私は新しい道を歩いていた。
いや、違う。
彷徨っていた。
それも、違う。
何度も通った場所だった。
足先に何かが触れる。
柔らかいものか、硬いものか。
踏むたび、乾いた音がした。
音があった。
内側でも鳴っていた。
――50%。
まだ、断定には届かない。
位置は不要。
処理の手順は変わらない。
崩壊点を特定する。
視界の端に、構造物が並んでいた。
緑。
面。
配置。
動き。
音。
連続している。
だけど。
全部が薄い膜の向こうにあった。
まだ壊れていない。
それだけが分かった。
視界に負荷がある。
観測のたびに、内部が揺れる。
【それでいい】
頭の奥で、声がする。
前方に、青い色があった。
形。
妖精。
司祭服。
移動している。
布が揺れる。
固定されていない。
構造物ではない。
進路上にある。
音がある。
連続しない。
まとまらない。
私は手を上げる。
通行を優先する。
通らない。
そういう配置だった。
私は、魔力をそっと走らせた。
青いものが後方へ弾かれ、石畳の向こうへ消えた。
抵抗がない。
同時に。
引っかかりが消えた。
そのまま、私は歩き続ける。
背後で何かが止まる。
音が途切れる。
形が固定される。
それは、後ろで起きていた。
振り返らない。
雪が、後ろにいた。
歩くたび、靴底の下で薄い氷が鳴る。
ガラスを踏む音に似ていた。
私は歩く。
止まる理由が見つからない。
止まっても、何かが戻ることはない。
そこで初めて、前からではなく横から風が来た。
細い。
けれど鋭い。
頬をかすめたそれは、羽音か、刃の軌跡か。
私は止まる。
二つの小さな影が、道の先に出ていた。
水色、魔女。
白い、獣人。
何か音がある。
高いものと、少し低いもの。
震えが混じる。
もう一方は、揺れを押さえている。
けれど、まとまらない。
音は輪郭だけを保って、すぐに崩れる。
次は真正面から来た。
光の粒が散る。
小さな爆ぜる音。
石畳の上で冷気と火花がぶつかって、白い霧が薄く揺れた。
動きが遮られる。
前進に支障がある。
私は二つの影を見た。
強度が低い。
それでも、退かない。
右の影が跳ぶ。
低く、速い。
刃。
左の影はその一瞬遅れて、私の足もとへ何かを走らせる。
糸のような光。
私は半歩ずらす。
糸は靴先をかすめ、石を黒く濁らせた。
また音がある。
形だけが残る。
中身はない。
私は手を上げる。
透明な圧が、前方へ広がる。
二つの影が同時に揺れる。
片方は踏みとどまり、片方は数歩ぶん後ろへ滑った。
それでも倒れない。
小さい。
退かない。
判定が一致しない。
【それでも壊れる】
声がする。
排除。
左の影が前へ出る。
近い。
触れられた。
反射で、押し出した。
空気が鳴る。
小さな影が遠ざかる。
後方で音が跳ねる。
――また、影が増える。
今度も二つ。
通れない。
次に、どちらを先にどかすか。
――石畳を打つ音が、やけに早かった。
何かが胸に引っかかった。
嫌な感じがする。
ブルミも感じた違和感。
それを追っている。
地面の揺れる音。
冷えるような空気。
息をのむような気配。
足を速める。
背の低い使徒たち。
その流れを抜ける。
妖精たちの声を避ける。
倒れた梁の影を跨ぐ。
説明はできない。
久しぶりに訪れたひりつくような感覚。
まるで、違う次元に来たかのような。
そんな覚えがした。
角を曲がる。
その先で、空気が歪んでいた。
白い。
霧のようなものが、低く漂っている。
いや――違う。
凍っている。
音が、少ない。
叫びはある。
足音もある。
なのに、何かが削ぎ落とされている。
輪郭だけが残って、中身が抜けているような。
