落ち着かない。

 バッグの持ち手を持ち替えて、また戻して、肩にかけ直す。

 

 優はその横顔を見る。

 横顔だけで、だいたいのことがわかる。

 

 嬉しいときの呼吸。

 怖いときの瞬き。

 期待しているときの、ほんの少しだけ早くなる歩幅。

 

「いつもみたいに服選ぶだけだよ。」

 

「その服がさあ、未来を決めるんじゃん……」

 

「大げさ」

 

「大げさじゃないって!」

 

 由依は大真面目な顔で言って、それから自分で可笑しくなったみたいに、ふっと肩を揺らした。

 

 扉が開く。

 甘い香りと、整えられた音楽。

 ハンガーが擦れる軽い金属音。

 

 由依はすぐに吸い込まれていく。

 

 迷いがあるふりをして、

 本当はもう、この時間をずっと待っていた人の足取りで。

 

 

 鏡張りの一角。

 試着室の前に置かれた長い姿見。

 

 由依が最初に手に取ったのは、淡いベージュのワンピースだった。

 胸元に小さなボタンが並んでいて、布はやわらかく、触れるだけで優しい人になれそうだと思った。

 

「どう思う?」

 

 身体に当てる。

 半歩下がって、こちらを見る。

 

 目がもう、答えを欲しがっている。

 

 腕を組み、考えるように少しだけ顎を引いて、鏡の中の二人を同時に見比べる。

 

 似合うかどうか。

 彼女が好きそうかどうか。

 由依が、安心して笑えるかどうか。

 

 考える項目は、いつも同じだ。

 

「かわいいと思う。すごく似合う。でも、ちょっと無難かも」

 

「無難……」

 

 由依は口の中で繰り返す。

 傷ついたわけじゃない。

 ちゃんと、次の選択肢へ進むための言葉だとわかっている顔。

 

「そっかあ……もうちょっと攻めてもいいかな」

 

 ハンガーを戻す。

 指先が、少しだけ強い。

 

 

 次はネイビー。

 少しだけ大人っぽく。

 線が細く見える形。

 

 由依は鏡の前で首を傾げて、裾を広げて、回ってみせる。

 スカートが遅れてついてくる。

 

「これは?」

 

「背伸びしたね」

 

「出た」

 

 即答に、由依は笑う。

 

「優、ほんと容赦ない」

 

「似合わないとは言ってない」

 

「でも、今の私は違うって顔してる」

 

「うん」

 

 素直に頷くと、由依はもう一度鏡を見る。

 

 自分の姿。

 そこにいる、少しだけ大人ぶった女の子。

 

「……なんか、戦闘態勢って感じ」

 

「デートだよ」

 

「それはそうなんだけどさ。」

 

 ハンガーが、また戻る。

 

 

 いくつか当てて、

 笑って、

 迷って。

 

 時間がゆっくり伸びていく。

 

 俺はその全部を見ていた。

 

 選ぶというより、

 由依が「自分になれる場所」を探しているのを。

 

 そして最後に、

 少しだけ生成りに近い、軽いワンピースが残った。

 

 飾りは少ない。

 でも、線がきれいで、

 立ったときの姿勢が自然に整う。

 

 由依はそれを持ち上げて、

 さっきまでより静かな顔で、胸元に当てた。

 

「……どう?」

 

 声の温度が違う。

 

 もう遊びじゃない。

 

 鏡を見る。

 他の客の動き、店員、マネキン、店の前を通る客、鏡写しの世界。

 その全部の真ん中に、由依がいた。

 

 似合っている。

 

 悔しいくらいに。

 

 まだ着てもいないのに、

 もう似合っているのがわかる。

 

 もし隣に立つ相手がいるなら、

 きっと誇らしくなるだろう。

 

「いいと思う」

 

 言葉は、すぐに出る。出てしまう。

 

「ほんと?」

 

 振り向く動きが速い。

 期待が、隠れていない。

 

「うん。意識してないのに、ちゃんとして見える。すごい似合うよ。」

 

 由依の肩の力が、目に見えて抜ける。

 

「なにそれ最高じゃん」

 

 くしゃっと笑う。

 

