苦しくてつらい描写パートは終わりです。
ここ以上に苦しい世界はもう出しません。
マンネリ化した話はここで終わりです。
新しい世界。
気がつくと、足に硬い土の感触。
湿った空気。
低い天井。
閉じた匂い。
――教団の地下施設。
「……何をしているのですか?」
鋭い声。
振り向くと、ネル司祭長が立っていた。
「ここは許可された者以外――」
言葉は続いている。
怒っているのだろう。
でも。
少しだけ、遅れて聞こえる。
私は、その顔を見ていた。
……知っている。
いや。
違う。
“知っているはずの何か”が、胸の奥に引っかかっている。
小さな棘みたいに、抜けないまま。
「聞いていますか?」
司祭長の声が、少し強くなる。
私は答えなかった。
視線だけが、どこか遠くへ落ちていく。
――エレナ様。
名前が、浮かぶ。
どうして。
どうして今、それが出てくるのか分からない。
私は――
「……何のために」
気づかないうちに、声がこぼれていた。
喉が乾いている。
言葉だけが、先に落ちていく。
「……何のために、私は」
誰に向けたものでもない。
答えを求めてもいない。
ただ、こぼれた。
エデンに着いたとき。
あそこが終わりだと思った。
もう進まなくていい場所。
もう選ばなくていい場所。
それなのに。
私は選べなかった。
エルフィン様の世界を。
そして――
「……終わらせることを」
自分の声が、遠い。
傷つかないために。
失わないために。
そのために、私は。
そこまで考えて、
――何かが、抜け落ちた。
「…………」
静かだった。
さっきまであったはずの声が、ない。
私は、ゆっくり顔を上げる。
ネル司祭長が、こちらを見ていた。
でも、その表情は、さっきと少し違っていた。
怒りではない。
戸惑いでもない。
何かを見極めようとする目。
「……今、なんと言いましたか?」
私は答えなかった。
答えられなかった。
自分でも、よく分からなかったから。
ただ、胸の奥に残っている。
“選んだ”という感触だけが。
消えない。
司祭長は、すぐには何も言わなかった。
地下施設の石壁に灯された魔導灯が、かすかに揺れている。
青白い光が、その横顔の輪郭だけを薄く照らしていた。
「……あなたは、ひどい顔をしています」
ぽつりと落とされた声は、叱責ではなかった。
けれど、労わりでもない。
ただ事実を確認するような、乾いた響きだった。
私は少しだけ瞬きをした。
ひどい顔。
そうかもしれないと思った。
冷たいものに長く触れすぎた指先みたいに、もう自分の感覚が鈍っている。
「ここへ、何をしに来たのですか」
ネル司祭長が、もう一度問う。
私は答えを探した。
けれど、探そうとした先から、言葉は砂みたいに崩れていく。
何をしに来たのか。
教主様に会うためか。
確かめるためか。
それとも――
喉の奥がきしんだ。
「……前にも、来たことがあるんです」
沈黙が落ちた。
ネル司祭長の眉が、わずかに寄る。
否定も肯定もせず、その言葉の形だけを見定めるような目だった。
「ここにですか」
「はい」
「いつの話です」
私は首を振った。
「いつ、とは……うまく言えません。前、としか。
でも、確かに一度だけじゃない。何度も、です」
そこでようやく、ネル司祭長の視線が少しだけ鋭くなる。
侵入者を見る目ではない。
嘘を見抜こうとする目でもない。
壊れかけたものの継ぎ目を見極めようとする目だった。
「……何を言っているのか、自分で分かっていますか」
「分かりません」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「分からないことのほうが、もう多いです。
でも、見てきたんです。
同じような朝を。
同じような人を。
同じように、壊れていく世界を」
言いながら、胸の奥がゆっくり冷えていくのが分かった。
私は手のひらを握る。
爪が食い込んでも、痛みは遠かった。
「私は、ずっと教主様を探していました」
ネル司祭長の目が、ほんのわずかに揺れる。
「守りたかったんです。
何度やり直しても、どの世界でも、最後には間に合わなかったから。
今度こそはって、思っていました。
次なら。次の世界なら。
そうやって、何度も」
そこまで言って、言葉が途切れる。
黒い水の音が、まだ耳の奥に残っていた。
私は息を吸った。
冷たい空気が肺の中で薄く痛んだ。
