ごめんなさい。揺らぎの装置が壊れたことを忘れてたので、少し修正しました。
獣人の村に残された簡易の寝台。
薄い布越しに、朝の光が差し込んでいた。
私は、その横に座っていた。
教主様は眠っている。
足には、まだ白い霜の跡が残っていた。
完全に戻ったわけじゃない。
でも。
動く。
呼吸もある。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
部屋の外は静かだった。
石化した村。
止まった時間。
誰も笑わない朝。
「……起きてたんだね」
掠れた声。
私は顔を上げる。
教主様が、ゆっくりこちらを見ていた。
「……ごめんなさい」
言葉が先に落ちた。
自分でも、なにに対してなのか分からないまま。
教主様は少しだけ目を細める。
「謝る必要なんかないよ」
穏やかな声だった。
責める響きは、少しもない。
私は視線を落とす。
揺らぎの装置。
暗い画面のまま。
「私がいるからです」
小さい声。
「私が、別の世界から来たから」
喉が少しかすれる。
「世界樹が揺れてる」
「記憶も混ざってる」
「石化も……たぶん」
そこまで言って、言葉が止まる。
全部、自分のせいだと言ってしまえば、少し楽だった。
でも。
本当にそうなのかは、もう分からない。
教主様は、しばらく黙っていた。
静かな時間。
外で風が鳴る。
やがて。
「……その装置」
教主様が、小さく言う。
私は顔を上げる。
「リニュアは、ずっとそれを見てたんだな」
私は頷く。
指先に力が入る。
「揺らぎを測る装置です」
「世界樹の状態を、数値で……」
途中で息を飲む。
今までは、それが絶対だった。
数字が上がれば、世界は壊れる。
そうやって判断してきた。
「一定の高い値になると、もう戻せません」
声が小さくなる。
「だから、その前に……」
凍らせた。
とは、言えなかった。
でも。
教主様は、たぶん分かっている。
「……なあ、リニュア」
穏やかな声。
私は顔を上げる。
教主様は、天井を見たまま続けた。
「君は、どこから“終わり”だと思ってたんだ?」
私は息を止める。
どこから。
そんなの。
決まっている。
「揺らぎが増えたら」
「世界樹に異常が出たら」
「人が変わり始めたら」
「……もう、止まらないから」
言いながら。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
教主様は、否定しない。
ただ、小さく息を吐く。
「そうか」
静かな返事。
それだけだった。
責めない。
違うとも言わない。
だから、余計に苦しかった。
しばらくして。
教主様は、ゆっくりこちらを見る。
「でも」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「この世界は、まだ終わってないよ」
私は、言葉を失う。
窓の外。
朝の光。
風。
遠くで、誰かの足音がする。
石化した村なのに。
それでも、世界は止まりきっていない。
「……君は」
教主様が続ける。
「壊れ始めた世界を、ずっと見てきたんだと思う」
「だから、少しでも揺れたら、“もう間に合わない”って思ってしまう」
私は、何も言えなかった。
図星だった。
教主様は、小さく笑う。
「でもさ」
「崩れかけることと、終わることは、たぶん同じじゃない」
その言葉が。
胸の奥へ、ゆっくり落ちていく。
痛いくらい静かに。
私は、視線を落とした。
「……でも」
声が、うまく出ない。
喉の奥が少し痛い。
「壊れるんです」
私は、表示のつかない装置を握った。
「放っておいても」
「間に合わなくても」
「止めようとしても」
息を吸う。
頭の奥で、いくつもの景色が重なる。
燃える街。
崩れる塔。
濁った水。
白く閉じた世界。
「私は、見てきました」
声が、少しずつ硬くなる。
「まだ大丈夫だって言ってるうちに、全部終わった世界を」
指先が震える。
「あと少し早ければって」
「もっと早く決めていればって」
