「お前が、既に通り過ぎた世界だ」
その言葉の意味を。
私はまだ理解していなかった。
次の瞬間。
熱風が頬を叩いた。
胸元の装置が小さく震える。
0.00%だった数字が、ゆっくりと書き換わっていく。
32.4%
57.8%
78.00%
赤い空。
崩れた塔。
焼け落ちる街。
私は、再び戻ってきた。
妖精王国。
炎の世界に。
肺の中に焦げるようなにおいが満ちる。
街は、いたるところから火の手が上がっている。
赤い空。
舞い落ちる灰。
熱風。
何も変わっていない。
――いや。
違う。
私は、この光景を知っている。
初めて訪れたとき。
私は、この世界を救えると思っていた。
まだ間に合うと思っていた。
教主様を見つけられるかもしれないと。
そんなことを考えていた。
でも。
おぼろげながら思い出す。
この先で何が起きるのかを。
燃え続ける妖精たち。
終われない苦痛。
世界樹。
そして――マリーさん。
胸の奥が重くなる。
「……」
私は静かに目を閉じた。
熱い風が頬を撫でる。
あの日と同じ。
なのに。
あの日よりずっと冷たく感じた。
足元で、白い塊が小さく動く。
私は視線を落とす。
雪みたいなそれは、しばらく辺りを見回していた。
そして。
何かを見つけたみたいに。
突然、走り出した。
「え?」
白い塊は炎の向こうへ駆けていく。
迷いなく。
まっすぐに。
世界樹のある方向へ。
「ちょ、待って!」
私は慌てて追いかけた。
そのとき。
足元で何かにつまずいた。
「きゃっ!」
身体が前へ投げ出される。
石畳へ手をつく。
熱い。
思わず顔をしかめる。
だが。
違和感があった。
石ではない。
柔らかい。
恐る恐る視線を下ろす。
そこにいた。
「あ……」
妖精だった。
全身が黒く焼けている。
腕も。
頬も。
翅も。
原形を留めていない。
それなのに。
まだ生きていた。
「あつい……」
かすれた声。
「あつい……」
その言葉だけを繰り返している。
私は息を呑む。
妖精は私を見ていない。
助けも求めない。
ただ。
終わらない苦しみの中で。
「あつい」
と呟き続けている。
私は唇を噛んだ。
知っている。
この世界の人たちは死ねない。
世界樹が守っているから。
守り続けているから。
だから終われない。
妖精の指先が地面を掻く。
血の代わりに。
赤い火花が散った。
「あつい……」
「……」
何もできない。
前の私も。
何もできなかった。
でも。
今回は違う。
私は、思い出していた。
この先に待っているものを。
胸の奥が重く沈む。
助けたい。
救いたい。
そんな言葉が頭をよぎる。
けれど。
目の前の妖精を見ていると。
別の感情が生まれていた。
違う。
そうじゃない。
「……終わらせないと」
小さく呟く。
妖精のために。
この世界のために。
終われない苦しみを。
終わらせなければならない。
私は立ち上がった。
視線の先。
炎の向こうを。
雪のような獣が駆けていく。
まっすぐ。
迷いなく。
世界樹へ。
「待って!」
私は再び走り出した。
熱風が頬を叩く。
燃え上がる建物を抜ける。
崩れた橋を飛び越える。
そして。
世界樹が見えた。
巨大な幹。
脈打つ根。
青白い光。
炎に包まれているはずなのに。
そこだけは。
まるで別の生き物みたいに呼吸していた。
私は足を止める。
世界樹の根元。
誰かがいた。
青い法衣。
煤に汚れ。
ところどころ焼け焦げている。
けれど。
その色だけは、まだ分かった。
長い金髪が肩へ流れている。
痩せ細った背中。
その腕の中には。
白い服に包まれた小さな身体。
金色の髪。
見慣れた王冠。
私は息を呑む。
「……ネルさん?」
その背中が、わずかに震えた。
そして。
腕の中の少女を見た瞬間。
私の心臓が止まりそうになる。
「……女王様」
返事はない。
炎の世界の中心で。
エルフィン女王は静かに眠っていた。
周囲には熱風が吹き荒れている。
それなのに。
その白い手だけが。
雪みたいに冷たく見えた。
私は思わず駆け寄る。
「ネルさん!」
その肩がびくりと震える。
ゆっくりと振り返った顔は。
別人みたいにやつれていた。
頬はこけ。
唇はひび割れ。
