救急車に初めて乗りました。
地上の空気は冷たかった。
夜だというのに風は止んでいる。
街の灯りはひとつもない。
いつもなら、妖精たちの家々を照らしている淡い光が、まるで最初から存在しないようだった。
揺らぎの装置は暗いまま。
空は極彩に彩られている。
わたしは視線を下に向ける。
次元跳躍装置も動かない。
教主様が、低く言った。
「…止めよう」
司祭長が息を呑む。
女王エルフィンが顔を上げる。
「止めるって……それ、ほとんど切り捨てるのと同じじゃない」
「いや、違う」
「切り捨てるんじゃない」
「あくまで一時的に止めるんだ」
沈黙。
静かな声につられ、わたしも声を上げる。
「教主様の言うとおりかもしれません。このまま動かし続ける方が危険ですよ。」
教主様が頷く。
「救うためのものが、今世界を壊しているなら」
一拍
「止めるべきだ」
司祭長が前に出る。
「しかし、教主様。世界樹がその結果、弱ってしまうことも考えられます。」
「そうだね。」
噛み締めるように頷いてから。
「でも、このまま何もしなければもっと悪くなるかもしれない。」
誰も、声を出さなかった。
私は装置を握る。
冷たいはずの金属が、ぬるくなっていた。
「それで、止めると言ったってどこに装置があるのかわからないじゃない」
みんなが地面を見据えた。
教主様はしばらく中空を見据えた後。
「行こう」
一拍。
「魔力は地下に流れてる」
「なら、答えもそこにあるはずだ」
私たちは顔を見合わせた。
誰も言葉にしなかったけれど。
答えは同じだった。
地下だ。
教主様が振り返る。
「戻ろう」
短く、それだけ言う。
私たちは来た道を引き返した。
地上へ出てきた、あの階段へ。
石段を降りる。
一段、また一段。
夜の空気が遠ざかる。
代わりに、湿った空気が戻ってくる。
オーロラの光も。
あの異様な静けさも。
頭の中に残ったまま。
消えない。
地下に降りるほど。
魔力の流れが、はっきりしてくる。
「……感じる」
思わず呟く。
ネルさんが頷く。
「はい」
「地上ではありません」
「地下に集中しています」
エルフィン様が舌打ちする。
「最初から下にあったってこと?」
「……おそらく」
私は装置を握る。
暗い。
反応はない。
でも。
さっきよりも重い。
何かに引かれているみたいに。
階段を降りきる。
そこから先は。
広い地下空間だった。
天井は高い。
だが視界は悪い。
発光虫の光だけが、ぼんやりと浮かんでいる。
道が分かれている。
いくつも。
迷路みたいに。
「……いつ来ても、ここは嫌ね。戻ってエシュールのパンが食べたくなってきたわ。」
それでも、空気は淀んだまま。
ネルさんが周囲を見渡す。
通路は入り組んでおり、さまざまな方向に伸びている。
「ここは…どちらに行けばいいのか…」
つぶやきが落ちる。
その時。
教主様が、迷いなく歩き出した。
一つの通路へ。
「……そっち?」
エルフィン様が眉をひそめる。
返事はない。
ただ、進む。
止まらない。
ネルさんが小さく言う。
「……根拠は」
教主様は答えない。
それでも。
迷いが、ない。
私は一瞬だけ立ち止まる。
教主様は時折、中空を見据えたまま、何かに応えるように頷いている。
……ブルミさんだ。
わたしには見えないけれど。
「……行きましょう」
私は言った。
エルフィン様が小さくため息をつく。
「ほんとに当てがあるのかしらね」
それでも。
ついていく。
通路は入り組んでいた。
分岐。
坂道。
曲がり角。
なのに。
教主様は一度も立ち止まらない。
まるで。
見えているみたいに。
進むほど。
空気が変わる。
重い。
この先に世界樹がある。
巨大な魔力の塊。
やがて。
通路が途切れる。
開けた空間。
魔女王国と妖精王国の、ちょうど境目。
こんな場所。
見たことがない。
その中央に――
あった。
地面に半ば埋め込まれた構造物。
世界樹の根に絡みつくように。
金属の外殻。
巨大な複数の円盤が連なっている。
見覚えがあった。
ホログラム越しに見たものと——同じだ。
淡い光。
脈打っている。
沈黙。
風はない。
なのに。
空気だけが揺れている。
エルフィン様が低く言う。
「ずいぶん大げさな釜ね」
一拍。
「こんなのが本当に世界樹を繋いでるっていうの?」
