第五章:理解
由依の失恋は、思っていたより早く日常に溶けた。
ほんの数日前まで、電話口で言葉を探して、
黙ってしまう時間が増えて、
俺が何度も「うん」「聞いてるよ」と確かめなければ
呼吸の気配さえ遠のいてしまいそうだったのに。
人は、こんなにも元の形に戻るのがうまいのだと、
感心するくらいあっさりと。
三日もすれば冗談を言えるようになって、
一週間も経てば、新しい話題に目を輝かせている。
まるで、胸の中にしまっていた痛みの箱に
きちんと蓋をして、
棚のいちばん上に戻してしまったみたいに。
触れなければ、もうそこにあることすら
忘れてしまえるみたいに。
強いな、と思う。
口に出す代わりに、
心の奥でだけ、そっと。
いや、違う。
強い、というより。
まっすぐなのだ。
傷つくことを避けるのではなくて、
傷ついたあとに、
ちゃんと次の方向を向ける。
痛みを抱え込まずに、
滞らせずに、
流して、進ませて、
歩いていける。
俺にはできないことを、
由依は、特別な努力をしているふうでもなく、
呼吸みたいにやってのける。
羨ましい、という言葉よりも
もう少し静かで、
もう少しどうしようもない感情が、
胸の内側で小さく波打つ。
⸻
カフェの窓際の席は、西日が少しだけ強い。
ガラス越しの光は柔らかいのに、
テーブルの上に落ちると輪郭がくっきりして、
白いカップの縁や、
水の入ったグラスの表面を
はっきりと浮かび上がらせている。
空調はよく効いていて、
外套を着ている人もいるのに、
俺の手のひらだけがなぜかじんわりと熱を持っていた。
紙ナプキンを一枚、意味もなく折って、
また広げる。
向かいに座っている由依は、
そんなことには気づかない。
気づかなくていい。
「見てこの人。ちょっといいなって思ってて」
スマホの画面が、
テーブルの上を滑ってくる。
指先が触れるか触れないかの距離で止まり、
写真の中の誰かが、笑っている。
視線を落とす。
ちゃんと見る。
見ることが役目だから。
「切り替え早」
できるだけ軽く、
いつも通りの速度で言葉を置く。
自分の声が、
思ったより自然に聞こえて、
ほんの少しだけ安心する。
「いつまでも落ち込んでらんないでしょ」
由依は笑う。
あのとき電話越しに
泣きそうな息をこぼしていた人と
同一人物だとは思えないくらい、
からっとしている。
けれど俺は知っている。
由依は、無理をして笑っているわけではない。
ちゃんと、もう、
前を向いている。
それができる人だ。
その横顔を見ながら、
優はゆっくりと息を吸う。
コーヒーの匂い。
甘いシロップ。
どこかの席でスプーンが触れ合う小さな金属音。
世界は、
驚くほど何も変わっていない。
失恋なんて、
ここには存在していなかったみたいに。
たぶん、この先もずっとこうだ。
由依は誰かを好きになって、
その人の仕草を見つけては喜んで、
些細なことで不安になって、
それでも勇気を出して、
ときどき傷ついて。
そして、また歩き出す。
ちゃんと。
そのたびに、自分は隣に呼ばれる。
連絡先のいちばん上。
相談を聞いてくれる人。
話して楽になる相手。
それを、誇らしいと思ってしまう。
どうしようもなく。
話を聞いて、整理して、背中を押す。
上手に。
完璧に。
失敗しないように。
自分の欲望が混ざらないように。
混ざった瞬間に、
全部が壊れてしまうから。
「どう思う?」
由依が、期待を含んだ目でこちらを見る。
きらきらしている。
ああ、と小さくため息がもれた。
この光に選ばれた人は、
きっと幸せだ。
「いいんじゃない。楽しそうに話してくれそうな人」
慎重に選んだ言葉は、
きれいに役目を果たす。
「でしょ?」
嬉しそうに身を乗り出す由依に、笑ってうなずく。
うまくできている。
今日も。
選ばれる日は来ない。
由依がスマホを指でなぞりながら、
楽しそうに次の予定の話をしているのを聞きながら、