「……でも、もう分からなくなってしまったんです」
ネル司祭長は黙っていた。
急かさない。
慰めない。
ただ、次の言葉が落ちてくるのを待っている。
それが、少しだけ苦しかった。
「……選べなかった」
喉が詰まる。
「地下の王国がありました」
自分の声が、他人のものみたいに遠い。
「黒い水が流れ込んで、
魔女たちが、必死に支えていて……
でも、もう間に合わなかった。
教主様が、目の前で水に飲まれて……
私は、止めることも、助けることも、選べなかった」
司祭長の指先が、衣の上でわずかに強張るのが見えた。
けれど、口は挟まない。
「だから、凍らせました」
その一言だけが、やけに静かにはっきり落ちた。
魔導灯の火が、かすかに揺れる。
「世界ごと」
私は目を伏せた。
「水も。
祈りも。
叫び声も。
崩れかけたものも、全部。
これ以上失われないように、閉じたんです」
そこまで言ってから、ようやく言葉が止まる。
閉じた。
止めた。
守った。
どの言葉も少しずつ違う。
そして、どれも本当ではない気がした。
「……分かりません」
少しだけ、間が空いた。
「……そう思わないと」
それ以上、言えなかった。
長い沈黙が落ちた。
どこかで水滴がひとつ、石を打つ。
司祭長は、しばらく何も言わなかった。
青白い光の中で、ただ私を見ている。
その視線は厳しかった。
けれど、冷たく突き放すものではなかった。
「……つまりあなたは」
やがて、司祭長が静かに口を開いた。
「幾度も同じような世界を巡り、教主様を探し続け、
挙げ句の果てに、ひとつの世界を自分の手で凍結したと。
そう言いたいのですね」
私はうなずかなかった。
首を振りもしなかった。
その代わり、唇をゆっくり開いた。
「言いたいんじゃありません」
声が少しかすれる。
「……そうしてきたんです」
ようやく、司祭長の表情が変わった。
驚愕ではなかった。
怒りでもない。
もっと深い場所で、理解を拒みきれないものに触れた顔だった。
私はその目を見ることができず、視線を落とす。
「信じてもらえなくても構いません。
気が触れたと思われてもいい。
でも、私の中には残っているんですよ。
終わらせた感触だけが。
選んでしまった重さだけが」
胸の奥に、冷たい冬がまだ残っている。
あの世界はもう流れない。
もう失われない。
けれど、戻りもしない。
「……司祭長様」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「もし、この世界でも同じことが起きるなら。
もし、私が来たことで前よりひどく壊れるなら――」
そこで、言葉が止まる。
地下の冷えた空気の中で、ネル司祭長はまっすぐにこちらを見ていた。
その沈黙は、拒絶よりも重かった。
私は目を伏せる。
「……もう」
そこで、言葉が途切れる。
「……分からないんです」
司祭長は、そこで長いため息を吐いた。
長く。
静かに。
吐ききったあとも、しばらく何も言わなかった。
魔導灯の火が、細く揺れる。
青白い光が、石壁の継ぎ目をなぞっていた。
「……ひとつだけ、聞きます」
ようやく落ちてきた声は、さっきまでより低かった。
私は顔を上げる。
司祭長は、こちらをまっすぐ見ていた。
責めるでもなく、信じるでもなく。
ただ、言葉の奥に何があるのかを確かめようとする目だった。
「あなたは今、何を怯えているのですか」
喉が、かすかに詰まる。
何を。
そう問われても、うまく名前をつけられなかった。
この地下の湿った匂いか。
石の冷たさか。
それとも、自分の中にだけ残っている、あの雪の感触か。
「……分かりません」
私は小さく言った。
「でも、ここに立っていると、似ている気がするんです」
司祭長の眉が、わずかに動く。
「何にです」
問い返されて、私は少し黙った。
はっきり言えば、嘘になる気がした。
何も言わなければ、それも違う気がした。
「……終わり方に、似てる」
自分の声が、静かに落ちる。
「まだ何も起きていないのに。
もう、遅れているような気がするんです」
言った瞬間、胸の奥がひやりとした。
言葉にしたことで、輪郭が少しだけ濃くなってしまった気がした。
司祭長は黙っている。
その沈黙に急かされるみたいに、私は続けた。
「たぶん、勘違いです。
ただ、知っているはずのないものを、知っている気がしてしまうだけで……」
