終わりなき帰還   作:赤銀

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誰かの炎

 

 

「誰だ」

 

背後から声がした。

 

私は反射的に振り返る。

 

教主様が、宴会場の奥に立っていた。

 

顔はまだ影の中にある。

 

「……教主様」

 

返事はない。

 

視線だけが、私の手元に落ちる。

 

手記。

 

ペン。

 

開かれたページ。

 

少しして。

 

教主様は扉の方へ視線をやった。

 

私は教主様の前に歩み出る。

 

「どうして私のことを知っているんですか」

 

一歩。

 

「どうして、私がここに長くいないことを知っているんですか」

 

もう一歩。

 

「どうして、タイムパラドックスなんて言ったんですか」

 

教主様は答えない。

 

私は手記を指さす。

 

「それに――」

 

「何度って、どういうことですか」

 

やがて、教主様はため息を一つ。

 

静寂。

 

「……見たのか」

 

それから、わずかに目を細める。

 

「君は、本当に……変わり映えがしなくて、つまらないな」

 

私は息をのむ。

 

「いいから、明日までにはここから出ろ」

 

「なぜ?」

 

「明日には、この次元は消えてなくなるからだ」

 

「……どういうことですか?」

 

「そのままの意味だよ」

 

「理解できません」

 

「理解しなくていい」

 

「待ってください」

 

「待たない」

 

「教主様!」

 

教主様は、ふっと笑った。

 

それは楽しそうな笑いではなかった。

 

どこか、自分でも可笑しくなったような。

 

おもむろに壁に掛けられたたいまつを一本外す。

 

閉め切られた部屋が少しだけ明るくなる。

 

その炎を、隣のたいまつへ移す。

 

壁際に、ひとつ。

 

またひとつ。

 

背をこちらに向けたまま。

 

「そろそろ、火をつけるのも慣れてきたところなんだ」

 

少し間。

 

「だから、これ以上構わないでくれ」

 

そう言って、たいまつを片手に階段を上がっていく。

 

私は、その背中を追うこともできずに立ち尽くした。

 

やがて静かな宴会場が戻ってきた。

 

残っているのは、外の喧騒だけ。

 

妖精たちの話し声。

 

荷車の音。

 

遠くの笑い声。

 

私は視線をテーブルに移した。

 

教主様の手記。

 

手記に指をかける。

 

一枚、めくる。

 

教主様の字。

 

けれど、見慣れた書き方ではなかった。

 

修養録なら知っている。

 

面倒くさがって、何日も空いていることがある。

 

たまに思い出したように書いて。

 

エルフィン女王のこと。

 

使徒たちのこと。

 

今日あった、どうでもいいこと。

 

そういうものが並んでいるはずだった。

 

でも、これは違う。

 

日付。

 

数字。

 

植物の名前。

 

また数字。

 

「次は半分」

 

ところどころに文章が散りばめられている。

 

一枚めくる。

 

同じ植物。

 

量だけが違う。

 

さらに一枚。

 

「今回は早すぎた」

 

私は眉をひそめる。

 

こんなに律儀に記録をつける人だっただろうか。

 

しかも、書いてあるのは誰かとの思い出ではない。

 

ほとんどが、数字と植物ばかりだった。

 

私は目で追いながら、次のページへ進む。

 

外からは、まだ妖精たちの話し声が聞こえていた。

 

ページをめくる。

 

また一枚。

 

さらに一枚。

 

いつの間にか、読む速さが少しずつ上がっていた。

 

知りたい。

 

何が起きているのか。

 

教主様が何を知っているのか。

 

どうして、私のことを。

 

紙が擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

ぱらり。

 

次のページ。

 

そこで、指が止まった。

 

ーー今日も同じ場所だった。

 

ーー今度は、彼女が泣かなかった。

 

ーー前回より少し早い。

 

ーーまだ、何も知らない。

 

ーー彼女との約束は守る。

 

ーー次に来た彼女には、最後を見せない。

 

私はその言葉を何度も目で追った。

 

彼女。

 

どの彼女のことを言っているのか、分からない。

 

「……次に?」

 

ページの文字が、いつの間にか読みづらくなっていた。

 

続きのページは破れ去られている。

 

切れ端だけが挟まっていた。

 

顔を上げる。

 

窓の外は、もう暗い。

 

……静かだった。

 

あれほど賑やかだった大通りから、何の音もしない。

 

少しして、2階から足音。

 