 信じる。

 

 優の言葉を疑わない。

 

 昔からそうだった。

 

 テスト前に「たぶん大丈夫だよ」と言えば、

 本当に大丈夫な顔をしていたし、

 似合うと言えば、その服を買った。

 

 責任はいつも、

 さりげなく優の手に渡される。

 

 そして優は、

 それを落としたことがない。

 

 鏡の中、隣に並んだ自分たちを見る。

 

 自然と立ち位置が決まる。

 

 身長差。

 

 肩の位置。

 

 ほんの少し前に出ているのは、いつも由依の方だ。

 

 無意識に、

 優は半歩下がる。

 

 前に立つ人が、きれいに見える位置。

 

 そういう距離を、もう身体が覚えている。

 

 鏡の向こうの二人は、よく並んでいる。

 

 長い付き合いが作った、違和感のない配置。

 

「優が選んでくれると安心するんだよね」

 

 ぽつり、と言う。

 

 ワンピースの裾をつまんだまま。

 

「買いかぶり」

 

「そんなことないって」

 

 即答。

 

 自分を疑う余地を与えないように、それ以上の意味を見出さないように。

 

 由依は鏡を見つめる。

 その目が少しずつ、決心の色になる。

 

 好きな人に会いにいく目。

 

 もう後戻りしない人の顔。

 

 未来が、ひとつ進む。

 

 俺はそれを、隣で見ている。

 

 拍手も、止めることもできない場所で。

 

 店を出ると、さっきより通路の人が増えていた。

 

 仕事帰りの足音。

 笑い声。

 紙袋の擦れる音。

 

 明るいはずなのに、少しだけ世界が慌ただしくなっていて、

 由依はその流れに押されるみたいに優の袖をつまんだ。

 

「どっか座ろ。無理。もう無理」

 

「まだ何もしてないよ」

 

「これからするの!」

 

 半分泣きそうで、半分笑っている。

 忙しい顔。

 

 俺は小さく笑って、近くのカフェを指さした。

 

 

 窓際の二人席。

 ガラスの向こうを人が絶えず流れていく。

 

 トレーを置くとき、由依の手がわずかに揺れた。

 氷が鳴る。

 

「やばい」

 

 まだスマホも出していないのに言う。

 

 優はストローの袋をゆっくり剥いた。

 いつも通りの速度で。

 急がない人の動きで。

 

「深呼吸すれば」

 

「それでどうにかなる?」

 

「多少は」

 

「多少かあ……」

 

 由依は笑って、それでも言われた通りに息を吸った。

 胸が上下する。

 視線が落ち着かない。

 

 それから、覚悟を決める人の顔になって、

 スマホをテーブルの真ん中に置いた。

 

 逃げられない位置。

 

「で、どう送る?」

 

 画面がこちらを向く。

 白い入力欄。

 点滅するカーソル。

 

 優はそれを見つめる。

 

 由依が傷つかなくて済む言葉。

 重くなりすぎない言葉。

 でもちゃんと伝わる言葉。

 

 選ぶ。

 削る。

 丸くする。

 

 もう慣れてしまった作業だ。

 

「明日空いてたらご飯どうですか、でいいんじゃない」

 

「直球!」

 

「回りくどくしても仕方ないでしょ」

 

「うー……」

 

 唸りながらも、指は素直に動く。

 俺の言葉を、ほとんどそのまま打ち込んでいく。

 

 文字が並ぶ。

 由依の未来の形。

 

 最後の「?」を入れるところで止まる。

 

「……いくよ?」

 

「うん」

 

 小さなタップ。

 

 送信。

 

 画面が静かになる。

 

 取り返しがつかない静けさ。

 

 由依はすぐにスマホを伏せて、両手で顔を覆った。

 

「やばい。無理。死ぬ」

 

「まだ何も起きてないから」

 

「でもさあ!」

 

 指の隙間からこちらを見る。

 本気で助けを求める目。

 

 俺はいつも通りに笑う。

 その視線を受け止める位置にいることに、慣れている。

 

 この時間を、何度もやってきた。

 

 緊張を分けてもらって、

 その代わりに、支える。

 