「そういう場所を、何度も」
そこで、息が詰まった。
思い出したくない。
でも、勝手に浮かぶ。
助けを求める声。
間に合わなかった手。
凍結の白。
私は目を閉じる。
「……だから」
小さく言う。
「止めるしか、なかったんです」
部屋が静かになる。
教主様は、すぐには答えなかった。
否定もしない。
ただ、黙って聞いている。
その沈黙が、少し怖かった。
「……うん」
やがて、教主様が小さく頷く。
「たぶん、君は本当に見てきたんだと思う」
穏やかな声。
軽く扱わない。
冗談みたいにも言わない。
「わたしは、その景色を知らない」
静かな返答。
「だから、“そんなことない”とは言えない」
私は、少しだけ顔を上げる。
教主様は、窓の外を見ていた。
朝の光が、その横顔を薄く照らしている。
「でも」
その声は、変わらず静かだった。
「君が見てきた世界って」
少し考えるみたいに、間が空く。
「全部、“終わったあと”なのかもしれない」
私は、息を止める。
「……え」
「壊れた世界」
「間に合わなかった世界」
「止められなかった世界」
教主様は、ゆっくり言葉を並べる。
「君は、それを見続けてきた」
風が吹く。
カーテンが少し揺れる。
「だから」
教主様が、こちらを見る。
「“壊れかけてる途中”を、信じられなくなってるんじゃないかな」
私は、何も言えなかった。
胸の奥が、小さく軋む。
「……でも」
声が出る。
弱い声。
「実際に、壊れるんです」
「待っていたら、間に合わない世界もあった」
教主様は頷く。
「うん」
否定しない。
「あるんだと思う」
その返事が、逆に苦しかった。
簡単に慰めない。
希望だけを押しつけない。
「でもさ」
教主様は、小さく息を吐く。
「今日、君は間に合った」
その言葉で。
世界が、少し止まる。
私は、言葉を失う。
「……教主様だけです」
ようやく、それだけ言う。
「村のみんなは、助けられなかった」
喉がかすれる。
「結局、また……全部は」
最後まで言えなかった。
教主様は、しばらく黙っていた。
それから。
「全部じゃなかったら、意味がない?」
静かな声。
私は、答えられない。
教主様は、責めるみたいには言わなかった。
ただ、本当に聞いているだけだった。
「リニュアは」
ゆっくり続ける。
「今まで、世界ごと救おうとしてたんだよな」
私は、小さく頷く。
たぶん。
そうだった。
一人だけじゃ、意味がないと思っていた。
誰かだけ残っても。
結局また壊れると思っていた。
だから。
閉じた。
全部。
「でも」
教主様が、ゆっくり目を閉じる。
「わたしは、今日助けられたこと、ちゃんと意味があると思ってるよ」
その声は、静かだった。
でも。
不思議なくらい、揺れなかった。
私は、何も言えなかった。
教主様の言葉が、胸の奥に残っている。
意味がある。
たった一人でも。
助けられたなら。
そんなふうに考えたことは、たぶんなかった。
私はずっと。
間に合わなかった世界を見てきた。
救えなかった数を数えてきた。
だから。
全部救えないなら、意味がないと思っていた。
でも。
教主様は、生きている。
その事実だけが、静かにそこにあった。
部屋に、風が入る。
薄いカーテンが揺れる。
私は、手の中の装置を見る。
画面は暗いままだ。
前なら。
きっと、もう遅いと思っていた。
でも今は。
教主様の言葉が、邪魔をする。
――まだ終わってないよ。
胸の奥が、小さく痛む。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「……教主様」
小さい声。
「もし」
そこで、一度止まる。
喉が、少しだけ震える。
「もし、このまま揺らぎが増え続けたら」
視線を落とす。
「この世界は、たぶん……私が見てきた世界に近づいていきます」
オーロラ。
記憶の混線。
石化。
壊れた法則。
全部。
もう始まっている。
「ここが、エデンじゃなくなっていく」
言葉にした瞬間。