そこまで言って、目を伏せる。
「……でも、地下の王国も、そうでした」
その一言で、空気が少しだけ変わった気がした。
私は土の床を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「最初は、よく分からなかったんです。
ただ、嫌な感じがして。
まだ間に合うのか、もう遅いのか、それも分からないまま、そこにいて……」
黒い水の音が、耳の奥でかすかに蘇る。
「気づいたときには、選ばなきゃいけなかった」
それ以上は、しばらく言えなかった。
司祭長の視線だけがある。
逃げられないほど静かで、でも押しつけがましくない。
「……私は、いくつも世界を凍らせました」
その言葉は、もう少し大きな音を立てて落ちるかと思っていた。
でも実際には、驚くほど静かだった。
「本当に、それしかなかったのかは、今でも分かりません。
ただ、あのときは……そうしないと、何も残らない気がしたんです」
魔導灯が揺れる。
青白い光が、司祭長の頬に淡く触れて、すぐに離れた。
「あなたは」
司祭長が、ゆっくり口を開く。
「それを、今も繰り返すかもしれないと?」
私は答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
そうではないと言い切るには、指先にまだ冬が残っていた。
そうだと言うには、まだここが本当に同じ終わりへ向かっているのか、分からなかった。
「……分からないんです」
ようやく、それだけを言う。
「でも、もし」
そこから先が続かない。
もし、という言葉のあとには、いつも何かが失われる気がした。
私は唇を閉じる。
そのときだった。
通路の奥から、慌ただしい足音が響いた。
地下の床を打つ、乾いた音。
ネル司祭長が振り向く。
私も遅れて、そちらを見る。
ひとりの妖精が、息を切らして駆け込んできた。
顔が青ざめている。
呼吸が浅い。
「司祭長様!」
声が、少し裏返っていた。
「上で……火が」
その一言で、胸の奥が小さく軋んだ。
けれど私は、動けなかった。
当たった、とは思わなかった。
思いたくなかった。
ただ、その響きが、どこか知っている形をしていた。
「どこです」
司祭長の声は短かった。
「街の方です。まだ大きくは……いえ、広がり方がおかしいんです。
火の手が、飛んで……」
そこまで聞いて、私は目を伏せた。
焦げた匂いは、まだここまで届いていない。
それなのに、喉の奥だけが先に熱を思い出していた。
司祭長が、ゆっくりこちらを見る。
その目はさっきまでと同じではなかった。
信じたわけではない。
けれど、切り捨てるには遅すぎるものを前にした目だった。
「……あなたは、何か知っているのですか」
問いは静かだった。
私はすぐには答えなかった。
知っている。
そう言ってしまえば楽だったかもしれない。
でも、それは違う気がした。
「知っている、というほどでは」
声がかすれる。
「でも……嫌な感じがします」
司祭長は何も言わない。
私は、続けるしかなかった。
「……止まらないと思います」
少しだけ、間。
「見ているうちに、手がつけられなくなる」
言い終わったあと、自分の言葉がひどく曖昧だと思った。
予言でもない。
断言でもない。
ただ、胸の奥に引っかかっている棘の形を、そのまま声にしただけだった。
それでも、地下の空気は少しだけ重くなった。
妖精が不安そうに、ネル司祭長と私を見比べている。
やがて司祭長は、短く息を吐いた。
「上へ行きます」
それは判断だった。
信じたからではない。
確かめに行くための声だった。
「あなたも来なさい」
私は頷けなかった。
でも、拒むこともできなかった。
胸の奥で、嫌な予感だけが、ゆっくり形になりはじめている。
まだ同じ世界だとは分からない。
まだ、ただの偶然かもしれない。
それでも。
私は一歩、足を踏み出した。
硬い土の床に、擦れた音が小さく響く。
その向こうで、遠く、上のほうから。
鐘の音が、ひとつ鳴った。
……少しだけ、遅れて。
地上の空気は温かかった。
階段を上がるほど、そこに別の温度が混じっていく。
乾いた熱。
焦げる手前の匂い。
石の壁に触れた指先が、汗ばんでいた。
最後の扉が開く。
ひらいた地上は、明るいはずなのに、どこか赤かった。
空の一角が、薄く染まっている。