 役割分担は完璧だ。

 

 

 由依はスマホに触れない。

 まるで触れたら爆発するみたいに。

 

 代わりにストローを回す。

 氷がくるくると動いて、溶けて、形を変える。

 視線はスマホと俺を行ったり来たりしていた。

 

「優、もし変な返事きたらどうする?」

 

「その時考える」

 

「冷静……」

 

「今考えても意味ない」

 

「そうなんだけどさあ」

 

 そう言いながら、

 由依は結局、俺の顔を見る。

 

 判断を預ける場所を確認するみたいに。

 その狡さが、あざとさが、どうしようもなく心臓を忙しなくさせた。

 

 

 震える。

 

 テーブルの上。

 小さな振動。

 

 二人同時に息が止まる。

 

「きた」

 

 声が裏返る。

 

 由依は固まったまま、スマホを見て、

 それからゆっくり優の方へ押した。

 

「読んで」

 

「なんで俺が」

 

「怖い」

 

 即答。

 

 苦笑して、画面を引き寄せる。

 

 開く。

 短い文章。

 

 明日、大丈夫です。ぜひ。

 

 余計なものは何もない。

 迷いも、濁しもない。

 

 余計なものが滲まないように、一度、瞬きをする。

 

「……いいじゃん」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

 その一言で、由依の身体がほどける。

 

 ぱっと笑う。

 花みたいに。

 

「やば、どうしよ、どうしよ……!」

 

 テーブルの下で足がばたつく。

 ぶつかる振動が伝わってくる。

 

 嬉しいんだと思う。

 

 ちゃんと。

 

 由依が望んでいたことが、叶ったのだから。

 

 それがいちばんだ。

 

 それが、正しい。

 

 

「ありがとう、優のおかげだ」

 

「何もしてない」

 

「した!」

 

 強く言われる。

 

 逃げ場がないくらいの断言。

 

 少しだけ笑って、

 ストローを口に運ぶ。

 

 甘い。

 よくわからない味。

 

 喉の奥に落ちていく。

 

 少しだけ、誇らしい。

 

 少しだけ。

 残りは見ないふりをした。

 

 

 店を出たあとの空気は、来たときより冷えていた。

 

 ガラス扉が閉まる音。

 夜へ移り始める照明。

 

 由依はさっきより早足だ。

 同じ床なのに、跳ねるみたいに歩く。

 

「なに着てこう」

 

「さっきのでしょ。」

 

「だよね!?」

 

「ぶれないで」

 

「ぶれない!」

 

 笑い声が軽い。

 

 明日へ続いている人の声。

 

 

 改札の前。

 

 人の流れが分かれる場所。

 

「また報告するね!」

 

「うん」

 

 由依は何度も手を振って、

 それから振り向きながら遠ざかっていく。

 

 背中が小さくなる。

 でも、軽い。

 

 未来に呼ばれている人の歩き方。

 

 

 立ち止まる。

 

 ほんの少しだけ。

 

 ああ。

 

 ちゃんと、押したな。

 

 自分で。

 間違いなく。

 

 胸の奥で何かが閉まる音がした。

 

 鍵をかけるみたいな、

 静かな区切り。

 

 でも痛みは思ったより小さい。

 

 代わりに、

 じんわりとした満足が残る。

 

 役に立てた。

 

 選ばれなくても、

 必要ではいられる。

 

 それならきっと、

 これからも隣にいられる。

 

 

 改札を抜ける。

 

 人混みの中に、自分の身体が溶けていく。

 

 表情は見えないはずなのに、口角を上げる。

 

 うまく笑えていると思う。

 

 誰に見せるわけでもないのに。

 改札を抜けて、階段を下りる。

 

 人の流れは途切れない。

 肩が触れる。

 靴音が重なる。

 誰も俺を見ていない。

 

 それなのに、

 ちゃんと笑っていなければいけない気がした。

 

 口角の形を保ったまま、

 改札機に切符を通す。

 

 機械の光が一瞬だけ緑に変わる。

 それで許されたみたいに、前へ進む。

 

 ホームへ降りるエスカレーターに乗ると、

 視界がゆっくりと沈んでいく。

 

