頑張って、まだまだ続けます。
雪のような髪をなびかせて、私たちの長姉は気づいたらいなくなっていた。
その人は、最後に魔導書の前に何かを綴っているようにも見えた。
エルフィン女王様と司祭長の氷も溶かしてくれた。
だが、まだ私の氷は癒えそうにない。
まだ、硬く。
冷たいまま。
女王様と司祭長からは激しく問い詰められそうになった。
教主様が間に入ってくれて、事なきを得たけれど。
ベッドから窓の外を見る。
青空に雲がゆっくりと流れている。
時計の針だけが緩やかに音を連ねる。
傾いてゆく日差し。
時折、鮮明に今までの光景が映るときがある。
終わりゆく世界。
凍らせてきた世界。
気づけば、時計の秒針よりも胸の音が近い。
私は棚にある写真立てを抱きしめる。
教主様とみんな。
そして、未来への希望に笑っていた私。
そうすれば世界に、すこしづつ音が戻ってくる。
ここは大丈夫。
大丈夫なはず。
でも、不安はぬぐえない。
いつの日も。
終わりは急にやってきた。
この世界は違うと思いたい。
ここは帰ってきたかった場所だった。
日の光に目を細める。
日が強くなってきて、カーテンを閉める。
ふと、ベッドに落ちる影を見る。
何か違和感。
光が、その穴だけを細く通っていた。
―幾日か過ぎたころ。
私は一人でも歩けるようになっていた。
元の通りとはいかないけれど。
病室には、みんながあそびに来てくれて。
冷え切った心をすこしづつ溶かしていった。
そんな日々。
ふと、教主様に呼び出された。
その顔は少しだけ躊躇っているように見えた。
「……まず、一つ」
教主様は、少し間を置いた。
「劇場が壊れた」
私は顔を上げる。
「白蛇の襲撃で、地下まで崩れていたらしい」
静かな声。
「君が本来持っていた次元移動装置も、もう残ってない」
胸の奥が、少しだけ冷える。
「……修復は」
「難しい」
短い返答。
部屋が静かになる。
時計の音だけが残る。
「……それと」
教主様は、少しだけ言葉を選ぶ。
「世界樹の裂け目が、広がっている」
私は顔を上げる。
「前より、少しずつ」
静かな声だった。
断定ではない。
報告に近い。
「各地の魔力異常も増えてる」
教主様は続ける。
「まだ原因は分からない」
一拍。
「ただ……時期が重なってるんだ」
私は、何も言わない。
胸の奥だけが、少し冷える。
「リニュア」
教主様の声は、責める響きじゃなかった。
確認するみたいに。
慎重に、触れるみたいに。
「なにか、心当たりはないか?」
その瞬間。
世界が、少し遠くなる。
時計の音。
窓の外の風。
遠くの話し声。
全部が薄くなる。
私は、視線を落とした。
指先が冷たい。
「……」
ある。
たぶん。
でも。
口にした瞬間、本当にそうなってしまう気がした。
「……私が」
喉が、少しかすれる。
「別の世界樹を伝って、こちらへ来たから……」
そこまで言って、止まる。
教主様は黙っていた。
急かさない。
否定もしない。
だから余計に、逃げられなかった。
「私は無理やり、こちらへ来ましたから」
息が詰まる。
「だから……たぶん」
頭の奥で、裂ける音みたいなものがする。
「私が、ここにいるせいで……」
私は、ゆっくり言う。
「そう……、思います。」
沈黙。
教主様は、すぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと息を吐く。
「……そうか」
それだけ。
責めない。
でも。
軽くもしない。
その静けさが、逆に苦しかった。
教主様の指が、わずかに組まれる。
「……少し、外へ出てみるか」
唐突だった。
私は顔を上げる。
教主様は、窓の外を見ている。
「ずっとここにいると、余計に考え込むからね」
静かな声。
私は少し迷ってから、小さく頷いた。
―
外の空気は、思っていたより温かかった。
世界樹の葉が揺れている。
広場には、妖精たちの声があった。
パンを運ぶ音。
笑い声。
噴水の水音。
全部、ちゃんと世界の音だった。
私は少しだけ息を吐く。
教主様は、何も言わず隣を歩いている。
広場の中央を抜けたときだった。
「……ねえ」
ふいに、声が聞こえた。
噴水のそば。
二人の妖精が話している。
「前に空が光ってたの、覚えてる?」
片方の妖精が、空を見上げながら言う。
「光ってた?」
「うん。なんか、ひらひらしてた」
両手を揺らす。
「色がいっぱいあって……動いてて」
少し考える。
「きれいだった」
もう一人の妖精が、首を傾げる。
「……あー」
小さく笑う。
「なんか分かるかも」
