終わりなき帰還   作:赤銀

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流れた世界

 

冷たい土の上で、目が覚めた。

 

背中に伝わる湿り気。

 

指先に触れる濡れた砂。

 

重たい空気が肺に入り込み、胸の奥を静かに冷やした。

 

ゆっくりと瞼を開く。

 

そこに広がっていたのはーー空ではなかった。

 

暗い天井。

 

遥か頭上に広がる岩盤には、無数の亀裂が走っている。

 

その隙間から滴る水が、闇の中で絶え間なく落ちていた。

 

ぽつり。

 

ぽつり。

 

雨ではない。

 

地下水だ。

 

冷たいしずくが頬に落ちる。

 

私は静かに身を起こした。

 

足元には黒く濁った水が溜まり、靴の先を静かに浸している。

湿った空気には、苔と土の匂いが混じっていた。

 

遠くで、低く鈍い轟音が響く。

 

水が流れ込んでいる音だった。

 

視線を上げる。

 

巨大な空洞の中央に、地下の王国が広がっていた。

 

石造りの塔。

 

弧を描く橋。

 

夜光虫の灯りに照らされた街路。

 

そのすべてが、黒い水の中に飲まれつつある。

 

石壁には淡く輝く魔法陣が刻まれ、水位の上昇を食い止めようとしていた。

 

しかし、その光は弱く、ところどころで消えかけている。

 

黒衣をまとった魔女たちが、必死に呪文を繋いでいた。

 

「……魔女王国」

 

かすかな声が、静寂に溶けた。

 

私は立ち上がる。

 

手のひらには、揺らぎの装置。

 

表示を確認する。

 

ーー70%。

 

小さく息を吐く。

 

【またたどり着いたな】

 

胸の奥で、あの声が響く。

 

【崩壊する世界へ】

 

私は答えない。

 

ただ、沈みゆく街を見つめる。

 

滴る水はやがて細い流れとなり、石畳を侵していく。

 

じきに此処も危ない。

 

街路の端から、水がゆっくりと押し寄せていた。

 

叫び声が遠くから響く。

 

祈る声。

 

助けを求める声。

 

それでも呪文を唱え続ける、静かな決意の声。

 

私は目を閉じる。

 

前の世界では、観測するだけでいい。

 

そう決めたはずだった。

 

けれどーー。

 

胸の奥が、わずかに軋む。

 

私は再び目を開いた。

 

沈みゆく街々を見つめながら、静かにつぶやく。

 

「……ここは、もう間に合わないの?」

 

答えはない。

 

ただ、水音だけが響いている。

 

天井から滴る雫が、水面に波紋を広げた。

 

世界はもう、静かに沈み始めていた。

 

私は足を速め、魔女王国の中心部へ向かう。

 

幸い、王宮は比較的高い場所に建てられていた。

 

黒い水は石段の下まで迫っているものの、城壁はまだ湿っていない。

 

私は塗れた石の階段を上り王宮を見上げた。

 

茨を模した装飾が絡み合う尖塔。

 

暗紫色の石壁。

 

魔女の国にふさわしい、静謐で気高い佇まいだった。

 

ーーまだ、残っている。

 

その時だった。

 

「……ちょっと!そこに立ち止まっている、そこの人!」

 

澄んだ声が響く。

 

振り向くと、王宮の入り口に一人の少女が立っていた。

 

淡い光に照らされた白い肌。

 

パステルカラーを基調とした衣装。

 

額には白とピンクの小さな角が覗いている。

 

可憐でありながら、どこか魔女らしい気配をまとっていた。

 

彼女は張り詰めた声で叫んだ。

 

「あなたよ!あなた!この状況が見てわからないの!?」

 

彼女は自身のポーチが足場の水で汚れるのも厭わず、足を鳴らした。

 

「ぼさっと突っ立ってないで、早く避難してください!ここも、もう安全じゃないんですから!」

 

水音が一層大きく響く。

 

遠くで医師が崩れる鈍い音がした。

 

視界の端で家屋が傾く。

 

私は静かに問いかけた。

 

「……この王国は、沈むのですか?」

 

少女は一瞬あきれたように息を呑み、それからさらに声を張った。

 

「それをいまどうにかしようと考えているところなんです!」

 

「元師匠様や師匠様が対処しているので、今のうちに早く!」

 

焦りの混じった声色。

 

