木の匂いのする、温かい空気。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼっている。
何か話している。
声は聞こえる。
でも、言葉が入ってこない。
私の聞こえない場所で、水みたいに揺れている。
「――それでねぇ……」
「……ああ、それは」
「……困ったものだね」
誰かが笑った。
その音だけが、少しだけ近い。
私は、手元を見る。
差し出された木のコップ。
中身は、薄い琥珀色。
はちみつの甘い匂い。
指先に、熱が伝わる。
少しだけ、口をつける。
甘い。
でも。
どこか、違う。
――レモンティーの方が、好きだった。
白衣のあの人を思い出すから。
あの味。
思い出しかけて。
やめた。
喉の奥で、何かが止まる。
「……大丈夫?」
声が近くなる。
顔を上げる。
教主様。
心配そうな瞳。
「......はい」
それだけ答える。
エルフィン様が、じっとこちらを見ている。
「ねえ」
軽い声。
「この子、あんたの知り合い?」
教主様が、少しだけ首を傾げる。
「いや、初めて会うね」
エルフィン様は、ふうん、と小さく息を吐いた。
「名前は知ってるのよ。リニュアっていうの」
一瞬、間が空く。
「でも……」
少しだけ、眉を寄せる。
「どんな子だったか、覚えてないのよね」
湯気が、ゆらりと揺れた。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
静かだった。
湯の音だけが、小さく鳴っている。
教主様が、こちらを見る。
「君は」
穏やかな声。
「どうしたい?」
言葉が、緩やかに落ちる。
私は、すこしだけ視線を落とした。
何を。
どうしたいのか。
わからない。
でも。
「……しばらく」
声が、かすれる。
「近くに、いさせてください」
それだけ言った。
教主様は、目を細める。
「それは……」
一拍。
「教団に入る、ということかな?」
私は、迷った。
違う。
でも。
ここにいる理由が、それしかない。
「……はい」
小さく、頷いた。
エルフィン様が、ふっと息を吐いた。
「……ふーん」
興味なさそうに、背もたれに体を預ける。
「まあ、いいんじゃない?」
少しだけ、沈黙が落ちる。
その空気を切るように、エルフィン様がぽつりとつぶやいた。
「……おなか、すいた」
顔を上げる。
「オッホン!」
急に姿勢を正して、
「獣人族の村長よ!」
声が変わる。
「わらわに菓子を持って参れ!」
ディアナ村長が、目をぱちぱちと瞬かせた。
「すみませんねぇ……ここには、そういうものは置いてなくて」
教主様が、少しだけ苦笑する。
「さっき、この辺りの子たちにアニマル缶を配ったところでね」
エルフィン様が、立ち上がる。
「こうしちゃいられないわ!」
テーブルを軽く叩く。
「今すぐ甘いものを食べないと、頭がおかしくなりそうよ!」
エルフィン様が、勢いよく扉を開ける。
「エシュールのベーカリーに早く行くわよ!」
昼の光が、一気に流れ込んできた。
その声に、ディアナ村長が困ったように笑う。
「ほどほどにしてくださいねぇ」
教主様が、苦笑しながら立ち上がる。
「まったく……少しは落ち着いてほしいものだね」
ディアナ村長が、ゆるく笑った。
「元気なのは、いいことですよぉ」
エルフィン様は、もう外へ出ている。
教主様は、振り返って軽く頭を下げた。
「はちみつ茶、ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ。またいつでも来てくださいねぇ」
やわらかい声。
変わらない調子。
教主様の後ろで、エルフィン様が顔だけ覗かせる。
「次はちゃんと甘いもの用意しときなさいよ!」
「善処しますねぇ」
ディアナ村長は、困ったように笑った。
私は――
何も言えなかった。
言葉が、うまく出てこない。
ただ、ほんの少しだけ頭を下げる。
それだけで、精一杯だった。
外に出る。
さっきと同じはずの光。
でも、どこか遠い。
少し遅れて、二人の後を追う。
笑い声が、背中の方で遠ざかっていく。
やがて、景色が変わる。
