終わりなき帰還   作:赤銀

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温めていた話なのでどうか最後までお付き合いください。


ただ静かに続いていく世界

 

エルフィン様の声が、背後で遠ざかる。

 

「ちょっと、どこへ行くのよ!」

 

引き留める声。

 

けれど、私は振り返らなかった。

 

胸の奥に、冷たい不安が広がる。

 

足が、自然と速くなる。

 

大丈夫。

 

あれは、ただの夢だ。

 

もともと、いない友達の名前を口にしただけ。

 

私の勘違い。

 

そうに違いない。

 

風が吹く。

 

草が揺れる。

 

村のざわめきが、少しずつ近づいてくる。

 

深く息を吸う。

 

落ち着け。

 

まだ、確かめていないだけだ。

 

視線の先に、見慣れた木の家が現れる。

 

鹿の角を模した飾り。

 

軒先に吊るされた乾燥薬草。

 

ディアナ村長の家。

 

私は、足を止めた。

 

鼓動が、早い。

 

扉の向こうに、確かめたい答えがある。

 

ゆっくりと、息を整える。

 

そして――

 

一歩、前に進んだ。

 

温かい空気が、そっと吹き抜ける。

 

扉の向こうから流れてくる、木と蜂蜜の匂い。

 

胸の奥に張りつめていたものが、わずかに緩む。

 

ああ。

 

ちゃんといる。

 

教主様。

 

安堵が、静かに広がった。

 

部屋の中央。

 

木の卓を挟んで向かい合う二人。

 

背の高い教主様と、鹿の角を生やした獣人――ディアナ村長。

 

二人は、驚いたようにこちらを見ていた。

 

「おやまぁ、なにか御用ですかねぇ?」

 

ディアナ村長が、目を細めて微笑む。

 

穏やかな声だった。

 

その隣で、教主様が静かに瞬きをする。

 

「えっと……、君は?」

 

「どうしたの?」

 

柔らかな問いかけ。

 

その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。

 

ここにいる。

 

確かに存在している。

 

消えていない。

 

それだけで、息ができる気がした。

 

私は息を整え、言葉を絞り出す。

 

「あ、あの……!私はリニュアといいます!」

 

喉が乾く。

 

それでも、確かめなければならない。

 

「コミーという若い獣人を知りませんか? 白くて、猫の獣人なんです」

 

一瞬の沈黙。

 

教主様とディアナ村長が顔を見合わせる。

 

やがて、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……いや、聞いたことはないね」

 

教主様が静かに答える。

 

ディアナ村長も困ったように眉を下げた。

 

「白い猫の獣人ですかぁ。少なくとも、この村にはおりませんねぇ」

 

胸の奥が、すっと冷えた。

 

やはり――。

 

「その子が、どうしたんだい?」

 

ディアナ村長が優しく問いかける。

 

私は一瞬言葉に詰まり、それから小さく首を振った。

 

「いえ……なんでもありません」

 

それ以上は、言えなかった。

 

教主様が静かに立ち上がる。

 

椅子を引く音が、やけに柔らかく響いた。

 

「とりあえず、座って」

 

穏やかな声。

 

逃げ場を与えないほど優しくて、拒めない響きだった。

 

私は、ほんの一瞬ためらい――

 

そっと、その椅子に腰を下ろした。

 

温かな空気が、静かに流れていた。

 

まるで、何事も起きていないかのように。

 

その時だった。

 

家の外から、声が響いた。

 

「リニュアーー!」

 

女王様の叫び声。

 

はっとする。

 

胸が跳ね上がる。

 

次の瞬間――

 

地面が、わずかに揺れた。

 

「……!」

 

私は椅子から立ち上がる。

 

教主様とディアナ村長が、驚いたようにこちらを見た。

 

「申し訳ありません」

 

小さく頭を下げる。

 

「少し、外へ出てもよろしいでしょうか」

 

教主様は静かに頷いた。

 

「ああ、構わないよ」

 

ディアナ村長も穏やかに微笑む。

 

「どうぞどうぞぉ」

 

私はもう一度礼をして、扉へ向かった。

 

外に出ると、陽の光が目に飛び込んでくる。

 

村の広場で、エルフィン様が辺りを見回していた。

 

翼を小刻みに揺らしながら、苛立ったように呟いている。

 

「あいつ、どこに行ったのかしら」

 

私は慌てて駆け寄った。

 

「すみません。女王様、こちらですよ」

 

その声に、エルフィン様が振り向く。

 