私は、一歩彼女に近づく。

 

「私なら、手伝えることがあると思いますよ」

 

少女は一瞬、言葉を失う。

 

黒い水の石段をたたく音だけが、沈黙を埋めた。

 

信じられない、と言いたげな顔だった。

 

彼女は私を頭の先から足元までじろりと見つめて、眉を吊り上げた。

 

「どうやって、魔力のないエルフが私たちに協力するというのですか!」

 

その声ですぐにわかった。

 

この世界のエルフの印象も。

 

「魔力なら……」

 

私は右手に魔力を込めた。

 

「問題ありません」

 

封印していた力を解放させる。

 

時間を――止める。

 

ただし、彼女を除いて。

 

次の瞬間。

 

水の流れが止まった。

 

石段を打っていた黒い波は空中に張り付き、滴っていた雫は硝子の粒のように静止する。

 

崩れかけていた建物は、傾いたまま動かない。

 

響いていた轟音も、悲鳴も、すべてが消えた。

 

灰色の静寂が世界を覆う。

 

だが――

 

その少女だけが動いていた。

 

「……え?」

 

彼女は瞬きをする。

 

揺れていた水面が凍りついたように止まっているのを見て、息を呑んだ。

 

「な、なにこれ……?」

 

私は静かに歩み寄る。

 

停止した波の間をすり抜け、彼女の真横へと立つ。

 

音はない。

 

風もない。

 

時だけが奪われた世界だった。

 

そして――

 

時間を戻す。

 

轟音が一気に押し寄せ、水が石段を打つ。

 

止まっていた雫が落ち、世界が再び動き出した。

 

私は静かに告げた。

 

「これで、問題ありませんか?」

 

少女は跳ねるように後ずさった。

 

「い、今……止まって……?」

 

彼女は周囲を見回し、やがて私を見上げる。

 

その瞳には疑念だけでなく、驚愕と、そしてわずかな期待が宿っていた。

 

「これは……師匠様に確認を取るべきことかも……」

 

「少し、ここで待っていてください。すぐに連れてきます!」

 

少女はそう言い残すと、踵を返した。

 

あわただしいのにまっすぐで、王宮の奥に消えていった。

 

その背は小柄ながらも、使命に駆られた強い意志に満ちていた。

 

私はその場に立ち尽くし、沈みゆく王国を見下ろした。

 

水は確実に迫っている。

 

ここが飲まれるまで、あとどのくらい時間が残っているのか。

 

揺らぎの装置に視線を落とす。

 

ーー70%。

 

誰かが叫んでいても。

 

どこかが崩れていても。

 

この世界だけが傾いていても。

 

数字だけは、別の時間に取り残されたみたいに静かだった。

 

【ここはもうダメだ】

 

頭の奥で、考えが浮かぶ。

 

【早く使え】

 

【手遅れになるぞ】

 

私は、装置を握りしめた。

 

「……まだ、壊れると決まったわけじゃない」

 

それが願望だと、自分でもわかっていた。

 

やがて、王宮の奥から足音が戻ってきた。

 

しかし、足音は一つではなかった。

 

「おい!おまえが魔法を使う外来種か?」

 

茨の魔女フリックル。

 

「待ってフリックル。先に彼女が来た理由を聞いてみたいんだ」

 

もう一人は教主様。

 

「師匠様、あの人は不思議な術を使うんです!」

 

少女は興奮した様子で二人の前に駆け寄った。

 

「あたし、この人が時間を止めるのを見たんです! 本当に、一瞬で!」

 

その瞳には、さっきまでの警戒よりも強い光が宿っていた。

 

フリックルは腕を組み、じろりと私を見据えた。

 

茨を思わせる鋭い気配をまとった魔女だった。

 

「は?……時間を止めるだと?」

 

フリックルは腕を組んだまま、鋭く目を細めた。

 

「王国の危機に瀕している中で、状況を覆すような力を持ったエルフだと? 出来すぎてる……」

 

「疑うのは後でもいい」

 

教主様が一歩前に出る。

水音の中でも、その声だけは不思議なくらい穏やかだった。

 

「もし彼女の力が本物なら、今は使える手をひとつでも増やすべきだ」

 

フリックルは舌打ちしそうな顔で、こちらを睨んだ。

 

「……なら見せろ。今、この場で」

 

その瞬間。

 

