新しい朝。
私は、草原で目を覚ました。
なのに、暗い。
胸の奥が、重い。
私は、次元跳躍装置を握っている。
壊れるくらい、強く。
でも。
壊せない。
魔力を流す。
踏みつける。
何度も。
それでも、なにも起きない。
傷一つ、つかない。
……嘲笑われているみたいだった。
世界に。
私は、手を止めた。
もう、いい。
揺らぎの装置。
63%
高い。
また。
凍結の魔導書は、投げ捨てた。
どこかに転がっている。
どうでもいい。
風が吹く。
草が揺れる。
髪が、撫でられる。
気持ちいいはずだった。
今はもう。
……もう、何も感じない。
このまま、何もしないでいたい。
ただ、全部が終わるまで。
「……ねぇ」
また、呼ばれた。
聴き覚えのある声。
「ねぇってば」
なんで。
もう、いいって言ってるのに。
このまま、終わりたいだけなのに。
「リニュアってば!!」
「……え?」
……心臓が、少しだけ跳ねた。
その言葉で。
目が醒める。
知るはずのないわたしの名前を。
「聞こえてるなら、返事しなさいよ」
私は、顔を上げた。
エルフィン女王。
少しむくれた声。
でも、いつもの調子だ。
「女王様……。」
「なにその顔。地面とでも仲良くしてたの?」
女王様は、すぐそばまで来ると、手に持っていたものを軽く突き出した。
「これ。あんたの近くに落ちてたわよ」
角の金具。
かすれたような銀の紋。
見覚えがある。
ーー嫌な冷たさだけが先に来る。
喉の奥が狭くなる。
投げ捨てたはずだった。
もう見たくもないと。
「ねえ、聞いてる? これ、あんたのものでしょう」
声が近い。
軽い。
何もなかったみたいに。
…うるさいな。
そう思った。
女王様はただ拾ってくれただけなのに。
頭の芯がまだ重い。
身体もうまく起きてこない。
鉛みたいに沈んでいる。
「……それ」
やっと、それだけ言葉になる。
エルフィン様は少しだけ眉を上げた。
「なによ。自分のものでしょ?」
足元から、冷気が這い上がってくる気がする。
あの雪。
エルフィン様が、ぐい、ともう一度こちらへ差し出してくる。
「ほら。受け取りなさいよ」
その無遠慮な手。
胸の奥が少しだけざらつく。
うるさい。
急かさないでほしい。
見ればわかる。
わかっている。
わかってしまうから、触りたくない。
それでも、言えない。
私は、ゆっくり手を伸ばした。
――触れる前に、冷たさが来る。
知っている冷たさだった。
指先が、止まった。
それでも、触れる。
すぐに地面へ下ろした。
「それで…、女王様はなんの用ですか?」
思ったよりも、低い声が出た。
エルフィン様は一瞬だけ目を丸くして、
それから、わずかに眉を寄せた。
「……なんの用、って」
さっきまでの軽さが、少しだけ消える。
「ずいぶんな言い方するじゃない。教主が獣人の村に行ったって聞いたから、わざわざ来たのよ」
言ってから、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「こっちだって暇じゃないんだから。仕事、抜けてきたのに」
私は、何も言えない。
エルフィン様は、まだ少しむっとした顔のまま、草の上に置かれた魔導書をちらりと見下ろした。
「……なによ、その反応。拾ってきてあげたのに」
少しだけ、声が沈む。
怒っている、というより。
――届かなかった、みたいな。
私は唇を開きかけて、結局、違う言葉を選んだ。
「……その」
うまく続かない。
結局、私は目を伏せたまま訊いた。
「……教主様は」
エルフィン様がこちらを見る。
「村のほうよ」
まだ少しだけ、拗ねたような声だった。
「獣人の村に行ったって聞いたから、私も来たの。」
「あんたは?」
「どうせ追いかけるでしょうけど…」
――どうして、分かるの。