「あんた!案内するって言っておいてよくも置き去りにしたわね!?」

 

安堵と苛立ちが入り混じった表情だった。

 

私は息を整えながら、静かに頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

エルフィン様は鼻を鳴らし、腕を組む。

 

「まったく……先導するなら、ちゃんと最後まで責任を持ちなさいよ」

 

そう言いながらも、どこか安心したように肩の力を抜いた。

 

「ほら、案内しなさい」

 

私は小さく頷き、エルフィン様とともに再び家の中へ入った。

 

温かな空気が迎える。

 

木と蜂蜜の匂い。

 

そこには――変わらず、二人の姿があった。

 

「……また城を抜け出してきたのか、エルフィン」

 

少しだけ呆れた声。

 

教主様が静かにこちらを見る。

 

エルフィン様は、すぐに眉を吊り上げた。

 

「なによ? そっちこそ、仕事を放り出してるじゃない」

 

教主様は肩をすくめる。

 

「私は仕事の一環だよ」

 

「嘘。どうせサボりでしょ」

 

くすっと笑うエルフィン様。

 

教主様も、小さく息をついた。

 

「……否定はしない」

 

ディアナ村長が、困ったように微笑む。

 

「仲がよろしいことですねぇ」

 

教主様は穏やかに微笑んだ。

 

「それで、リニュア。君はどうしたい?」

 

私は一瞬ためらい、視線を落とす。

 

胸の奥に残る不安を押し殺し、静かに口を開いた。

 

「……教団に入りたいと思っています」

 

部屋の空気が、わずかに静まる。

 

教主様は驚いた様子もなく、ゆっくりと頷いた。

 

「うん。」

 

「わかったよ。歓迎しよう」

 

柔らかな声だった。

 

「世界樹教団は、志ある者を拒まない。君さえ望むなら、ここは君の居場所になる」

 

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 

「……ありがとうございます」

 

私は静かに頭を下げた。

 

その時だった。

 

「そうだ、教主」

 

エルフィン様が、ふと思い出したように口を開く。

 

「これ、あんた宛ての手紙が届いてたわよ」

 

差し出された封筒を、教主様が受け取る。

 

封を切り、中の紙に目を通す。

 

次の瞬間、眉がぴくりと動いた。

 

「……なんだ、この額は?」

 

手紙を持つ手がわずかに震える。

 

そこにはこう書かれていた。

 

『この度はモナティアム保険にご加入いただきありがとうございます。

会員入会料として以下の金額を請求いたします。

また、退会の手続きを行う場合には別途費用が発生します。』

 

教主様の顔色が変わった。

 

「なんだこれは!? こんなものに加入した覚えはないぞ!」

 

エルフィン様が、楽しそうに口元を押さえる。

 

「フヒヒ……その手紙を読んで、ネルがかんかんだったわよ」

 

教主様は額に手を当て、深いため息をついた。

 

「まったく……どこで手続きされたのやら」

 

エルフィン様が肩をすくめる。

 

「教主もミスすることがあるのね」

 

「私は何もしていないぞ」

 

即座に否定する教主様に、ディアナ村長がくすりと笑った。

 

「大変ですねぇ」

 

穏やかな笑い声が、部屋に広がる。

 

しばらく談笑が続いたあと、ディアナ村長が思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、ティグの件ですがねぇ」

 

教主様が頷く。

 

「ああ、その相談でここへ来ていたんだ」

 

ディアナ村長は困ったように眉を下げた。

 

「元気なのはよろしいのですが……昨日も妖精王国のパン屋をひとつ壊してしまいましてねぇ」

 

「またか」

 

教主様が苦笑する。

 

その瞬間――

 

「ああああああっ!!」

 

エルフィン様が叫んだ。

 

「だから今朝、あそこのパン屋が休業してたのね!?」

 

一歩踏み出し、頭を抱える。

 

「おかげでパンが五十個くらいしか食べられなかったじゃないの!」

 

教主様が呆れたように呟く。

 

「……それでも、だいぶ食べていると思うけどな」

 

エルフィン様は気にも留めない。

 

やがて、お腹を押さえて小さくつぶやいた。

 

「……おなかすいてきた」

 

そして、ぱっと顔を上げる。

 

「妖精王国に戻るわよ!」

 

翼を揺らしながら、きっぱりと言い放つ。

 

部屋の中に、軽やかな空気が流れた。

 

まるで、この世界が何事もなく続いていくかのように。

 

 

 

