第三章:後押し
天井から降りてくる白い照明は影をほとんど作らなくて、どの服も、どの人も、少しだけ現実よりきれいに見えた。
ガラス張りの店先が連なり、マネキンたちは季節より半歩先の顔で立っている。
エスカレーターを上がり切ったところで、由依は一度立ち止まり、ショーウィンドウをざっと見渡した。
「……ね、やっぱ緊張してきた」
そう言いながら笑う。
笑っているのに、指先は落ち着かない。
バッグの持ち手を持ち替えて、また戻して、肩にかけ直す。
優はその横顔を見る。
横顔だけで、だいたいのことがわかる。
嬉しいときの呼吸。
怖いときの瞬き。
期待しているときの、ほんの少しだけ早くなる歩幅。
「いつもみたいに服選ぶだけだよ。」
「その服がさあ、未来を決めるんじゃん……」
「大げさ」
「大げさじゃないって!」
由依は大真面目な顔で言って、それから自分で可笑しくなったみたいに、ふっと肩を揺らした。
扉が開く。
甘い香りと、整えられた音楽。
ハンガーが擦れる軽い金属音。
由依はすぐに吸い込まれていく。
迷いがあるふりをして、
本当はもう、この時間をずっと待っていた人の足取りで。
⸻
鏡張りの一角。
試着室の前に置かれた長い姿見。
由依が最初に手に取ったのは、淡いベージュのワンピースだった。
胸元に小さなボタンが並んでいて、布はやわらかく、触れるだけで優しい人になれそうだと思った。
「どう思う?」
身体に当てる。
半歩下がって、こちらを見る。
目がもう、答えを欲しがっている。
腕を組み、考えるように少しだけ顎を引いて、鏡の中の二人を同時に見比べる。
似合うかどうか。
彼女が好きそうかどうか。
由依が、安心して笑えるかどうか。
考える項目は、いつも同じだ。
「かわいいと思う。すごく似合う。でも、ちょっと無難かも」
「無難……」
由依は口の中で繰り返す。
傷ついたわけじゃない。
ちゃんと、次の選択肢へ進むための言葉だとわかっている顔。
「そっかあ……もうちょっと攻めてもいいかな」
ハンガーを戻す。
指先が、少しだけ強い。
⸻
次はネイビー。
少しだけ大人っぽく。
線が細く見える形。
由依は鏡の前で首を傾げて、裾を広げて、回ってみせる。
スカートが遅れてついてくる。
「これは?」
「背伸びしたね」
「出た」
即答に、由依は笑う。
「優、ほんと容赦ない」
「似合わないとは言ってない」
「でも、今の私は違うって顔してる」
「うん」
素直に頷くと、由依はもう一度鏡を見る。
自分の姿。
そこにいる、少しだけ大人ぶった女の子。
「……なんか、戦闘態勢って感じ」
「デートだよ」
「それはそうなんだけどさ。」
ハンガーが、また戻る。
⸻
いくつか当てて、
笑って、
迷って。
時間がゆっくり伸びていく。
俺はその全部を見ていた。
選ぶというより、
由依が「自分になれる場所」を探しているのを。
そして最後に、
少しだけ生成りに近い、軽いワンピースが残った。
飾りは少ない。
でも、線がきれいで、
立ったときの姿勢が自然に整う。
由依はそれを持ち上げて、
さっきまでより静かな顔で、胸元に当てた。
「……どう?」
声の温度が違う。
もう遊びじゃない。
鏡を見る。
他の客の動き、店員、マネキン、店の前を通る客、鏡写しの世界。
その全部の真ん中に、由依がいた。
似合っている。
悔しいくらいに。
まだ着てもいないのに、
もう似合っているのがわかる。
もし隣に立つ相手がいるなら、
きっと誇らしくなるだろう。
「いいと思う」
言葉は、すぐに出る。出てしまう。
「ほんと?」
振り向く動きが速い。
期待が、隠れていない。
「うん。意識してないのに、ちゃんとして見える。すごい似合うよ。」
由依の肩の力が、目に見えて抜ける。
「なにそれ最高じゃん」
くしゃっと笑う。
信じる。
優の言葉を疑わない。
昔からそうだった。
テスト前に「たぶん大丈夫だよ」と言えば、
本当に大丈夫な顔をしていたし、
似合うと言えば、その服を買った。
責任はいつも、
さりげなく優の手に渡される。
そして優は、
それを落としたことがない。
鏡の中、隣に並んだ自分たちを見る。
自然と立ち位置が決まる。
身長差。
肩の位置。
ほんの少し前に出ているのは、いつも由依の方だ。
無意識に、
優は半歩下がる。
前に立つ人が、きれいに見える位置。
そういう距離を、もう身体が覚えている。
鏡の向こうの二人は、よく並んでいる。
長い付き合いが作った、違和感のない配置。