もう何度目かわからないその結論に
静かに辿り着いている。
新しい発見ではない。
ずっと前から知っていた。
ただ、
知っていることを
あらためて確認しているだけだ。
胸の奥に、判決みたいに。
どれだけ待っても、
どれだけ近くにいても、
この距離は縮まらない。
縮めてはいけない。
縮めようとした瞬間に、
由依の視線の中の自分は
別の名前に変わってしまう。
相談相手ではなくなる。
味方ではなくなる。
安心できる場所ではなくなる。
それだけは、
耐えられない。
由依にとって自分は、
安心できる人で、
大切な人で、
信頼できる人。
言葉にして並べてみると、
十分すぎるほど恵まれている。
足りないはずがない。
ない、はずなのに。
その列の最後に
どうしても現れない言葉がある。
たった二文字。
それが加わらないだけで、
世界はこんなにも完成しない。
指先の温度が、少し下がる。
店内のざわめきが
急に遠くなる。
誰かが笑って、
誰かが立ち上がって、
コーヒーマシンが蒸気を吐いている。
全部、ちゃんと動いているのに、
自分の周りだけ
透明な膜に包まれてしまったみたいだ。
それでも、俺はうなずく。
「いいと思う」
声は平らだ。
揺れない。
揺れないように作っている。
「優がそう言うなら、ちょっと頑張ってみようかな」
無邪気な信頼。
まっすぐで、
疑いがなくて、
残酷なほどやさしい。
胸の奥に小さな痛みが走る。
でもそれは、
もう慣れた種類のものだ。
飲み込める。
形を変えられる。
表に出さずに、
なかったことにできる。
失いたくない。
隣にいられなくなるくらいなら、
選ばれなくていい。
気づかれなくていい。
もしも、なんて思わない。
そんな可能性を一度でも抱けば、
きっと顔に出る。
期待は、きっと隠れるのが下手だから。
今のままが続くなら。
相談の電話が来て、
カフェでスマホを覗き込んで、
誰かの名前を一緒に覚えて、
うまくいくことを祈って。
その役目が与えられているなら。
十分だ。
十分だと、
思うことにする。
⸻
「優?」
名前を呼ばれる。
すぐに顔を上げる。
条件反射みたいに。
「聞いてる?」
少し不安そうに揺れる目。
それを安心させるのが、
自分の仕事だ。
「聞いてる」
嘘はついていない。
本当に、全部聞いている。
由依が次に好きになる人の話も、
行ってみたい場所の話も、
うまくいったら報告するね、という未来の約束も。
その未来のどこにも
自分が選ばれる可能性がないことまで。
⸻
もう理解している。
理解してしまった。
時間をかけて、
何度も繰り返して、
間違えないところまで
慣らしてしまった。
声にすれば終わる。
終わってしまう。
だから言わない。
言葉は便利だ。
便利だから、取り返しがつかない。
この先もきっと、何度だって飲み込む。
喉の奥に押し込んで、
なかった顔で笑う。
慣れている。
うまくやれる。
そのためにここまで
練習してきたのだから。
⸻
由依が笑う。
光を受けて、
まぶしいくらいに。
俺も笑う。
少し遅れて、
後を追うように同じ形をなぞる。
向かい合う二人の足元で、
午後の影がゆっくり伸びて、
テーブルの下で並ぶ。
同じ速さで、
同じ方向へ。
それはまるで、
どこへでも一緒に行ける証みたいに見える。
勘違いしそうになる。
許されている気がしてしまう。
でも、違う。
この影は、
光の都合で偶然重なっているだけだ。
意味なんてない。
意味を持たせてはいけない。
それでも。
それでも、と思ってしまう。
こうして隣にいられるなら。
名前を呼んでもらえて、
頼ってもらえて、
必要なときに思い出してもらえるなら。
それだけで十分だと、
本気で思っている。
思おうとしている。
信じ込もうとしている。
胸の奥で、
何度も、何度も。
カップの底に残った氷が、ゆっくりと溶けていく。
