第四章:私の胸で泣きなさい
呼び出されたのは、夜だった。
スマホの画面に浮かんだ名前は、
いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。
光がやけに白くて、
部屋の暗さを強調する。
着信音が鳴る。
一度、止まる。
また鳴る。
俺は、すぐに取れなかった。
胸の奥が、
理由もなくざわついたからだ。
嫌な予感というほどはっきりしたものじゃない。
けれど、無視できるほど些細でもない。
楽しい話じゃないと分かる程度には、
長く隣にいすぎた。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
自分の声が、
思ったより普通で安心する。
震えていない。
大丈夫だ。
受け止められる。
⸻
『……あ』
小さな息。
言葉になりきらない音。
それだけで、伝わる。
由依の声が、沈んでいる。
いつもの軽さがない。
弾む感じがない。
どこに置けばいいか分からないみたいに、
声が揺れている。
⸻
『今、平気?』
「うん」
本当は、
平気じゃない予感がした。
けれど、
ここで迷う選択肢は俺の中にない。
⸻
電話口で、
由依は何度か息を吸って、やめる。
言葉を探している。
傷つけない場所を。
壊れない順番を。
そんなふうに迷うところまで、
優は知っている。
⸻
『会える?』
⸻
短い。
けれど、それだけで十分だった。
説明はいらない。
理由もいらない。
行かなければならない夜の声だ。
⸻
「うん。行くよ。」
即答だった。
考えるより早く、
身体が動く。
⸻
通話を切ったあと、
部屋の静けさが急に重くなる。
ついさっきまで、
ただの夜だったのに。
机の上には開きっぱなしのノート。
途中のレポート。
ペン。
飲みかけの水。
全部どうでもいい。
立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、
妙に大きい。
⸻
上着を掴む。
袖を通す。
指先が少しだけうまく動かない。
急いでいるのか、怖いのか、
どっちなのか分からない。
⸻
玄関のドアを開けると、
夜の空気が流れ込んできた。
冷たい。
肺の奥がひりつく。
ああ、冬なんだ、と
今さらみたいに思う。
⸻
階段を下りながら、祈る。
由依は大丈夫でありますように。
できれば、
そこまで深く傷ついていませんように。
泣いていませんように。
⸻
でも同時に。
もし泣いていたら、
自分が必要になるとも思っている。
自分の席ができると。
それがどれだけ醜い感情か、分かっているのに。
⸻
足を速める。
夜道はやけに長い。
信号が赤い。
人がいないのに、
待たされる。
早く。
早く。
⸻
駅前に近づくにつれて、
街灯の色が増えていく。
白。
オレンジ。
コンビニの青白い光。
全部が現実的で、
逃げ場がない。
⸻
ベンチは、すぐに見つかった。
見慣れている。
待ち合わせで、
何度も使った場所。
⸻
そこに、
由依がいた。
⸻
小さくなっていた。
⸻
背中が丸い。
膝が寄っている。
両手がぎゅっと組まれて、
自分の体温を逃がさないみたいに固めている。
⸻
あんなに嬉しそうに選んだ服。
光の下でくるくる回っていた姿。
それが今は、
少しだけしわになっている。
布が疲れて見える。
⸻
うつむいたまま、
靴先を見ていた。
そこに答えが落ちているみたいに。
⸻
胸が痛む。
遅れたかもしれないと思う。
もっと早く来られたんじゃないかと、
意味のない後悔が湧く。
⸻
「由依」
名前を呼ぶ。
近づきながら、
できるだけ柔らかく。
⸻
由依の肩が震える。
ゆっくり顔が上がる。
⸻
目が合った。
⸻
次の瞬間。
崩れた。
⸻
表情が、
決壊するみたいに。
抑えていたものが、
一気に溢れ出す。
⸻
「……っ」
声にならない。
代わりに涙が落ちる。
ぽろぽろと、
急に。
⸻
俺は迷わなかった。
迷ったら、
間に合わなくなる。
⸻
隣に座る。
距離を詰める。
腕を回す。
⸻
自然にできる。
ずっと前から、こうする役目だったみたいに。
⸻
由依の身体が寄ってくる。
遠慮なく。
隠しきれない重さで。
⸻
あたたかい。
震えている。
⸻
胸の奥で、いろんな感情が一度に動く。
守りたい。
離れたくない。
ここにいさせてほしい。
