アレスの天秤〜伊那国雷門なんていなかった〜 作:風邪ひきたくない
いいよね、木曽路
スタジアムの空気は、星章のときとは違った。
歓声の温度が低い。
相手の視線が落ち着いている。
こちらが先に熱くなるのを、最初から待っている顔。
美濃道三中。
――元雷門の壁山が、サッカー強化委員として配属されたチーム。
「よろしくお願いするっス!」
壁山の声は明るい。
明るいのに、背中が大きい。
その背中が“守り”を背負っているのが分かる。
(……嫌な相手だ)
雷電先輩が短く言った。
「いつも通り行くぞ」
“いつも通り”。
それが今日の弱点になることを、この時点では誰も口にしなかった。
ホイッスル。
ボールが動く。
僕らは前へ出る。いつも通りの運動量で、いつも通りに圧をかける。
――そして、いつも通りに“早く”攻めようとしてしまう。
最初の一回で、分かった。
抜けない。
相手DFが横に並んだ。
横一列の“壁”。
そこへ、壁山が一歩前に出て、手を振り下ろした。
「いくっス! レンサ・ザ・ウォール!」
美濃道のDF全員が、声を揃える。
「レンサ・ザ・ウォール!!」
横一列の壁が、滑るように動く。
前へも後ろへも大きく動かない。
横に滑るだけで、こちらの道を塞ぎ続ける。
誰かが突っ込む。跳ね返される。
縦を狙う。コースが消える。
ロングを入れる。落ち際が跳ね返される。
(……個じゃない)
壁山一人が強いんじゃない。
全員が、壁山の号令で同じ動きをしている。
組織の壁。
実況が言う。
「雷門、ボールを持って攻め続けています!」
「しかし美濃道の守備が崩れません!」
“攻め続ける”。
その言葉が、今はちょっと痛かった。
攻め続けてる。
なのに、攻めれていない。
僕は守備の司令塔だ。
守りの形は見える。相手の狙いも見える。
でも――攻めの形が見えない。
(……俺たち、どうやって崩す?)
見えているのは、突っ込む動きだけ。
速い走りだけ。
根性だけ。
星章にはそれで通った。
あいつらは“走らせられる”と折れた。
でも美濃道は、走らせるんじゃない。
走らせて、壁にぶつける。
(……このままだと)
一点取られる。
美濃道の勝ち方は、そうだ。
守って、相手が攻めに集中したタイミングで一点。
その後は、また壁。
一番嫌な負け方。
相馬ナオキがボールを受けたとき、僕は息を止めた。
相馬はドリブルが上手いわけじゃない。
速さで抜くタイプでもない。
だからこそ、相馬は――突っ込まない。
二タッチ。
視線が上がる。
壁の向こうじゃなく、壁そのものの綻びを探している。
相馬はパスを出した。
横。さらに横。戻す。
会場が一瞬だけ「え?」という空気になる。
でも、僕は違う意味で息を吐いた。
(剥がすんだ)
壁は“線”だ。
線は一枚じゃない。
一人ひとりの積み重ねだ。
なら、一枚ずつ剥がすしかない。
僕は声を出す。
「ナオキ! 落ち着け!」
「急がなくていい!」
相馬が一瞬だけ頷いた。
(急いでも、抜けない)
綾瀬カナタ。
速い。
上手い。
そして――分かっている。
壁が完成する前に剥がさないといけないこと。
相手が横に滑るだけなら、こちらが横に散らす必要があること。
でも彼は――言葉が出ない。
指示の言葉が喉で止まっている。
カナタがボールを受ける。
止める。
壁山の号令で、壁が横に滑る。
一瞬だけ、カナタの足が前に出る。
突っ込みたい。
自分で壊したい。
でも突っ込んだ瞬間、壁に飲まれる。
それが分かっているから、足が止まる。
カナタは視線だけで僕を見る。
“分かってる”のに、“言えない”目。
(……指示の出し方が分からないんだな)
賢いのに。
見えているのに。
それを“チームの言葉”にできない。
だから彼は葛藤する。
自分の能力が、今この瞬間だけ役に立たないことが悔しい。
僕は守備の司令塔だ。
本来、攻撃の司令塔じゃない。
でも今だけは、線を引く。
「横!」
「一回戻せ!」