――帰り道、風はやわらかかった。

 

二人の背を追いながら、私はぼんやりと前だけを見ていた。

 

草は揺れていた。

空は高く、光は薄くやさしい。

何もかもが、昨日と同じ顔をしている。

 

けれど、通りに入ってしばらくしたところで、私はふと足をゆるめた。

 

もうすぐだ、と思った。

 

あの角を曲がれば、甘い匂いがするはずだった。

焼きたての熱が、風に混じって届くはずだった。

エルフィン様も、きっとそこで一度は足を止める。

匂いに釣られるみたいに顔を上げて、なによ、みたいに言う。

そんな、どうでもいいくらい当たり前の流れが来るものだと、なぜか思っていた。

 

でも、エルフィン様は止まらなかった。

 

歩幅も変えない。

振り返りもしない。

まるで、そこに立ち止まる理由なんて最初から存在しないみたいに、そのまま先へ行ってしまう。

 

その背中を見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

 

私はそこで足を止めた。

 

そこにあるはずのものが、なかった。

 

エシュールのベーカリーがあった場所。

 

あの角を曲がるたび、先に匂いが届いてきた。

まだ姿が見えないうちから、甘い香りと、焼きたてのざわめきみたいな気配が、そこに店があると教えてくれたはずの場所。

 

けれど今は、ただ空き地が広がっているだけだった。

 

崩れた跡じゃない。

焼けた跡でもない。

何かが失われた場所というより――

最初から、何ひとつ建っていなかったみたいに。

 

妙にひらいた空間だけが、町並みの途中に口を開けている。

 

その区画だけ、世界が描き忘れたみたいだった。

 

私はしばらく、その場から動けなかった。

 

看板もない。

窓もない。

扉もない。

紙袋を提げた人影も、焼き色の匂いも、何もない。

 

そこにあったはずの時間ごと、きれいに抜き取られている。

 

風が通り過ぎる。

 

それでも、何も匂わない。

残り香さえ、残っていなかった。

 

「……どうしたのよ」

 

少し先で、エルフィン様がようやく振り返った。

 

その声が、思っていたより遠い。

 

「あ、の……ここ」

 

喉が乾く。

うまく息が入らない。

 

「ここに、ベーカリーが……エシュールのベーカリーが、ありませんでしたか」

 

エルフィン様は怪訝そうに眉をひそめ、その空き地を一瞥した。

 

「ベーカリー?」

 

首をかしげる。

 

「こんなところに? 見覚えないけど」

 

あまりにも軽い声だった。

 

そのひと言で、あの場所にあったもの全部が、私の中だけに閉じ込められてしまった気がした。

 

エルフィン様は軽く肩をすくめ、呆れたように息をつく。

 

「そんなところ突っ立ってないで、早く行くわよ」

 

翼を揺らしながら、くるりと背を向ける。

 

「パンが待ちきれないわ……!」

 

その声は、いつもと変わらない。

無邪気で、当然みたいに明るい。

 

けれど――

 

その“当然”の中には、私の知っている世界が、もう入っていなかった。

 

私はもう一度、空き地を見つめた。

 

何もない。

 

壊れた跡もない。

失った跡もない。

悲しむための痕跡すら、どこにも残っていない。

 

ただ、ここにあったはずのものだけが、私の中にひっかかったまま消えない。

 

それでも。

 

「……はい」

 

小さく答え、私は歩き出した。

 

エルフィン様の後を追って。

 

――失われた場所を背に。

 

通りの先には、別のベーカリーがあった。

 

焼きたての匂い。

甘い香り。

誰かの笑い声。

穏やかな空気。

 

ちゃんと似ている。

ちゃんと満ちている。

 

だから余計に、違うと分かる。

 

欠けたのは、店ひとつじゃない。

あの場所にだけ結びついていた時間。

足を止める理由。

何でもない会話。

そこにあるのが当たり前だった感覚。

 

代わりはある。

似た匂いもある。

だからこそ、あの場所だけが戻らないのだとわかった。

 

 

 

 

――そして、また一日が過ぎた。

 

3日目の朝。

 

また、草原で目を覚ます。

 

風が、頬を撫でていく。

 

草が揺れる。

 

空は高く、雲は薄く流れていた。

 

昨日と、同じ朝のはずだった。

 

けれど。

 

今度は、誰も私を呼ばなかった。

 

「リニュア」

 

あの少し甲高い声も。

「ねえってば」と苛立ったように急かす声もない。

草の擦れる音だけが、やけに広く響いている。

 