⸻
全部まとめて、抱きしめる。
⸻
「我慢しなくていいのに。」
気づけば、口から出ていた。
用意していないのに。
ずっと知っていた言葉みたいに。
⸻
由依の指が、
俺の服を掴む。
ぎゅっと。
⸻
安心した顔をして、縋ってくる。
⸻
頼られている。
信じられている。
⸻
その事実が、
まっすぐ、
逃げ場なく、
胸に落ちる。
由依は俺の胸に額を押しつけたまま、
うまく息が吸えないみたいに肩を震わせている。
泣くのを我慢していた時間が長かったのだろう。
いま、
堰を切ったみたいに、
全部があふれている。
その重みを両腕で受け止める。
逃がさないように。
こぼさないように。
これ以上傷つかないように。
⸻
背中に手を回す。
ゆっくり、
何度も撫でる。
子どもにするみたいに。
一定の速さで。
落ち着くまで繰り返す。
自分の鼓動が伝わらないように祈りながら。
⸻
「ごめん……」
由依の声は、俺のコートに吸い込まれて
少しくぐもっている。
「うまく、いくと思ったの……」
「うん」
それしか言えない。
下手に慰めれば、
事実を否定してしまいそうだから。
⸻
「ちゃんと、好きだって……言ってくれたのに」
「うん」
⸻
「でも、今は余裕ないって……」
⸻
途切れ途切れの説明。
理由としては、
ありふれている。
どうしようもないすれ違い。
悪者はいない。
ただ、タイミングだけが悪い。
⸻
うなずきながら、
由依の髪に触れた。
昼間は光の下でやわらかく揺れていたであろう髪。
いまは乱れて、湿って、
指に絡む。
⸻
こんなにも近い。
体温が混ざりそうな距離。
⸻
それなのに。
⸻
由依の心は、
別の誰かに向かっていた。
たった今まで。
⸻
胸の奥が、
ぎゅうっと縮む。
⸻
そして。
⸻
ほんの一瞬だけ。
⸻
終わった、と思ってしまった。
⸻
もう、あの人に向かって由依が走っていかなくていいんだ、と。
電話の向こうで、
嬉しそうに名前を呼ぶこともなくなるんだ、と。
夜中に、
緊張した声で報告されなくていいんだ、と。
⸻
自分の知らない場所で、
結衣が笑わなくていいんだ、と。
⸻
思ってしまった。
⸻
息が止まる。
⸻
最低だ。
⸻
すぐに理解する。
反射みたいな安堵。
救われたと思ってしまった。
自分の居場所が戻ってきたと。
⸻
この子が泣いているのに。
傷ついているのに。
⸻
由依を、さっきよりも強く抱きしめる。
伝わるな。そう思いながら。
⸻
打ち消さなければいけない。
そんな気持ち、
ここにあってはいけない。
⸻
自分のための感情なんて、
一滴も許されたらいけない。
⸻
「大丈夫」
何が、なんて分からない。
それでも言う。
⸻
「大丈夫だよ」
⸻
言葉を重ねることで、
自分の醜さを覆い隠す。
⸻
由依の涙が、
服に染みていく。
冷たい。
けれど、
どうしようもなく、離れがたい。
⸻
この距離が、ほしい。
⸻
頼られている今だけは、
ここにいていいと言われている気がする。
⸻
目をかたく閉じる。
表情が歪まないように。
⸻
ごめん。
心の中で謝る。
何に対してなのか、
自分でもよく分からないまま。
⸻
由依の嗚咽は、
少しずつ小さくなっていく。
呼吸の波が落ち着く。
身体の重さが、
ほんのわずかに軽くなる。
⸻
役目が終わりに近づいている。
⸻
それを、
少しだけ惜しいと思う。
⸻
また、自己嫌悪する。
⸻
どうして自分は、
こんなふうにできているんだろう。
⸻
由依が不幸でいる時間が、
長く続けばいいなんて、
願ってはいない。
⸻
なのに。
⸻
必要とされるこの瞬間が、
永遠であればいいと、
どこかで思ってしまう。
⸻
最低だ。
⸻
最低のくせに、
手はやさしく背中を撫で続ける。
⸻
優しい人の顔で。
由依の呼吸が、
ゆっくりと整っていく。
さっきまであんなに乱れていたのに、
人の身体は不思議なくらい、
ちゃんと元に戻ろうとする。
胸に預けられていた重さが、
少しずつ、自分自身のものに帰っていく。
⸻
それはつまり、
俺の役目が終わりに近づいているということだった。
⸻
名残惜しい、と思う。
すぐに、
そんなふうに思った自分を叱る。
⸻
由依が、顔を上げた。
目元は赤く腫れていて、
まつげはまだ濡れている。
けれどもう、
さっきみたいな決壊の気配はない。
泣き終わったあとの、