胸の奥が、冷たくなる。
私は、この世界が好きだった。
ここへ帰ってきたかった。
みんなが笑っている、この景色を。
ずっと探していた。
だから。
壊したくない。
「……私は」
声が、少しかすれる。
「ここに、いたいです」
初めて、ちゃんと言葉にした気がした。
教主様は、黙って聞いている。
「でも」
私は、装置を握る。
小さな音。
それだけで、胸が痛い。
「私がいる限り」
「この世界は、少しずつ混ざっていく」
風が吹く。
遠くで、鳥の声がした。
まだ、世界は静かだった。
だから余計に。
怖かった。
「……今なら、まだ」
私は、ゆっくり言う。
「“エデン”のまま、残せるかもしれない」
教主様が、わずかに目を細める。
私は、笑おうとした。
でも、うまくできなかった。
「たぶん、初めてなんです」
窓の外を見る。
朝の光。
揺れる葉。
止まっていない世界。
「壊れる前に、離れたいって思ったの」
今までは違った。
終わったあとだった。
凍らせたあとだった。
でも今は。
まだ、間に合うかもしれない。
だから。
行かなければならない。
胸の奥が、ゆっくり痛む。
残りたい。
本当は。
ここにいたい。
教主様のそばに。
みんなのいる場所に。
でも。
だからこそ。
私は、ここを私の見てきた終わりに変えたくなかった。
「……行くのか」
教主様の声は、静かだった。
私は、小さく頷く。
その動きだけで、胸が少し裂けそうになる。
「はい」
短い返事。
でも。
今までで、一番重かった。
部屋が静かになる。
窓の外では、風が世界樹の葉を揺らしていた。
私は、装置を握ったまま俯く。
そのとき。
こん、と。
小さな音がした。
扉。
視線を向ける。
少しだけ開いた隙間から、白いものが入り込んできた。
雪の塊みたいな、小さな影。
丸くて。
ふわふわしていて。
でも、ちゃんと歩いている。
「……雪」
気づけば、声がこぼれていた。
その雪の塊は、いつものように返事をしない。
ただ、静かにこちらへ来る。
迷わず。
まっすぐ。
ベッドのそばまで来ると、そこで止まった。
見上げている。
黒い目だけが、じっとこちらを映していた。
私は、少しだけ笑いそうになる。
「……あなたも来るの?」
それは答えない。
でも。
逃げない。
その白い身体だけが、そこにある。
教主様が、小さく息を吐いた。
「たぶん、そのつもりなんだろうな」
穏やかな声。
それから、何かを探るように懐へ手を入れる。
金属音。
教主様は、小さな拳銃を取り出した。
黒。
でも、どこか古びている。
私は、それを知っていた。
「……COCO」
教主様は、安全装置を確認してから、そっとこちらへ差し出す。
私は少し迷って、それを受け取った。
冷たい。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
その重さが、手の中へ静かに収まる。
教主様は窓の外を見つめていた。
「……親子、か……」
誰にでもないその言葉はゆっくりと溶けていった。
教主様は、白い塊を見る。
それは、相変わらず何も言わない。
「COCOも」
教主様が、小さく言った。
「一緒に連れて行ってほしいってさ」
私は、ゆっくり瞬きをする。
その白い塊は、変わらずこちらを見ている。
その姿が、少しだけ滲んだ。
「……ずるいです」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
教主様が少しだけ笑う。
「何が?」
私は答えない。
答えたら、本当に行くことになる気がした。
雪の塊が、私の足元へ寄る。
白い身体が、そっと触れる。
私は、手の中のCOCOを見る。
教主様が握っていたせいか、金属なのに少しだけぬるかった。
その熱が、掌に残る。
足元では、白いものの体温が静かに伝わってくる。
形は違うのに。
どこか、同じ温度だった。
私は、小さく目を閉じる。
行かなければならない。
でも。
ひとりでは、なかった。