夕焼けではない。
もっと濁った色だった。
遠くで、煙が立っている。
街区の緑の屋根の向こう。
何本も、細く。
けれど、風に流されるより先に、次の煙がまた立ちのぼる。
地上へ出た瞬間、誰かが叫んだ。
水を運ぶ声。
道を空けろという声。
誰かを呼ぶ声。
その喧噪のなかで、私はしばらく動けなかった。
火は見えているのに、見覚えがない。
でも、嫌な感じだけは知っていた。
「何をしているのですか。早く、来なさい」
ネル司祭長の声で、ようやく足が動く。
通りを抜ける。
石畳の上を、妖精たちが桶を抱えて駆けていく。
誰かの肩にぶつかりそうになって、身を引く。
風が吹いた。
その瞬間、私は顔を上げた。
火の粉が、こちらへ流れてくるわけではなかった。
なのに、通りのもうひとつ先で、新しい火の手が上がる。
私は足を止める。
「……違う」
誰に言うでもなく、声が落ちた。
広がっている、という感じではなかった。
燃え移るより先に、次の場所が赤くなる。
「どうかしましたか」
司祭長が振り返る。
私は首を振った。
うまく言葉にできなかった。
ただ、胸の奥だけが冷えていく。
角を曲がった先で、人だかりが見えた。
その中心に、ひときわ目立つ背がある。
見慣れた横顔。
火の赤を受けながら、教主様は傷んだ梁の下にいた誰かを抱き上げていた。
「こっちは大丈夫だ。次にいこう」
落ち着いた声。
火のそばにいるのに、その声音だけは少しも揺れていない。
胸の奥で、何かがきしむ。
ちゃんと、いる。
教主様が顔を上げる。
人の波の向こうで、私と目が合った。
ほんの短い間だった。
けれどすぐに、私は視線を逸らした。
「そっちへ火が回る前に、先に避難を」
正しい声だった。
迷いのない声。
その声を聞きながら、私は火を見ていた。
燃えている家ではなく、まだ燃えていない通りの先を。
そこに、次の赤が来る気がした。
まだ見えない。
ただ、立ち尽くしたまま、火と、教主様の背中と、そのあいだにある見えない流れだけを見ていた。
司祭長は、人波を押し分けるようにして、教主様のそばまで進んだ。
「火の回りは、対処できていますか」
教主様は抱き上げていた子を近くの妖精に預け、短くうなずいた。
額に汗がにじんでいる。
それでも、声は落ち着いていた。
「今のところは。大きいのは二か所。
でも……妙なんだ」
その視線が、燃えている家ではなく、通りの先へ向く。
「消えたと思った場所の、少し先でまた上がる。
風だけじゃ説明がつかない」
胸の奥が、ひやりとした。
やっぱり、と思ったわけではない。
そう思うには、まだ何も分かっていなかった。
でも、その言い方が、嫌に耳に残った。
司祭長は、そこで少しだけ声を落とした。
「それと、ひとり見つけました」
教主様の目が、わずかに動く。
「教団の地下で」
一瞬だけ、周囲の喧噪が遠のいた気がした。
「本来、地下には限られたもの以外がいるはずがありません」
そう言って、司祭長は私を振り返った。
人の波の向こうから、教主様の視線がこちらへ届く。
私はそれを受け止めきれず、ほんの少しだけ顔を伏せた。
白い服の裾。
火の色を受けたその白が、別の光景と重なりそうになる。
黒い水。
呑まれていく背中。
伸ばした手が、間に合わなかったこと。
喉の奥が、きしんだ。
「……君は」
教主様の声がする。
やわらかい。
何も知らない声だった。
そのことが、少しだけ苦しかった。
「どこから来たの」
私は答えられなかった。
答えようとした瞬間、顔を上げなければならない気がしたからだ。
見れば、たぶん駄目だった。
目の前にいるこの人と、前の世界で見失った背中が、同じ形になってしまう。
そうしたら、今ここで話している声まで遠くなってしまいそうだった。
「……聞いていますか」
ネル司祭長の声が、横から落ちる。
私は小さく息を吸った。
「……分かりません」
言ってから、自分でもひどい答えだと思った。
でも、それ以外の形が見つからなかった。
教主様は責めなかった。
「分からない、か」
その言い方は、呆れでも疑いでもなかった。
ただ、その言葉のまま受け取っただけの声だった。
「名前は?」
その問いに、指先が少しだけ震える。
「……リニュア」
ようやくそれだけを落とすと、教主様は短く繰り返した。
「リニュア」
初めて呼ばれた名前に聞こえた。
