それから私は、いくつもの世界を渡った――
同じように壊れていく場所を、いくつも見た。
燃える街があった。
祈る声だけが静かに残る地下があった。
誰も泣かないまま終わっていく国もあった。
そのたびに、私は少し遅れて辿り着いた。
あと一歩早ければと思うことには、すぐ慣れた。
慣れた、という言い方はたぶん違う。
本当は毎回痛かった。
ただ、その痛みをいちいち抱えていたら、次の扉を開けなくなるだけだと分かった。
このままだともっと苦しむ。
今、止めたほうがいい。
流れて失われるくらいなら、ここで閉じたほうがましだ。
私は、そうやって自分に言い聞かせた。
最初のころは、手を伸ばすたびに震えていた。
凍結の魔導書を開くたび、胸の奥で何かが拒んだ。
これは違うのではないかと、遅すぎる問いが必ず浮かんだ。
【それでいい。】
【どうせ壊れる。 】
いつからか、あの声はそう言うようになった。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、私が見ないふりをしたいところを、先に言葉にした。
救えないものを見続けるくらいなら。
間に合わなかった後悔を、また増やすくらいなら。
せめて、終わりだけは選んだほうがいい。
そう思うたび、少しだけ楽になった。
少しだけ、では足りなかったのかもしれない。
ある世界では、誰かを呼ぶ声は、届く前に止まった。
ある世界では、差し出された手が、あと少しのところで冬に埋もれた。
ある世界では、祝福の言葉が最後まで言い切られないまま、白く閉じた。
私は、そのどれも覚えていた。
忘れないためではない。
忘れてしまったら、きっと次も同じ顔をして手を伸ばすからだ。
迷いは、なくならなかった。
魔導書に触れるたび、指先の奥でわずかにためらいが残った。
この世界には、まだ別の道があったのではないかと考える自分も、いつもいた。
ただ、それはもう、私を止める理由にはならなかった。
私は何度も、自分が正しいのだと思おうとした。
救っているのだと。
そうでなければ、この手がしてきたことに、形を与えられなかった。
やがて、最初に探すものは変わっていた。
どこから壊れるのか。
どこまでなら、まだ閉じられるのか。
私は、迷ったまま手を伸ばしていた。
――気づけば、暗い室内にいた。
うす暗い部屋の中、光だけが動いている。
流れている映像。
誰かの笑い声。
明るすぎる音。
聞いたことがあるはずなのに、思い出せない言葉。
その音が、その映像がひどく胸に突き刺さった。
耳に残る。
いつのまにか、音が消えていた。
足元で、何かが砕ける。
画面は、もう何も映さない。
――気づいたときには、花の中にいた。
足元に、砕けたガラスの破片。
さっきの音が、まだ残っている。
なのに、踏んでいるのは柔らかい。
見下ろす。
花だった。
白い花。
いくつも、足元いっぱいに広がっている。
ガラスも、そこにあった。
同じ場所に。
重なっているみたいに。
どちらを踏んでいるのか、分からなかった。
風が吹く。
花が揺れる。
そのあいだに、誰かがいた。
笑っている。
――私だった。
声はない。
何も言わない。
ただ、そこに立っている。
その向こうで、別の光景が重なる。
誰かが手を振っている。
名前を呼ばれている気がする。
振り向く。
でも、そこには何もない。
別の声が聞こえる。
叫び声。
祈り。
どちらも、同じ距離で響いていた。
笑っている。
私が。
どの記憶の中の私なのか、分からない。
足を動かす。
ガラスを踏んだ気がした。
花を踏んだ気もした。
――音が、戻ってきた。
どこかで、何かが擦れる。
足元が、固い。
視界が、揺れる。
暗い室内に戻っている。
さっきと同じ場所。
割れたガラスが、床に散らばっている。
静かだった。
あの音は、もうない。
一歩、踏み出す。
かすかに、何かを踏む感触。
見下ろす。
ガラスの破片。
そのあいだに、白いものが混じっている。
花だった。
瞬きをする。
次に見たときには、何もない。
呼吸が浅くなる。
手を伸ばす。
指先に触れたのは、冷たいガラスだけだった。
それでも。
足元のどこかで、やわらかいものを踏んでいる気がした。
私はゆっくり息を整えた。
大丈夫だと、思った。
ここにいる。
今は、まだ。
視線を落とす。
揺らぎの装置。
数字を確認する。
――53%。
保留。
間に合わなかった。
指先が、わずかに止まる。
割れたガラスが床に散らばっている。
危ない。
そう思って、足元を避けるように一歩ずれる。
靴の裏に、やわらかい感触があった。
何も見ない。
――76%。
凍結。
画面は変わっていない。
そのまま、もう一歩。
――64%。
何も起きていないのに。
私は、装置から目を離した。
判断は、もう済んでいる気がした。
次に扉がひらいたとき、最初に感じたのは匂いだった。
乾いた土の匂い。
腐りきれずに残ったものの匂い。
雨が降ったはずなのに、痩せた大地の匂いだった。
空は曇っていた。
色そのものが薄い。
遠くまで見える荒野。
そのあちこちに骨みたいに白いものが突き出している。
木ではなかった。
ただ、何かの残骸。
風が吹く。
草は揺れない。
揺れるだけの草が、ほとんど残っていなかった。
私はしばらく、その場から動かなかった。
ここは、もう終わったあとの世界に見えた。
遠くで、何かが鳴いた。
獣の声に似ている。
生きた音ではない。
擦れた声だった。
私は歩き出す。
ひどく軽い土の感触。