王宮の下方から、鋭い悲鳴が響いた。

 

続けて、石壁のどこかが砕ける低い音。

 

黒い水が、さっきよりも明らかに早く石段を叩き始める。

 

少女が息を呑んだ。

 

「……結界が、一枚抜かれました…!」

 

フリックルの顔色が変わる。

 

「くそっ、下層が先に保たなくなったか」

 

教主様はすぐに踵を返した。

 

「行きましょう」

 

誰より先に、そう言ったのは私だった。

 

自分でも驚くくらい、声は静かだった。

 

フリックルがこちらを見る。

疑いは消えていない。

それでも、今は止めなかった。

 

私たちは石階段を駆け下りた。

 

湿った空気が肌にまとわりつく。

 

壁に刻まれた魔法陣の光は弱く、ところどころで明滅していた。

 

足元では、黒い水が石畳の目地をなめるように流れている。

 

下層へ近づくほど、悲鳴と詠唱が混じり合っていた。

 

広い広間に出た瞬間、少女が小さく叫ぶ。

 

「師匠様……!」

 

そこには、崩れかけた結界の前で膝をつく魔女たちがいた。

 

黒衣の袖は濡れ、顔色は悪い。

 

それでも誰ひとり手を止めず、震える声で呪文を繋いでいる。

 

広間の奥。

 

巨大な岩盤の裂け目。

 

その向こうから、滝のように流れ込む黒い水。

 

土によって変色した色。

 

闇そのもののような液体。

 

光を呑む水。

 

落ちてくるたびに、周囲の魔法陣の光がじわじわと鈍っていく。

 

フリックルが歯を食いしばる。

 

「くっ…、このままではベリータ様のいる王宮まで…」

 

教主様は広間を見渡した。

 

「逃げ遅れている人は?」

 

「中層にまだ何人か連絡がつかないです。下の居住区にも、結界班が残っています」

 

少女の返事は早かった。

 

けれど、その声の端が震えていた。

 

私は、裂け目を見つめた。

 

水は止まらない。

魔女たちの呪文は追いつかない。

時間を止めたところで、一時しのぎにしかならない。

 

【早く使え】

 

胸の奥で、あの声が響く。

 

【手遅れになるぞ】

 

違う。

 

私は唇を閉じる。

 

まだ、その結論を声に預けたくなかった。

 

そのときだった。

 

結界の一枚が、音もなく砕けた。

 

黒い水が一気にせり上がる。

 

少女が足を取られて倒れた。

 

「危ない!」

 

教主様が駆け出しにかかる。

 

フリックルが詠唱に入る。

 

私は右手で制止する。

 

「大丈夫です」

 

力を使う――。

 

時間を――止める。

 

轟音が消える。

 

跳ね上がった黒い水は空中で固まる。

 

崩れかけた石片は落ちる直前で止まる。

 

濁流にのまれかけた少女も、

手を伸ばしかけた教主も、

詠唱しているフリックルも、

その姿勢のまま灰色の静寂に閉じ込められた。

 

私は動く。

 

止まった世界の中を進み、倒れた彼女の身体を抱き起こす。

教主様の腕をつかみ、安全な位置まで下がらせる。

 

冷たい。

静かすぎる。

それでも、助けられる。

 

ほんの少しだけ。

 

私は息を整え、指先から力を抜いた。

 

時間が戻る。

 

轟音が広間を満たした。

水が石を叩き、魔女たちの息遣いが一斉に流れ込んでくる。

 

少女が目を見開く。

 

「い、今……!」

 

フリックルも言葉を失っていた。

 

彼女の視線は、救おうとした自分の元弟子と、私の間を行き来する。

 

教主様だけが、静かにこちらを見ていた。

 

その眼差しの落ち着きが、ひどく痛かった。

 

「……たしかに本物みたいだね」

 

やわらかな声。

けれど、その直後に教主様は裂け目のほうへ目を向ける。

 

「でも、これだけでは止まらない」

 

私は答えられなかった。

 

分かっていたからだ。

 

止められるのは、一瞬だけ。

遅らせることはできる。

けれど、魔女王国そのものが沈もうとしているなら、時間停止は先送りでしかない。

 

フリックルが低く言う。

 

「この問題は、魔女王国にとどまらない」

 

「このまま侵食が進めば、いずれ世界樹の根を腐らせる。そうなれば、王国だけじゃ済まない」

 

