獣人達の村。
つい先日まで、ここには温もりがあったはずだった。
裏手に残された落書き。
家々についた、背を測るための傷跡。
補修された窓。
誰かが踏み鳴らした広場。
どれも、消えていない。
なのに。
そこにいたはずのものだけが、抜け落ちている。
住人の気配は、感じられない。
ただ。
村の外灯だけが、残っていた。
風が吹く。
音が、返ってこない。
バターはあちらこちらをみて、
落ち着かない様子だった。
「みんな、どこにいっちゃったんだろう……」
「こんなに静かなことなんてないのに……」
私は一歩踏み出す。
「……村長さんのところに行きましょう」
「何かを知ってるかもしれませんよ」
私は、一瞬だけ迷う。
できることなら逃げ出したかった。
また。
苦しまないといけないのか。
でも。
「……そうですね」
彼女の曇った顔を見て、投げ出すことなんてできなかった。
それに。
まだ。
間に合うかもしれない。
そんな考えを、捨てきれなかった。
バターが先に立つ。
私は、その後ろを歩く。
村の中へ、踏み込む。
足音が、やけに響く。
誰もいないはずなのに。
見られているような気がする。
でも。
振り返っても、誰もいない。
家々の間を抜ける。
扉は閉じられたまま。
家の奥は、暗い。
生活の後だけが。
取り残されている。
「……こっちです。」
バターの声が、少しだけ小さくなる。
進むほどに。
空気が重くなる。
やがて。
一軒の家の前で、バターが止まった。
他の家と、変わらないはずなのに。
なぜか。
そこだけ。
静けさが、深い。
「……ここです」
バターは扉の先を見つめていた。
扉を、押し開ける。
軋む音が、小さく響いた。
中は、暗かった。
光が、ほとんど届かない。
「……村長さん?」
バターが、声をかける。
返事はない。
誰も、いない。
足元で、何かが砕けた。
小さな音。
視線を落とす。
石のような破片が、散らばっている。
形は歪だ。
でも、どこかで見たことがある気がする。
何かのツノ。
いや。
似ている、気がした。
しゃがみ込む。
指先で、そっと触れる。
軽い。
けれど、骨よりはずっと脆い。
そんな感触だった。
「……あれ?」
バターが首を傾げる。
「村長さん、いないのかな……」
気づいていない。
私は、口を開けなかった。
立ち上がる。
「……他を探しましょう」
それだけ言う。
バターは、少しだけ不安そうにしながら。
「……はい」
扉を閉める。
外の光が、少しだけ眩しかった。
そのとき。
「……エルフ?」
聞き覚えのある声。
振り向く。
司祭長のネルさんが、立っていた。
バターが、パッと顔を明るくする。
「司祭長さん!」
駆け寄る。
「よかった……!」
ネルさんは軽く息を整えているように見えた。
けれど、呼吸はまるで乱れていなかった。
「誰かが村長の家に入っていくのを見て、駆けつけました」
一拍。
その視線が、私に向く。
「バター。……あなたはともかくとして」
少しだけ、眉をひそめる。
「そちらのエルフは?」
バターが振り返る。
「あ、この人は…」
私は先に口を開く。
「リニュアです」
短く名乗る。
ネルさんは一瞬だけ考えるようにしてから、頷いた。
「……そうですか」
完全には納得していない顔だった。
私は一歩、前に出る。
「教主様は、どちらにおられますか?」
その言葉に。
司祭長の表情が、わずかに止まる。
「教主様は……」
言い淀む。
ほんの一瞬だけ。
違和感。
でも。
ネルさんはすぐに続けた。
「こちらです」
背を向ける。
「今は、獣人の家で休まれています」
その言葉に。
胸の奥が、わずかに揺れる。
休んでいる。
本当に。
私は何も言わなかった。
「行きましょう」
司祭長の後を追う。
バターも、小走りでついてくる。
村の中を進む。
3人に増えたのに。
さっきよりも。
さらに、静かだった。
司祭長は、家の前で足を止めた。
「……私は、ここで待ちます」
一拍。
「中は……ご自身で、ご確認ください」
その言葉に。
私は、何も返せなかった。
扉に手をかける。
バターも後に続こうとする。
「……待ちなさい」
扉の前で。
ネルさんの声が、低く落ちた。
バターの足音が、止まる。
「……え?」
「バター。あなたは、入らないでください」
短い言葉。
でも。
その声には、迷いがなかった。
「どうして……?」
バターの声が、揺れる。
ネルさんはすぐには答えない。
一拍。
「……確認が済むまで」
それだけ言った。
バターは本当に意味がわからないという顔で立ち止まった。
その戸惑いの気配を、背中で感じながら。
ゆっくりと押し開ける。
冷えた空気が頬を撫でる。
天井の灯りは心許ない。
空気が、動いていない。