少しだけ所在なさそうな顔。
⸻
「……ごめん」
鼻をすすりながら、
小さく、隠すように笑う。
「なんか、めちゃくちゃ泣いちゃった」
⸻
「いいじゃん」
由依にティッシュを差し出す。
ポケットに入れていてよかったと、
どうでもいいことを思う。
「我慢しなくていいって言ったでしょ」
⸻
「うん……」
由依は受け取って、
目元を押さえる。
ぐしゃ、と紙が鳴る。
乱暴なくせに、
どこか遠慮している動き。
⸻
その様子を見ながら、腕の中が空いたことに気づく。
さっきまで確かにあった体温が、
もう自分のものじゃない。
⸻
寒い。
⸻
風が、
ベンチの隙間を通っていく。
夜の匂いがする。
⸻
「こんな歳でさ」
由依は、
泣いたことをごまかすみたいに笑う。
「ちょっと恥ずかしいよね」
⸻
強がりだ。
でもそれに触れないのが、役目だ。
⸻
「泣きたいときは泣けばいいでしょ」
なるべく軽く言う。
大ごとにしないように。
⸻
「でも、なんかさ」
由依は視線を落とす。
靴の先で、
地面を小さく蹴る。
⸻
そして、
何かを思いついたみたいに顔を上げた。
⸻
「私ばっかもらってるよね」
⸻
「何が」
⸻
「優にさ。話聞いてもらって、助けてもらって」
⸻
言いながら、
少しだけ申し訳なさそうに笑う。
本当に、
悪気なんて一つもない。
⸻
その笑顔が、
好きだ。
⸻
好きで、
どうしようもない。
⸻
だけど次の言葉は、
俺の準備なんて待たない。
⸻
「優の好きな人、いるなら教えてよ。協力するよ?」
⸻
軽い。
善意だけでできている声。
⸻
しまった、と思う。
遅い。
⸻
「いるよ」
言ってしまった。
言葉は、
口の中で形になる前に、
もう外へ出ていた。
拾えない。
戻せない。
⸻
由依のまばたきが、
ゆっくりになる。
「え?」
驚きよりも、
新しい発見を前にしたみたいな声。
⸻
優は、
自分の鼓動がうるさいと思う。
さっきまで、
あんなに人を落ち着かせる側だったのに。
⸻
どうする。
どこまで行く。
どこで止まる。
⸻
ほんの一瞬のあいだに、
いくつもの選択肢が浮かんでは消える。
⸻
言えるわけがない。
⸻
それでも。
⸻
目の前にいる。
泣いた顔のまま、
自分を信じて疑わない顔で、
由依が待っている。
⸻
由依を見る。
本当に、
一瞬だけ。
⸻
光の加減で、
瞳の色がいつもより淡く見える。
守りたいと思う。
これ以上、
何も背負わせたくないと思った。
⸻
だから。
⸻
目を閉じた。
⸻
選ぶ。
言わない未来を。
⸻
目を開ける。
俺はもう、いつもの優だ。
⸻
「どんな人?」
由依が、
少しだけ身を乗り出す。
興味と善意だけでできた動き。
⸻
少し大きく息を吸う。
冷たい夜が、
肺を満たす。
⸻
「……すごく」
そこで一度、
言葉が途切れる。
⸻
喉の奥に、
本当の名前が引っかかる。
⸻
飲み込む。
⸻
「やさしい人でさ」
⸻
由依の目が、
素直にうなずく。
⸻
「うん」
⸻
「自分のことより、
他の人のことばっかり考えてて」
⸻
その通りだ。
笑ってしまうくらい。
⸻
「ちゃんと笑っていて、幸せになって欲しい、そう言う人なんだ。」
俺の目がどこを映しているのか。誰を思い浮かべているのか。
伝わらないで欲しいけれど、伝わって欲しい。
⸻
由依は、
少し照れたみたいに笑う。
「なにそれ、めっちゃいい人じゃん」
⸻
胸が痛む。
⸻
いい人だよ。
本当に。
⸻
軽く息を吐いて、いつものように笑いながら肩をすくめてみせる。
「でしょ」
⸻
軽く。
冗談みたいに。
⸻
それ以上、
近づけないように。
⸻
「協力するって言ったからね?」
由依は張り切った顔をする。
役に立ちたい人の顔。
⸻
もう十分だよ。
ずっと、
もらってばかりなのはこっちだ。
⸻
でも、
それも言わない。
⸻
「頼りにしてるよ。」
笑う。
完璧な、
安全な笑顔。
⸻
由依は満足したみたいに、
ふにゃっと頬をゆるめる。
「えへへ」
⸻
それで終わる。
⸻
追及はない。
疑いもない。
⸻
信頼されきっている。
⸻
胸の奥に、針で突かれたみたいな痛みが走る。
⸻
同時に、
深い安堵が沈む。
⸻
守れた。
⸻
届かなかった。
⸻
だから、
壊れなかった。
⸻
ゆっくり息を吐く。
白くなって、
すぐに消える。
⸻
きっと、自分の気持ちも同じだ。