石畳。
緑の屋根。
高く伸びる塔。
そして、世界樹。
妖精王国。
見慣れたはずの景色。
それでも、少しだけ現実感が薄い。
エルフィン様が、迷いなく歩いていく。
「こっちよ」
振り返りもせずに言う。
教主様が、私の隣を歩く。
何か話している。
でも、やっぱり、よく聞こえない。
しばらく歩いて。
通りの先に、見えてくる。
木の看板。
焼きたての匂い。
「この匂いは……」
エルフィン様が、すこしだけ満足そうに笑う。
エシュールのベーカリー。
ちゃんと、そこにあった。
エルフィン様が、迷いなくドアを引く。
からん、と軽い音。
そのまま中へ入っていく。
私は、その後を追った。
少し遅れて、教主様が扉を押さえる。
「ほら……」
静かな声。
店の中は、もう騒がしかった。
「ちょっと!それ、まだ会計してないでしょうが!」
甲高い声。
カウンターの奥で、腕を組んでいる妖精。
エシュールさん。
その目の前で。
「んー、おいしい」
パンを頬張りながら、まったく悪びれない声。
エルフィン様だった。
「聞いてますか!?話!」
「聞いてる聞いてる。だからほら、あとでちゃんと払うって言ってるでしょ」
もう一つ、手に取る。
「それもですよ!!」
エシュールさんが、腕を振って抗議する。
「なんで増えてるんですか!?」
教主様が、小さく息をついた。
「……相変わらずだね」
私は、少し離れたところで立ち止まる。
焼きたての匂い。
人の声。
全部、ちゃんとある。
「ちょうどいいところに来たわね!」
エルフィン様が、こちらを振り返る。
口元には、まだパンくず。
「ほら、あんたも食べなさいよ。ここのはおいしいわよ」
無遠慮に差し出される。
私は、それを見た。
少しだけ、手を伸ばす。
温かい。
指先に、やわらかさが伝わる。
「……いただきます」
小さく言って、口に運ぶ。
甘い。
ちゃんと、甘い。
でも。
どこか、遠い。
エシュールさんが、こちらに気づいた。
「ああ、いらっしゃい。……って、また増えてるじゃない」
じろり、とエルフィン様を見る。
「いいから会計を先に済ませてくださいよ!」
「あとでって言ってるでしょー!」
そのやり取りが、店の中に広がる。
笑い声。
文句。
香ばしい匂い。
全部が混ざっている。
私は、ただ。
その中に立っていた。
それから――
どんなふうに過ごしたのか、よく思い出せない。
会話は続いていたはずなのに、その先をうまく思い出せない。
気が付くと、王宮にいた。
あてがわれた室内。
柔らかい寝台。
身体を横にする。
……そういえば。
凍結の魔導書。
女王様に、返してもらっていない。
そんなことを、ぼんやり考える。
……どうでもいい。
そのまま。
意識が落ちていった。
――
風が、頬を撫でる。
草の匂い。
やわらかい地面の感触。
目を開ける。
新しい朝。
……おかしい。
ゆっくりと、身体を起こす。
手のひらに、草の感触。
視界いっぱいに広がる、緑。
空は、よく晴れている。
風が吹く。
草が揺れる。
違う。
昨日。
私は、王宮にいたはずだ。
部屋。
寝台。
扉。
そこで、眠った。
――なのに。
……違う。
視線を落とす。
揺らぎの装置。
63%
同じだ。
夢の中と。
昨日と、何も変わっていない。
――いや。
変わっている。
記憶だけ。
私は、しばらくそのまま座り込んでいた。
考える。
私は――
おかしくなってしまったのか。
それとも。
でも。
うまく、まとまらない。
風が吹く。
髪が、揺れる。
気持ちいいはずだった。
……何も、感じない。
「……ねぇ」
声がした。
どこかで。
「ねぇってば」
同じ夢の中。
聞こえている。
でも。
返事をする気になれない。
どうでもいい。
このまま。
何もしないでいたい。
「聞こえてる?」
少しだけ、近くなる。
……うるさい。
もう、いい。
終わるなら、それでいい。
「リニュアってば!!」
「……え?」
心臓が、すこしだけ跳ねた。
同じ言葉。
同じ声。
同じ、朝。
それでも。
私は、また顔を上げた。
「ねえ、聞こえてるなら返事しなさいよ」
エルフィン女王。
