アレスの天秤〜伊那国雷門なんていなかった〜 作:風邪ひきたくない
ロッカールームの扉が閉まった瞬間、外の歓声が別世界になる。
中に残ったのは、汗の冷えと、呼吸の音だけだ。
誰も「お疲れさま」と言わない。
言えば、今日が“ただの敗戦”みたいに整ってしまう。
整ってほしくないほど、今日はおかしかった。
ベンチに座る音が重なる。
靴紐をほどく手が震える。
水神矢はタオルで前髪を押さえながら、全員の顔を一人ずつ見た。
天野はグローブを外せずにいた。
膝の上で指先だけが小さく動く。
まだゴール前の感触が残っているみたいに。
灰崎は壁にもたれて、笑っていない。
床を見たまま、拳だけを握っている。
「……全員、座ってください」
水神矢の声は静かだ。静かだから刺さる。
「前提を確認します。次は全国の一回戦です」
「前年度優勝校の辞退により、星章は公式試合ランキング一位として特別枠で出場している」
「……ここで落ちるわけにはいきません」
折緒がタオルを噛む。
佐曽塚が目を伏せる。
奥間が息を整えようとして、整わない。
「今日の負けは、技術だけの問題ではありません」
「体力だけでも、気持ちだけでもない。……試合の形そのものを崩されました」
言葉を区切る。逃げないために。
「天野さん。止められなかった理由、言えますか」
天野は少しだけ肩を震わせてから、ようやく顔を上げた。
でも目は合わない。まだゴールの中を見ている目だ。
「……読めなかった」
短い。
言い訳が入らない短さが、逆に痛い。
「コース読むつもりだった。でも……戻ってくる時間がねぇ」
「戻る前に打たれる。だからコースが増える」
「増えるのに……足が出ねぇ」
「……出せねぇ」
水神矢は頷く。責めない。だが逃がさない。
「一点目、天野さん」
天野は唇を噛む。
噛んで、吐くみたいに言った。
「一対一。……反応できなかった。体が遅ぇ」
「二点目は……」
喉が鳴る。
「……怖かった」
ロッカーの空気が止まる。
“怖い”は、言ってはいけない言葉みたいに響く。
天野は、視線を落としたまま言い切った。
「止めに行くのが怖いんじゃねぇ」
「止めても、終わんねぇのが……怖かった」
水神矢は息を吐いた。
今日の異質さは、そこだ。
天野は続ける。噛み砕くみたいに。
「点取られても、あいつら喜ばねぇ」
「止めても、喜ばねぇ」
「……何も起きてねぇみたいに、次が来る」
「だから、止めた実感がねぇ」
「止めても……試合が終わる気がしねぇ」
天野のグローブの指先が震える。
震えを隠すみたいに、ベルトを握りしめる。
水神矢はそこで言い切る。
「天野さんの責任にしません」
「天野さんに“読ませる”守備が、今日はできなかった。――ここは全員の責任です」
沈黙が落ちる。
“全員の責任”という言葉は、優しさじゃない。
逃げ道を塞ぐ言葉だ。
ここで、灰崎が口を開いた。声が低い。
「……俺もだ」
誰も灰崎を責めない。
責めたところで、今日の空気は戻らない。
灰崎は続ける。笑わない。
「俺が決めりゃ変わると思ってた」
「……でも俺も、終わらせられなかった」
水神矢は灰崎を見る。慰めない、でも折らない言い方を探して――見つける。
「灰崎。あなたは、何ができなかったと思いますか」
灰崎の口角がわずかに動く。笑いじゃない。歯ぎしりだ。
「一対一に持ち込めても、続かなかった」
「一本で終わんねぇ」
「俺が一本で終わらせても、あいつらは次を持ってくる」
「……だから、俺の火が足りねぇみたいになる」
水神矢は首を振る。静かに。
「点を取れなかったのは、灰崎の責任ではありません」
「灰崎に“終わらせる回数”を与えられなかった。ここは全員の責任です」
灰崎が目だけ上げる。
“責任の共有”が、灰崎には効く。
佐曽塚が、声を落として言う。
「攻めてるつもりで、攻めさせられてたよね」
「保持が長いのが強さに見えた。でも……終われなかっただけ」
折緒が頷く。喉が鳴る音が聞こえる。
「長いのに前へ進まない。進まないのに走らされる」
「……気づいた頃には、修正する足が残ってなかった」
水神矢はまとめる。
「そうです。攻撃は“終わらせる形”が足りなかった」
「守備は、天野さんが“読めない状況”を作った」
「そして――」
そこで、扉がノックされる。
コン、コン。
一拍置いて扉が開く。
鬼道が入ってきた。
空気が変わる。
ロッカーの温度が目に見えない形で下がる。
“司令塔がいる”だけで、全員の背筋が正されてしまう。
――それが、今日一番残酷だった。
鬼道が水神矢を見る。
「話しているか」
「はい。次が全国の一回戦です。今日の負け方を、ここで終わらせます」
鬼道は天野を見る。責めないが、逃がさない目で。
「天野。反射の問題じゃない」
「読めない情報を押し付けられていた」
天野の指が、グローブのベルトにかかる。
今度は外せる。
鬼道は続ける。
「水神矢。俺がいない試合で今日みたいになるのは当然だ」
「問題は、“当然”で済ませていることだ」
誰も反論できない。
鬼道の言葉が正論じゃなく、現場の事実だからだ。
鬼道は指針を短く切る。
「全国一回戦までに決めることは三つ」
一つ、指を立てる。
「一つ。攻撃は“終わらせる形”を二つ持つ」
「灰崎の一本と、もう一本だ」
二つ目。
「二つ。守備は“読ませる”じゃない。“選択肢を減らす”」
「天野の前で、コースを減らす」
三つ目。
「三つ。俺がいなくても、ピッチで“違和感”を言語化できるやつを作る」
水神矢が即答する。
「……私がやります」
鬼道は頷いた。
「頼む」
その一言が、今日初めての“前向き”だった。
鬼道は灰崎を見る。灰崎は視線を逸らさない。
「灰崎。点を取れなかったことに引っ張られるな」
「お前の役目は点だけじゃない。相手の集中を壊すのも、お前の仕事だ」
灰崎が小さく息を吐く。
狂気の笑いではなく、短い確認の音。
「……分かってる」
鬼道は最後に水神矢へ。
「全国一回戦まで時間はない」
「でも、今日の負けは使える。……使い方を間違えるな」
鬼道が去る。
扉が閉まる。
一瞬だけ空気が緩みそうになって、水神矢がそれを切った。
「鬼道がいるから安心、では終わりません」
「鬼道がいなくても、星章として戦う」
天野がグローブを外す。
指を開閉して確かめる。まだ震える。でも握れる。
灰崎が壁から背中を離す。
目の色が、少し戻る。
ロッカールームの空気が、ようやく“次”に向いた。