私は、足を止めた。
「夜だったっけ?」
「そうそう」
「空の上で、波みたいに揺れてたやつ」
「名前は知らないけど」
「でも、あれ好きだったな」
胸の奥が、小さく軋む。
教主様が、わずかに眉を寄せる。
「……何の話?」
二人の妖精は顔を見合わせる。
「え?」
「知らないんですか?」
不思議そうな顔。
「空に出てたじゃないですか。ほら、あの――」
言葉に詰まる。
名前がない。
説明もできない。
でも。
“見た記憶だけがある”
そんな顔だった。
「きれいだったよね」
片方が言う。
もう一人も頷く。
「うん。あれは覚えてる」
私は、何も言えなかった。
喉の奥に、あの冬が戻ってくる。
そんなもの。
この世界には、なかった。
でも。
私は知っている。
別の世界で見た。
空を覆っていたものを。
私は、足を止める。
教主様は前を向いたまま、小さく言った。
「……最近、こういう報告が増えてる」
広場の音だけが、少し遠くなる。
そのとき。
向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
教団の使いだった。
「教主様!」
息を切らしている。
「獣人の村から連絡が――」
そこで言葉が止まる。
私を見たからだ。
教主様が短く促す。
「構わない。続けて」
使いは頷く。
でも、顔色は悪い。
「石化が、広がっています」
胸の奥が冷える。
「村の外れだけでは止まりません」
「今朝、新たに三名……」
風が吹く。
世界樹の葉が揺れる。
平和な音は、まだ残っている。
なのに。
私は、また指先が冷えていくのを感じていた。
教主様は、報告を聞き終えると、小さく息を吐いた。
「……分かった」
短く返す。
それから、こちらを見る。
「リニュア」
静かな声。
「君は、病室へ戻っていてくれ」
胸の奥が、強く軋む。
私は反射みたいに顔を上げた。
「……どこへ」
聞かなくても、分かっていた。
「獣人の村だ」
世界が、止まる。
風の音だけが遠くなる。
私は、息を吸えなかった。
頭の奥で、何かが割れる。
白。
石。
崩れる音。
指先から砕けていく背中。
「……だめ」
声が、先に出た。
教主様が少しだけ目を細める。
私は、自分でも気づかないうちに、その袖を掴んでいた。
強く。
離さないみたいに。
「行かないで」
喉が震える。
「……リニュア」
「だめです」
視界が揺れる。
広場じゃない。
違う。
あの灰色の空。
冷たい村。
砕ける音。
「教主様は、そこへ行ったら――」
そこで、言葉が止まる。
言えない。
“死ぬ”では違う。
もっと。
取り返しのつかない終わり方を、私は知っている。
教主様は黙っていた。
周囲の妖精たちも、こちらを見ている。
でも。
もう、そんなことはどうでもよかった。
「お願いです……」
私は、袖を離せなかった。
「行かないで……」
教主様は、しばらく何も言わなかった。
風だけが吹いている。
世界樹の葉が、遠くで揺れる。
やがて。
教主様の手が、そっと私の手に触れた。
振り払うんじゃなく。
落ち着かせるみたいに。
「……分かった」
静かな声だった。
私は、ゆっくり顔を上げる。
教主様は、ちゃんとこちらを見ていた。
「今は、戻ろう」
それ以上は言わない。
でも。
その声だけで、少しだけ呼吸が戻る。
私は、小さく頷いた。
―
―そして、夜。
病室は静かだった。
窓の外には、世界樹の灯りが浮かんでいる。
リニュアは眠っていた。
浅い呼吸。
時折、小さく指先が震える。
私は、その寝顔をしばらく見ていた。
眠れているだけ、まだいい。
そう思ってしまう時点で、たぶん色々とおかしい。
静かに立ち上がる。
椅子が、小さく軋んだ。
その音にも、リニュアは起きない。
……疲れ切っている。
私は、視線を落とす。
それから、部屋を出た。
廊下は暗い。
魔導灯だけが、細く足元を照らしている。
その先に、人影があった。
ネルだった。
最初から待っていたみたいに、壁際に立っている。
「……行くのですか」
静かな声。
私は少しだけ息を吐く。
「ああ」
短く答える。
「獣人の村は、放っておけない」
ネルは何も言わなかった。
ただ、しばらくこちらを見ている。
「彼女は、止めていました」
「分かってる」
私は視線を落とした。
「だから、起こさない」
沈黙。
遠くで、時計の音だけが響いている。
私は少し迷ってから、顔を上げた。
「……ネル」
ネルが、わずかに目を細める。
「一緒に来てくれないか」
その言葉は、思っていたより重かった。
頼る、というより。