最後の一言だけ、少し早い。
図星だった。
私は草の上に置かれた魔導書から目を逸らして、ゆっくり立ち上がろうとする。
けれど、足にうまく力が入らない。
身体がまだ重い。
地面から、半分剥がれきっていないみたいだった。
そんな私を見て、エルフィン様が眉をひそめる。
「ちょっと。まさかそのまま一人で行くつもり?」
「……行きます」
エルフィン様が、じっとこちらを見る。
「……なによ、その顔」
「そのまま動いたら、途中で倒れるわよ」
私は答えない。
答える代わりに、足に力を入れた。
立てる。
立てる、はずだった。
けれど、膝が少し揺れる。
それを見て、エルフィン様が深くため息をついた。
「ほら見なさい」
呆れたみたいに言ってから、草の上の魔導書を拾い上げる。
指先でつまむみたいに持って、嫌そうに眉を寄せた。
「こんなものまで置いていくし」
それから、もう片方の手をこちらへ出してくる。
「立つだけ立って、倒れられても困るの。行くなら、ちゃんと歩きなさいよ」
私はその手を見る。
さっきまで、うるさいと思っていたくせに。
まだ少しだけ、胸の奥がざらついているくせに。
「……ひとりで歩けます」
「そう。じゃあ、歩けなくなったら笑うから」
すぐに返されて、言葉に詰まった。
エルフィン様は私の返事なんて待たずに、腰の小さな袋を探って、包み紙のついた何かを取り出した。
「口、開けなさい」
「……はい?」
「いいから。今のあんた、空っぽの顔してる」
差し出されたのは、小さな飴だった。
丸くて、赤い色。
――見覚えがある。
あの日。
半分にして差し出された飴。
同じ、色。
同じ、匂い。
甘い。
「仕事抜けてきたついでに持ってきたの。ひとつくらい食べなさい」
差し出された飴を、受け取る。
指先に、わずかに温度が残る。
喉の奥が、少しだけ緩む。
噛めば、戻れる気がした。
――あの時みたいに。
でも。
指が、動かない。
胸の奥で、何かが引っかかる。
戻っていいのか、分からない。
戻ったら。
――同じになる。
私は、目を伏せた。
飴を握ったまま、動けなくなる。
「……食べないの?」
エルフィン様の声が、少しだけ柔らかくなる。
「……あとで」
自分でも分かるくらい、曖昧な返事だった。
「ああ!もうっ!」
急に空に向けて、女王様が声を上げる。
もう一つ飴を取り出して、そのまま私の口の中へ押しこんできた。
強引だ。
でも、その強引さが、少しだけ現実だった。
甘い。
思っていたより、ちゃんと甘かった。
何も感じないと思っていたのに。
喉の奥で、ほんの少しだけ、ほどけるものがあった。
「……行けそう?」
さっきより、少しだけ低い声。
私は、小さく頷いた。
「……教主様は、先に?」
「ええ。村長から相談したいことがあるって、一足先に向かったわ」
エルフィン様は空を見る。
雲一つない。
空が遠い。
「私が抜け出した時には、もういなかった。だから、あんたが起きたら連れていこうと思って」
そこだけ、少し早口だった。
私は何も言わなかった。
言えなかった。
エルフィン様も、それ以上は言わない。
くるりと背を向ける。
「来るなら来なさい。ゆっくり歩くほど暇じゃないの」
そう言って歩き出す。
羽が、朝の風に小さく揺れた。
私はその背中を追った。
草原は静かだった。
風は吹いているのに、音が少ない。
草を踏む音だけが、やけに近い。
エルフィン様は、ときどき振り返る。
振り返るたびに、私がちゃんとついてきているか確かめているのがわかる。
でも、何も言わない。
その代わり、少しだけ歩幅が緩む。
気づかれないつもりなのかもしれない。
たぶん、気づいてほしくないのだ。
遠くに、木の柵が見えてきた。
その向こうに、低い屋根がいくつも並んでいる。
獣人の村だ。
