声になる前   作:5734589

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第四章 私の胸で泣きなさい

第四章:私の胸で泣きなさい

 

 呼び出されたのは、夜だった。

 

 スマホの画面に浮かんだ名前は、

 いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。

 

 光がやけに白くて、

 部屋の暗さを強調する。

 

 着信音が鳴る。

 一度、止まる。

 また鳴る。

 

 俺は、すぐに取れなかった。

 

 胸の奥が、

 理由もなくざわついたからだ。

 

 嫌な予感というほどはっきりしたものじゃない。

 けれど、無視できるほど些細でもない。

 楽しい話じゃないと分かる程度には、

 長く隣にいすぎた。

 

 通話ボタンを押す。

 

「もしもし」

 

 自分の声が、

 思ったより普通で安心する。

 

 震えていない。

 

 大丈夫だ。

 

 受け止められる。

 

 

『……あ』

 

 小さな息。

 

 言葉になりきらない音。

 

 それだけで、伝わる。

 

 由依の声が、沈んでいる。

 

 いつもの軽さがない。

 弾む感じがない。

 どこに置けばいいか分からないみたいに、

 声が揺れている。

 

 

『今、平気?』

 

「うん」

 

 本当は、

 平気じゃない予感がした。

 

 けれど、

 ここで迷う選択肢は俺の中にない。

 

 

 電話口で、

 由依は何度か息を吸って、やめる。

 

 言葉を探している。

 傷つけない場所を。

 壊れない順番を。

 

 そんなふうに迷うところまで、

 優は知っている。

 

 

『会える?』

 

 

 短い。

 

 けれど、それだけで十分だった。

 

 説明はいらない。

 

 理由もいらない。

 

 行かなければならない夜の声だ。

 

 

「うん。行くよ。」

 

 即答だった。

 

 考えるより早く、

 身体が動く。

 

 

 通話を切ったあと、

 部屋の静けさが急に重くなる。

 

 ついさっきまで、

 ただの夜だったのに。

 

 机の上には開きっぱなしのノート。

 途中のレポート。

 ペン。

 飲みかけの水。

 

 全部どうでもいい。

 

 立ち上がる。

 

 椅子の脚が床を擦る音が、

 妙に大きい。

 

 

 上着を掴む。

 袖を通す。

 

 指先が少しだけうまく動かない。

 

 急いでいるのか、怖いのか、

 どっちなのか分からない。

 

 

 玄関のドアを開けると、

 夜の空気が流れ込んできた。

 

 冷たい。

 

 肺の奥がひりつく。

 

 ああ、冬なんだ、と

 今さらみたいに思う。

 

 

 階段を下りながら、祈る。

 

 由依は大丈夫でありますように。

 

 できれば、

 そこまで深く傷ついていませんように。

 

 泣いていませんように。

 

 

 でも同時に。

 

 もし泣いていたら、

 自分が必要になるとも思っている。

 自分の席ができると。

 

 それがどれだけ醜い感情か、分かっているのに。

 

 

 足を速める。

 

 夜道はやけに長い。

 

 信号が赤い。

 人がいないのに、

 待たされる。

 

 早く。

 早く。

 

 

 駅前に近づくにつれて、

 街灯の色が増えていく。

 

 白。

 オレンジ。

 コンビニの青白い光。

 

 全部が現実的で、

 逃げ場がない。

 

 

 ベンチは、すぐに見つかった。

 

 見慣れている。

 

 待ち合わせで、

 何度も使った場所。

 

 

 そこに、

 由依がいた。

 

 

 小さくなっていた。

 

 

 背中が丸い。

 膝が寄っている。

 両手がぎゅっと組まれて、

 自分の体温を逃がさないみたいに固めている。

 

 

 

 あんなに嬉しそうに選んだ服。

 

 光の下でくるくる回っていた姿。

 

 それが今は、

 少しだけしわになっている。

 

 布が疲れて見える。

 

 

 うつむいたまま、

 靴先を見ていた。

 

 そこに答えが落ちているみたいに。

 

 

 胸が痛む。

 

 遅れたかもしれないと思う。

 