知っているはずなのに、知らない響きだった。
「私は世界樹教団の教主。こっちは司祭長のネル」
その何でもない優しさに、胸の奥がまた少し痛む。
私は、まだ顔を上げられなかった。
視界の端で、火が揺れている。
足もとの石畳に、赤い光が細かく砕けていた。
「地下で見つけたときから、様子が少しおかしいのです」
司祭長が静かに言う。
「火のことを聞く前から、何かを知っているような口ぶりでした」
「知っている、というほどでは……」
自分の声は思ったより小さかった。
二人の視線が向くのが分かる。
でも私は、石畳の目地ばかり見ていた。
「ただ、嫌な感じがして」
そこで言葉が切れる。
また、それだけかと思った。
それだけしか言えない自分が、情けなかった。
けれど教主様は、急かさなかった。
「嫌な感じ」
「……はい」
「火事に?」
問い返されて、私は首を振りかけて、止めた。
違う、と言い切るほどでもない。
火だけではない。
この熱も、匂いも、少し遅れて聞こえる声も。
全部が、何かの手前にある気がした。
「火そのものというより……」
そこまで言って、ようやく私は少しだけ顔を上げた。
でも、目は合わせられない。
教主様の肩口のあたりを見るだけで精一杯だった。
煤がついている。
袖口が少し焦げていた。
そのことが、ひどく現実的で。
だからこそ、前の世界の終わりと重なって見えた。
「……動いてる、みたいで」
教主様が黙る。
ネル司祭長も、何も言わない。
私は、自分の言葉を自分で確かめるみたいに、続けた。
「広がってるんじゃなくて。
どこかへ行こうとしてるみたいな……」
言い終えたあと、急に恥ずかしくなった。
こんなのでは説明にも何にもなっていない。
でも、教主様は笑わなかった。
「私も、少しそう思っていた」
その一言で、息が止まりそうになった。
「消した場所の外で、また上がる。
誰かを追い立てるみたいに」
火の赤が、彼の横顔をかすかに染める。
私はもう一度、視線を落とした。
その“誰か”が誰なのか。
そこまで考えたくなかった。
考えた瞬間、何かが近づいてくる気がした。
「ネル」
教主様が言う。
「北側の通りはまだ生きてる?」
「今のところは」
「なら、先にそちらへ逃がしたい。
火の手が合流する前に動かさないと」
正しい判断だった。
何の迷いもない。
それが分かるほど、胸の奥がざわつく。
ネル司祭長はうなずいた。
けれど、その前に一度だけ私を見た。
「この者はどうします」
教主様の視線が、またこちらへ戻る。
私は咄嗟に身構えた。
何を言われるのか分からなかった。
ここにいるな、と言われたら、それが正しい気もした。
来い、と言われたら、それもまた間違っている気がした。
「……リニュア」
名前を呼ばれる。
今度は、さっきより少し近い声だった。
「無理にとは言わない。
でも、もし何か分かるなら、そばにいてほしい」
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
そばにいる。
その響きだけで、指先が冷える。
前の世界で、私はそばにいた。
それでも、選べなかった。
選ばないうちに、失った。
だから今、まともに顔が見られない。
「……私」
声が掠れる。
教主様の顔は、まだ見られなかった。
「……火を消すくらいしかできません」
それが、やっとだった。
教主様は少しだけ間を置いて、それから静かに言った。
「それで十分だよ」
また、何でもない声だった。
どうしてそんなふうに言えるのか、分からなかった。
分からないまま、胸の奥に重いものだけが残る。
そのとき、通りの向こうで新しい叫び声が上がった。
誰かが、燃えた、と叫ぶ。
別の誰かが、水を、と返す。
風が変わる。
私は反射みたいに顔を上げた。
燃えている家のさらに先。
まだ火の届いていないはずの角の向こうで、赤い光がひとつ、跳ねた。
胸の奥が、強く縮む。
教主様はもうそちらを見ていた。
「行こう」
短い声。
その背中が、また人波の中へ向かう。
私は一瞬だけ足を止めたあと、何も言えないまま、その後を追った。
火の手は、さっき見た場所よりも近かった。
白い外壁の一部が黒く煤け、梁の先が赤く裂けている。
妖精たちが列を作って水を回していたが、間に合っていない。
火は暴れているというより、じわじわと奥へ進んでいた。
そのとき、ぱきり、と乾いた音がした。