 その間も、

 頭の中はまださっきの場所にあった。

 

 由依の顔。あの笑い方。跳ねる声。

 

 成功だ、と

 何度も繰り返す。

 

 よかった。

 うまくいった。

 役に立てた。

 

 ちゃんと押せた。

 

 間違ってなんかない。

 

 

 電車が入ってくる。

 

 風が巻き上がる。

 髪が揺れる。

 

 その中に立っている。

 

 立っているだけなのに、

 身体の奥が、少しずつ空いていく。

 

 何かが抜けた場所みたいに、

 ひゅう、と冷たい。

 

 

 乗り込んで、

 ドアの横に立つ。

 

 窓に映った自分の顔を見る。

 

 まだ笑っている。

 

 驚くくらい自然に。

 

「……うまいな」

 

 誰に向けるでもなく、思う。

 

 慣れている。

 

 こういう顔。

 

 

 揺れが始まる。

 

 つり革が揺れて、

 広告が揺れて、

 景色が後ろへ流れていく。

 

 前に進んでいるはずなのに、

 取り残されていく気がする。

 

 

 もし。

 

 ふと、浮かぶ。

 

 もし、あのとき。

 

 ワンピースを当てて、

 似合う? って笑ったとき。

 

 あるいは、

 メッセージを打つ前。

 

 送信のボタンを押す前。

 

 改札で手を振られる前。

 

 どこでもいい。

 

 どこかで。

 

 言えていたら。

 

 

 好きだよ、と。

 

 そっちに行かないで、と。

 

 私の隣にいて、と。

 

 

 電車の揺れが強くなる。

 

 ぎゅっと目を閉じる。

 

 浮かんでしまう。

 

 言えたかもしれない未来。

 

 

 驚いた顔。

 困った顔。

 

 それから、

 少し考えて。

 

 もしかしたら。

 

 もしかしたら、

 笑ってくれたかもしれない。

 

 「もっと早く言ってよ」なんて、

 軽く怒るみたいに。

 

 それで、

 二人で笑って。

 

 今日とは違う方向へ歩いていく。

 

 

 同じ改札。

 

 同じ街。

 

 でも、

 並んで。

 

 肩が触れる距離で。

 

 

 そんな光景が、

 ありえたかもしれない。

 

 

 胸がきゅっと縮む。

 

 遅れてやってくる痛みは、

 いつも静かだ。

 

 派手じゃない。

 騒がない。

 

 ただ、

 確実にここにある。

 

 

 ゆっくりと息を吐く。

 

 だめだ。

 

 それは。

 

 考えてはいけないやつだ。

 

 

 自分が選ばなかった道。

 選ばせなかった道。

 

 そこに光を当てるのは、

 ずるい。

 

 

 だって。

 

 

 今日、

 由依は笑っていた。

 

 あんな顔、

 自分には向けられないくらい、

 まっすぐな笑顔で。

 

 

 あれを消してまで、

 欲しい未来だったか?

 

 

 違う。

 

 違う。

 

 

 優は目を開ける。

 

 窓の外。

 暗闇に、街の光が流れていく。

 

 もう戻れない。

 戻らない。

 

 

 喉の奥が熱い。

 

 でも、

 声にはならない。

 

 ならなくていい。

 

 

 もし言えていたら、なんて。

 

 そんな未来より。

 

 今、

 由依が笑っていることの方が、

 ずっと正しい。

 

 

 幸せそうだった。

 

 軽やかだった。

 明日に向かっていた。

 

 

 なら、それでいい。

 

 いいはずだ。

 

 

 手すりを握る力を少し強めた。

 

 それだけで、

 今ここにいる自分を保てる気がした。

 

 

 選ばれなくてもいい。

 

 隣にいられれば。

 

 必要でいられれば。

 

 

 その形を、

 選んだのは、俺自身。

 

 

 電車は次の駅に滑り込む。

 

 ドアが開く。

 

 人が降りて、

 人が乗る。

 

 流れは止まらない。

 

 

 

 またちゃんと笑う。

 

 誰も見ていなくても。

 

 

 それでいい。

 

 いいはずなんだ。

 

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