アレスの天秤〜伊那国雷門なんていなかった〜 作:風邪ひきたくない
雷電もわりと兄貴兄貴してます。
キャラ崩壊許して…
ホイッスルが鳴った瞬間、世界の音が一度だけ遠のいた。
熱い。
冷たい。
息が苦しい。
それでも、立っていられる。
スコアボードに 4-0 が残っているのを見て、ようやく胸の奥がほどけた。
――勝った。
勝ったのに、足がまだ走ろうとしている。
止まれない慣性が、ふくらはぎの奥に残っている。
僕は深く息を吸った。
肺が痛い。
痛いのに、安心している。
「……やった」
誰かが言った。声が震えていた。
笑いながら言ったのに、笑い声にならない。
それが僕らの“勝った”だった。
⸻
点を取ったとき、僕らは騒がなかった――わけじゃない。
肩を叩いた。
短く叫んだ。
拳を握って、すぐ戻った。
それだけだ。
余裕がなかった。
星章から見たら、僕らは無表情に見えたかもしれない。
淡々と戻って、淡々と並んで、淡々と守っていたように。
違う。
表情を出すほどの余裕がなかった。
喜んだら、崩れる気がした。
崩れたら、負ける気がした。
勝ちたいから戻った。
ただそれだけ。
⸻
整列の合図がかかる。
「集合!」
喉が擦れるような声だった。
誰の声か確かめようとして、僕はやめた。
今は“誰が言ったか”より、“全員が動くか”が大事だ。
動く。並ぶ。礼をする。
当たり前の動作が、やけに重い。
星章の選手たちが見える。
肩で息をして、膝に手をついて、立つだけで精一杯の人がいる。
僕は一瞬だけ、目を逸らした。
勝ったから逸らしたのか。
勝ったのに逸らしたのか。
――どちらでもいい。
今は、終わったことだけが大事だ。
握手。
相手のキャプテンの手が熱い。
熱いのに、力がない。
僕も同じだと思う。
熱い。
でも指先が震えている。
言葉は出ない。
出ないまま、握って離す。
礼をして背を向けた瞬間、足の力がふっと抜けた。
「うわっ」
誰かがよろける。
隣の誰かが支える。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃねぇ……!」
「でも勝った!」
「勝ったな……!」
そのやり取りが、急に現実だった。
試合中にはなかった、現実の言葉。
笑いが漏れる。
笑いというより、息が漏れる。
僕も少しだけ笑った。
――やっと、止まれる。
⸻
スタジアムの控室に戻ると、外の歓声が壁越しに遠くなった。
代わりに近くなるのは、息の音。水の音。テーピングを剥がす音。
「4-0だぞ」
誰かが言う。確認するみたいに。
信じるために。
「4-0……」
「勝ったんだよな」
「勝った!」
短い拍手が起きる。派手じゃない。短い。
でもそれで十分だった。
その拍手の中で、雷電先輩が一番最初に息を吐いた。
「……よくやったな、お前ら」
ぶっきらぼうな声。
でも視線は、全員を一回ずつ確かめている。
「当たり前だ、って言いてぇとこだが……」
「正直、死ぬほどキツかっただろ」
「キツいっす……」と誰かが情けなく返して、息みたいな笑いが起きた。
雷電先輩はタオルを肩にかけたまま、拳で自分の胸を軽く叩いた。
「いいか。まず座れ。水飲め。足つってるやつ、無理すんな」
「今、倒れるならここで倒れろ。外で倒れたらカッコ悪ぃ」
乱暴な言い方なのに、言ってることは優しい。
それで、みんなが安心して崩れていく。
雷電先輩は続けた。
「初戦で星章だ」
「ランキング一位だ。しかもトーナメントで負けたら終わり」
「……そりゃ緊張もするし、余裕なんかねぇ」
一人ずつ、目を合わせるみたいに見る。
「でも勝った」
「お前らが走ったからだ」
「戻ったからだ」
「最後までサボらなかったからだ」
言い切ってから、少しだけ声を落とした。
「……怖かっただろ」
「通用すんのか、このメンバーでサッカーできんのかって」
「俺も同じだ」
“主将が怖かった”と口にしただけで、空気が落ち着く。
みんなの怖さが、肯定される。
雷電先輩は乱暴に頷いた。
「だから今日の勝ちはデケェ」
「証明できた。――やれる」
誰かが小さく頷く。
「次、どこだっけ」
「美濃堂三中だよ」
返事がすぐ返る。
その速さに、少しだけ安心する。
