「……リニュア」
教主様の声。
静かだった。
「……頼めるか」
私は一瞬、言葉を失う。
握りしめたものは熱を帯びている。
空間がきしんでいる。
このままでは——
終わる。
「……やります」
答えていた。
前に出る。
魔女達は、もう動けない。
息だけが荒い。
女王ベリータは座り込んでいた。
私は、隣から拾い上げる。
凍結の魔導書。
凍えるような青。
馴染みのない氷のような装丁。
でも。
わかる。
これは——
私の力と、同じだ。
目を閉じる。
魔導書はひとりでに開く。
言葉を紡ぐ。
『根を同じくするものよ』
魔女達が遅れて気づく。
「待て——!」
ベリータ女王の声が飛ぶ。
だけど、魔導書はもう私に応えて開いていた。
『凍てつく息を受け取り』
魔女の一人が何かを叫んでいる。
私には聞こえない。
『流れる時をここに留めよ』
少しだけ、言葉が足りない気がした。
けれど……。
『いまこの枝に』
魔導書が冷たい光を放つ。
『終わらぬ冬を与えん』
私の周りに風が波うつ。
『大いなる母の名の下に』
……大丈夫。
今度こそ。
『全ての時が帰らんことを』
その瞬間。
何も——起きなかった。
一拍。
次元跳躍装置が、震える。
光が戻る。
『Jump Function: Available』
戻った。
そう思った。
なのに。
「……え」
実感が伴わない。
胸の奥だけが冷えていく。
——遅れて。
変わる。
空気が。
止まる。
風が、消える。
音が、落ちる。
「……違う」
胸がざわつく。
これじゃない。
止める場所が——
定まらない。
広がる。
一気に。
世界へ。
白いものが、視界を横切った。
一枚。
ゆっくりと。
落ちてくる。
私は、手を伸ばす。
触れる前に。
それは、溶けた。
天井は岩盤。
ここは——地下のはずだった。
なのに、白だけがどこからともなく落ちてくる。
「……雪?」
「……まずい」
ベリータ女王の声。
遅い。
雪が、降る。
静かに。
積もっていく。
音もなく。
世界の輪郭を奪っていく。
白。
すべてが。
覆われていく。
「……止めろ!」
フリックルの声が遠い。
もう。
止まらない。
何もない空間から。
白が、こぼれ落ちる。
上ではない。
下でもない。
ただ、そこに現れて。
落ちてくる。
私は、立っている。
動けない。
教主様を見る。
足元から。
白が、這い上がっていた。
「……っ」
千切れるほどの痛み。
私は駆け寄ろうとした。
しかし、動かない。
見えない氷。
見ていることしかできない。
教主様も抜け出せないでいる。
それが。
身体を覆っていく。
膝。
腰。
胸。
「……リニュア」
声は、まだ届く。
「……成功だな」
微かに、笑う。
「だから——」
一拍。
「……行って」
次元跳躍装置が、光っている。
『Jump Function: Available』
「教主様——」
足が、動かない。
「行って……次の世界に」
今度は、強く。
「……行って!」
「リニュア!!!」
その瞬間。
音が、消える。
教主様の表情が。
止まる。
頭まで。
完全に。
凍りついていた。
私は。
何も言えなかった。
もう、誰も動くものがいなくなった地下。
ただ。
装置を、強く握る。
涙が落ちる。
凍る。
「……ごめんなさい」
誰にも届かない声。
身体が引っ張られる。
光が、弾ける。
世界が、遠ざかる。
白の中へ。
すべてが。
沈んでいく。
新しい空。
私はぼんやりと眺めていた。
立つ力も残っていなかった。
『Jump Function: Completed』
まだ装置は熱を帯びたまま。
頭上では灰色の雲が流れていた。
【ほら見ろ】
【やつがいる世界は】
【必ず壊れる】
【また証明されたな】
頬を風が撫でたかもしれない。
【だが】
【世界を壊しているのは】
【やつではない】
……。
【もうわかっただろう?】