視線を上げる。
人影がいくつか見える。
動いている。
跳ぶ。
避ける。
――そして、その中心。
ひとつだけ、動きの質が違うものがあった。
静かすぎる。
迷いがない。
躊躇もない。
ただ、進んでいる。
その周囲だけ、温度が落ちているように見えた。
「……なんだ、あれ」
思わず口に出る。
誰かが叫んでいる。
小さな影が二つ、前に出ている。
ピコラとモモだった。
止めようとしているのが分かる。
でも。
止まっていない。
その“何か”は、ただ歩いているだけだった。
それだけで、前が崩れていく。
一歩。
踏み出す。
そのとき。
ほんの一瞬だけ、横顔が見えた。
白い。
見慣れた輪郭。
見間違えるはずのない線。
胸の奥で、何かが強く引き裂かれる。
「……は?」
声が出た。
意味のない音だった。
でも、止まらない。
「――いや」
違う。
違うはずだ。
そんなわけがない。
だって、あれは――
もう。
いないはずだ。
喉が乾く。
目が離せない。
また、見える。
今度は正面から。
表情が、見える。
何もなかった。
そして、理解する。
あれは――
知らない顔だ。
けれど。
知っている。
「……リニュア?」
名前が、こぼれる。
届くはずがない距離。
それでも、呼ばずにいられなかった。
その時、横から明るい声が聞こえた。
「……あ」
小さく、息が弾む。
「リニュアじゃない?」
エルフィン。
いつもの調子。
状況なんて関係ないみたいに。
そこにあるのは――疑いのない喜びだった。
「やっぱりそうだ」
一歩、踏み出す。
「病気で寝込んでるって聞いてたけど…」
笑う。
「――治ったんだ」
本当に、嬉しそうに。
「ねえ、教主。見て」
振り返る。
子どもみたいな顔で。
「リニュア、戻ってきた」
胸が、冷える。
違う。
それは――
「……待て」
声が低くなる。
エルフィンは、気にしない。
もう一歩、前へ。
「リニュアー!」
手を振る。
ためらいがない。
「どこ行ってたの? 勝手にいなくなるから、ネルが――」
「やめろ!!」
遮る。
強く。
空気が裂ける。
エルフィンが、ぴたりと止まる。
振り向く。
「なに」
不満そうに。
少しだけ、むっとしている。
「せっかく見つけたのに」
その言葉が、重い。
「……あれは」
言葉を探す。
でも、出てこない。
説明できない。
したくない。
認めたくない。
「……リニュアじゃない」
やっと、絞り出す。
エルフィンが、眉をひそめる。
「は?」
「何言ってるの」
呆れたように笑う。
「どう見てもリニュアでしょ」
また前を見る。
迷いがない。
「顔も同じだし」
一歩。
踏み出す。
「声かければ――」
「近づくな」
今度は、低く。
押さえつけるように。
エルフィンの足が止まる。
わずかに。
ほんの少しだけ。
空気が変わる。
それでも。
完全には止まらない。
「……なんで」
振り返る。
理解できない、という顔。
「会えたのに」
その言葉が――刺さる。
教主の中で、何かが揺れる。
会えた。
その通りだ。
見た目は。
声をかければ。
振り向くかもしれない。
――昔みたいに。
一瞬。
ほんの一瞬。
迷いが生まれる。
その隙間で。
前方の“それ”が、止まる。
リニュアが。
初めて、動きを止める。
そして――
顔を、こちらへ向ける。
「――っ」
理解する。
遅い。
エルフィンが、また一歩出る。
「ほら」
少しだけ笑って。
「ちゃんと反応してる」
手を伸ばす。
無防備に。
まるで。
本当に、再会するみたいに。
「リニュア」
名前を呼ぶ。
優しく。
軽く。
何の疑いもなく。
その瞬間。
空気が、変わる。
静止。