一歩、踏み込む。
軋む音が、やけに大きく響く。
奥に、ベッドがあった。
誰かが、横になっている。
布団に包まれて。
静かに。
「……教主様」
声をかける。
返事はない。
近づく。
足が、少し重い。
それでも。
手を伸ばす。
布団に触れる。
柔らかい。
あまりにも、普通で。
ゆっくりと。
布団を、めくる。
最初。
それが、何なのか分からなかった。
色が、違う。
質感が、違う。
灰色。
硬い。
形だけが、人をしている。
一拍。
理解が、追いつく。
息が、乱れる。
足が、後ろに下がる。
そのとき、なにかが倒れた。
ついで、乾いた音。
外に響く。
割れた花瓶。
「……リニュアさん?」
バターの声。
扉が、開く。
足音が、近づく。
「……え」
言葉が、途切れる。
息を呑む。
同時に。
理解する。
遅すぎた。
石像が。
そこに、あった。
ベッドの上に。
鎮座していた。
そして。
そのとき。
バターが、うめいた。
「あれ……」
違和感。
声が。
少しだけ、噛み合っていない。
「耳が……」
手を当てる。
震えている。
「……耳が、聞こえない……」
私は、はっきりと聞こえていた。
その声も。
その呼吸も。
なのに。
バターだけが。
何も聞こえていない。
私は、壁に手をつきながら振り返る。
バターの耳。
色が、変わっている。
根元から。
灰色に。
硬く。
光を失っていく。
「……あれ?」
バターが、もう一度口を動かす。
でも。
その声は。
自分に届いていない。
私は、動かなかった。
動けなかった。
そのとき。
司祭長が、焦ったように部屋に飛び込んできた。
「……バター、こっちへ」
司祭長の声。
はっきり聞こえている。
でも。
バターは、反応しない。
「バター!」
肩を掴む。
びくりと震える。
「……え?」
遅れて、顔を上げる。
「外に出ます」
バターは二人の顔を交互に見る。
「でも……教主様が——」
「いいから」
ネルさんがバターの肩を掴む手に、力がこもる。
バターの動きが、止まる。
「……なんで」
小さな声。
でも。
その問いに、誰も答えない。
私は、その背中を見ていた。
また。
間に合わなかった。
そう、思った。
——違う。
最初から。
間に合う世界なんて、なかったのかもしれない。
しばらくして。
教主様の隣。
バターはもう眠っている。
寝息だけが。
静かに、落ちる。
眠る前に、つぶやいた言葉。
「……きっと」
「きっと、悪い夢を見てるんだ」
反芻する。
私も。
そうあって欲しいと、何度も思った。
いや。
何度も、願った。
世界樹に。
司祭長は、二人の姿を見守っている。
「お二人がこうなった原因は、はっきりしているのですか?」
司祭長は、ベッドを見つめたまま答える。
「いえ……わかりません」
ぽつり。
「昨日までは、まだ一部分だけでした……」
少し間。
「それが……こんなに早く進行するなんて……」
私は隣に腰掛けて、布団を整える。
指先に、重さが残る。
「教主様は、いつからこちらに……?」
司祭長は、もう動かない腕に触れる。
「……昨日の夜です」
「原因を調査すると言って、こちらに到着して……すぐに」
一拍。
「村につくや否や、倒れられて……」
「今朝、このようなお姿に……」
声は、震えていた。
司祭長は。
何度も。
確かめるように、教主様の手を握っていた。
私は、意を決して聞く。
「これは……病気、ですか?」
……。
「それすら……わかりません」
教主様を、見つめたまま。
「……私が、なぜ平気なのかも」
「教主様だけが、なぜこんなにも早く進行したのかも」
その言葉が。
胸の奥に、沈む。
……違う。
本当は。
もう。
わかりたくないのかもしれない。
静かな空気が、部屋に満ちている。
ただ、時間だけが過ぎていく。
気づけば、影が長い。
窓から差し込む光は、赤い。
風が、止まっている。
ふと。
窓の外で。
何かが、動いた気がした。
視線を向ける。
木々の影。
揺れていない。
獣人じゃない。
「……何?」
司祭長が、私の声に反応する。
そして。
次の瞬間。
音がした。
乾いた音。
遠くで。
何かが、割れる。
もう一度。
今度は、近い。
「……まさか」
誰が言ったのか、わからない。
私は、立ち上がる。
外で。
足音が、増える。
一つじゃない。
複数。
石を、引きずるような音。
重い。
不自然な、足取り。
「……外に」
司祭長が、手斧を構えて言う。
その瞬間。
扉が、揺れた。
激しく叩く音。
それも一度じゃない。
私は、装置を握りしめる。
様子を伺う。
……そこで。
音が、消えた。
完全に。
何も聞こえない。
呼吸も。
足音も。
「……?」
私は、ゆっくりと入口に近づく。
