音が入る。
異物。
処理外。
「……?」
遅れて、認識する。
短い。
鋭い。
――音?
違う。
もっと近い。
「……雪が、吠えた?」
言葉が出たことに、わずかに違和感がある。
雪は、そんな音を出さない。
そんな前提が、どこかに残っている。
でも。
今の音は――
近い。
足元。
白。
小さい。
形が、ある。
処理が止まる。
一瞬。
空白。
【継続】
声が入る。
遅れて。
戻る。
私は、手を動かそうとする。
でも。
動きが、揃わない。
微差。
誤差。
揺らぎ。
「……」
視界が、ずれる。
中心が定まらない。
私は、装置を確認する。
手のひら。
いつもの位置。
――
表示が、ない。
「……?」
もう一度、見る。
角度を変える。
光を当てる。
反応しない。
数値が出ない。
――基準がない。
喉の奥が、わずかに軋む。
判断ができない。
停止条件が定義されない。
「……壊れた?」
言葉が、重い。
返答がない。
【継続】
声は、同じことしか言わない。
でも。
続けられない。
基準がない。
どこまで進めばいいのか、分からない。
どこからが“遅い”のか、分からない。
どこまでが“許容”なのか、分からない。
処理が、浮く。
空中で止まる。
そのとき。
また、音。
「――ワンッ」
近い。
さっきより、はっきり。
私は、視線を落とす。
白い。
小さい。
揺れている。
違う。
揺れているのは、私のほうだ。
「……」
名前が。
出かかる。
出ない。
喉の奥で、引っかかる。
何かが、そこにある。
知っている形。
知っている重さ。
でも。
思い出せない。
思い出してはいけない気もする。
【継続】
声が、また言う。
でも。
遠い。
届かない。
私は、手を下ろす。
上げる理由が、消えている。
排除対象が、確定しない。
優先順位が、決まらない。
「……どうして」
声が、こぼれる。
処理ではない。
理由でもない。
ただ、落ちる。
白いそれが、動く。
少しだけ、近づく。
逃げない。
怯えない。
ただ、そこにいる。
「……なんで、いるの」
答えはない。
でも。
消えない。
排除しようとしても。
手が、動かない。
命令が、通らない。
その代わりに。
胸の奥で、何かが軋む。
冷たいはずの場所に。
わずかな熱が、戻る。
痛い。
遅れて。
理解する。
これは――
嫌だ。
「……やめて」
小さく。
誰にでもなく。
言葉が、出る。
その瞬間。
世界の音が、少しだけ戻る。
遠くで、誰かが叫んでいる。
風がある。
パンの匂いが、まだ残っている。
白だけじゃない。
全部が、同時に戻ってくる。
重い。
耐えきれない。
私は、目を閉じる。
処理が、崩れる。
順序が、乱れる。
【継続】
声は、まだ続いている。
でも。
もう、それだけじゃ足りない。
私は――
どこまで、やった?
どこから、壊した?
ここは、どこ?
「……教主、様……?」
名前が、落ちる。
遅れて。
震えて。
確信もなく。
それでも。
確かに。
そこにあった。
「――リニュア!」
その人が私を呼ぶ。
ほんのわずか。
でも確かに。
「こっちを見ろ!」
一歩、近づく。
白が、わずかに揺れる。
大きな背。
見知った姿。
「終わってない!」
声が聞こえる。
すぐ近くで。
「まだ、終わってないんだ!」
気配が近づく。
私は半歩後ろに下がる。
周囲の空気が軋む。
それでも。
「おまえは――」
その人は言葉を探していた。
知っている。
わからない。
でも。
知っている。
「リニュア!」
この雰囲気を。
そのとき。
足元で、小さな音がした。
ころん、と。
硬いものが石畳を転がる。
視線が一瞬だけ落ちる。
見慣れた形。
手のひらに収まる、あの装置。
――次元移動装置。
止まる。
いや、止められる。
その装置が、わずかに光る。
かすかに。
にじんだ表示の中で、その文字だけが浮いた。
『R-54 Eden』
エデン。
その単語だけは知っていた。
知っているのに、すぐには意味にならない。
ここが、そこだと。
ほんの一拍。
「……帰って、きてる」
声が漏れる。
遅れて。
何かが落ちる。
あの人も、視線を落としている。
装置を見ている。
焦点が、合わない。
「……え」
声が漏れ出る。
かすれる。
「……エデン?」
言葉が、遅れて形になる。
その瞬間。
何かが、繋がる。
風景と。
記憶と。
名前と。
全部が、一度に戻りかける。
「……どうして」
唇が、わずかに動く。
「……ここに」
処理じゃない。
問いだった。
わからない。
でも。
あの人は。
「戻ってきたんだ」
即座に言う。
迷わず。
「おまえが、ここに来た」
一歩、さらに近づく。
私は、半歩下がる。
「リニュア」
穏やかな声。