【お前だ】
雪の匂いが残っていた。
手には凍結の魔導書。
私は、また知らない空を見ていた。
世界は変わった。
また一つ。
壊した。
その言葉だけが。
妙に、はっきりしていた。
そうだ。
壊れたんじゃない。
私が——
壊した。
思い出そうとする。
さっきの光景を。
雪。
静けさ。
止まる世界。
教主様の顔。
「……成功だな」
あの言葉が、離れない。
あれが、成功なら。
私の望む世界は——
わからない。
考えようとすると。
頭の中が、うまく繋がらない。
ただ。
ひとつだけ。
残っている。
動かなくなったもの。
もう。
戻らないもの。
それを。
自分が、作ったという事実だけ。
もう。
私は。
動けなかった。
何も考えられない。
ただ。
座っているだけだった。
不意に視界に影がさした。
もうやめてほしい。
私にかまわないでほしい。
それでも。
「……あの」
声がした。
靴でわかった。
獣人の少女だった。
「すみません」
なるべく反応しないように努めた。
一人にして欲しかった。
だけど、次の言葉だけは無視できなかった。
息を切らせて言う。
「教主様を……見かけませんでしたか」
その言葉で。
バカな奴だと自分でも思う。
散々、痛い目を見てきたのに。
胸の奥が、かすかに熱を持つ。
まだ。
間に合うかもしれない。
そんな考えが、浮かぶ。
「どんな方ですか」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
少女は、ほっとしたように言う。
「えっと……おっきくて」
「ちょっと偉そうで」
「でも、優しい人で——」
そのとき。
少しだけ、違和感があった。
呼吸の音。
足音。
何かが、わずかに噛み合っていなかった。
視線が、下に落ちる。
尻尾。
途中から。
色が違う。
灰色に。
硬く。
光を失っている。
「……それ」
思わず、口に出る。
少女は、きょとんとする。
「え?」
「尻尾が……」
言いかけて、止まる。
少女は、自分の尻尾を見た。
少しだけ、首を傾げる。
「……あれ?」
軽く、振ろうとする。
動かない。
「……あれ?」
もう一度。
動かない。
「……なんで」
その声も。
ほんの少しだけ。
遅れて聞こえた気がした。
私は、しばらく動けなかった。
目の前の現実と。
さっきまでの記憶が。
うまくつながらない。
でも。
揺らぎの装置を起動させた。
58%
やはり高い数値。
駆動。
回転。
一瞬だけ。
引っかかるように止まる。
教主様のいる方角を示した。
「……行きましょう」
気づけば、そう言っていた。
「獣人の村に、教主様はすでにいるはずですよ。」
黄色い服の少女が顔を上げる。
少しだけ、安心したように笑った。
「……はい」
私は、立ち上がる。
膝に力を込める。
少しだけ、ふらついた。
体が、重い。
だけど。
止まっているよりは、マシだった。
「案内します!」
「あたしはバターといいます!」
少女…バターが言う。
私は頷く。
「私はリニュアです」
歩き出す。
草原だった。
風が、弱く吹いている。
さっきまで、感じなかったはずの風。
なのに。
どこか、遠い。
バターの後ろを歩く。
軽い足取り。
尻尾は見ないようにした。
しばらく歩く。
誰もいない。
音も、少ない。
草が揺れる音だけが、続く。
「……みんな、待ってたんです。」
バターがポツリと言う。
「教主様が来てくれるって聞いて」
「だから、大丈夫だって……」
言葉が、少しずつ小さくなる。
遠くに、影が見える。
建物。
木でできた、小さな家々。
集まっている。
村だ。
近づく。
静かだった。
あまりにも。
「……あれ」
バターが足を止める。
「おかしいな」
「いつもなら、誰かいるのに……」
風が抜ける。
扉がわずかに揺れる。
音がない。
私は、息を止める。
もう。
うまく、吸えそうにない。