 もっと早く来られたんじゃないかと、

 意味のない後悔が湧く。

 

 

「由依」

 

 名前を呼ぶ。

 

 近づきながら、

 できるだけ柔らかく。

 

 

 由依の肩が震える。

 

 ゆっくり顔が上がる。

 

 

 目が合った。

 

 

 次の瞬間。

 

 崩れた。

 

 

 表情が、

 決壊するみたいに。

 

 抑えていたものが、

 一気に溢れ出す。

 

 

「……っ」

 

 声にならない。

 

 代わりに涙が落ちる。

 

 ぽろぽろと、

 急に。

 

 

 俺は迷わなかった。

 

 迷ったら、

 間に合わなくなる。

 

 

 隣に座る。

 

 距離を詰める。

 

 腕を回す。

 

 

 自然にできる。

 

 ずっと前から、こうする役目だったみたいに。

 

 

 由依の身体が寄ってくる。

 

 遠慮なく。

 隠しきれない重さで。

 

 

 あたたかい。

 

 震えている。

 

 

 胸の奥で、いろんな感情が一度に動く。

 

 守りたい。

 離れたくない。

 ここにいさせてほしい。

 

 

 全部まとめて、抱きしめる。

 

 

「我慢しなくていいのに。」

 

 気づけば、口から出ていた。

 

 用意していないのに。

 

 ずっと知っていた言葉みたいに。

 

 

 由依の指が、

 俺の服を掴む。

 

 ぎゅっと。

 

 

 安心した顔をして、縋ってくる。

 

 

 頼られている。

 

 信じられている。

 

 

 その事実が、

 まっすぐ、

 逃げ場なく、

 胸に落ちる。

 

 由依は俺の胸に額を押しつけたまま、

 うまく息が吸えないみたいに肩を震わせている。

 

 泣くのを我慢していた時間が長かったのだろう。

 

 いま、

 堰を切ったみたいに、

 全部があふれている。

 

 その重みを両腕で受け止める。

 

 逃がさないように。

 こぼさないように。

 これ以上傷つかないように。

 

 

 背中に手を回す。

 

 ゆっくり、

 何度も撫でる。

 

 子どもにするみたいに。

 

 一定の速さで。

 落ち着くまで繰り返す。

 

 自分の鼓動が伝わらないように祈りながら。

 

 

「ごめん……」

 

 由依の声は、俺のコートに吸い込まれて

 少しくぐもっている。

 

「うまく、いくと思ったの……」

 

「うん」

 

 それしか言えない。

 

 下手に慰めれば、

 事実を否定してしまいそうだから。

 

 

「ちゃんと、好きだって……言ってくれたのに」

 

「うん」

 

 

「でも、今は余裕ないって……」

 

 

 途切れ途切れの説明。

 

 理由としては、

 ありふれている。

 

 どうしようもないすれ違い。

 

 悪者はいない。

 

 ただ、タイミングだけが悪い。

 

 

 うなずきながら、

 由依の髪に触れた。

 

 昼間は光の下でやわらかく揺れていたであろう髪。

 

 いまは乱れて、湿って、

 指に絡む。

 

 

 こんなにも近い。

 

 体温が混ざりそうな距離。

 

 

 それなのに。

 

 

 由依の心は、

 別の誰かに向かっていた。

 

 たった今まで。

 

 

 胸の奥が、

 ぎゅうっと縮む。

 

 

 そして。

 

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 

 終わった、と思ってしまった。

 

 

 もう、あの人に向かって由依が走っていかなくていいんだ、と。

 

 電話の向こうで、

 嬉しそうに名前を呼ぶこともなくなるんだ、と。

 

 夜中に、

 緊張した声で報告されなくていいんだ、と。

 

 

 自分の知らない場所で、

 結衣が笑わなくていいんだ、と。

 

 

 思ってしまった。

 

 

 息が止まる。

 

 

 最低だ。

 

 

 すぐに理解する。

 

 反射みたいな安堵。

 

 救われたと思ってしまった。

 

 自分の居場所が戻ってきたと。

 

 