確認に近い。
一人で行くべきではないと、自分でも分かっているみたいに。
ネルは、すぐには答えなかった。
少しだけ考える。
それから。
「護衛ですか」
「違う」
私は首を振る。
「たぶん、一人だと冷静じゃいられない」
自分で言ってから、小さく苦笑する。
「教主失格だな」
ネルは、その言葉にだけ少し眉を寄せた。
「……そういうことを、自分で言うものではありません」
乾いた声。
でも、拒絶ではなかった。
一拍。
やがてネルは、小さく息を吐く。
「分かりました」
短い返答。
「ですが、無茶をするようなら止めます」
私は頷く。
「ああ。それでいい」
廊下の向こうで、夜風が小さく鳴った。
―
目が覚めたとき。
部屋はまだ薄暗かった。
窓の外に、妖精王国の灯りだけが浮かんでいる。
静かだった。
静かすぎた。
私はしばらく、天井を見ていた。
白い。
あの日と違う。
凍っていない。
でも。
胸の奥だけが、落ち着かなかった。
「……教主様?」
声を出してから、気づく。
返事がない。
いつもなら、椅子を引く音か、本を閉じる音がする。
でも。
今は何もない。
私はゆっくり身体を起こす。
毛布がずり落ちる。
冷たい。
嫌な感じがした。
視線を動かす。
椅子。
空。
テーブル。
空のカップ。
灯り。
そして。
人がいない。
「……」
喉の奥が、小さく軋む。
私は立ち上がった。
まだ少しふらつく。
でも、止まれなかった。
扉を開ける。
廊下も静かだった。
魔導灯の青白い光だけが、床を細く照らしている。
「……司祭長?」
返事はない。
少し早足になる。
角を曲がる。
誰もいない。
空気だけが冷たい。
そのとき。
頭の奥で、何かが引っかかった。
夜。
静かな廊下。
いない。
二人とも。
胸の奥が、急に冷える。
「……まさか」
言葉が、勝手に落ちる。
私は立ち止まった。
考えるより先に、嫌な予感だけが形になる。
獣人の村。
あの石像。
崩れる音。
灰色の空。
「……だめ」
息が浅くなる。
私は走り出した。
廊下を抜ける。
階段を下りる。
視界の端で、揺れる灯が流れていく。
誰かが声をかけてきた気がした。
でも、止まれない。
止まったら。
また間に合わなくなる。
外へ出る。
夜風が頬を打つ。
世界樹の枝が、暗い空に広がっていた。
その下を、私は走る。
胸の奥で、鼓動がうるさい。
頭の中では、別の音が鳴っている。
砕ける音。
石が割れる音。
白い粉。
届かなかった手。
「……教主様」
呼吸が乱れる。
でも。
足だけは止まらなかった。
今度こそ。
今度こそ、間に合わなければならない気がした。
夜が、少しずつ薄れていく。
世界樹の枝の隙間から、淡い朝の光が滲みはじめていた。
私は走っていた。
息が苦しい。
肺が痛い。
それでも止まれない。
止まれば、また遅れる気がした。
風景が揺れる。
森の輪郭。
石畳。
白い霧。
頭の奥では、ずっと別の景色がちらついている。
灰色。
石。
砕ける音。
「……っ」
私は息を飲む。
視界の先。
獣人の村の門が見えた。
異様なほど静かだった。
鳥の声もない。
風の音だけが、乾いて通り抜けていく。
そして。
門の前に、人影が倒れていた。
「……!」
足がもつれる。
それでも、私は駆け寄る。
ネル司祭長。
その向こう。
教主様。
倒れている。
動かない。
「……教主様」
声が掠れる。
私は膝をついた。
その瞬間。
見えてしまう。
足。
膝の下。
灰白色。
石。
「……ぁ」
世界が、一瞬遠くなる。
違う。
同じじゃない。
まだ、全部じゃない。
でも。
知っている。
この先を。
「……来るな」
掠れた声。
教主様だった。
息が乱れている。
それでも、こちらを見ていた。
「触るな……リニュア」
私は首を振る。
そんなの、聞けるわけがない。
その横で、ネル司祭長が低く息を吐く。
「進行が早すぎます……」
教主様の腕を押さえている。
その指先が、わずかに灰色へ侵されていた。
「村の中心に近づいた途端に……魔力が逆流したのです」
声は冷静だった。
でも。
額には汗が浮いている。
「これは、普通の石化では――」
そこで言葉が切れる。
教主様の足元で、また灰色が広がったからだ。
私は震える手を伸ばした。
触れる。
冷たい。
石なのに。
奥で、なにかが流れている。
「……?」
私は息を止める。
ただ固まっているわけじゃない。
これは。
動いている。
ゆっくり。
侵食するみたいに。
「魔力……?」
言葉が漏れる。
石化の奥で、濁った流れみたいなものが脈打っている。