コツ。

 

コツ。

 

教主様がたいまつを持って降りてくる。

 

「まだいたのか」

 

私は返事をするより先に、教主様の姿を見た。

 

いつもの白い法衣ではない。

 

全身を覆う、黒い装束。

 

背には、見慣れない大きなバックパックを背負っている。

 

肩に食い込むほど重そうだった。

 

「……その格好」

 

教主様は答えない。

 

たいまつの火が揺れる。

 

影が、黒い服の上を這う。

 

私は立ち上がった。

 

「何をするつもりなんですか」

 

教主様は私ではなく、テーブルの上の手記を見る。

 

少しして。

 

「二階に」

 

私は眉をひそめる。

 

「君が求めていたものがある」

 

「……私が?」

 

教主様はそれ以上何も言わなかった。

 

そのまま扉へ向かう。

 

「待ってください」

 

足を止めない。

 

私は階段を見る。

 

それから、教主様を見る。

 

黒い背中が扉の向こうへ消えていく。

 

迷ったのは、ほんの少しだった。

 

「……白いの。行きましょう」

 

私は階段を上がる。

 

二階は暗かった。

 

たいまつの明かりも届かない。

 

壁に手をつきながら進む。

 

ひとつだけ、扉から光が漏れていた。

 

その部屋へ入る。

 

机。

 

椅子。

 

積まれた紙。

 

そして。

 

床に、一枚だけ紙が落ちていた。

 

端が不自然に破れている。

 

手記と同じ紙。

 

私は拾い上げる。

 

そのとき。

 

階下から、重いものを床に置くような音がした。

 

ゴトン。

 

少しして。

 

何かの蓋を開けるような音。

 

カチ。

 

私は階段の方を見る。

 

「……教主様?」

 

返事はない。

 

また、物音。

 

今度は何かを引きずるような音だった。

 

けれど、すぐに遠ざかっていく。

 

私は手元の紙へ視線を戻した。

 

教主様の字。

 

間違いない。

 

そのページを読む。

 

ーーもう私には、あの子が見えていない。

 

ーー声も聞こえない。

 

ーーそれでも、明日は来る。

 

ーーそして、また彼女が来る。

 

ーー彼女との約束は守る。

 

ーー次に来た彼女には、最後を見せない。

 

ーーだから、眠ってもらう。

 

ーー彼女がまた止めに来る前に、全部終わらせる。

 

私は、その一文を指でなぞった。

 

ーー今度こそ、誰も苦しませない。

 

ふいに、窓の外がわずかに橙色へ染まった。

 

「まさか……」

 

窓へ駆け寄る。

 

橙色の光が、ひとつ。

 

またひとつ。

 

夜の街に広がっていく。

 

火だった。

 

街が、燃えている。

 

私は窓から表へ飛び降りた。

 

着地した足元で、乾いた音が鳴る。

 

顔を上げる。

 

教主様の姿はない。

 

代わりに、通りの向こうで炎が揺れていた。

 

建物の軒先。

 

積まれた木箱。

 

遠くの屋根。

 

橙色の光が、夜の街を少しずつ染めていく。

 

「教主様……!」

 

声を張る。

 

返事はない。

 

私は走り出しかけて。

 

足を止めた。

 

……静かだ。

 

あれだけ火が上がっているのに。

 

悲鳴がない。

 

誰かが走る音も。

 

助けを呼ぶ声も。

 

扉が開く音すら聞こえない。

 

昼間はあれほど人で溢れていた大通り。

 

今は、誰の姿もなかった。

 

「……どうして」

 

炎の弾ける音だけが響いている。

 

ぱち。

 

ぱち。

 

私は辺りを見回した。

 

閉じた窓。

 

暗い家。

 

動かない街。

 

そのとき。

 

川の中に立っていた教主様の姿が、頭をよぎった。

 

三本の瓶。

 

水面に広がった波紋。

 

一斉に飛び立った鳥たち。

 

胸の奥が冷たくなる。

 

私は一番近くの民家へ飛び込んだ。

 

「誰かいますか!」

 

返事はない。

 

奥へ進む。

 

床に、水差しが倒れていた。

 

こぼれた水が、板の隙間へゆっくり染み込んでいる。

 

そのすぐそば。

 

妖精が一人、倒れていた。

 

「大丈夫ですか!」

 

駆け寄る。

 

肩を揺する。

 

「起きてください!」

 

反応はない。

 