ストローの先で由依がそれを突くたび、からり、と軽い音が鳴った。
グラスの内側についた水滴が、重たくなって、ひとつ、テーブルに落ちる。
その小さな崩れ方を、俺は眺めていた。
さっきまで笑っていた時間が、
もう形を失い始めているみたいだった。
「じゃ、そろそろ出よっか」
由依が明るい声で言う。
スマホをポケットにしまって、鞄を肩にかけて、立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音がして、店内のざわめきにすぐ飲み込まれた。
遅れて立つ。
座っていた場所が空く。
そこに、ついさっきまであった体温が、
急速にただの空気に変わっていく気がした。
レジへ向かう短い距離を、由依はもう別の話題で埋めている。
「次さ、映画行かない? あれ気になってて」
「いいよ」
「ほんと? 予定合わせよ!」
振り向く笑顔。
その明るさに合わせるのは、難しくない。
もう何度も繰り返してきた動作だから。
「うん」
ちょうどいい温度で、うなずく。
会計を待つ列に並ぶ。
前の人の背中、財布の開く音、レシートの擦れる音。
どれもが現実で、確かで、逃げ場がない。
日常は、こんなにも強い。
由依はスマホを取り出して、またさっきの人のプロフィールを開いている。
親指が楽しそうに画面を滑る。
「この写真ちょっとずるくない? 絶対優しいじゃん」
「ずるいよね」
答えながら、その横顔を見る。
もう泣いていた夜の痕跡は、どこにも残っていない。
赤かった目元も、震えていた声も、
まるで別の季節の出来事みたいに遠い。
回復が早いのではない。
きっと、向く方向がはっきりしているのだ。
前へ。
次へ。
未来へ。
由依はいつだって、迷わない。
順番が来て、支払いを済ませて、
店の扉を押す。
外気が流れ込んできて、優の頬を撫でた。
夜の匂いだった。
昼の熱を失って、少し湿って、
それでも街の光に温め直されている匂い。
「さむっ」
由依が肩をすくめる。
その仕草がかわいくて、少し笑ってしまった。
扉が閉まる。
店内の音が途切れる。
ここから先は、もう別の時間だ。
⸻
並んで歩き出す。
駅までは、慣れた道だ。
何度通ったか分からない。
コンビニの前を通って、横断歩道を渡って、
角のドラッグストアの光を抜ける。
由依は隣でずっと喋っている。
さっき見せてくれた人のこと、
どういうところが気になったか、
もし次会えたら何を話したいか。
未来の仮定が、いくつも生まれては、弾んで消える。
俺はそれを受け取りながら歩く。
相槌を打つ。
笑う。
たまにからかう。
完璧だと思う。
これ以上ないくらい、うまくやれている。
横断歩道の信号が青に変わる。
人の波が一斉に動き出す。
少しぶつかって、肩が触れる。
由依の体温。
ほんの一瞬。
それが離れるまでの短さに、
どうしようもなく慣れている。
⸻
駅が近づくにつれて、人は増える。
足音が重なり、
会話が混じり、
アナウンスが遠くで反響している。
由依はまたスマホを見る。
返事はまだ来ていない。
それでも楽しそうだ。
可能性だけで笑える人だ。
すごいな、と思う。
自分には持てない力だ。
⸻
改札の光が見える。
ここから先は、いつもの終点。
わかっている。
わかっているのに、
ほんの少しだけ、歩幅がゆっくりになる。
隣の人に気づかれない程度に。
⸻
由依は立ち止まって、振り向く。
「それでさ、今度はどう思う?……うまく、いくかな。」
少し照れながら、でも不安そうに
見てもらいたいものを差し出すみたいにスマホを向けてくる。
画面の光が、由依の頬を白く照らしていた。
期待と不安が半分ずつ混ざった、
返事を待つ前の、まだ傷ついていない顔。
一歩、近づく。
覗き込めば、肩が触れそうな距離だ。
髪の匂いがかすかに流れてきて、
それだけで心臓が、律儀に強く打つ。
やさしそうな人だと思った。
笑ったときの口元が柔らかい。