 この子が泣いているのに。

 

 傷ついているのに。

 

 

 由依を、さっきよりも強く抱きしめる。

 伝わるな。そう思いながら。

 

 打ち消さなければいけない。

 

 そんな気持ち、

 ここにあってはいけない。

 

 

 自分のための感情なんて、

 一滴も許されたらいけない。

 

 

「大丈夫」

 

 何が、なんて分からない。

 

 それでも言う。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 言葉を重ねることで、

 自分の醜さを覆い隠す。

 

 

 由依の涙が、

 服に染みていく。

 

 冷たい。

 

 けれど、

 どうしようもなく、離れがたい。

 

 

 この距離が、ほしい。

 

 

 頼られている今だけは、

 ここにいていいと言われている気がする。

 

 

 目をかたく閉じる。

 

 表情が歪まないように。

 

 

 ごめん。

 

 心の中で謝る。

 

 何に対してなのか、

 自分でもよく分からないまま。

 

 

 由依の嗚咽は、

 少しずつ小さくなっていく。

 

 呼吸の波が落ち着く。

 

 身体の重さが、

 ほんのわずかに軽くなる。

 

 

 役目が終わりに近づいている。

 

 

 それを、

 少しだけ惜しいと思う。

 

 

 

 また、自己嫌悪する。

 

 

 どうして自分は、

 こんなふうにできているんだろう。

 

 

 由依が不幸でいる時間が、

 長く続けばいいなんて、

 願ってはいない。

 

 

 なのに。

 

 

 必要とされるこの瞬間が、

 永遠であればいいと、

 どこかで思ってしまう。

 

 

 最低だ。

 

 

 最低のくせに、

 手はやさしく背中を撫で続ける。

 

 

 優しい人の顔で。

 

 由依の呼吸が、

 ゆっくりと整っていく。

 

 さっきまであんなに乱れていたのに、

 人の身体は不思議なくらい、

 ちゃんと元に戻ろうとする。

 

 胸に預けられていた重さが、

 少しずつ、自分自身のものに帰っていく。

 

 

 それはつまり、

 俺の役目が終わりに近づいているということだった。

 

 

 名残惜しい、と思う。

 

 すぐに、

 そんなふうに思った自分を叱る。

 

 

 由依が、顔を上げた。

 

 目元は赤く腫れていて、

 まつげはまだ濡れている。

 

 けれどもう、

 さっきみたいな決壊の気配はない。

 

 泣き終わったあとの、

 少しだけ所在なさそうな顔。

 

 

「……ごめん」

 

 鼻をすすりながら、

 小さく、隠すように笑う。

 

「なんか、めちゃくちゃ泣いちゃった」

 

 

「いいじゃん」

 

 由依にティッシュを差し出す。

 

 ポケットに入れていてよかったと、

 どうでもいいことを思う。

 

「我慢しなくていいって言ったでしょ」

 

 

「うん……」

 

 由依は受け取って、

 目元を押さえる。

 

 ぐしゃ、と紙が鳴る。

 

 乱暴なくせに、

 どこか遠慮している動き。

 

 

 その様子を見ながら、腕の中が空いたことに気づく。

 

 さっきまで確かにあった体温が、

 もう自分のものじゃない。

 

 

 寒い。

 

 

 風が、

 ベンチの隙間を通っていく。

 

 夜の匂いがする。

 

 

「こんな歳でさ」

 

 由依は、

 泣いたことをごまかすみたいに笑う。

 

「ちょっと恥ずかしいよね」

 

 

 強がりだ。

 

 でもそれに触れないのが、役目だ。

 

 

「泣きたいときは泣けばいいでしょ」

 

 なるべく軽く言う。

 

 大ごとにしないように。

 

 

「でも、なんかさ」

 

 由依は視線を落とす。

 

 靴の先で、

 地面を小さく蹴る。

 

 

 そして、

 何かを思いついたみたいに顔を上げた。

 

 

「私ばっかもらってるよね」

 

 

「何が」

 

 

「優にさ。話聞いてもらって、助けてもらって」

 

 