「壁を崩すんじゃない、剥がす!」
僕が叫ぶと、カナタの眉がほんの少しだけ動いた。
“それだ”という合図。
彼は言葉にしない代わりに、動きで示す。
一歩。二歩。
スピードで壁を揺らし、横滑りを早めさせる。
早めれば、穴ができる。
穴は、相馬が見つける。
相馬が起点になる。
横。横。戻す。逆。
同じことの繰り返し。
でもそれは“無駄”じゃない。
美濃道の壁が、わずかに遅れる瞬間が増えていく。
横一列が、ほんの少しだけ斜めになる。
端の一枚が、半歩だけ前へ出る。
剥がれた。
相馬は短いパスで、カナタに預けた。
カナタは受けた瞬間、走る。
速い。
速すぎて、壁が横に揃う前に次の一対一ができる。
相手DFが寄せる。
寄せる。
寄せた分だけ、中央の壁が薄くなる。
最後の壁が残る。
そこにいるのは――壁山。
壁山が、もう一度号令を上げる。
「集めるっス! ウォール・フォー・ワン!」
周りのDFが一瞬、壁山の背後へ寄ろうとする。
壁を壁山に集約する形。
でも、完成しきる前に相馬が動かした。
端の一枚を、さらにもう一枚剥がす。
結果、残るのは“個”だ。
壁山とカナタの、一対一。
カナタは、なぜか一度だけ足を止めた。
速いのに止まる。
止まるから、壁山の重心が前に出る。
「……止まったっス?」
次の瞬間、カナタが叫んだ。
「スーパーエラシコ!」
ボールが外へ流れて、内へ戻る。
ほんの小さな振れ幅。
でもそれだけで、壁山の身体が遅れる。
でかい“壁”が、一瞬だけ“人間”になる。
抜けた。
抜けたのに、カナタはゴールへ行かない。
そのまま相馬に落とす。
派手さを殺して、確実さだけを残す落とし。
相馬が受けた瞬間、顔を上げた。
迷いが消えた目。
相馬のパスが、虎丸の前に転がる。
虎丸が踏み込む。
「――ここだ!」
虎丸の声が、短い確信になる。
「タイガードライブ!!」
獣みたいな勢いで放たれたシュートが、ゴールへ突き刺さる。
1-0。
相馬が、ほんの一瞬だけ拳を握った。
一年生らしい、抑えきれない喜び。
「……っしゃ!」
小さく叫んで、すぐにハッとする。
でも止められない。
虎丸は笑った。
派手に跳ねない。
でも、顔がちゃんと“嬉しい”になっている。
「ナオキ、ナイス!」
虎丸が一言だけ言って、肩を叩く。
相馬が照れ臭そうに笑う。
後ろの方から、飛鷹が小さく拳を上げたのが見えた。
声には出さない。
でも、あれは確実に喜んでいる。
そして全員、すぐ戻る。
喜んだまま戻る。
余裕がないから戻る。
勝ちたいから戻る。
雷門の勝ち方だ。
その後は、驚くほど淡々と終わった。
美濃道は一点を取り返しに来る。
でも雷門の守備は崩れない。
僕が指示を出し、財前が構え、小暮が風を起こし、飛鷹が身体を張る。
相良が最後に立っている。
美濃道の“いつもの勝ち方”を、こちらが逆にやっただけだ。
一点取って、守り抜く。
ホイッスル。
1-0。
勝った。
勝ったのに、僕の胸に残ったのは喜びより、別の感覚だった。
(……攻めの形がない)
今日の一点は、偶然じゃない。
相馬とカナタが作った。
でも――これは“即興”だ。
即興で勝てるのは、地区大会まで。
全国では通じない。
僕はそれを、試合が終わった瞬間に理解した。
寮に戻る道で、カナタはほとんど喋らなかった。
勝ったのに、勝った顔をしていない。
相馬ナオキは、まだ少し浮かれている。
一年生らしく、嬉しさを抑えきれていない。
虎丸は満足そうに息を整えている。
飛鷹はいつも通り強がっているのに、歩幅が軽い。
それが救いだった。
誰かが喜べるなら、チームはまだ健康だ。
一方で、僕は頭の中でずっと同じ言葉を回していた。
(攻めの戦術がない)
守備は形になっている。
司令塔がいる。連携がある。罠も張れる。
でも攻めは――
“速さ”と“根性”と“個の閃き”しかない。
そしてカナタは、入口のさらに先が見えている。
見えているのに、言葉が出ない。