私は息を止めた。

 

首元へ手を伸ばす。

 

わずかに。

 

呼吸している。

 

「……よかった」

 

眠っている。

 

ただ、深く。

 

外で何かが崩れる音がした。

 

顔を上げる。

 

窓の向こうが赤い。

 

火が、近づいている。

 

「まずい……」

 

私は妖精の身体を抱き起こした。

 

重い。

 

それでも、このままにはできない。

 

時間を止める。

 

音が消える。

 

炎も止まる。

 

舞い上がった火の粉が、空中に縫い付けられたように静止した。

 

「これなら……」

 

妖精を抱え直す。

 

その瞬間。

 

ふっと。

 

赤い光が消えた。

 

「……え?」

 

時間は止めたままのはずだった。

 

炎が消えたわけじゃない。

 

光そのものが、なくなった。

 

私は窓を見る。

 

暗い。

 

さっきまで燃えていたはずの街が見えない。

 

「どうして……」

 

そのとき。

 

靴の中に、冷たい感触。

 

私は足元を見る。

 

水。

 

いつの間にか。

 

床一面が、水に沈んでいた。

 

一瞬で。

 

膝まで。

 

「……なに、これ」

 

水位が上がっていく。

 

時間は止まっている。

 

それなのに。

 

水だけが、動いていた。

 

じわじわと。

 

膝から腰へ。

 

「……なんで」

 

私は妖精を抱え直した。

 

白い塊は私の頭に駆け上がる。

 

扉へ向かう。

 

取っ手を掴む。

 

押す。

 

動かない。

 

「っ……!」

 

もう一度、力を込める。

 

びくともしない。

 

向こう側から押しつける水の重さだけが、はっきり伝わってくる。

 

水位がまた上がる。

 

「このままじゃ……」

 

私は窓を見る。

 

迷っている暇はなかった。

 

妖精を片腕で抱え直す。

 

もう片方の腕で窓を叩き割る。

 

ガラスが砕ける。

 

その破片さえ、時間の止まった空中で静止した。

 

でも。

 

水だけは止まらない。

 

窓から一気に流れ込む。

 

「……っ!」

 

私は妖精と白い塊を抱えたまま、窓枠を蹴った。

 

外へ飛び出す。

 

そのまま空中へ。

 

水面から距離を取る。

 

街を見下ろす。

 

さっきまで燃えていたはずの場所が、水に沈んでいる。

 

屋根。

 

道。

 

街路樹。

 

すべてが、水の下。

 

私は息を切らしながら手元を見る。

 

時間停止。

 

まだ続いている。

 

意味がない。

 

私は解除した。

 

瞬間。

 

世界に音が戻る。

 

轟々と流れる水。

 

遠くで崩れる建物。

 

風。

 

私は近くの高台へ降りる。

 

頭の上にしがみついていた白い塊を、そっと両手で抱き下ろした。

 

足元へ置く。

 

白い塊は少しよろめいてから、こちらを見上げた。

 

「ここにいてください」

 

返事はない。

 

けれど、その場から動かなかった。

 

私は腕の中の妖精を見る。

 

まだ目を閉じたまま。

 

胸は、ゆっくりと上下している。

 

「……大丈夫」

 

自分に言い聞かせるように呟く。

 

濡れた草の上へ、できるだけ静かに横たえた。

 

髪が顔にかかっていたので、そっと払う。

 

白い塊が妖精の隣へ寄っていく。

 

私はもう一度、呼吸を確かめた。

 

生きている。

 

そのことだけを確認して、立ち上がる。

 

少し離れたところに、橙色の光が見えた。

 

たいまつ。

 

その下に、黒い装束。

 

教主様だった。

 

炎はまだ、消えていなかった。

 

教主様は、こちらを見上げなかった。

 

水面の向こうを見たまま。

 

「……今度は、みんな苦しまずに済んだか」

 

その声に、安堵とも諦めともつかないものが混じっていた。

 

私は何も言えない。

 

教主様は背中の荷物を下ろす。

 

ドサリ。

 

さっきまでより、ずっと軽そうだった。

 

ベルトが緩み、空になった容器のようなものが中で小さくぶつかる。

 

カラン。

 

教主様はそれを一度だけ見下ろした。

 

「……今度は?」

 

教主様は答えない。

 

水没した街を見つめている。

 

「……これでいい」

 

「よくないです」

 

「そうかな」

 

少し間。

 