彼女は悔しそうに奥歯を噛んだ。

 

「魔力を流し続けても、食われるだけだ……」

 

少女が唇を震わせる。

 

「じゃあ……王国は」

 

「まだ諦めるな」

 

フリックルが鋭く言い切る。

 

あきらめる。

 

その言葉が、鈍く私の中に沈んだ。

 

揺らぎの装置を見る。

 

――70%。

 

変化しない。

 

何をしても、装置だけは落ち着いて見える。

 

教主様が私のそばに立った。

 

「君の力で避難の時間は稼げる。手伝ってくれるかい」

 

その言い方は、いつも通り穏やかだった。

命令ではなく、頼むでもなく、ただ確かめるみたいに。

 

その声を聞いた瞬間、胸の奥に別の光景がよぎる。

 

あのテーブル。

はちみつ茶の湯気。

“それは――”と途切れた声。

 

喉が、きしむ。

 

この人がまた近づけば。

また大きく干渉すれば。

この世界も、同じように抜け落ちるのではないか。

 

【近づくな】

 

違う。

 

私は目を伏せる。

 

でも、違わない。

 

このまま見ていても、王国は沈む。

 

時間を止め続けても、裂け目は消えない。

 

教主様が関われば、たぶん、もっと早く壊れる。

 

私の指先が、静かに魔導書へと伸びる。

 

まだ、早い。

 

まだ、これを開く理由にはならない。

 

凍らせるのは、止めることではなく、終わらせることに近い。

 

そんなことを、私が決めていいはずがなかった。

 

これを開けば、水は止まるのかもしれない。

 

でも、それは救うことではない。

 

この世界を、これ以上壊れない形に閉じるだけ。

 

終わらせるのと、何が違う。

 

喉の奥が痛む。

 

教主様がいる。

 

魔女たちがいる。

 

まだ声がある。

 

まだ熱がある。

 

それなのに、私の手で下していいはずがなかった。

 

――それでも。 結界の光が、ひとつ、音もなく抜けた。

 

まただ、と思った。

 

私は目を閉じる。

 

助ける、なんて言えなかった。

 

ただ、これ以上失わせたくないと思った。

 

誰かが消えて。

 

そのことを覚えているのが、私だけになるのは、もう嫌だった。

 

だから、ではない。

 

それでも。

 

それでも、私が決めるしかなかった。

 

けれど、決めきれない。

 

時間だけが遠ざかる。

 

水は勢いを増していく。

 

黒い濁流が石段を打ち、結界の光を侵していく。

 

そんななか――

 

視界の端に、取り残された魔女の姿が映った。

 

崩れかけた足場の上で、必死に詠唱を続けている。

 

逃げることもできず、水に囲まれていた。

 

水色の髪の少女が、鋭く息を呑む。

 

「あっ……! あそこに、まだ!」

 

私は振り向いた。

 

次の瞬間だった。

 

悩む私を置き去りにして、一つの影が駆け出す。

 

大きな背。

 

迷いのない足取り。

 

黒い水さえ見えていないみたいだった。

 

――教主様。

 

胸の奥が、強く縮む。

 

「待って……」

 

かすれた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

黒い水を恐れることなく、一直線に魔女のもとへ向かっていく。

 

いつもは一歩引いた感じでいるくせに。

 

こういうときだけ、ためらうことを知らない。

 

その背中は、あまりにも自然だった。

 

救うことを疑わない者の姿だった。

 

胸の奥が、強く締めつけられる。

 

私は、魔導書を握りしめたまま立ち尽くす。

 

もし彼が手を差し伸べれば――

 

この世界は、まだ壊れてしまうかもしれない。

 

それでも。

 

彼は、走ることをやめない。

 

「……どうして」

 

唇から、かすれた声がこぼれた。

 

問いかけに、答えはない。

 

ただ、その背中だけが語っていた。

 

時間を止めれば、間に合うかもしれない。

 

でも、それで救えるのは一瞬だけだ。

 

また同じ場所に戻る。

 

また水は流れ込む。

 

また誰かが取り残される。

 

私はこの水のように深い渦の中だった。

 

教主様はもう、足場の端まで辿り着いていた。

 

取り残された魔女が、震える手を伸ばす。

 

教主様も、その手を掴もうとする。

 

届く。

 

たしかに、そう見えた。

 

指先が触れる。

 