今度は、静かに。
「帰ってきたんだよ」
その言葉だけが。
残った。
――しばらく。
私は、離れなかった。
離せなかった。
気づいたときには、教主様の衣を掴んでいた。
指先に、ちゃんと重さがある。
温度がある。
それを確かめるみたいに、もう一度握る。
「……」
言葉は出なかった。
離したら、またどこかに行ってしまう気がした。
どこへ、とは分からない。
でも。
戻ってこれない場所があることだけは、知っている。
教主様は何も言わなかった。
ただ、そのまま立っていた。
少しだけ、私の手に合わせて歩く速度を落として。
「……行こう」
やがて、小さく言う。
「ここにいても、どうにもならない」
その視線の先。
白く閉じたままのエルフィン様がいた。
触れれば砕けそうなほど、静かに。
「……戻せる?」
教主様は、それだけ聞いてきた。
私は、すぐには答えられなかった。
少しだけ遅れて。
「わかり、ません……」
それだけ言った。
「そう、か……」
なにか考えている様子だった。
教主様の袖を掴んだまま、私は歩き出す。
足元で、氷がかすかに鳴る。
その音が、少しだけ残った。
消えきらずに、靴底の裏に張りつくみたいに。
私たちはそのまま歩いた。
言葉はなかった。
石畳を踏む音だけが、規則正しく続く。
門をくぐる。
見慣れているはずの建物。
白い壁。
長い廊下。
差し込む光。
どれも、どこか遠かった。
ここがどこかは、分かる。
でも。
ちゃんと“ここにいる”感じがしない。
「……こっちだ」
教主様が、小さく言う。
私は頷いたのかどうかも分からないまま、その後をついていく。
扉が開く。
室内は静かだった。
外の音が、ひとつ奥で切れる。
「……少し、横になって」
逆らう理由はなかった。
私はそのまま、ベッドに腰を下ろす。
そのまま、横になる。
天井が見える。
白い。
ひびひとつない。
どこか作り物みたいな、きれいな白だった。
「……」
手はまだ、離れていなかった。
教主様の袖。
掴んだまま。
力は強くない。
でも、離せない。
「……いいよ、そのままで」
教主様は、無理に外そうとはしなかった。
ゆっくりと椅子を引く。
ベッドのそば。
少しだけ距離を取って、腰を下ろす。
そのとき、視界の端で白いものが動いた。
足元で、かすかな気配が止まる。
白いものだった。
小さくて、やわらかくて、雪がそのまま形を持ったみたいな塊。
けれど今度は、ただの塊ではなかった。
それはベッドの脇まで来ると、くるりと一回まわって、その場に身体を丸めた。
しっぽのようなものが、最後にふわりと沿う。
それきり動かない。
眠るみたいに、そこにいる。
しばらくして、椅子のきしむ小さな音がした。
教主様が、少しだけ身を乗り出す気配。
「話せるか?」
静かな声。
私は、少しだけ目を閉じる。
言葉を探す。
でも。
見つからない。
「……」
喉が動く。
音にならない。
代わりに、さっきの音だけが残っている。
氷が鳴る音。
割れる前の、細いひびみたいな音。
「……無理に話さなくていい」
教主様が言う。
その声に、少しだけ息が戻る。
私は目を開ける。
天井の白が、少しだけ遠のいた。
「……ここ」
やっと、それだけ言う。
「教団の医務室だ」
短い答え。
余計な言葉はない。
「……」
それ以上は、続かなかった。
静けさが落ちる。
外の音は届かない。
風もない。
ただ、呼吸だけがある。
少しずつ、揃っていく。
そのときだった。
空気が、わずかに変わる。
扉は、開いていない。
音もない。
それでも。
何かが“増えた”気がした。
教主様が、顔を上げる。
私も、遅れて視線を向ける。
部屋の端。
光の届き方が、少し違う場所。
そこに。
人がいた。
最初から、そこにいたみたいに。
「……あら」
やわらかい声。
「ずいぶん冷えているのね」
責めるでもなく。
驚くでもなく。
ただ、見たままを言うみたいに。
白い髪が、かすかに揺れる。
風はないのに。
私は、無意識に指先に力を込めた。
袖を、少し強く握る。
その人は、こちらへは近づかない。
距離を保ったまま、ゆっくりと部屋を見渡す。
視線が、私に触れる。
ほんの一瞬。
それだけで、十分だった。
見られている。
でも。
覗き込まれている感じではない。
「無理をしたのね」
もっと静かに。
ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るみたいに。
「……無事でよかったわ」
やわらかく落ちた声のあと。
少しの沈黙。
その人――アヤは、視線を私から外した。
ゆっくりと。
教主様へ。
「……ずいぶん、疲れたひとを連れてきたのね」
責めるでもなく。
ただ、事実を置くみたいに。