「少なくとも、誰も叫ばなかった」

 

私は思わず教主様を見る。

 

「それで、いいわけないでしょう」

 

教主様は少しだけ顔を向ける。

 

「じゃあ」

 

風が吹く。

 

「どうすればよかった?」

 

私は答えられない。

 

その瞬間。

 

教主様の輪郭が揺れた。

 

黒い装束の向こうに、遠くの空が透ける。

 

「……また」

 

手元を見る。

 

97%。

 

次の瞬間。

 

音が消えた。

 

水も。

 

沈んでいた屋根も。

 

妖精王国も。

 

一瞬にして、何もなくなった。

 

さっきまで街があった場所には、ただ広い草原だけが続いている。

 

私は言葉を失う。

 

教主様だけが、その光景を見ていた。

 

驚きもしない。

 

少しして、こちらへ顔を向ける。

 

「ほら……」

 

ほんの少し、口元が歪む。

 

「なにか言ったらどうだい?」

 

「……街が」

 

「消えたね」

 

淡々と続ける。

 

「こういうことだよ」

 

教主様は草原へ目を向ける。

 

「君が助けた子も、もうここにはいない」

 

私は反射的に振り返る。

 

高台に寝かせた妖精。

 

白い塊はいる。

 

でも妖精だけがいない。

 

「それでも、救う?」

 

「……救います」

 

教主様はしばらく私を見ていた。

 

何かを確かめるように。

 

やがて、視線を逸らす。

 

「……そう」

 

それだけだった。

 

風が草を撫でる。

 

教主様は、何もなくなった街の方へ目を向けた。

 

「じゃあ、聞くけど」

 

静かな声。

 

「君は今まで、いくつの世界を救った?」

 

私は答えられない。

 

「いくつ凍らせた?」

 

胸の奥が痛む。

 

「いくつ、見捨てた?」

 

「……」

 

「救えないと分かったら、止めた」

 

教主様は淡々と続ける。

 

「見ていられなくなったら、凍らせた」

 

「違います」

 

「何が?」

 

すぐに返された。

 

「君は世界を救いたかったんじゃない」

 

教主様がこちらを見る。

 

「自分が苦しみたくなかっただけじゃないのか」

 

息が詰まる。

 

否定したかった。

 

でも。

 

言葉が出ない。

 

「誰かが苦しんでいるのを見たくない」

 

一歩、こちらへ近づく。

 

「自分が何もできないと認めたくない」

 

もう一歩。

 

「だから、止めた」

 

私は俯いた。

 

「それで今度は救う?」

 

小さく笑う。

 

「都合がいいな」

 

胸の奥で、何かが軋む。

 

「……そうかもしれません」

 

教主様の眉が、わずかに動いた。

 

「私は、自分のために救おうとしているのかもしれません」

 

声が震える。

 

「もう後悔したくないだけかもしれない」

 

「ならーー」

 

「でも」

 

私は顔を上げた。

 

「それでもです」

 

教主様が黙る。

 

「怖いです」

 

「また失敗するかもしれない」

 

「また誰かを傷つけるかもしれない」

 

「全部、間違っているかもしれない」

 

一つずつ。

 

自分に言い聞かせるように。

 

「それでも」

 

私は教主様を見る。

 

「分からないまま終わらせるのは、もう嫌なんです」

 

長い沈黙。

 

教主様は、たいまつを持った手を少し持ち上げた。

 

「言葉なら、今までの君も同じだったよ」

 

その一言だけで。

 

胸の奥が冷たくなる。

 

また。

 

今までの君。

 

私はたいまつを見る。

 

橙色の炎。

 

世界を終わらせるために、教主様が持っている火。

 

「なら」

 

自分でも驚くほど、静かな声が出た。

 

「言葉じゃなければいいんですね」

 

「……何?」

 

私は息を吸う。

 

時間を止めた。

 

風が止まる。

 

草が止まる。

 

教主様の髪も。

 

たいまつの炎も。

 

世界から音が消えた。

 

私は教主様へ近づく。

 

いつもの私なら、きっとしない。

 

教主様の手から、一本たいまつを奪う。

 

教主様が持っている炎へ、自分のたいまつを近づけた。

 

火が移る。

 

一つだった炎が、二つになる。

 

私はそれを握りしめる。

 

時間を戻した。

 

風が吹く。

 

草が揺れる。

 

教主様の目が、私の手元へ落ちた。

 