私はしばらく、その場に座ったまま動けなかった。

 

静かすぎる、と思った。

 

そして、そう思ってしまった時点で、もう分かっていた。

 

揺らぎの装置を確かめる。

 

指先は冷えているのに、表示だけは妙に落ち着いていた。

 

――63%。

 

やはり、変わらない。

 

装置は、何も教えてくれないまま、ただそこにある。

私だけが、そこから意味を拾おうとしている。

 

小さく息を吐いて、立ち上がった。

 

まずは妖精王国へ向かう。

確かめなければならなかった。

昨日まで、そこにあったはずのものを。

 

草原の上を歩く。

 

本来なら、もう少し進めば石畳が見えてくる。

 

白い塔の先端が、木立の向こうからのぞく。

 

風に乗って、焼き菓子みたいな甘い匂いが届く。

 

――はずだった。

 

私は足を止めた。

 

何もなかった。

 

道がない。

 

石畳もない。

 

城壁も、塔も、門もない。

 

あれほど確かにあった王国の輪郭が、どこにも見当たらない。

 

ただ、草原が広がっている。

 

最初からそうであったみたいに、なだらかに。

途切れ目もなく。

不自然なくらい自然に。

 

その中央に、ぽつんと世界樹だけが立っていた。

 

巨大な幹。

 

広がる枝。

 

それだけだった。

 

王国はない。

その事実を見た瞬間、胸の奥が冷えるより先に、足が動かなくなった。

世界樹だけが、平然とそこにある。

守るべき妖精たちの気配も失ったまま、ただ一本だけ、平然と立っている。

 

私は目を逸らせなかった。

 

昨日まで、たしかにここにあった。

白い壁が、尖塔が、窓の明かりが、通りを行く妖精たちの声が。

エルフィン様がいて、怒って、笑って、勝手に先を歩いていた。

 

なのに今は、何もない。

 

喉の奥が、ゆっくり狭くなっていく。

 

――やはり、そうか。

 

思ってしまう。

認めたくなかっただけで、もうどこかで分かっていた。

 

消えている。

 

ひとつずつ。

名前から。

場所から。

そして、世界そのものから。

 

私は視線を落とした。

ここにいても、確かめられることはもうない。

 

踵を返し、獣人の村へ向かう。

 

せめて、教主様に話そうと思った。

この違和感を。

私の見ているものが勘違いではないのだと、誰かに言葉にしたかった。

 

村に着くころには、陽は少し高くなっていた。

獣人たちの暮らす家々は、変わらずそこにある。

 

低い柵。

 

干された布。

 

軒先の影。

 

生活の気配が、昨日と同じように息をしていた。

 

その中に、教主様の姿を見つけたとき、胸の奥が少しだけほどけた。

 

ディアナ村長と並んで立ち、何か話している。

背の高い、見慣れた姿。

 

穏やかな横顔。

 

その背が見えるだけで、さっきまでの空白が、ほんの少しだけ遠のく気がした。

 

まだ、間に合う。

 

私は二人のほうへ歩み寄る。

 

「……教主様」

 

声が思ったより小さくなって、自分で驚いた。

それでも二人は気づいて、こちらを向いた。

 

「おやまぁ」

 

ディアナ村長が目を細める。

 

「どうされましたぁ?」

 

教主様も、静かに視線を合わせてくる。

 

「何かあったの?」

 

その言い方がいつも通りで、胸の奥が痛くなった。

 

ここにいる。

今は、まだ。

 

私は指先を握りしめる。

 

「あの……少し、中で話をさせてもらってもいいですか」

 

ほんの一瞬、二人が顔を見合わせた。

 

それから教主様が、やわらかくうなずく。

 

「もちろん」

 

ディアナ村長も、穏やかに戸を開いた。

 

「どうぞどうぞ。落ち着いて話しましょうねぇ」

 

家の中は、木の匂いがした。

乾いた薬草の青い香りと、湯気に溶けた蜂蜜の匂いが混じっている。

外の風とは違う、やさしい温度だった。

 

丸い木のテーブルを囲んで、私たちは腰を下ろした。

 

三人、等間隔に。

 

私は入口に近い席。

 

斜め向かいに教主様。

 

その隣にディアナ村長。

 

互いの顔が、少し見上げる角度で視界に入る。

 

ちゃんと、三人いた。

 

そのことを、私は心の中で確かめるみたいに数えた。

 