踏むたび、細かな粉になって崩れる。
その下に、何かを踏みつけているように感じる。
やがて、崩れた石壁の向こうに、いくつもの影が見えた。
人ではなかった。
けれど最初から怪物だったわけでもないと、ひと目で分かった。
痩せこけた身体。
不自然に細長い四肢。
皮膚は乾いて、ところどころ鱗のようにひび割れている。
もう人の熱がほとんど残っていない。
それでも、一体だけがこちらを見た。
見た、と思った。
焦点が合ったわけではない。
ただ、その目の奥に、かつて誰かだったものの残りが、ほんの少しだけ揺れた。
死ねない。
ここも、ほかと同じようにそういう世界なのだと分かった。
死ねないまま飢えて、
飢えたまま争って、
争ったまま形を失って、
それでも終われずに残ったものたち。
私は胸の奥で、冷たいものが静かに沈んでいくのを感じた。
救えない、と思った。
その判断は、驚くほど早かった。
前なら、その早さに怯えたはずだった。
でももう、私はその感触を知っている。
助ける方法を探すより先に、
どこまで壊れているのかを見てしまう。
どこからなら閉じられるのかを考えてしまう。
風がまた吹いた。
怪物たちは群れのまま、私を避けるようにゆっくり後ずさった。
逃げているのではない。
もう残っていないようだった。
近づく理由も、襲う理由も。
その向こうに、巨大な影が見えた。
世界樹だったのだと思う。
もう樹の形ですらない。
生きているのに、もうこの世界を支えていない。
私はその前に立つ。
ここから壊れたのだと、見なくても分かった。
魔導書はすぐには開かなかった。
指先が、わずかに止まる。
ここを閉じたところで、何が救われるのか。
そう考える自分は、まだいた。
【どうせ壊れる。】
あの声が、静かに言う。
責めるでもなく、急かすでもなく。
もう何度も聞いてきた声で。
【このまま残せば、もっと長く苦しむ。】
私は目を閉じる。
痩せた大地。
乾いた鳴き声。
終われずに変わり果てたものたち。
そのどれにも、明日が続いてしまう。
それを知ってしまった以上、見なかったふりはできなかった。
私は魔導書を開く。
もう何度も口にしてきた言葉を、低く、ひとつずつなぞる。
意味を確かめるためではなく、手を止めないために。
冷気が、足もとから広がる。
風が止まる。
土の舞い上がりが、途中で静止する。
遠くの鳴き声が、長く引き伸ばされ、やがて消える。
怪物たちが逃げることもなく、ただその場で白く縁取られていく。
乾いた皮膚に霜が走る。
ひび割れた地面の奥へ、冬が染みこんでいく。
世界樹の裂け目から、鈍い音がした。
泣いたようにも聞こえたし、ただ凍っただけのようにも聞こえた。
私は目を逸らさなかった。
これは救済ではない。
きっと赦しでもない。
ただ、これ以上壊れ続けるための時間を、ここで断つだけだ。
白が広がる。
荒野を。
石壁を。
終われないまま残っていたものを。
名前をなくした怪物たちの影を。
全部、等しく閉じていく。
最後に見えたのは、一体の怪物だった。
他よりも小さい。
痩せた腕を胸の前で抱くようにして、うずくまっていた。
その目だけが、ほんの少し、誰かを待っているみたいだった。
私は、最後までその視線を忘れない気がした。
やがて世界は、音を失った。
白い静寂だけが残る。
私は魔導書を閉じる。
指先は冷えていた。
けれど、胸の奥はひどく熱かった。
終わった、と思った。
そう思わなければ、次へ行けなかった。
私は次元の裂け目へ足を踏み入れる。
白い光が、視界を塗りつぶす。
重力がなくなる。
身体の輪郭が薄くなる。
――その向こうで、新しい空気が待っていた。
けれど、足が着いたとき、何かが一緒に落ちてきた気がした。
小さな音ではない。
鳴き声でもない。
ただ、かすかに崩れるような、乾いた気配。
私はゆっくり視線を落とす。
足もとに、白いものがあった。
雪の塊に見えた。
こんな場所にあるはずがない。
なのに、それは確かにそこにあった。
輪郭が曖昧で、やわらかそうで、でも冷たい。
私が一歩動くと、それも少し遅れて形を変える。
私は目を逸らす。
歩き出す。
数歩進んで、ふと立ち止まる。
背後で、かすかに何かが止まる。
振り返る。
白いものがある。
さっきより、少し近い。
それは、離れなかった。
私は目を逸らす。
見間違いだと思いたかった。
疲れているだけだと、そう思おうとした。
けれど歩き出すと、少し遅れて、また足もとに気配がある。
「……来ないで」
声はひどく小さかった。
それでも、その白いものは消えなかった。
私は前を向いて歩く。
乾いた石畳の上を、ためらわずに。
私が止まるたび、それも止まった。
目を逸らして、また歩き出す。
すると少し遅れて、また白いものが気配だけを寄せてきた。
まるで、それだけはまだ終わっていないと告げるみたいに。
足が、わずかに引っかかる。
何もないはずの石畳。
それでも、身体が前に崩れた。
膝をつく。
うまく、立てない。
視界が低くなる。
白いものが、動いた。
私のまわりを、ゆっくりと巡る。
一周。
また一周。
近づいてくるわけでもない。
離れていくわけでもない。
ただ、同じ距離で、回り続けている。
目で追う。
途中で、見失う。
それでも、気配だけは消えない。
私が動かなくても、それは止まらなかった。
しばらくして、ようやく身体を起こす。
視界が上がる。
白いものは、少し離れた場所にいた。
何事もなかったみたいに。
私が見ていないあいだも、回っていた気がした。