その夜。
消灯前の寮は静かだった。
廊下の足音だけが、一定の間隔で遠ざかったり近づいたりする。
僕が自室に戻ろうとしたとき、ひとつだけ灯りが漏れている部屋があった。
ドアの隙間から、映像の音が細く聞こえる。
実況。
観客のざわめき。
笛の音。
(……綾瀬の部屋だ)
扉の前で立ち止まってしまった自分に、僕は小さく息を吐いた。
そのとき、後ろから軽い足音。
「お、やっぱり」
声が明るい。
三好ゆうまだ。
三好は僕の横を通り過ぎて、綾瀬のドアを軽く叩いた。
「綾瀬、起きてる?」
返事を待たずに、三好が続ける。
「なー、ちょっとだけ。怒ってないから開けて」
“怒ってない”の言い方が上手い。
相手が拒否する理由を先に消してくる。
少し間があって、ドアがほんの少し開いた。
中から漏れる光が、廊下に線を引く。
綾瀬カナタの目が見えた。
眠そうじゃない。
疲れてるのに冴えている。
三好はその目を見て、すぐ察したみたいに笑った。
「あー……今日の試合、気になった?」
「分かる。勝ったのにスッキリしないやつ」
綾瀬は言葉を探すみたいに口を開けて、閉じた。
説明が長くなりそうで、やめた顔。
三好はそこで、話題を“本人の心”から“試合の現象”にずらした。
「ね、あの“壁”さ」
「横にズルズル動くやつ。見ててムカつくよね」
綾瀬が小さく頷いた。
それが会話の許可だった。
三好は部屋に入らず、廊下側に立ったまま続ける。
距離を詰めすぎない。
踏み込みすぎると、相手が逃げることを知っている立ち位置。
「俺さ、転校するたびにポジション変わって」
「『つなぎ役やれ』って言われること多かったんだよね」
綾瀬の眉が少しだけ動く。
興味が向いた合図。
三好は笑った。
「つなぎ役って、派手じゃないけど」
「みんなの“ズレ”が見えるんだよ。ズレる前に分かる」
その言葉が綾瀬に刺さったのが分かった。
刺さった瞬間の沈黙がある。
三好は、そこへ一歩だけ踏み込む。
「綾瀬ってさ」
「今日、ずっと“分かってる顔”してた」
綾瀬が視線を逸らす。
褒められるのが苦手な逸らし方。
でも三好は押しつけない形で返す。
「いや、責めてない。逆」
「“分かってる”って才能だよ」
綾瀬の喉が動いた。
何か言いたい。
でも言葉が出ない。
三好が、笑いながら超簡単な形に落とす。
「ね、提案」
「綾瀬はさ、難しい説明いらん」
「合図だけくれ」
綾瀬が、やっと声を出した。
「……合図」
「うん。“横”とか、“逆”とか」
「それだけでいい」
「俺がみんなに訳す。俺、得意だから」
綾瀬が一瞬だけ固まった。
“頼っていい”が理解できない顔。
三好はそこで、わざと軽く言う。
「外したら俺のせいにしていいし」
「当たったら綾瀬のせいにする。いい意味で」
綾瀬の口角が、ほんの少しだけ上がった。
三好は最後に、綾瀬の背後に映っている試合映像をちらっと見て言った。
「てか、見てる試合のチョイス、怖」
「国内も海外もゴチャ混ぜじゃん」
「そういうの、マジで才能の人がやるやつだよ」
綾瀬が小さく返した。
「……見ないと、分かんない」
三好はその一言を、宝物みたいに受け取って頷いた。
「分かる」
「じゃ、次の試合でさ。綾瀬は一回だけ言って」
「“横”って」
綾瀬は少しだけ迷って、そして頷いた。
「……横」
三好はニヤッと笑った。
「よし」
「俺、それ聞いたら絶対叫ぶから」
扉がまた少し閉じる。
光が細くなる。
綾瀬の部屋の中では、また映像が流れ始めた。
でもさっきより、呼吸が落ち着いている気がした。
廊下を歩き出した三好が、振り返らずに言った。
「綾瀬の才能、俺が“みんな用”にする」
「それ、俺の仕事にするわ」
僕はその背中を見て、心の中でだけ頷いた。
(……これでいい)
才能があるやつほど、孤独になりやすい。
だからつなぎ役がいる。
雷門は、今その形を作り始めた。
僕は心の中で糸を結び直す。
(次も、全員で)