ディアナ村長が、はちみつ茶を置いてくれる。

薄い金色の液面が、光を受けて静かに揺れていた。

 

「それで」

 

教主様が、いつもの穏やかな声で言う。

 

「話したいことって?」

 

私はすぐには言えなかった。

喉がひどく乾いているのに、はちみつ茶に手を伸ばす気にはなれない。

 

けれど、ここまで来て黙るわけにもいかなかった。

 

「……消えていくんです」

 

自分の声が、少し遠い。

 

「いたはずの人や、あったはずのものが」

 

教主様は何も挟まず、ただ聞いていた。

ディアナ村長も、うながすように小さくうなずく。

 

私は続ける。

 

「白い獣人の子がいました。バターのそばに、よくいた子です。名前はコミーって……たしかに聞いたはずなのに、誰も知りませんでした」

 

ディアナ村長が、困ったように眉を寄せる。

 

「コミー、ですかぁ……」

 

「それだけじゃありません。妖精王国に、エシュールのベーカリーがあったんです。甘い匂いがして、いつも人がいて……でも昨日、そこにあったのは空き地だけでした。崩れた跡でもなくて、最初から何もなかったみたいに」

 

言葉にするたび、現実味がなくなっていく。

それでも、口を止めたら本当に全部が消えてしまいそうで、私は必死に繋いだ。

 

「そして、今日は……妖精王国そのものが、ありませんでした」

 

そこで、部屋の空気が少しだけ止まった気がした。

 

教主様が目を伏せる。

否定も、同情もせずに、ただ考えるように。

 

「それは――」

 

その先を、私は待った。

 

けれど、同時に、はちみつ茶の匂いが急に強くなった気がした。

木の卓の上で、金色の水面がわずかに揺れる。

それが、ひどく現実的で、ひどく場違いだった。

 

私はほんの一瞬だけ、視線を落とした。

 

湯気が立っている。

表面に光が映っている。

その揺れを見ていたのは、本当に一瞬だった。

 

「……教主様?」

 

続きが来ない。

 

私は顔を上げた。

 

――ディアナ村長が。

 

――向かいにいた。

 

それだけだった。

 

息が止まる。

 

目の前の丸テーブルには、はちみつ茶が二つしかない。

ひとつは私の前。

もうひとつは、ディアナ村長の前。

 

教主様のカップがない。

 

視線が、反射みたいに横へ走る。

さっきまで斜め向かいにあったはずの席を探す。

けれど、そこには椅子すらなかった。

 

違う。

 

あったはずだ。

確かに、三人で座っていた。

丸い卓を百二十度ずつ囲むみたいに。

教主様はそこにいて、私の話を聞いていた。

「それは――」と、たしかに言いかけた。

 

なのに今は、私はディアナ村長と向かい合って座っていた。

 

最初から二人のためだけに整えられたみたいに、卓も椅子も距離も、きれいに収まっている。

 

喉がうまく動かない。

 

「……いま」

 

声が擦れる。

 

「教主様が、ここに」

 

ディアナ村長はきょとんとした。

それから、少しだけ考え込むように首をかしげる。

 

「教主様……?」

 

その呼び名を、知らない言葉みたいに繰り返す。

 

私は身を乗り出しかけて、止まった。

何を指させばいいのか、分からなかった。

椅子はない。

カップもない。

痕跡が、ひとつも残っていない。

 

私の中にしか、さっきまでの三人の配置がない。

 

ディアナ村長はしばらく黙っていた。

本当に思い出そうとしているみたいに、視線をさまよわせる。

 

けれど、その迷いも長くは続かなかった。

 

「……なんの話でしたっけねぇ」

 

やわらかな声だった。

 

責めるでも、疑うでもない。

ただ、会話の糸が切れたことさえ気に留めないような、穏やかな声。

 

私は答えられなかった。

もう、何を話していたのかさえ、私の側にしか残っていなかった。

 

はちみつ茶の湯気だけが、静かに揺れている。

木の匂いも、蜂蜜の匂いも、そのままだった。

世界のほうは、何も壊れていない顔をしている。

 

壊れているのは、私の見ているほうなのかもしれないと、一瞬だけ思った。

 

でも、違う。

 

私は聞いた。

あの声の続きを。

 

「それは――」

 

そこまで確かに、ここにいた。

 

でも、その確かさを受け取ってくれる相手は、もうどこにもいなかった。

 

しばらく、動けなかった。

 

ディアナ村長は不思議そうにこちらを見ている。

湯気の向こうで、その表情さえ少し曖昧に見えた。

 