言葉を選びそうで、
乱暴に扱うことを知らなさそうな目をしている。
由依がまた笑えるなら、それでいいとも思った。
思ってしまった。
「大丈夫じゃないかな。」
声は、驚くほど滑らかに出た。
喉のどこにも引っかからない。
もう練習しなくても言える。
「ほんと?」
「うん。ちゃんと、由依のこと大事にしてくれそう」
自然に整えられた答え。
事実の形をしていて、
優しくて、
そしてどこにも自分が入り込む隙のない言葉。
由依は息を吐いた。
肩の力が抜ける。
緊張がほどける。
「優が言うなら安心」
その笑顔が、
まっすぐに、疑いもなく向けられる。
頷く。
それでいい。
それがいい。
ここにある信頼を、彼女の心を、
壊さないでいられるなら。
⸻
改札の機械が、規則正しい音を立てている。
通り抜ける人、
急ぐ足、
ICカードを探して鞄を探る仕草。
日常が、容赦なく前へ進んでいく。
立ち止まっているのは、
きっと自分だけだ。
⸻
「じゃあまた連絡するね!」
由依が一歩、下がる。
もう体は、人の流れに預けられている。
次の時間へ向かう準備ができている。
「いつでも」
声が遠くならないように、
少しだけ強めに言う。
手を振る。
由依は振り返りながら、
何度も小さく手を振り返す。
笑っている。
ほんの少し前まで不安だったことなんて、
もう忘れてしまったみたいに。
人の隙間に溶けていく。
色のついた背中が、
黒や灰色の中に紛れて、
やがて見えなくなる。
⸻
俺は立ったまま、
しばらくその方向を見ていた。
まだ、見える気がした。
もういないのに。
目が探してしまう。
⸻
呼べたかもしれない、と思う。
今なら。
声を張れば、
もしかしたら振り返ってくれたかもしれない。
人の波をかき分けて、
戻ってきてくれたかもしれない。
どうしたの、と。
なに、と。
そうやって笑って。
⸻
名前を。
たった二文字を。
それだけでよかった。
⸻
けれど。
それはしない。
呼んだあとの世界を、
想像できてしまうから。
驚かせて、
困らせて、
それから何かを失う。
その可能性の方が、
今よりずっと重たい。
⸻
だから、立っている。
何も選ばないまま。
⸻
ほんの少しだけ、振り返る。
自分の背中側に、
まだ残っているかもしれない時間を探すみたいに。
もちろん、もう姿はない。
最初から誰もいなかったみたいに、
道だけが続いている。
改札の光が、白く、乾いている。
⸻
これで良かった。
これが良かった。
胸の奥で、繰り返す。
言い聞かせるみたいに。
⸻
後ろで電車の走る音がした。
レールが長く鳴いて、
空気が細く震える。
ホームへ滑り込む鉄の塊が、
人の生活を運んでいく。
置いていく。
街灯の光が、わずかに揺れた。
風が抜けたのかもしれない。
それとも、
自分の視界が揺れただけかもしれない。
⸻
駅へ向かう人の流れに肩が触れる。
コートの硬い感触。
すぐに離れる。
誰もこちらを見ない。
ぶつかって、
ほどけて、
また別の方向へ消えていく。
自分がここに立っている意味なんて、
どこにもないみたいだった。
⸻
看板のネオンが、忙しなく夜を塗り替えていく。
赤、青、白。
光が瞬き、
色が移り変わり、
さっきまでの気持ちを上書きしていく。
世界はいつも、
忘れる準備が早い。
⸻
大きく息を吸う。
冷たい。
肺の奥がきゅっと縮む。
それでも、生きている感じがした。
⸻
由依は、笑っていた。
さっきまで、ここで。
自分の言葉で安心して、
未来の話をして、
明日を楽しみにしていた。
あの顔がある。
それが事実だ。
⸻
なら。
⸻
前を向く。
少しだけ、遅れて。
体より、
気持ちの方が、
ほんの一歩ぶん遅れてついてくる。
⸻
歩き出す。
靴底が地面を踏む音が、やけに大きい。
自分の分だけ、
やけに。
⸻
夜はもう、先に歩いていた。
追いつけない速さで、
何も知らない顔をして。