自分のたいまつ。

 

その火を分けた、もう一本。

 

「……何をするつもりだい?」

 

私は答えずに歩き出す。

 

さっきまで街があった場所へ。

 

草の間に、焼け残った木片がいくつか転がっていた。

 

看板だったもの。

 

柱だったもの。

 

誰かの家の一部だったのかもしれない。

 

幸運ながらも濡れていないものを見つけて。

 

私はそれらを拾い集める。

 

ひとつ。

 

またひとつ。

 

教主様は何も言わない。

 

小さく積み上げた木片の前にしゃがみ込む。

 

たいまつを近づける。

 

炎が移った。

 

ぱち。

 

小さな火。

 

風に揺れながら、それでも消えずに燃えている。

 

「そんなことをして」

 

教主様の声。

 

「何になる?」

 

「……分かりません」

 

私は炎を見る。

 

「もう、あの街はありません」

 

「さっき助けた人も、いなくなりました」

 

言葉にすると、胸の奥が痛んだ。

 

それでも。

 

「だからって」

 

火が、またひとつ木片を包む。

 

「ここにあったことまで、なくしたくないんです」

 

教主様は黙っている。

 

「もし」

 

私は顔を上げた。

 

「まだ、どこかに誰かが残っているなら」

 

草原の向こうを見る。

 

「この火を見つけるかもしれない」

 

「ここに誰かがいたって、分かるかもしれない」

 

少しだけ間。

 

「帰ってこられるかもしれない」

 

教主様の目が、燃える火へ向く。

 

「火は」

 

私はたいまつを地面へ立てかけた。

 

「燃やすためだけにあるものではないですから」

 

風が吹く。

 

橙色の炎が、大きく揺れた。

 

その瞬間。

 

手元の装置が震える。

 

数字が書き換わっていく。

 

97.4。

 

97.7。

 

97.9。

 

そして。

 

98%。

 

私は息をのむ。

 

教主様も、その数字を見ていた。

 

やがて。

 

空の色が変わった。

 

青かったはずの空に、淡い光の帯が浮かぶ。

 

緑。

 

紫。

 

青。

 

夜でもないのに、オーロラのような光がゆっくりと揺れている。

 

「……なに、これ」

 

次の瞬間。

 

草原が消えた。

 

目の前に、妖精王国の大通りが現れる。

 

建物。

 

屋台。

 

行き交う妖精たち。

 

ほんの一瞬。

 

瞬きをする間もなく、それも消える。

 

今度は花畑。

 

見渡す限りの花。

 

風が吹く。

 

花びらが舞う。

 

また消える。

 

焼け野原。

 

黒く焦げた地面。

 

崩れた建物。

 

赤い空。

 

そして、また草原。

 

「……世界が」

 

言葉が続かない。

 

景色が定まらない。

 

妖精王国。

 

花畑。

 

水に沈んだ街。

 

凍りついた建物。

 

何もない平原。

 

それらが、何度も。

 

何度も。

 

入れ替わっていく。

 

でも。

 

ひとつだけ。

 

消えないものがあった。

 

さっき私がつけた篝火。

 

橙色の炎だけが、同じ場所で燃え続けている。

 

世界が変わっても。

 

空が変わっても。

 

地面が変わっても。

 

そこにある。

 

「……」

 

教主様も、それを見ていた。

 

また景色が揺れる。

 

一瞬。

 

篝火の周りに、妖精たちの姿が現れた。

 

何人も。

 

炎へ手をかざしている。

 

誰かが座っている。

 

妖精たちが、火のそばで笑っている。

 

その光景は、すぐに消えた。

 

篝火だけが残る。

 

教主様はしばらく黙っていた。

 

それから、小さく息を吐く。

 

「……始まったか」

 

「え?」

 

教主様は空を見上げる。

 

オーロラの向こうで、いくつもの空が重なっている。

 

「これで最後だ」

 

その声には、妙な落ち着きがあった。

 

私は教主様を見る。

 

「最後って……」

 

教主様がこちらを向く。

 

今度は、はっきりと。

 

「リニュア」

 

「君は飛ぶんだ」

 

「……え?」

 

「今すぐ、この次元から出ろ」

 

私は首を振る。

 

「でも――」

 

「いいから」

 

珍しく、強い声だった。

 

「ここから先は、君がいる場所じゃない」

 

「どうしてですか」

 

教主様は答えない。

 