「帝国は?」
「決勝だ」
雷電先輩は鼻で笑った。
「遠いな」
「でも、見えた」
「星章を越えた。次からは“帝国までの道”だ」
一瞬だけ、嬉しさが走る。
でもすぐに締まる。
「勘違いすんな。帝国がいなくても、試合は落としたら終わりだ」
「……けどな」
雷電先輩の口角が少しだけ上がる。
「星章倒した俺らなら、ビビってても前に進める」
「ビビったまま走れ。今日みたいにな」
最後に、雷電先輩は乱暴に言った。
「今日は勝った日だ。笑え」
「ただし、浮かれんな。バス出るぞ」
「帰って飯食って寝ろ。明日もある」
⸻
控室を出て、バスに乗る。
スタジアムの灯りが窓の向こうで遠ざかっていく。
車内の空気が少しだけ緩んだ。
緩んだ分だけ、話題がサッカーから離れる。
前の席で、塔子がスマホの地図を開いたまま言った。
「ねえ、東京って駅、多すぎない?」
「乗り換えの矢印が、戦術ボードみたいなんだけど」
三好が吹き出す。
「分かる。俺、今日“西口”で迷って、同じ場所に三回戻った」
「地元なら絶対しないのに」
「寮に帰れなくなるやつだ」
後ろから誰かが言って、笑いが起きた。
塔子は肩をすくめる。
「帰れないのは困るわね」
「……今日勝ったから、まだ気が楽だけど」
自然にサッカーへ戻りそうになって、でもすぐ日常に戻る。
このチームは、そういう揺れ方をする。
「寮って意外と静かだよな」
三好がぼんやり言う。
「集団生活ってもっと騒がしいかと思ってた」
「消灯があるからね」
塔子が淡々と返す。
「破ると雷電先輩が――」
「圧で死ぬ」
小暮が即答して、車内が笑いで揺れた。
飛鷹が窓の外を見たまま、小さく呟く。
「……東京、うるせぇな」
いつもの強がりより、少し柔らかい声だった。
小暮がわざと明るく返す。
「でもさ、飯はうまいよ? 寮のメシ、意外と好き」
「前の中学のとき、こんな量出なかったし」
「前の中学、どこだっけ」
三好が聞く。
「言ったらバレるからやめとく」
小暮が笑って誤魔化す。
誤魔化し方が上手い。空気が軽くなる。
塔子が小さく頷いた。
「……“バレたら面倒”ってことだけは、共通してるわね」
その一言が、寄せ集めのリアルだった。
出身も事情もバラバラ。
だからこそ、詮索しない。詮索させない。
代わりに、くだらない話をする。
「東京の自販機、種類多くない?」
「分かる。地元にないやつばっか」
「今度、寮の帰りに寄ろうぜ」
「寄り道したら雷電先輩に――」
「圧で死ぬ」
笑いがまた起きる。
勝った日の笑いだ。
その流れのまま、虎丸の声が聞こえた。
サッカーへ戻るのに、戻り方が自然だった。
「一点目さ……打つ前、ほんの一瞬だけ迷いそうになったんだよね」
「迷ったの?」と誰かが返す。
「うん。でも迷ってる暇、なかった」
「要が後ろで声出してるし、雷電先輩が走ってるし」
「“今だ”って、体が勝手に決めた」
“勝手に決めた”という言い方が、妙に刺さった。
勝ちたい気持ちが、迷いを上書きした瞬間。
虎丸は少し笑って続ける。
「決めたあと、めっちゃ嬉しかった」
「でもさ、喜びすぎると息が切れて」
「戻るのが一番、勝ちに近かったんだよ」
その言葉で、車内がまた温まった。
隣の席から、相馬ナオキの声が上がる。
口調は本当に普通の一年生だ。
「俺、途中から足が自分の足じゃないみたいでした」
「でも止まったら負ける気がして……みんな止まらないから、止まれなくて」
「止まんなくて正解」
小暮が軽く返す。
「……って言いたいけどさ、明日さ。朝練、なくてもよくない?」
一瞬、静かになって。
すぐに笑いが漏れた。
「ふざけんな」
雷電先輩が即答する。声は荒いのに、どこか嬉しそうだ。
「なくねぇ。……でも、死ぬほどはやらせねぇよ」
「やったぁ」
小暮がガッツポーズを作る。作ったまま、その場に沈む。
その“沈み方”が、勝った日のそれだった。
僕は窓の外を見ながら、胸の奥の糸が少しだけ緩むのを感じた。
サッカーだけじゃない。生活がある。寮がある。明日がある。
だからこそ、勝ちが“現実”になる。
そして――その現実の中で、笑い方が遅い気配が一つだけ残ることも、僕は見逃せなかった。
見ないふりをして、糸を結び直す。
(次も、全員で)