「優が選んでくれると安心するんだよね」
ぽつり、と言う。
ワンピースの裾をつまんだまま。
「買いかぶり」
「そんなことないって」
即答。
自分を疑う余地を与えないように、それ以上の意味を見出さないように。
由依は鏡を見つめる。
その目が少しずつ、決心の色になる。
好きな人に会いにいく目。
もう後戻りしない人の顔。
未来が、ひとつ進む。
俺はそれを、隣で見ている。
拍手も、止めることもできない場所で。
店を出ると、さっきより通路の人が増えていた。
仕事帰りの足音。
笑い声。
紙袋の擦れる音。
明るいはずなのに、少しだけ世界が慌ただしくなっていて、
由依はその流れに押されるみたいに優の袖をつまんだ。
「どっか座ろ。無理。もう無理」
「まだ何もしてないよ」
「これからするの!」
半分泣きそうで、半分笑っている。
忙しい顔。
俺は小さく笑って、近くのカフェを指さした。
⸻
窓際の二人席。
ガラスの向こうを人が絶えず流れていく。
トレーを置くとき、由依の手がわずかに揺れた。
氷が鳴る。
「やばい」
まだスマホも出していないのに言う。
優はストローの袋をゆっくり剥いた。
いつも通りの速度で。
急がない人の動きで。
「深呼吸すれば」
「それでどうにかなる?」
「多少は」
「多少かあ……」
由依は笑って、それでも言われた通りに息を吸った。
胸が上下する。
視線が落ち着かない。
それから、覚悟を決める人の顔になって、
スマホをテーブルの真ん中に置いた。
逃げられない位置。
「で、どう送る?」
画面がこちらを向く。
白い入力欄。
点滅するカーソル。
優はそれを見つめる。
由依が傷つかなくて済む言葉。
重くなりすぎない言葉。
でもちゃんと伝わる言葉。
選ぶ。
削る。
丸くする。
もう慣れてしまった作業だ。
「明日空いてたらご飯どうですか、でいいんじゃない」
「直球!」
「回りくどくしても仕方ないでしょ」
「うー……」
唸りながらも、指は素直に動く。
俺の言葉を、ほとんどそのまま打ち込んでいく。
文字が並ぶ。
由依の未来の形。
最後の「?」を入れるところで止まる。
「……いくよ?」
「うん」
小さなタップ。
送信。
画面が静かになる。
取り返しがつかない静けさ。
由依はすぐにスマホを伏せて、両手で顔を覆った。
「やばい。無理。死ぬ」
「まだ何も起きてないから」
「でもさあ!」
指の隙間からこちらを見る。
本気で助けを求める目。
俺はいつも通りに笑う。
その視線を受け止める位置にいることに、慣れている。
この時間を、何度もやってきた。
緊張を分けてもらって、
その代わりに、支える。
役割分担は完璧だ。
⸻
由依はスマホに触れない。
まるで触れたら爆発するみたいに。
代わりにストローを回す。
氷がくるくると動いて、溶けて、形を変える。
視線はスマホと俺を行ったり来たりしていた。
「優、もし変な返事きたらどうする?」
「その時考える」
「冷静……」
「今考えても意味ない」
「そうなんだけどさあ」
そう言いながら、
由依は結局、俺の顔を見る。
判断を預ける場所を確認するみたいに。
その狡さが、あざとさが、どうしようもなく心臓を忙しなくさせた。
⸻
震える。
テーブルの上。
小さな振動。
二人同時に息が止まる。
「きた」
声が裏返る。
由依は固まったまま、スマホを見て、
それからゆっくり優の方へ押した。
「読んで」
「なんで俺が」
「怖い」
即答。
苦笑して、画面を引き寄せる。
開く。
短い文章。
明日、大丈夫です。ぜひ。
余計なものは何もない。
迷いも、濁しもない。
余計なものが滲まないように、一度、瞬きをする。
「……いいじゃん」
「ほんとに?」
「うん」
その一言で、由依の身体がほどける。
ぱっと笑う。
花みたいに。
「やば、どうしよ、どうしよ……!」
テーブルの下で足がばたつく。
ぶつかる振動が伝わってくる。
嬉しいんだと思う。
ちゃんと。
由依が望んでいたことが、叶ったのだから。
それがいちばんだ。
それが、正しい。
⸻
「ありがとう、優のおかげだ」
「何もしてない」
「した!」
強く言われる。
逃げ場がないくらいの断言。
少しだけ笑って、
ストローを口に運ぶ。
甘い。
よくわからない味。
喉の奥に落ちていく。
少しだけ、誇らしい。
少しだけ。
残りは見ないふりをした。
⸻
店を出たあとの空気は、来たときより冷えていた。
ガラス扉が閉まる音。
夜へ移り始める照明。
由依はさっきより早足だ。
同じ床なのに、跳ねるみたいに歩く。