代わりに、手元の装置へ目を落とした。

 

98%。

 

数字が、わずかに揺れている。

 

「もうすぐ、ここは一つの世界ではなくなる」

 

「だから」

 

一歩。

 

教主様が私との距離を詰める。

 

「飛べるうちに飛べ」

 

私は篝火を見る。

 

揺れる炎。

 

また一瞬。

 

知らない誰かが、そのそばに立っている。

 

すぐに消える。

 

「……嫌です」

 

教主様の眉がわずかに動いた。

 

「何?」

 

「飛びません」

 

私は教主様を見る。

 

「まだ、終わってないですから」

 

しばらく。

 

教主様は何も言わなかった。

 

それから。

 

ほんの少しだけ。

 

困ったように笑った。

 

「……本当に」

 

風が吹く。

 

「君は、今までの君とは違うみたいだ」

 

教主様は、ほんの少しだけ満足そうに笑った。

 

けれど。

 

その笑みは長く続かなかった。

 

視線を空へ戻す。

 

オーロラの向こうで、いくつもの世界が明滅している。

 

「でも、もう遅い」

 

「……何がですか」

 

教主様は答えるまで、少し間を置いた。

 

「もうすぐ、私は死ぬ」

 

私は言葉を失った。

 

「何を……」

 

「そのままの意味だよ」

 

いつもの調子で言う。

 

あまりにも静かに。

 

「たぶん、もうすぐね」

 

「待ってください」

 

「それから」

 

教主様は私の声を遮った。

 

「また戻る」

 

「……戻る?」

 

「数か月前に」

 

私は何も言えなかった。

 

教主様は、遠くを見る。

 

そこには一瞬だけ妖精王国が現れ。

 

次の瞬間には、焼け野原へ変わった。

 

「最初は、もう少し長かった気がする」

 

「何が……」

 

「戻る時間だよ」

 

教主様は淡々と続ける。

 

「数か月」

 

少し間。

 

「それが、だんだん短くなっている」

 

花畑。

 

水没した街。

 

凍った世界。

 

また草原。

 

「戻るたびに、同じことが始まる」

 

「そして」

 

教主様が私を見る。

 

「君が来る」

 

胸の奥が冷たくなる。

 

「……私が?」

 

「何度も」

 

教主様は笑わなかった。

 

「何度も君はここへ来た」

 

「何度も私に同じことを聞いた」

 

「何度も止めようとした」

 

私は首を振る。

 

「そんな……」

 

「でも、何も変わらなかった」

 

風が強く吹く。

 

篝火が揺れる。

 

それでも炎は消えない。

 

教主様は、その火をしばらく見つめた。

 

「だから」

 

少しだけ声が低くなる。

 

「もう、疲れたんだ」

 

私は何も言えない。

 

「ブルミの姿も」

 

教主様は目を伏せる。

 

「もう見えない」

 

一呼吸。

 

「声も聞こえない」

 

その言葉だけは。

 

今までより、少しだけ重かった。

 

「最初は、ずっと隣にいたんだけどね」

 

教主様は空を見る。

 

そこにはもう、オーロラしかない。

 

「いつからだったかな」

 

「気づいたら、いなくなっていた」

 

「それでも世界は戻る」

 

「私も戻る」

 

「君も来る」

 

教主様は小さく息を吐いた。

 

「でも」

 

「何も変わらない」

 

沈黙。

 

しばらくして。

 

教主様は私を見る。

 

「だから、リニュア」

 

「君だけでも、ここから出るんだ」

 

その瞬間。

 

手元の数字が跳ねた。

 

99%。

 

「教主様――」

 

言い終わる前に。

 

教主様の足元から、灰色が這い上がった。

 

脚。

 

腰。

 

胸。

 

石。

 

「……え」

 

次の瞬間。

 

砕けた。

 

いくつもの石片が、草の上へ落ちる。

 

私は手を伸ばす。

 

けれど。

 

世界が明滅した。

 

白。

 

次に見えたときには、教主様は地面に倒れていた。

 

血だまり。

 

白い法衣だったはずの場所が、赤く染まっている。

 

「教主様!」

 

また明滅。

 

黒い。

 

焼けた匂い。

 

人の形だけを残して、全身が炭のように崩れている。

 

また。

 

また。

 

また。

 

死んでいる。

 

戻る。

 

死んでいる。

 

戻る。

 

私はどれに手を伸ばせばいいのかも分からない。

 