金色の髪も煤で汚れている。
何日も。
いや。
何週間も眠っていないような顔だった。
「……誰ですか」
かすれた声。
私は言葉に詰まる。
この世界の司祭長は。
私を知らない。
当然だ。
ここは私の知る世界ではない。
「私は――」
名乗ろうとして。
その声は止まった。
司祭長の視線は。
私ではなく。
腕の中の女王様へ向いていたから。
震える指が。
女王様の頬へ触れる。
「まだ……」
小さな声。
「まだ冷たい……」
私は息を呑む。
司祭長は女王様を抱きしめる。
まるで。
体温を分け与えるみたいに。
「お願いです……」
かすれた声。
世界樹へ向けて。
祈るように。
縋るように。
「お願いです……」
その肩が震える。
「温めてください」
私は顔を上げる。
世界樹が脈打つ。
巨大な根が光る。
青白い光が。
少しずつ赤く染まっていく。
司祭長は気づかない。
ただ。
祈り続けている。
「女王様を……」
声が震える。
「温めてください」
どくん。
また脈打つ。
周囲の炎が強くなる。
熱風が吹き荒れる。
火の粉が舞い上がる。
私は思わず目を見開いた。
世界樹が。
反応している。
「ネルさん、やめて!」
叫ぶ。
でも。
司祭長には聞こえていない。
「お願いです……」
祈る。
「お願いです……」
世界樹が応える。
熱を。
魔力を。
命を。
ありったけ注ぎ込む。
願いを叶えようとするみたいに。
私は理解する。
いや。
理解してしまう。
司祭長は。
ただ願っただけだ。
冷たくなった女王様を。
温めてほしいと。
世界樹は。
その願いに応え続けている。
今も。
ずっと。
私は周囲を見る。
苦しむ妖精たち。
燃え続ける街。
終われない命。
全部。
同じ願いから始まっていた。
誰かを助けたい。
失いたくない。
ただ、それだけの願い。
胸の奥が痛む。
私は女王様を見る。
白い服。
金色の髪。
閉じられた瞳。
炎の中心にいるのに。
少しずつ。
少しずつ。
温度が失われていく。
司祭長の腕の中で。
女王様だけが。
静かに冷たくなっていた。
すると。
「……あんた」
どこかで聞き覚えのある声。
私は振り返る。
炎の向こう。
見覚えのある妖精が立っていた。
煤だらけの髪。
疲れ切った顔。
それでも。
あの冷たい目だけは忘れられない。
「あんた、まだいたのか……」
マリーさんだった。
その両腕には。
巨大な爆薬が抱えられている。
司祭長も顔を上げた。
「……マリー」
かすれた声。
マリーさんは答えない。
ただ。
世界樹を見上げる。
燃え続ける根。
苦しみ続ける街。
叫び続ける妖精たち。
全部を見渡して。
静かに言った。
「司祭長」
その声は不思議なほど穏やかだった。
怒りでもない。
憎しみでもない。
ただ。
長い苦しみの果てに辿り着いた声。
「……もう終わりにしよう」
司祭長の肩が震えた。
「だめです」
掠れた声。
「だめです……!」
女王様を抱きしめる腕に力が入る。
「もう少しだけ……」
涙が落ちる。
「もう少しだけ待ってください……!」
マリーさんは首を振った。
「待ったよ」
静かな声。
「三日も」
一歩。
世界樹へ近づく。
「みんな待った」
また一歩。
「ずっと待った」
炎が揺れる。
「でも、もう誰も楽になれない」
私は反射的に前へ出た。
「待ってください!」
マリーさんが足を止める。
私は息を整える。
何か。
何か言わなければ。
「まだ方法が――」
言葉が続かない。
自分でも分かっていた。
方法なんてない。
見つけられなかった。
マリーさんはそんな私を見た。
そして。
少しだけ悲しそうに笑った。
「旅人さん」
静かな声。
「だったら教えて」
爆薬を抱える手に力が入る。
「あの子たちを、どうやって助けるの?」
遠くで。
「あつい」
という声が響く。
「楽になりたい」
という声も。
私の喉が詰まる。
答えられない。
マリーさんは、それだけで十分だったみたいに頷いた。
「そうだよね」
司祭長が立ち上がる。
ふらつきながら。
マリーさんへ駆け寄る。
「だめです!」
その腕を掴む。
「お願いです!」
縋りつく。
「まだ終わらせないでください!」
マリーさんの身体が止まる。