教主様は答えない。
司祭長は女王エルフィンの服の裾を握りしめている。
ただ。
わたしにはわかる。
これが。
世界を、繋ぎ止めている。
教主様が前に出る。
装置を見上げる。
一拍。
「……間違いない。」
そして。
「これだ。」
わたしは息を止める。
教主様が言う。
「止めよう。」
今度は誰も言わなかった。
教主様が一歩踏み出す。
装置へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
「待て…!」
冷たくて鋭い声。
地下空間の奥。
闇の向こうから、足音が響く。
ひとつじゃない。
複数。
乾いた靴音が、石床を打つ。
一定の間隔で。
ためらいなく。
エルフィン様が身構える。
ネルさんも一歩前に出る。
教主様は、振り向かない。
「来たね…。」
一つだけ息を吐いた。
闇の中から——
影が現れる。
長い裾。
揺れない足取り。
先頭に立つその人を見た瞬間、私は息を呑んだ。
エルフィン女王が声を漏らした。
「お姉様…」
ベリータ女王の視線が、真っ先にエルフィン様へ向く。
「エルフィン。こっちへ来なさい」
一拍。
「下がっていろ」
「え……」
「でも——」
「いいから」
声は低い。けれど、その一言だけは姉の声だった。
エルフィン女王は素直に頷いた。
「……うん」
そこでようやく、ベリータ女王は装置を見た。
根に絡みついた金属の外殻。
不規則に脈打つ光。
揺れる空間。
すべてを見て。
魔女の女王は、静かに言った。
「触るな」
一拍。
「今のお前たちでは、止められない」
その後ろには、数人の魔女たち。
フリックルもいた。
少し、ふらついている。
でも、全員が前を見ている。
教主様が振り返る。
「じゃあ、君たちは止められるの?」
ベリータ女王は答えない。
ただ、頷き。右手を上げる。
その指先で、空気がわずかに軋んだ。
「地下の魔女たちが、回廊全体に魔力を流している」
「我々は、それに指向性を与える」
ネルさんが目を見開く。
「……魔力を流す?」
「地上の灯りが落ちたのは、そのせいですか」
「半分はそうだ」
ベリータの声は変わらない。
「だが、半分は違う」
彼女は装置を見据えたまま言う。
「こいつが、魔力場を歪めている」
「魔力量が一定以上ないと、世界樹の異常に引きずられ、術式そのものを乱す波を吐いている可能性がある」
「魔女の術も、妖精の光も、まとめて黙らせている。」
エルフィン様が低く呟く。
「……だから、街の灯りまで」
ベリータ女王が頷く。
フリックルも続ける。
「外来種が作ったガラクタは、別の世界樹の安定した状態を参照している」
教主様が問う。
「どういうこと?」
一瞬、沈黙。
ベリータ女王は、装置を見たまま言った。
「簡単に言う」
一拍。
「これは——修復じゃない」
「別の世界の正常な状態を」
「この世界に貼り付けている」
教主様が眉をひそめる。
「貼り付けてる……?」
「そうだ」
ベリータ女王は前に出る。
「壊れた部分を直しているんじゃない」
「壊れていない別の世界を参照して」
「その状態を、無理やり重ねている」
私は息を呑む。
やっぱり。
ベリータ女王は続ける。
「だが——」
「その二つは、同じ世界じゃない」
一拍。
「時間も、流れも、少しずつ違う」
教主様が小さく言う。
「……ズレる?」
「よくわかったな。」
「さすが教主だ。」
ベリータ女王は息を吐く。
「最初は問題ない」
「だが重ね続ければ」
ベリータ女王は、空間を指した。
「こうなる」
空気が、わずかに歪む。
光が揺れる。
「現実と参照先が噛み合わなくなる」
「そのズレが——」
一拍。
「空間を裂く」
静寂。
私は一歩前に出る。
「……時間の層ですね」
ベリータ女王が頷く。
「そうだ」
「時間が一つじゃなくなる」
教主様は、装置を見る。
「つまり……」
言葉を探すように。
「今この世界は」
「いくつかの時間が重なってる?」
「正確には」
ベリータ女王が言う。
「重なりきれていない」
一拍。
「だから、歪む」
沈黙。
誰も、すぐには言葉を出せない。
「だから、物理的に止めるだけでは足りない」
一拍。
「歪みのある箇所ごと——固定する必要がある」
「凍結の魔導書を使う」
その言葉に、