誰かが悲鳴を上げる。
見上げると、焼けた梁のひとつが外れかけていた。
下には、逃げ遅れた妖精がふたり。
足もとに崩れた棚が引っかかって、うまく動けないらしい。
「下がって!」
誰かが叫ぶ。
でも、間に合わない。
梁が落ちる。
その瞬間、教主様が前へ出た。
腰の後ろへ手をやる。
見慣れない動きではなかった。
でも、この世界でそれを見るとは思っていなかった。
取り出されたのは、短い銃だった。
黒い銃身。
刻まれた文字。
――COCO。
胸の奥が、小さく強張る。
私はそれを知っていた。
何度か見たことがある。
でも、ただ持っているだけの時間のほうがずっと長かった。
実際に使われるところを見るのは、片手で足りるくらいしかない。
教主様は迷わなかった。
狙いは人ではない。
落ちかけた梁と、その根元に噛みこんだ石材。
引き金が引かれる。
乾いた破裂音。
崩れるのではない。
弾かれるように、横へ裂けた。
焼けた木と石片が散り、落下の向きがずれる。
真下ではなく、横へ。
妖精たちのすぐ脇の石畳に叩きつけられ、火の粉が大きく跳ねる。
息を呑む音が、そこかしこで重なった。
教主様はすでに銃を下ろしていた。
「今だ。引っ張って」
低い声。
周囲の妖精たちがはっと動く。
逃げ遅れていたふたりの腕を掴み、火の外へ引きずり出す。
教主様がこちらを振り向く。
「リニュア」
名前を呼ばれて、肩が揺れる。
まだ顔をまともに上げられない。
さっきからずっと、私は教主様の目を見ることができていなかった。
飲まれていく背中を、ただ見たこと。
いま目の前にいるこの人は、それを知らない。
知らないまま、私の名前を呼ぶ。
それが、苦しかった。
「火を抑えられる?」
問う声は短い。
責めるでも試すでもなく、ただ必要なことだけを聞いている。
私はようやく頷いた。
「……はい」
「やってみて」
その一言で、もう次の場所を見ている。
私は息を吸う。
熱い空気が喉に刺さる。
手を伸ばす。
火の根を探るみたいに、意識をひらく。
赤い舌のように這っていた炎が、風もないのにひとつ揺れた。
その下へ、冷たい魔力を流し込む。
ぱち、と小さな音。
火勢が鈍る。
もう一度。
今度は壁際へ。
梁を伝っていた火が白い煙を上げ、色を失っていく。
周囲がざわめく。
「消えた……」
「水じゃないのに……」
誰かの声が遠くで重なる。
私は答えなかった。
魔力の変質。
いつの間にか、温度を下げることができるようになっていた。
私は、炎の出る先を追った。
燃えているものを見るより先に、その先を見てしまう。
次に赤くなる場所が、ぼんやり分かる気がする。
教主様が、短く息を吐いた。
「助かる。なら、二手に分かれよう」
私は顔を上げかけて、やめた。
教主様はもうCOCOをしまっている。
「こっちは消火できる人手が増えた。
私は別の火の手を見に行く」
ネル司祭長がすぐに頷く。
「南側は私がまとめます。あなたは――」
そこまで聞いたとき、胸の奥にひどく強い既視感が走った。
足が止まる。
熱。
煙。
誰かを呼ぶ声。
そして、正しい判断で別れていく背中。
知っている。
いや、違う。
知っているのではなく、ここへ続く形を知っている。
このあと――
喉の奥が冷える。
教主様が、いなくなる。
そういう終わり方をする世界が、あった。
唐突に思い出したわけではない。
最初からずっと、胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく形を持っただけだった。
私ははっとして、近くにいた妖精の腕を掴んだ。
「教主様は、どちらへ」
妖精が目を丸くする。
「え」
「どこへ向かいましたか」
自分でも驚くくらい、声が硬かった。
妖精は一瞬たじろいで、それから通りの先を指さす。
「あ、あちらです。
獣人の村のほうに、黒い煙が……」
私は振り向く。
妖精王国の建物越し、遠い空の端。
そこに、真っ黒い煙が立ち上っていた。
ここの火とは、あきらかに色が違う。
赤い炎の煙ではない。
もっと重くて、湿っていて、空そのものを汚すような黒だった。
妖精は不安そうに続ける。
「こちらは消せる人が増えましたから。
教主様は、ひどいほうへ向かうと……」
そこまで聞いて、私はもうその先を聞けなかった。
獣人の村。
胸の奥で、何かがはっきり冷えた。