魔女の手が、教主様の手を掴む。

 

あと一歩。

 

あとほんのわずかで引き上げられる距離だった。

 

そのとき。

 

再び、轟音とともに、濁流がうねりを上げた。

 

黒い水が壁を砕き、牙を剥く獣のように襲いかかる。

 

「教主様――!」

 

どこか、声が遠い。

 

私は駆け出しかける。

 

右手に力を込める。

 

時間を止めれば、まだ――

 

でも、その一瞬、指先が魔導書の冷たさに触れた。

 

止めるだけでいいのか。

 

また先送りにするだけじゃないのか。

 

この人を引き上げても、この世界がそのまま崩れるなら、次は本当に間に合わない。

 

迷いが、足を止めた。

 

ほんの一拍。

 

その間に教主様の足が、黒い水に取られる。

 

一瞬、体勢が崩れる。

 

それでも――踏みとどまる。

 

掴んだ手を離さないまま、低く言う。

 

「大丈夫だ、離すな」

 

声はまだ届いた。

 

だからこそ、間に合う気がした。

 

次の瞬間。

 

水が、もう一段うねりを上げた。

 

低く、重く、逃げ場を塞ぐように。

 

私は、動けなかった。

 

止めるか。

 

凍らせるか。

 

どちらを選ぶか、決めきれない。

 

――まだ、間に合う。

 

そう思った。

 

教主様の輪郭が、揺れる。

 

掴んだ手が、わずかに滑る。

 

あと一歩。

 

あと、ほんの少し。

 

私は――

 

選べなかった。

 

その一拍のあいだに。

 

黒い水が、すべてを呑み込んだ。

 

私は手を伸ばす。

 

見えている。

 

まだ見えている。

 

黒い水の中で、伸ばされた手が。

 

けれど、次の波が視界を塞ぐ。

 

さっきまでそこにいたはずの白が、濁りの奥に沈んでいく。

 

「……え?」

 

足が動かない。

 

呼吸の仕方がわからない。

 

どこに。

 

どこへ。

 

目を凝らす。

 

まだ見える気がした。

 

次の波の向こうに、まだ手がある気がした。

 

でも、それは一瞬だった。

 

濁流の奥。

 

かすかに白い切れ端が翻る。

 

教主様の服の裾だった。

 

それだけだった。

 

声がない。

 

姿がない。

 

気配もない。

 

間に合ったはずだった。

 

胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。

 

私は理解した。

 

誰も決めてはくれない。

 

――だから、遅れた。

 

ここで選ばなければ、すべてが消える。

 

指先が震える。

 

凍結の魔導書に触れる。

 

「……ごめんなさい」

 

かすれた声が、唇からこぼれた。

 

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

「私は――」

 

深く息を吸う。

 

「使います」

 

それが、救いなのか。

 

それとも、終わりなのか――。

 

それでも。

 

今、失うことだけは、選べなかった。

 

私は魔導書を開いた。

 

後ろの二人が息をのむのがわかる。

 

何かを叫んでいる。

 

けれど、もう振り返らなかった。

 

もう。

 

わかっている。

 

私の見てきたもの。

 

失ったもの。

 

揺らぎの装置。

 

終わることが確定した世界。

 

胸の奥で、声が響く。

 

【歪みを止める方法は、ただひとつ】

 

私の中で、その言葉が重なった。

 

もう、命令には聞こえなかった。

 

結論だった。

 

だから。

 

「今この枝に、終わらぬ冬を与えん――」

 

地下であるはずなのに、白が、降りる。

 

水が、止まる。

 

波紋が、途中で凍りつく。

 

崩れかけた石も、傾いたまま止まる。

 

叫び声が、途切れる。

 

祈りも。

 

苦鳴も。

 

そのすべてが、途中の形で閉じ込められる。

 

――音が、消えた。

 

私は、ひとりだけ動いていた。

 

白の中で。

 

呼吸だけが、続いている。

 

視線を落とす。

 

黒い水は、もう流れていない。

 

ただ、形を保ったまま、そこにある。

 

教主様の姿は――

 

見えない。

 

ただ、あの場所だけが、

 

わずかに歪んで、凍りついていた。

 

私は、ただ。

 

その光景を見ていた。

 

動かない世界を。

 

失われなくなった世界を。

 

救ったのだと思い込むことにしたその世界を。

 

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