昨日と同じ。
少しむくれた声。
「……えっと」
「なにその顔。地面とでも仲良くしてたの?」
女王様は、昨日と同じように凍結の魔導書を差し出す。
「これ。あんたの近くに落ちてたわよ」
なにが起こっているの。
考えが、渋滞する。
「ねえ、聞いてる? これ、あんたのものでしょう」
まとまらないまま。
「……はい」
それだけ。
今度は。
素直に受け取る。
「それで……教主様は?」
エルフィン様は目を瞬かせる。
ほんの一拍。
「なんで、そこで教主が出てくるわけ?」
私は、息を整える。
考えは、まだうまくまとまっていない。
それでも。
「……教主様は、獣人の村にいます」
ゆっくりと言う。
「違いますか?」
エルフィン様の眉が、わずかに寄る。
「……知ってるなら、なんで聞くわけ?」
少しだけ、とげのある声。
「私はいま着いたところなのよ。むしろ、こっちが聞きたいんだけど」
――違う。
昨日は。
貴方が、教えてくれた。
言葉が、喉まで出かかる。
でも。
出さない。
「……わかりました」
小さく息を吐く。
「案内します」
エルフィン様が、少しだけ目を細めた。
「へえ」
そのまま、軽く肩をすくめる。
「頼れるじゃない」
一歩、踏み出す。
私は、その前に立つ。
足は、自然に動いた。
――覚えている。
道を。
景色を。
昨日の、全部を。
エルフィン様が、後ろからついてくる。
数歩。
歩いたところで。
ふと、声が落ちてきた。
「あれ」
軽い声。
「そういえば」
少しだけ、間。
「あんたって、どこで知り合ったっけ?」
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
草が揺れる。
私は、そのまま歩き出す。
エルフィン様が、後ろからついてくる。
「ほんとに分かってるんでしょうね?」
軽い声。
「迷ったら置いてくわよ」
「……大丈夫です」
短く答える。
足は迷わない。
やがて、木の柵が見えてきた。
低い門。
開いたまま。
中から、声がする。
笑い声。
私は、足を止めた。
――同じだ。
昨日と。
何もかも。
胸の奥が、わずかに強く脈打つ。
予想通りなら。
次に。
ここを通るはず。
少しして。
――来た。
村の中を、犬耳の少女が駆け抜けていく。
バター。
「――あれ?」
バターが、こちらを見た。
ぱっと、顔が明るくなる。
「ねえ!」
駆け寄ってくる。
土を蹴る音。
軽い足取り。
「お客さんですか?」
――違う。
足が、止まる。
私はバターの後ろを見る。
道の先。
家の影。
柵の向こう。
――どこにも、白い姿はない。
「……どうかしました?」
不思議そうに、バターが首をかしげる。
私は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……よく一緒に遊んでる、白い獣人の子は?」
バターが、きょとんとする。
「白い獣人?」
その顔に、ひっかかりはない。
本当に――
何を言われたのか、わかっていない顔だった。
「それって、誰のことですか?」
喉の奥が、すこしだけ冷える。
私は、できるだけ何でもないふうを装って言った。
「たしか、名前はコミーですよ」
バターは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「コミー?」
それから、小さく首を傾げた。
「聞いたことないです」
風が吹く。
草が揺れる。
村のどこかで、誰かが笑う。
その全部が、昨日と同じようにそこにあるのに。
その名前だけが、最初からなかったみたいに消えていた。
私は、何も言えなかった。
バターはまだ不思議そうにしている。
「村の子ですか? 私、たいていみんな知ってると思うんですけど……」
その言葉のほうが――
怖かった。
「なに、知り合い?」
エルフィン様の声が、後ろからする。
軽い調子。
私は、答えない。
答えられない。
視線の先。
バターが、首をかしげている。
何も知らない顔で。
「……そう」
やっと、それだけ返した。
自分の声が、少し遠く聞こえた。
まるで、
ここにいないみたいに。