教主様は、小さく息を吐いた。
「……止めるのが遅れた」
短い言葉。
言い訳も、飾りもない。
アヤは少しだけ首をかしげる。
「止めたの?」
一拍。
「それとも、戻ってきたのかしら」
教主様は、答えない。
ほんのわずかに、視線を落とす。
「……どちらでもない、かもしれないな」
曖昧な返答。
でも、それで十分だった。
アヤはそれ以上は聞かない。
ただ、少しだけ目を細める。
「世界樹の音が、揺れていたわ」
静かな声。
「途切れてはいないけれど、どこか歪んでいる」
教主様が顔を上げる。
「……そうなのか?」
「ええ」
軽く頷く。
「雪は、そういうものに敏感だから」
それ以上は語らない。
説明もしない。
教主様も深くは聞かない。
ただ。
「……このまま、戻せると思う?」
少しだけ低い声。
アヤは、すぐには答えない。
一度だけ、私を見る。
ほんの一瞬。
それから、教主様へ戻る。
「戻す、という形にはならないかもしれないわね」
やわらかく。
でも、はっきりと。
「でも」
一拍。
「終わってはいないわ」
教主様の指が、わずかに動く。
その言葉を受け止めるみたいに。
「……そうだな」
それだけ言う。
アヤはそれ以上は続けない。
慰めもしない。
励ましもしない。
ただ、そこにある状態を、そのまま置いた。
そして。
視線が、ゆっくりと外れる。
部屋の中へ。
静かに、移る。
テーブルの上で、止まった。
置かれているもの。
その一点に、意識が集まる。
ほんのわずかに。
空気が変わる。
「……懐かしいわね」
まるで。
思い出すみたいに。
彼女がページをめくる。
私は、しばらく黙っていた。
言う必要はないと思っていた。
言っても、何も変わらないから。
でも。
声が、勝手に出た。
「いくつも、凍らせてきました」
それだけ。
それ以上は、続かなかった。
説明も。
言い訳も。
いらなかった。
「……」
教主様は、すぐには動かなかった。
呼吸だけが、少し遅れる。
視線が、わずかに落ちる。
それから。
戻る。
「……そうか」
それだけだった。
責めない。
否定しない。
でも。
軽くもない。
その重さだけが、残る。
私は、視線を動かさなかった。
動かしたら、崩れる気がした。
「……止められなかったのか?」
静かな声。
問いではない。
確認に近い。
私は首を振る。
「できたはず…」
一拍。
「でも…」
そこで、少しだけ息が詰まる。
それだけ言う。
部屋の空気が、少しだけ沈む。
「……そう、か」
教主様は、それ以上は言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
そのとき。
「……ええ」
別の声が、重なる。
やわらかい。
でも、逃げ場のない声。
アヤだった。
「そういう形になると思っていたわ」
私は、少しだけ視線を向ける。
アヤは、変わらず静かだった。
驚いていない。
怒ってもいない。
ただ。
最初からそこにあった事実を、確認するみたいに。
「……」
私は、何も言えなかった。
「優しい形を選ぼうとすると」
アヤは続ける。
「だいたい、そうなるの」
穏やかな声。
責めていない。
でも。
逃がしてもいない。
「……優しい、ですか」
私は、少しだけ笑った。
うまく笑えなかった。
「ええ」
アヤは頷く。
「だから、優しいのよ」
その言葉が。
少しだけ、刺さる。
否定できない形で。
「……」
教主様は、何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。
「……あら?」
アヤは、少しだけ目を細めた。
「……ここの言葉」
手には氷の装丁。
アヤの指先が、文字をなぞる。
「すこし、欠けているわね」
私は何も言えなかった。
欠けている。
その言葉だけが、遅れて胸に落ちる。
彼女は少し笑って言った。
「……失敗したけれど」
風が、白をさらう。
「昔、使っていたの」
教主様が顔を上げる。
「すぐに、忘れてしまう子たちだったから……」
やわらかく。
でも、どこか遠い。
「名前も」
「声も」
「笑い方も」
一拍。
「だから、記したの」
私は、何も言えなかった。
「憶えておくために……」
ただ。
「凍らせるためじゃないのよ」
――それだけ。
静かに、本を閉じた。
部屋の中に、薄い沈黙が落ちる。
誰もすぐには何も言わなかった。
少し遅れて、足元に小さな気配があることに気づく。
視線を落とす。
白いものがいた。
ベッドの脇。
すぐ下の、影のたまる場所で――。
部屋は静かだった。
誰も何も言わないまま、夜の気配だけがゆっくり降りてくる。
そして白いものは、ベッドのそばで、小さく丸まったまま動かなかった。