そして――
何かが、始まる。
「――エルフィン!!」
手を伸ばす。
「伏せろ!」
叫ぶ。
遅い。
エルフィンの肩に触れる寸前で、見えない圧が走った。
弾かれる。
小さな身体が横へ流れる。
それだけなら、まだよかった。
足もとだ。
石畳の目地に沿って伸びていた白い線が、そこで一気に跳ねた。
まるで、待っていたみたいに。
エルフィンの靴先。
裾。
指先。
触れた場所から、音もなく凍っていく。
「……え」
ようやく、エルフィンの顔から笑みが消える。
自分の足を見下ろす。
白い。
「きょう、しゅ――」
声が、途中で細くなる。
駆け寄る。
けれど、その一歩のあいだにも白が増える。
石畳を這い、衣を登り、触れた空気まで鈍らせる。
白が、広がる。
速い。
横から、影が割り込んだ。
「――師匠様!!それ以上近づかないでください!」
高い声。
弾くように。
視線が揺れる。
パステルの色。
小さな角。
息を切らしながら、少女が立っていた。
ピコラだ。
目が、まっすぐリニュアを見ている。
恐怖はある。
でも、それ以上に――
「……なんなんですか、それ……!」
リニュアの暴走を止めたいという顔だった。
その一歩後ろ。
低く、滑るような気配。
「司祭長殿に続いて、女王殿まで……」
短い声。
押し殺した怒り。
もうひとつの影――モモが、地を這うように位置を取る。
「よくも、氷漬けに!」
返事はない。
リニュアは、ただそこにいる。
進行が止まる。
ほんのわずか。
ピコラが歯を食いしばる。
「……止まってる、今なら――」
魔力を練る。
光が、指先に集まる。
「動きを止めれば、なんとか――」
「無理だ」
思わず口に出る。
ピコラがこちらを見る。
一瞬だけ。
安心させるように。
「大丈夫です!見ててくださいお師匠様!」
そのまま、魔法を放とうとする。
でも。
その前に。
空気が、変わる。
リニュアの視線が、わずかに動く。
三人を、まとめて捉える。
「――下がれ!!」
遅い。
圧が来る。
見えない。
でも確実に、押し潰す方向。
モモが先に動く。
低く、横へ。
ピコラの腕を引く。
「――っ!」
間一髪で、二人が圧の外へ滑る。
石畳が、きしむ。
白が走る。
さっきまで二人が立っていた場所が、凍りつく。
ピコラの呼吸が乱れる。
「――あ、危なかった」
モモは何も言わない。
ただ、視線だけがリニュアを捉え続けている。
距離を測る目。
でも――
理解している。
届かない、と。
――そのときだった。
足もとに、何かが触れた。
柔らかい。
小さな影。
白い。
くるり、と。
円を描くように、足元を回る。
一度。
二度。
三度。
「……なんだ?」
視線を落とす。
雪の塊みたいな白いものがいた。
いや、違う。
動いている。
小さい獣に見えた。
けれど。
この場ではあまりにも不釣り合いで、見間違いのようにも思えた。
それは静かに進む。
誰にも気づかれずに。
そして。
止まる。
リニュアの前で。
ほんの、数歩手前。
振り返るでもなく。
ただ、そこに立つ。
静止。
一瞬。
何も起きない。
――次の瞬間。
「――ワンッ!!」
鋭い声が、空気を裂いた。
短い。
まっすぐな音だった。
ピコラが息を呑む。
モモの目が細くなる。
私は、息を止める。
けれど。
それだけで。
何かが、ずれた。
リニュアの動きが――
ほんの、わずかに止まる。
完全ではない。
でも。
明確に。
処理が、引っかかった。
「……?」
白い犬は、もう一度吠えた。
今度は少し低く。
けれど、迷いがない。
呼ぶように。
責めるようにでもなく。
ただ、そこにいるものとして。
ただ、リニュアへ。