「なに着てこう」
「さっきのでしょ。」
「だよね!?」
「ぶれないで」
「ぶれない!」
笑い声が軽い。
明日へ続いている人の声。
⸻
改札の前。
人の流れが分かれる場所。
「また報告するね!」
「うん」
由依は何度も手を振って、
それから振り向きながら遠ざかっていく。
背中が小さくなる。
でも、軽い。
未来に呼ばれている人の歩き方。
⸻
立ち止まる。
ほんの少しだけ。
ああ。
ちゃんと、押したな。
自分で。
間違いなく。
胸の奥で何かが閉まる音がした。
鍵をかけるみたいな、
静かな区切り。
でも痛みは思ったより小さい。
代わりに、
じんわりとした満足が残る。
役に立てた。
選ばれなくても、
必要ではいられる。
それならきっと、
これからも隣にいられる。
⸻
改札を抜ける。
人混みの中に、自分の身体が溶けていく。
表情は見えないはずなのに、口角を上げる。
うまく笑えていると思う。
誰に見せるわけでもないのに。
改札を抜けて、階段を下りる。
人の流れは途切れない。
肩が触れる。
靴音が重なる。
誰も俺を見ていない。
それなのに、
ちゃんと笑っていなければいけない気がした。
口角の形を保ったまま、
改札機に切符を通す。
機械の光が一瞬だけ緑に変わる。
それで許されたみたいに、前へ進む。
ホームへ降りるエスカレーターに乗ると、
視界がゆっくりと沈んでいく。
その間も、
頭の中はまださっきの場所にあった。
由依の顔。あの笑い方。跳ねる声。
成功だ、と
何度も繰り返す。
よかった。
うまくいった。
役に立てた。
ちゃんと押せた。
間違ってなんかない。
⸻
電車が入ってくる。
風が巻き上がる。
髪が揺れる。
その中に立っている。
立っているだけなのに、
身体の奥が、少しずつ空いていく。
何かが抜けた場所みたいに、
ひゅう、と冷たい。
⸻
乗り込んで、
ドアの横に立つ。
窓に映った自分の顔を見る。
まだ笑っている。
驚くくらい自然に。
「……うまいな」
誰に向けるでもなく、思う。
慣れている。
こういう顔。
⸻
揺れが始まる。
つり革が揺れて、
広告が揺れて、
景色が後ろへ流れていく。
前に進んでいるはずなのに、
取り残されていく気がする。
⸻
もし。
ふと、浮かぶ。
もし、あのとき。
ワンピースを当てて、
似合う? って笑ったとき。
あるいは、
メッセージを打つ前。
送信のボタンを押す前。
改札で手を振られる前。
どこでもいい。
どこかで。
言えていたら。
⸻
好きだよ、と。
そっちに行かないで、と。
私の隣にいて、と。
⸻
電車の揺れが強くなる。
ぎゅっと目を閉じる。
浮かんでしまう。
言えたかもしれない未来。
⸻
驚いた顔。
困った顔。
それから、
少し考えて。
もしかしたら。
もしかしたら、
笑ってくれたかもしれない。
「もっと早く言ってよ」なんて、
軽く怒るみたいに。
それで、
二人で笑って。
今日とは違う方向へ歩いていく。
⸻
同じ改札。
同じ街。
でも、
並んで。
肩が触れる距離で。
⸻
そんな光景が、
ありえたかもしれない。
⸻
胸がきゅっと縮む。
遅れてやってくる痛みは、
いつも静かだ。
派手じゃない。
騒がない。
ただ、
確実にここにある。
⸻
ゆっくりと息を吐く。
だめだ。
それは。
考えてはいけないやつだ。
⸻
自分が選ばなかった道。
選ばせなかった道。
そこに光を当てるのは、
ずるい。
⸻
だって。
⸻
今日、
由依は笑っていた。
あんな顔、
自分には向けられないくらい、
まっすぐな笑顔で。
⸻
あれを消してまで、
欲しい未来だったか?
⸻
違う。
違う。
⸻
優は目を開ける。
窓の外。
暗闇に、街の光が流れていく。
もう戻れない。
戻らない。
⸻
喉の奥が熱い。
でも、
声にはならない。
ならなくていい。
⸻
もし言えていたら、なんて。
そんな未来より。
今、
由依が笑っていることの方が、
ずっと正しい。
⸻
幸せそうだった。
軽やかだった。
明日に向かっていた。
⸻
なら、それでいい。
いいはずだ。
⸻
手すりを握る力を少し強めた。
それだけで、
今ここにいる自分を保てる気がした。
⸻
選ばれなくてもいい。
隣にいられれば。
必要でいられれば。
⸻
その形を、
選んだのは、俺自身。
⸻
電車は次の駅に滑り込む。
ドアが開く。
人が降りて、
人が乗る。
流れは止まらない。
⸻
またちゃんと笑う。
誰も見ていなくても。
⸻
それでいい。
いいはずなんだ。