そのとき。

 

どこからか。

 

「……たすけて」

 

教主様の声。

 

「教主様!?」

 

振り返る。

 

でも、もうそこには誰もいない。

 

次の瞬間には。

 

また別の教主様が、目の前で死んでいた。

 

「……教主様」

 

声が震える。

 

手元の装置が激しく明滅した。

 

99%。

 

87%。

 

63%。

 

91%。

 

74%。

 

また99%。

 

数字が、壊れたように上下する。

 

教主様の姿も、それに合わせて変わっていく。

 

立っている。

 

倒れている。

 

石になっている。

 

焼け焦げている。

 

また立っている。

 

「やめて……」

 

何に向かって言えばいいのかも分からない。

 

白い塊が吠えた。

 

一度。

 

もう一度。

 

今まで聞いたことのないほど強く。

 

「どうすればいいんですか……!」

 

返事はない。

 

また教主様の身体が崩れる。

 

私は手を伸ばす。

 

届く前に、消える。

 

「教主様!」

 

鋭いノイズが頭の奥を走った。

 

【ーーニューー】

 

私は顔を上げる。

 

「……エレナ様?」

 

ノイズ。

 

途切れた声。

 

【ーー最後のーー】

 

「エレナ様!」

 

【最後のアドバイスだ】

 

声が遠い。

 

今にも消えそうだった。

 

【この世界をーー凍らせろ】

 

私は息をのむ。

 

【揺らぎの高い状態をーー維持するんだ】

 

「凍らせる……」

 

手元を見る。

 

凍結の魔導書。

 

何度も使ってきたもの。

 

何度も。

 

終わらせるために。

 

【リニュアーー】

 

「待ってください!」

 

【あとはーー】

 

ノイズ。

 

「エレナ様!」

 

何も聞こえなくなった。

 

静寂。

 

手の中には、凍結の魔導書。

 

目の前には、死に続ける教主様。

 

装置の数字は、まだ激しく上下している。

 

99%。

 

68%。

 

84%。

 

97%。

 

私は魔導書を開く。

 

冷たい光が、ページの間から漏れた。

 

これを使えば。

 

止められる。

 

全部。

 

この世界も。

 

教主様も。

 

苦しみも。

 

私はページに指をかける。

 

そのとき。

 

少し離れたところで、炎が揺れた。

 

篝火。

 

世界が何度変わっても、消えなかった火。

 

私はそれを見つめる。

 

教主様の火を分けてもらって。

 

ここに何かがあったことを残すためにつけた火。

 

手の中の魔導書を見る。

 

凍らせれば。

 

また残せる。

 

何も動かないまま。

 

何も失わないまま。

 

何も変わらないまま。

 

「……また」

 

声が漏れる。

 

「また、同じことをするんですか」

 

誰も答えない。

 

私は魔導書を閉じた。

 

そして。

 

篝火へ向かって歩く。

 

一歩。

 

もう一歩。

 

迷いは、消えていた。

 

「……もう」

 

私は魔導書を持ち上げる。

 

「同じことはしません」

 

炎の中へ投げ入れた。

 

ページが燃え上がる。

 

青白い光が、一瞬だけ炎の中に浮かんだ。

 

氷の紋様。

 

それが、音もなく砕ける。

 

冷気が消える。

 

紙が黒く縮れていく。

 

私は最後まで見ていた。

 

そのとき。

 

手元の装置から、短い音が鳴った。

 

見る。

 

99.0%。

 

数字が止まっている。

 

「……え?」

 

もう下がらない。

 

上がらない。

 

99%。

 

白い塊が、こちらへ歩いてくる。

 

口に何かを咥えていた。

 

「それ……」

 

COCO。

 

白い塊は私の足元まで来る。

 

ぽとり。

 

地面へ落とした。

 

私はしゃがみ込む。

 

拾い上げる。

 

重い。

 

冷たい。

 

見慣れたはずのそれが、今は何の答えにも見えなかった。

 

「これで……」

 

私は世界樹を見る。

 

遠くに立つ、大きな影。

 

次に。

 

教主様を見る。

 

また輪郭が明滅する。

 

「何を撃てばいいんですか……」

 

返事はない。

 

白い塊も。

 

エレナ様も。

 

アメリア様も。

 

誰も、答えてくれなかった。

 

私はCOCOを握りしめる。

 

ただ一人で。

 

その答えを探すしかなかった。

 

 

 

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