扉を、少し開ける。
隙間から外を覗く。
何もない。
誰もいない。
司祭長を、チラリとみる。
窓を、一瞥する。
違和感。
何かが。
おかしい。
空気が冷たい。
振り返る。
……その直前。
何かが、背後に落ちた。
次の瞬間。
突然、腕を掴まれる。
獣の皮膚。
怪物の腕。
硬い。
冷たい。
痛い。
そのまま。
体が浮く。
上下が、ひっくり返る。
腕が。
引き剥がされるみたいに、軋む。
「リニュアさん!!」
司祭長の声。
遠い。
壁に、押し付けられる。
息が、掠れる。
何度も。
何度も。
腕の感覚が。
消えていく。
もう一度。
今度は、床に。
叩きつけられる。
視界が、跳ねる。
目の前に、床板が迫る。
私は、声を上げていた。
魔力を、練り上げようとする。
でも。
できない。
思考が。
まとまらない。
「……なんで」
言葉が、途切れる。
そのとき。
視界の隅に。
そいつが、映る。
巨大な影。
毛に覆われた体。
石のように、硬い皮膚。
熊の魔物。
理解した。
その瞬間。
意識が、落ちた。
床の感触。
意識が、戻る。
視界が、揺れている。
手に、何かを握っていた。
小さい。
柔らかい。
バターの靴。
周囲に。
石の破片が、散らばっている。
「……っ」
司祭長が、まだ闘っている。
斧を振るう音。
重い衝突音。
そのとき。
何かが、飛んできた。
転がる。
床の上を。
石。
いや。
腕。
教主様の。
私は、それにそっと触れる。
冷たい。
重い。
「……っ」
急いで、立ち上がる。
軋む手足を、叱咤する。
止める。
今度こそ。
時間を。
止める。
世界が、停止する。
魔物の動きが、止まる。
私は、その中を抜ける。
一瞬。
それだけで、十分だった。
魔物を、切り裂く。
時間が、戻る。
倒れる。
静寂。
司祭長と目が合う。
「……今のは……」
一瞬だけ。
安堵。
……そのとき。
ベッドの下から、何かが這い出した。
低い影。
次の瞬間。
ベッドが、跳ね飛ぶ。
木片が、宙を舞う。
教主様の石像が。
投げ出される。
それを。
掴む。
アライグマの魔物。
袋を振り上げる。
中で。
石が、ぶつかる音。
「……やめろ」
間に合わない。
振り下ろされる。
音がした。
乾いた。
短い音。
粉が。
舞っている。
灰色。
静かに。
私は。
動けなかった。
我にかえった時。
少しの間。
何も、理解できなかった。
あたりは、静まり返っていた。
ただ。
闇夜の中。
私は、立ち尽くしていた。
何が起きたのか。
考えようとして。
やめる。
ふいに。
肩を、強く揺すぶられる。
司祭長。
頬には。
乾いた涙の跡。
何かを言っている。
聞こえているのに。
意味が、入ってこない。
手を引かれる。
残されたベッドへ。
そこに。
一人。
寝ている獣人。
バター。
瞳は開いている。
でも。
焦点が、あっていない。
それなのに。
ふと。
目が、合った気がした。
私は、息を止める。
視線が。
こちらを、捉えている。
はずなのに。
見えていない。
膝から下は。
もう、なかった。
バターが、手を伸ばす。
宙を探るように。
「……コミーに、会いたい」
小さな声。
「……会いたいよ……」
その手は。
何も、掴めていなかった。
宙を、撫でているだけだった。
「……コミー?」
少しだけ、笑う。
「……どこ?」
違う。
「イタズラ……しないで……」
違う。
「……助けて」
私は、一歩近づく。
その手を、取ろうとする。
触れる。
冷たい。
軽い。
「……ここにいます」
言葉が、出る。
嘘だと、わかっているのに。
バターの手が。
私の手を、掴む。
冷たくて。
でも、確かに"手"だった。
その向こう側で。
司祭長が息を呑む。
止めようとして。
でも、何も言えずにいる。
「……ほんと?」
聞こえていないはずなのに。
一瞬だけ。
力が、こもる。
でも。
次の瞬間。
その指が。
崩れた。
ぱらり、と。
音もなく。
石の粒が。
落ちる。
「……あれ?」
バターの声。
わかっていない。
まだ。
「……ねぇ」
「手が……」
言葉が。
途中で、止まる。
私は。
動けない。
【ほら】
【まただ】
【間に合わない】
違う。
違う。
「……やめて」
声が、漏れる。
誰に向けたのかも、わからない。
「……やめて」
もう。
見ていられない。
このままじゃ。
全部。
壊れる。
「……助けて」
その声が。
耳に残る。
私は。
逃げたかった。
でも。
逃げる場所が、もうなかった。
静かに。
目を閉じた。
手に冷たい装丁の感触。
「……ごめんなさい」
『根を同じくするものよ』
私は。
また一つ。
世界を、壊した。
音は、もう聞こえない。
悲鳴さえ、もうどこにも残っていなかった。