 言いながら、

 少しだけ申し訳なさそうに笑う。

 

 本当に、

 悪気なんて一つもない。

 

 

 その笑顔が、

 好きだ。

 

 

 好きで、

 どうしようもない。

 

 

 だけど次の言葉は、

 俺の準備なんて待たない。

 

 

「優の好きな人、いるなら教えてよ。協力するよ?」

 

 

 軽い。

 

 善意だけでできている声。

 

 

 しまった、と思う。

 

 遅い。

 

 

「いるよ」

 

 言ってしまった。

 

 言葉は、

 口の中で形になる前に、

 もう外へ出ていた。

 

 拾えない。

 

 戻せない。

 

 

 由依のまばたきが、

 ゆっくりになる。

 

「え?」

 

 驚きよりも、

 新しい発見を前にしたみたいな声。

 

 

 優は、

 自分の鼓動がうるさいと思う。

 

 さっきまで、

 あんなに人を落ち着かせる側だったのに。

 

 

 どうする。

 

 どこまで行く。

 

 どこで止まる。

 

 

 ほんの一瞬のあいだに、

 いくつもの選択肢が浮かんでは消える。

 

 

 言えるわけがない。

 

 

 それでも。

 

 

 目の前にいる。

 

 泣いた顔のまま、

 自分を信じて疑わない顔で、

 由依が待っている。

 

 

 

 由依を見る。

 

 本当に、

 一瞬だけ。

 

 

 光の加減で、

 瞳の色がいつもより淡く見える。

 

 守りたいと思う。

 

 これ以上、

 何も背負わせたくないと思った。

 

 

 だから。

 

 

 目を閉じた。

 

 

 選ぶ。

 

 言わない未来を。

 

 

 目を開ける。

 

 俺はもう、いつもの優だ。

 

 

「どんな人?」

 

 由依が、

 少しだけ身を乗り出す。

 

 興味と善意だけでできた動き。

 

 

 少し大きく息を吸う。

 

 冷たい夜が、

 肺を満たす。

 

 

「……すごく」

 

 そこで一度、

 言葉が途切れる。

 

 

 喉の奥に、

 本当の名前が引っかかる。

 

 

 飲み込む。

 

 

「やさしい人でさ」

 

 

 由依の目が、

 素直にうなずく。

 

 

「うん」

 

 

「自分のことより、

 他の人のことばっかり考えてて」

 

 

 その通りだ。

 

 笑ってしまうくらい。

 

 

「ちゃんと笑っていて、幸せになって欲しい、そう言う人なんだ。」

 俺の目がどこを映しているのか。誰を思い浮かべているのか。

伝わらないで欲しいけれど、伝わって欲しい。

 

 由依は、

 少し照れたみたいに笑う。

 

「なにそれ、めっちゃいい人じゃん」

 

 

 胸が痛む。

 

 

 いい人だよ。

 

 本当に。

 

 

 軽く息を吐いて、いつものように笑いながら肩をすくめてみせる。

 

「でしょ」

 

 

 軽く。

 

 冗談みたいに。

 

 

 それ以上、

 近づけないように。

 

 

「協力するって言ったからね?」

 

 由依は張り切った顔をする。

 

 役に立ちたい人の顔。

 

 

 

 もう十分だよ。

 

 ずっと、

 もらってばかりなのはこっちだ。

 

 

 でも、

 それも言わない。

 

 

「頼りにしてるよ。」

 

 笑う。

 

 完璧な、

 安全な笑顔。

 

 

 由依は満足したみたいに、

 ふにゃっと頬をゆるめる。

 

「えへへ」

 

 

 それで終わる。

 

 

 追及はない。

 

 疑いもない。

 

 

 信頼されきっている。

 

 

 胸の奥に、針で突かれたみたいな痛みが走る。

 

 

 同時に、

 深い安堵が沈む。

 

 

 守れた。

 

 

 届かなかった。

 

 

 だから、

 壊れなかった。

 

 

 ゆっくり息を吐く。

 

 白くなって、

 すぐに消える。

 

 

 きっと、自分の気持ちも同じだ。

 

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