空気が、わずかに沈む。
フリックルが不機嫌そうに言う。
「感謝は要らないわよ、外来種」
一拍。
「こっちだって、巻き込まれるのは御免なの」
わたしは、装置を握りしめたまま、ベリータ女王を見つめた。
「……固定って」
一拍。
「本当に、できるんですか」
やがて彼女は静かに言う。
「見込みがなければ、ここに来ていない」
一拍。
「だが」
「簡単でもない」
フリックルが嘲るように口を開く。
「外来種は、そこで見ていろ」
沈黙が落ちる。
誰も、すぐには動かなかった。
教主様が、ゆっくりと息を吐く。
動き続ける延命装置を見る。
ベリータ女王を見る。
一拍。
「……わかった」
静かに言う。
「やってくれ」
エルフィン様が顔を上げる。
「お姉様——」
ベリータ女王が言った。
「少し、離れていなさい……」
さっきまでより、柔らかい声。
「ここは、危ない……」
視線は装置から動かない。
一拍。
エルフィン女王が一瞬だけ口を開く。
何かを言いかけて。
やめる。
ネルさんも後に続く。
わたしは教主様を見上げる。
「……教主様も……下がりましょう」
魔女のほうを向いたまま。
「ああ。」
教主様も、ゆっくりと距離を取る。
それでも。
視線は外さない。
ベリータ女王が一歩前へ出る。
フリックルがその横に並ぶ。
背後の魔女たちが、円を描くように広がる。
位置につく。
空気が、変わる。
ベリータ女王が杖を浮かせる。
魔女の一人が前に出る。
一冊の本が、手渡される。
ベリータ女王へ。
氷のような青。
冷たい装丁。
表面に刻まれた紋様が、淡く光る。
「……凍結の魔導書」
誰かが、息を呑む。
ベリータ女王がそれを受け取る。
両手で。
ゆっくりと。
開く。
その瞬間だった。
地下の奥から。
魔力が、這い上がる。
ざわり、と。
地面が震える。
世界樹の根。
その奥深くから。
何かが、引き出されている。
「……っ」
司祭長が息を呑む。
魔力が。
集まる。
ベリータ女王へ。
魔女たちへ。
そして——
魔導書へ。
空気が、凍る。
温度が下がるんじゃない。
流れが、止まる。
私は、理解してしまう。
これは——
「時間を……」
言葉が、続かない。
ベリータ女王が目を閉じる。
静かに。
詠唱が、始まる。
『根を同じくするものよ』
声が重なる。
ベリータ女王の声に。
魔女達の声が重なっていく。
『凍てつく息を受け取り』
空気が冷えるのとは違う。
流れが。
遅くなる。
『流れる時をここに留めよ』
装置の光が、揺れる。
不規則に。
脈打つ。
『いまこの枝に』
音が、消える。
『終わらぬ冬を与えん』
空間が、固まる。
『大いなる母の名の下に』
魔力の奔流が、鈍る。
私は息を呑む。
動いているはずのものが。
すべて。
遅くなっていく。
「……止まってる」
呟く。
違う。
止まっているんじゃない。
“止められている”。
ベリータ女王の声だけが、はっきりと響く。
『すべての時が帰らんことを』
その瞬間。
世界が——
止まった。
光が、固まる。
装置の脈動が、止まる。
空気の揺れが、消える。
成功した。
そう、思った。
次の瞬間。
ひびが入る。
ぴし、と。
音がした。
どこからか。
わからない。
けれど。
確かに。
「……っ」
ネルさんが息を呑む。
装置の表面。
光の上に。
細い線が走る。
裂け目。
空間そのものに。
「……まずい」
ベリータ女王の声が低くなる。
「押さえきれていない」
魔女たちの声が揺れる。
詠唱が乱れる。
止めたはずの時間が。
きしむ。
戻ろうとする。
「……チッ」
フリックルが歯を食いしばる。
「外来種どもめ……!」
私はそれを見ている。
理解してしまう。
これは——
私の力と。
同じだ。
時間を。
止める。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
できる。
そう、思ってしまった。
「……これ」
声が出る。
教主様がこちらを見る。
「似ているんです」
私は言う。
「この魔法——」
一拍。
「わたしの力と」
沈黙。
空間が、きしむ。
裂け目が広がる。
光が、歪む。
時間が。
崩れかけている。
私は一歩、前に出る。
「……わたしなら」
言葉が、こぼれる。
止められる。
そう思った。