ほんの一瞬だけ。
司祭長の涙が落ちた。
「女王様が……」
震える声。
「女王様が目を覚ますかもしれない……!」
マリーさんは目を閉じた。
そして。
ゆっくりと。
司祭長の手を外した。
「目を覚ましたとして」
小さな声。
「この景色を見せたいの?」
司祭長の呼吸が止まる。
「それとも」
マリーさんは周囲を見る。
燃え続ける街。
苦しみ続ける妖精たち。
終われない命。
「このまま永遠に燃やし続けたいの?」
司祭長は何も言えない。
言葉が出ない。
マリーさんは静かに背を向けた。
爆薬を抱えたまま。
まっすぐ世界樹へ向かう。
「待って!」
私は叫ぶ。
でも。
その声は届かない。
いや。
届いていたとしても。
もう止まらない。
そんな背中だった。
司祭長が崩れるように膝をつく。
女王様を抱きしめたまま。
声にならない声を漏らしている。
そのときだった。
足元の白い塊が動く。
「――え?」
白い塊が駆け出した。
炎の中を。
一直線に。
世界樹へ。
「待って!」
思わず追いかける。
熱風が吹き付ける。
灰が舞う。
燃え続ける妖精たちの声が聞こえる。
「あつい」
「たすけて」
「おわらせて」
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
白い塊は止まらない。
世界樹へ。
ただひたすら走る。
その先で。
マリーさんが爆薬を設置していた。
導火線に火が灯る。
小さな火。
でも。
それだけで十分だった。
「だめ!」
叫ぶ。
走る。
間に合わない。
導火線の火は。
世界樹の根元へ吸い込まれていく。
その瞬間。
理解した。
止められない。
もう。
誰も。
何も。
間に合わない。
司祭長の祈りも。
マリーさんの決意も。
燃え続ける妖精たちも。
全部。
ここで終わる。
――本当に?
胸の奥で。
何かが引っかかる。
終わる。
終わらせる。
救う。
救えない。
そのどれでもない。
エレナ様の言葉が蘇る。
『凍結は、終わらせないためのものじゃない』
『終わりきらせないためのものだ』
呼吸が止まる。
私は世界樹を見る。
司祭長を見る。
マリーさんを見る。
燃え続ける街を見る。
そして。
ようやく理解した。
私はこの世界を救えない。
今から全部を変えることもできない。
でも。
終わったことにする必要もない。
「……そうか」
呟く。
「終わらせなければいいんだ」
胸元の装置を握る。
78.00%
数字は静かに揺れている。
白い塊が世界樹の根元へ辿り着く。
爆薬の火花が弾ける。
世界が白く染まる。
その瞬間。
私は魔導書を開いた。
「凍れ――!」
膨大な魔力が解き放たれる。
炎が止まる。
灰が止まる。
爆発が止まる。
泣き叫ぶ妖精も。
崩れ落ちる世界樹も。
司祭長の涙も。
マリーさんの決意も。
全部。
その瞬間のまま。
世界ごと。
静止した。
音が消える。
炎も。
風も。
悲鳴も。
何もかも。
白い静寂だけが残った。
私は荒い息を吐く。
静止した世界。
凍りついた炎。
その中で。
胸元が熱い。
「……?」
装置が震えていた。
まるで。
脈を打つみたいに。
ピッ。
78.00%
その数字が揺れた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
次の瞬間。
79.93%
80.81%
止まらない。
数字が狂ったように上昇していく。
「なに……これ……」
手が震える。
壊れたのかと思った。
でも違う。
ただ。
私は気づいていなかった。
83.12%
84.67%
86.03%
私は息を止めた。
装置を握る指先が、
かすかに痺れている。
静寂。
凍りついた炎。
止まった爆発。
泣き続けていた妖精たち。
そのすべてが、
今だけは苦しみを止めていた。
私は胸元の装置を見る。
86.03%
数字はまだ微かに揺れていた。
理由なんて分からない。
本当にこれで良かったのかも分からない。
私はゆっくり顔を上げる。
世界樹の根元。
そこに、
白い塊がいた。
相変わらず。
雪みたいな姿のまま。
何も言わない。
何も変わらない。
ただ。
静かにこちらを見ていた。