教主様は、正しいほうへ向かったのだ。
より大きい火へ。
より危険な場所へ。
いつもみたいに。
私は、燃え残った熱の中で立ち尽くす。
指先にはまだ消火のための冷たさが残っているのに、胸の内側だけが別の意味で冷えていった。
行かなければならない。
そう思うより先に、足が一歩、前へ出ていた。
教主様は、獣人の村へ向かった。
その言葉だけが、胸の内側で冷たく固まっている。
私は息を吸う。
次の瞬間、世界の流れが薄くなる。
時間を止める。
完全には止まらない。
ただ、私だけが取り残される。
何度もそうしてきた。 間に合わせるために。 失う前に辿り着くために。
石畳を蹴る。 火の粉が空中で止まりかけたように見える。 走る妖精たちの羽ばたきも、鐘の残響も、引き延ばされた夢みたいに遠い。
それでも。
それでも、嫌な予感だけは、少しも遅くならなかった。
獣人の村に着いたとき、そこはもう焼け焦げていた。
火は、ほとんど残っていない。
遅かった。
焼け残った広場の中心に、見覚えのある角を見かけた。
ディアナ村長。
私は息も整えないまま、その前に立つ。
「……教主様は」
ディアナ村長は、私を見上げた。
初対面を問う余裕もないらしい。
「教主様、ですか…?」
ただ、焼け跡の向こうをちらりと見た。
「見てませんねぇ」
私は、一瞬、息を止めた。
「ところで、けがをした方はいませんか?」
村長は焼け残った村を見渡す。
「そうなんですよ…。何かを狙っての放火というわけでも、なさそうでねぇ」
「火の回りが妙でして…あっちが燃えたと思ったら、次はこっちでねぇ……」
「避難させるので手いっぱいでしたから」
私は周囲を見た。
傷ついた獣人の姿はない。
焼け跡。 崩れた家。 えぐれた地面。 けれど、教主様の姿はない。
「……そんなはず」
自分でも、ひどく弱い声だった。
ここに、いない。
それだけで、十分だった。
ただの火事じゃない。
最初の火。 妖精王国の火災。 そこから獣人の村へ。
広がった、というより。 動かされた。
――教主様を。
「……さらわれた」
村長の返事も聞かず、私は来た道を引き返した。
胸のざわめきは少しも薄れなかった。
私は足を速める。
――そして。
妖精王国へ戻ったとき、事態は変わっていた。
「ベリータ女王様が……!」
誰かの叫びが飛ぶ。
私は人波を掻き分ける。
その先で、何人もの魔女が、一人の女王を支えていた。
王の装束は焼け焦げ、今にも倒れそうな姿だった。
私はこの光景でようやく思い出した。
火は偶然じゃない。
精霊の制御を崩されている。
私は歯を食いしばる。
報せなければ。 司祭長に。 今すぐ。
そう思って走り出そうとした瞬間、今度は別の方角でどよめきが上がった。
人垣が割れる。
その中心にいたのは、司祭長だった。
膝をついている。
今度は、エルフィン女王が倒れていた。
目を見開いたまま。
金の髪が石畳に流れている。 顔色は悪くない。 傷もない。 なのに、ぴくりとも動かない。
ただ、うめき声を発するだけだった。
さらに、女王の額には、本来あるべき王冠がなかった。
司祭長が、その手を握っている。 肩が震えていた。
泣いていた。
あの司祭長が。
その光景の前で、私は一瞬、言葉を失う。
教主様が。
その一言が、喉まで上がって、止まる。
今、この人に言えるのか。
でも、今でなければ、もっと遅くなる。
私は唇を噛む。
「……司祭長様」
声がひどく小さかった。
けれど、司祭長は顔を上げた。 目は赤い。 泣いたことを隠す気力もない顔だった。
私はその目を見て、一瞬だけ怯む。
それでも、言う。
「……教主様が、いません」
空気が変わる。
司祭長はすぐには反応しなかった。
「何を……言っているのですか」
かすれた声。
私は、焼けた獣人の村のことを伝える。
そのときだった。
低い音が、大地の底から響いた。
最初は、遠雷みたいに思えた。 でも違う。
足もとの石畳が、揺れた。
誰かが悲鳴を上げる。
広場の向こうで、木々がざわめいた。 そのざわめきは風ではない。 地面ごと、何かが持ち上がっている音だった。
私は反射的に振り返る。
世界樹の方角。
大地が、ゆっくり隆起していた。
土が裂ける。 石が跳ねる。 根が、姿を現す。
太い根。 細い根。 無数に地中へ張っていたはずのものが、土を巻き込みながら持ち上がっていく。