木の柵は低く、門も開いたままだった。
中から、笑い声がする。
私は思わず足を止めた。
陽の光の中で、洗濯物が揺れている。
干した毛布の影が、土の道に落ちる。
幼い獣人たちの声。
駆ける足音。
高く、弾むみたいな笑い声。
「……ほら、普通でしょ?」
エルフィン様が、少しだけ顎を上げる。
どこか得意げな言い方だった。
まるで、私が構えすぎているみたいに。
私は何も返さない。
返せなかった。
村の中を、犬耳の少女が駆け抜けていく。
バターだ。
「コミー!はやくはやく!」
「そんなに慌てなくても、アニマル缶は逃げないにゃん」
その後ろを、枕も抱えたまま、のんびりと歩く白い獣人。
二人は、当たり前みたいに一緒にいた。
バターが言っていたコミーだろう。
土を蹴って、笑って、転びそうになって、また笑う。
その声が、すこしだけ遠く聞こえた。
でも。
確かに、そこにいた。
元気そうだった。
――触れれば、消えそうなくらいに。
犬耳の少女――バターがこちらに気づいて、ぴたりと足を止める。
その後ろで、白い獣人も足を止めた。
少し遅れて、こちらを見る。
バターが、小さく首をかしげる。
「コミー?だれかいるよ」
コミーは、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
一歩だけ前に出る。
「久しぶりにゃん。女王様」
軽い調子だった。
でも、距離は詰めてこない。
エルフィン様が、少しだけ顔をしかめる。
「なによ、その言い方」
「だって、前もそんな感じだったにゃん」
くすっと笑う。
どこか、慣れている笑い方だった。
バターは、二人のやり取りを見てから、もう一度こちらを見る。
「……その人は?」
まっすぐな目だった。
何も知らない目。
私は、答えなかった。
エルフィン様が、少しだけ顎を上げる。
「気にしなくていいわ。ただの付き添い」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
でも、何も言わない。
「ふーん」
バターは、それ以上追及しなかった。
すぐに、さっきまでの調子に戻る。
「コミー、はやく!アニマル缶!」
「分かってるから、逃げないって言ってるにゃん」
二人は、また駆けていく。
笑い声が、少し遠ざかる。
その様子を見て、エルフィン様が呆れたように肩をすくめた。
「私も、おなかが空いてきたわ…」
ぼそりとこぼしたその言葉に、私は返事をしなかった。
返事をしたら、壊れてしまいそうだったから。
それでも私は、エルフィン様と笑いながら先を行くふたりの背中を追って、獣人の村の中へ足を進めた。
それから、しばらく歩いて。
エルフィン様が足を止めた。
「……村長の家、どっちだったかしら」
少しだけ、視線が揺れる。
私は、前を見る。
あの時をなぞるように。
「……こっちです」
自然に、足が動いた。
言ってから、少しだけ遅れて気づく。
――覚えている。
エルフィン様が、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「へえ。頼れるじゃない」
軽く言いながら、そのまま後ろについてくる。
その声が、少しだけ柔らかかった。
木の扉が見えてくる。
その前に――
背の高い影。
教主様。
立っている。
動いている。
――石じゃない。
私は、ほんの少しだけ息を吐いた。
隣には、鹿の角を生やした獣人。
ディアナ村長。
二人が、同時にこちらを見る。
後ろをついてきていたエルフィン様が、一歩前に出た。
その顔は、明るい。
私は――視線を落とした。
まともに、教主様の顔を見ることができない。
あれほど、待ち望んでいたのに。
足が、わずかに止まる。
「きょうしゅ~!」
足早に駆けていくエルフィン様。