私は反射みたいに、自分の魔力を流し込む。
押し返す。
止める。
侵食を削るみたいに。
空気が軋む。
白い霜が散る。
一瞬だけ。
石化の広がりが止まる。
「……止まった」
でも。
次の瞬間。
ずしり、と。
重い。
押し返される。
濁流みたいな魔力。
深い。
大きい。
「……足りない」
息が乱れる。
視界が揺れる。
押し返せない。
止まらない。
石化は、ゆっくりと上へ進もうとしていた。
私は唇を噛む。
どうする。
どうすれば。
そのとき。
懐で、硬い感触が触れた。
魔導書。
私は反射的にそれを掴む。
白い表紙。
冷たい感触。
凍結の魔導書。
「……」
そこで、ふと。
頭の奥に引っかかる。
石化。
停止。
侵食。
時間。
「……これ」
喉がかすれる。
これは。
ただ固まっているんじゃない。
流れが、止められている。
閉じ込められている。
時間ごと。
頭の奥で、何かが繋がる。
私は魔導書を開く。
風が吹く。
ページがめくれる。
ぱらり、と。
そして。
止まる。
最初のページ。
そこに。
見覚えのない一文が記されていた。
『われら七つの芽』
その文字を見た瞬間。
胸の奥で、何かが鳴った。
凍てつく冬。
白い雪原。
万年雪。
遠い声。
アヤの横顔。
本の前で指を止めていたことを、遅れて思い出す。
記憶が、ばらばらに浮かび上がる。
『根を同じくするものよ』
『凍てつく息を受け取り――』
違う。
欠けていた。
最初から。
私は、息を止める。
頭の奥で。
散らばっていたものが、ゆっくり繋がり始めていた。
私は、震える指でページを押さえた。
風が吹く。
紙が揺れる。
けれど、その文字だけは、やけに鮮明だった。
頭の奥で、何かが繋がっていく。
凍結。
停止。
終わらせるためじゃない。
留めるためのもの。
失わせないためのもの。
私は、ゆっくり息を吸う。
喉が痛い。
でも、言葉は自然に落ちてきた。
「――われら七つの芽」
空気が、変わる。
足もとの霜が、小さく鳴る。
「根を同じくするものよ」
白い冷気が、指先から溢れる。
でも。
今までと違う。
広がらない。
流れていく。
ひとつの方向へ。
「凍てつく息を受け取り、流れる時をここに留めよ」
教主様の足。
石化した部分へ。
白が、静かに集まっていく。
私は、息を止めず続けた。
「いまこの枝に終わらぬ冬を与えん」
その瞬間。
石化の灰色が、わずかに止まる。
空気が軋む。
濁った流れが、白に押し返される。
世界が、きしきしと鳴っていた。
「大いなる母の名の下に――」
視界が揺れる。
頭が痛い。
でも、止められない。
「すべての時が帰らんことを」
最後の言葉が落ちた瞬間。
白が走る。
今までみたいに世界を覆うんじゃない。
一本の線みたいに。
教主様の足へ。
灰色と白がぶつかる。
石が鳴る。
凍結が、侵食を押し留める。
止まれ。
止まれ。
私は、魔導書を握りしめた。
冷気が腕を裂くみたいに流れていく。
その瞬間。
ぱきり、と。
小さな音。
教主様の足を覆っていた灰色が、ひび割れた。
石が崩れる。
白い粉になって落ちる。
私は息を呑む。
灰色が、少しずつ剥がれていく。
膝。
脛。
足先。
石化が、戻っていく。
「……っ」
呼吸が戻る。
教主様の指先が、わずかに動いた。
教主様の呼吸が、小さく震える。
「……リニュア」
掠れた声だった。
それだけで、胸の奥が崩れそうになる。
私は、その場に崩れそうになる。
助かった。
今度は。
間に合った。
でも。
次の瞬間。
視界の端に、村が映る。
灰色。
静止。
獣人たち。
立ったまま。
倒れたまま。
祈った姿のまま。
全部。
石になっている。
私は、息を止めた。
魔力を流そうとする。
でも。
動かない。
足りない。
分かってしまう。
さっきので、ほとんど使い切った。
私は震える手を伸ばす。
近くにいた獣人へ。
石。
冷たい。
深い。
あまりにも、深く止まりすぎている。
「……戻って」
声がかすれる。
教主様は、何か言いかけて。
でも、言葉にならなかった。
私の言葉に何も返らない。
もう一度、魔力を流そうとした。
でも。
白は、指先でほどけるだけだった。
届かない。
間に合わない。
私は、その場で立ち尽くす。
朝日が、少しずつ村を照らしていた。
石になった姿だけが、静かに光っている。
風が吹く。
背後で、ネル司祭長がゆっくり身体を起こす気配がした。
けれど、何も言わない。
村を見ている。
石になった獣人たちを。
助けられたのは、一人だけだった。
伏線回収までが長かった…。