誰も、すぐには声を出せなかった。
根が、千切れた。
ぶち、と。 湿ったものを引き裂くみたいな、耳を塞ぎたくなる音。
一本ではない。 何本も。 持ち上がる途中で、地に繋がっていたはずの根が、次々に断たれていく。
「……嘘」
誰かが呟く。
世界樹が、浮かび上がる。
空へ。 遠くへ。 根を引きちぎりながら、止まらずに離れていく。
そして、その瞬間に、分かった。
――供給が断たれていく。
種族の存在を支えていたものが。 この世界で、この国で、生きていることそのものを保っていたものが。
私は周囲を見る。
最初に異変を見せたのは、妖精たちだった。
羽が、重たそうに沈む。
ふわりと浮いていたはずの翅が、ひどく不器用に地面へ引かれていく。
「……あれ」
震えた声。
「翅が……」
別の妖精が、立ち尽くしたまま自分の背を振り返る。
翅はまだある。
あるのに、もうそれが自分のものではないみたいに、力なく垂れ下がっていた。
私は息を止める。
消えているんじゃない。
妖精を妖精として保っていた、目に見えない輪郭だけが、先に失われていく。
「司祭長様」
すぐ近くで、幼い声がした。
振り向くと、小さな妖精が両手で喉を押さえていた。
苦しいのではない。 自分の声が、自分の思った形で出ないことに怯えている顔だった。
「しさいちょう、さま……わた、し」
声が掠れる。
最後の音だけが、言葉になりきれずに擦れた。
「いや……」
誰かが後ずさる。
自分の手を見ている。
指先が、細く、長く、少しずつ角度を変えていくのを。
丸みを帯びていた爪が、光を失って硬く尖っていくのを。
「や……だ」
今度は確かにそう聞こえた。
でも、その次の呼気で、唇の形がうまく言葉を作れなくなる。
翅が裂けた。
びり、と薄い布を破くみたいな音。
まばたきが減る。
喉の音が、言葉ではなく擦れる鳴きに近づく。
羽の光が見えなくなる。
翅を確かめようとする手。
丸くて柔らかい肌。
その関節の曲がり方が少しずつ狂う。
肌や翅の質感が抜け落ちていく。
それでも、助けを求めるように見える。
止められない。
もう、これはひとりの異変じゃなかった。
広場のあちこちで、同じことが起きていた。
翅を押さえる者。 喉に手を当てる者。 膝をつき、自分の影の形を見て怯える者。
誰も、すぐには壊れない。
それだけが、遅い。
意識だけが先に残る。
「教えて……」
「どう、して……」
「わたし、変……」
声が、途中で濁る。
魔物みたいだ、と思った。
そう思った瞬間、自分の中で冷たいものが走る。
前の世界でも、こんなふうにはならなかった。
妖精たちが、死ねずに壊れはじめている。
「…………」
ネル司祭長は、何も言わなかった。
視界になにも映らないように。
ただ、エルフィン女王を見つめていた。
「前よりも、ひどい……」
気づけば、そう呟いていた。
自分の声が、やけに遠かった。
ネル司祭長が、そこでようやく立ち上がる。
エルフィン女王の手を、そっと石畳の上に戻す。
周囲を見渡して言った。
「リニュアさん……」
静かな声だった。
名前を呼ばれる。
その声の重さに、胸の奥が軋んだ。
「これは崩壊ではありません」
誰も声に出さない。
「進行です」
司祭長は、遠ざかる世界樹を見上げた。
「存在が、維持できていない」
確信をついた視線だった。
「信じます……」
私は顔を上げる。
ネル司祭長は、こちらを見ていた。
「あなたがいくつもの世界を巡ってきたことも。終わり方を知っているように怯えていたことも」
何かが、頬を伝った。
司祭長が、一歩、私へ近づく。
「あなたは以前、世界を凍らせたと言いましたね」
「でも――」
声が崩れる。
そこで、ネル司祭長の声が崩れた。
初めてだった。 泣きながら、それでも言葉を押し出す声。
「もう、これ以上――」
私は立ち尽くす。
司祭長は、深く頭を下げた。
祈るように。 けれど祈りでは届かないと知っている人の、懇願だった。
「……お願いします、リニュア」
名前を呼ばれる。
逃げ場のないほど、静かに。
「この世界を」
「凍らせてください」
その瞬間、周囲の音がすべて遠のいた気がした。
石畳に倒れたままのエルフィン女王。
呻く妖精たち。
変わり続ける世界。
――69%
ただ、自覚した。
何をすべきか。
そして、同時に。
冷たい雪のかけらが。
私の中で。
完全に目を醒ましたことに。