教主様が、ふっと息をついた。
「……また城を抜け出してきたのか、エルフィン」
少しだけ呆れた声。
エルフィン様が、すぐに眉を吊り上げる。
「なによ?そっちこそ、仕事放り出してるじゃない」
「私は仕事の一環だよ」
「嘘。どうせサボりでしょ」
くすっと笑う。
教主様も、小さく肩をすくめた。
「……否定はしないよ」
そのやり取りが、あまりにもいつも通りで。
胸の奥が、すこしだけ緩む。
その時。
教主様の視線が、こちらを向いた。
「ところで、後ろの子は?」
「ああ、この子?ちょっと拾ったのよ」
一歩、近づいてくる。
逃げ場が無くなる。
「顔色が悪いね」
優しい声だった。
「少し休んだらどうかな?」
目が合った。
すぐに、視線を落とす。
「いえ…私は大丈夫ですので」
「…そうか」
「無理しなくていい。何かあれば言ってくれていいからね」
隣の村長もこちらに気づく。
「おんやぁ……」
ディアナ村長が、こちらを覗き込む。
「ほんと心配ですねぇ」
「無理すると、あとで響きますからねぇ」
私は、ほんの少しだけ頭を下げた。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、顔は上げない。
「でも、こうしているだけで大丈夫ですから」
言葉を選ぶみたいに、間が空く。
教主様の声が近くにある。
それだけで、胸の奥が落ち着かない。
すると、エルフィン様が半歩前に出る。
「で?仕事って言ってたけど、何してたのよ」
教主様は、苦笑交じりに応える。
「ティグのことで相談されていてね」
女王様は、納得した顔。
「あー、あの子ね……」
ディアナ村長も少し息を吐く。
「元気なのはいいことなんですけどねぇ、昨日も妖精王国のパン屋をひとつ...」
少しだけ、言葉を濁す。
「壊してしまったみたいでねぇ」
ディアナ村長が困ったように笑った。
「はぁぁぁ!!?あああああ!」
エルフィン様が、突然頭を抱えてうなった。
「だから今朝、あそこのパン屋が休業してたってこと!?」
一歩、踏み出す。
「おかげで、パンが五十個くらいしか食べられなかったじゃないの!?」
教主様が呆れたようにつぶやく。
「...それでも、だいぶ食べてると思うけどな」
エルフィンはディアナ村長に詰め寄る。
「私の体が骨になってしまったら、どうしてくれるのよ!!」
ディアナ村長は、目を瞬かせる。
「すみませんねぇ……うちの子供たちが」
「お詫びに、はちみつ茶でもいかがですか?長旅でお疲れでしょう?」
エルフィン様も切り返す。
「氷もちゃんと入れなさいよ!」
ディアナ村長が、にこりと笑う。
「もちろんですよぉ」
それから、ふとこちらを見る。
「あなたも、どうです?」
「温かいもの、少し飲むだけでも楽になりますよぉ」
私は、わずかに首を振った。
「……いえ」
「大丈夫です」
教主様が、少しだけ首を傾げる。
「……そうか」
一拍、置く。
「でも」
視線が、静かにこちらへ戻る。
「何か、私に用があって来たようにも見えるけれど」
言い方は穏やかだった。
問い詰める気配はない。
それでも――逃げ場がなくなる。
教主様が自然とエルフィン様に向かう。
少し間。
エルフィン様が、肩をすくめる。
「ああ、この子?あんたに会いに来たんだってさ」
「理由は知らないけど」
私は、口を開きかけて――
何も言えなかった。
少しだけ間が空く。
「……お茶、いただきます」
それだけ言った。
エルフィン様が、ふっと息を吐く。
ディアナ村長が、嬉しそうに笑った。
「はいはい、どうぞどうぞぉ」
三人に続いて、家の中に入る。
木の匂いのする、暖かい空気。
背中の後ろで、扉が静かに閉まった。
その音が、やけに遠くまで響いた気がした。
私は、何も言わない。
ただ、そこに立っていた。