このまま座っていたら、次は何が消えるのだろう。

 

そう考えてしまった瞬間、指先が冷えた。

 

私はゆっくり立ち上がる。

 

椅子が、かすかに床を擦った。

その小さな音だけが、妙に現実的だった。

 

「……すみません」

 

自分の声が、自分のものではないみたいに遠い。

 

「少し、外の空気を吸ってきます」

 

ディアナ村長は、やはり穏やかにうなずいた。

 

「どうぞぉ。お大事にしてくださいねぇ」

 

その言葉に、悪意はまるでなかった。

だからこそ、胸の奥が冷えていく。

 

私は扉を開ける。

 

外の光が差し込む。

風が、頬に触れる。

村の声がする。

空は高い。

 

全部、ちゃんとある。

 

――私の知らない形で、世界は続いている。

 

草が揺れる。

村の煙突からは、白い煙がまっすぐ空へ昇っている。

子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえてきた。

 

何も変わらない。

何ひとつ、壊れていない。

穏やかな世界だった。

 

私は家の前に立ち、ゆっくりと息を吐いた。

 

――ここまでは、まだ残っている。

 

空を見上げる。

淡く、澄んだ青。

昨日と同じ色。

 

けれど、その静けさが、かえって恐ろしかった。

 

【近づくな】

 

私は足を止める。

 

【お前が存在するだけで、歪みは生まれる】

 

胸の奥が、かすかに軋んだ。

 

私は動かない。

誰にも声をかけない。

何も伝えない。

 

ただ、見ている。

 

やがて、村の音がひとつ消えた。

 

笑い声が途切れる。

 

次に、風に混じっていた鍛冶の音が消えた。

 

振り返っても、何も起こっていない。

 

煙突の煙はまだ昇っている。

布は風に揺れている。

 

なのに、そこにあったはずの気配だけが、静かに抜け落ちていく。

 

【見届けろ。まだ、触れるな】

 

【それが唯一、歪みを広げない方法だ】

 

私は目を閉じない。

逃げない。

確かめるために、ここにいる。

 

やがて――

 

遠くの家が、ひとつ消えた。

 

崩れたわけでも、壊れたわけでもない。

ただ、最初から存在しなかったかのように。

 

音もなく、跡もなく。

 

空白だけが残る。

 

胸の奥が、静かに冷えていく。

 

それでも、私は立ち尽くした。

 

やがて、柵が消えた。

井戸が消えた。

通りが消えた。

 

村は、音もなく薄れていく。

 

それは破壊ではなかった。

忘却だった。

 

世界そのものが、自らの存在を手放していくように。

 

【理解したか】

 

【お前がいるだけで、世界は歪む】

 

私は、答えない。

 

【そして】

 

【大きく干渉する者が現れれば、崩壊は加速する】

 

脳裏に、あの穏やかな微笑が浮かぶ。

 

教主様。

 

胸が締めつけられる。

 

【だから】

 

【近づくな】

 

【語るな】

 

【干渉するな】

 

最後に残ったのは、風と草の匂いだけだった。

 

私は草原の中央に立っていた。

 

振り返る。

 

そこにあったはずの獣人の村は、もうない。

 

ただ地平線が続いているだけだった。

 

私はゆっくりと、揺らぎの装置に目を落とす。

 

表示は変わらない。

 

――63%。

 

小さく息を吐く。

 

もう、疑いはなかった。

 

何もしなくても、世界は壊れる。

そして――

 

私が存在するだけで、その終わりは近づく。

 

空を見上げる。

 

雲が、静かに流れていく。

 

世界は、ただ静かに終わっていく。

 

「……そう」

 

声に出しても、誰も答えない。

 

それでも、私は呟いた。

 

「壊れるのね。私がいるだけで」

 

風が頬を撫でる。

その冷たさだけが、確かだった。

 

私は目を閉じる。

 

そして、静かに理解する。

 

次の世界では――

私は、観測者であり続けることはできない。

 

凍結の魔導書に、そっと手を触れた。

 

その装丁をゆっくりと撫でる。

 

まだ開かない。

まだ使わない。

 

けれど、その重みだけは確かに感じていた。

 

【歪みを止める方法は、ただひとつ】

 

――私の中で、その声と同じ言葉が重なった。

 

――終わりを止めるために。

 

その時が来るまで。

 

私は、静かに立っていた。

 

風の中で。

 

ただひとり。

 

世界が消えゆくのを、最後まで見届けながら。

 

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