「誰だ」
背後から声がした。
私は反射的に振り返る。
教主様が、宴会場の奥に立っていた。
顔はまだ影の中にある。
「……教主様」
返事はない。
視線だけが、私の手元に落ちる。
手記。
ペン。
開かれたページ。
少しして。
教主様は扉の方へ視線をやった。
私は教主様の前に歩み出る。
「どうして私のことを知っているんですか」
一歩。
「どうして、私がここに長くいないことを知っているんですか」
もう一歩。
「どうして、タイムパラドックスなんて言ったんですか」
教主様は答えない。
私は手記を指さす。
「それに――」
「何度って、どういうことですか」
やがて、教主様はため息を一つ。
静寂。
「……見たのか」
それから、わずかに目を細める。
「君は、本当に……変わり映えがしなくて、つまらないな」
私は息をのむ。
「いいから、明日までにはここから出ろ」
「なぜ?」
「明日には、この次元は消えてなくなるからだ」
「……どういうことですか?」
「そのままの意味だよ」
「理解できません」
「理解しなくていい」
「待ってください」
「待たない」
「教主様!」
教主様は、ふっと笑った。
それは楽しそうな笑いではなかった。
どこか、自分でも可笑しくなったような。
おもむろに壁に掛けられたたいまつを一本外す。
閉め切られた部屋が少しだけ明るくなる。
その炎を、隣のたいまつへ移す。
壁際に、ひとつ。
またひとつ。
背をこちらに向けたまま。
「そろそろ、火をつけるのも慣れてきたところなんだ」
少し間。
「だから、これ以上構わないでくれ」
そう言って、たいまつを片手に階段を上がっていく。
私は、その背中を追うこともできずに立ち尽くした。
やがて静かな宴会場が戻ってきた。
残っているのは、外の喧騒だけ。
妖精たちの話し声。
荷車の音。
遠くの笑い声。
私は視線をテーブルに移した。
教主様の手記。
手記に指をかける。
一枚、めくる。
教主様の字。
けれど、見慣れた書き方ではなかった。
修養録なら知っている。
面倒くさがって、何日も空いていることがある。
たまに思い出したように書いて。
エルフィン女王のこと。
使徒たちのこと。
今日あった、どうでもいいこと。
そういうものが並んでいるはずだった。
でも、これは違う。
日付。
数字。
植物の名前。
また数字。
「次は半分」
ところどころに文章が散りばめられている。
一枚めくる。
同じ植物。
量だけが違う。
さらに一枚。
「今回は早すぎた」
私は眉をひそめる。
こんなに律儀に記録をつける人だっただろうか。
しかも、書いてあるのは誰かとの思い出ではない。
ほとんどが、数字と植物ばかりだった。
私は目で追いながら、次のページへ進む。
外からは、まだ妖精たちの話し声が聞こえていた。
ページをめくる。
また一枚。
さらに一枚。
いつの間にか、読む速さが少しずつ上がっていた。
知りたい。
何が起きているのか。
教主様が何を知っているのか。
どうして、私のことを。
紙が擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
ぱらり。
次のページ。
そこで、指が止まった。
ーー今日も同じ場所だった。
ーー今度は、彼女が泣かなかった。
ーー前回より少し早い。
ーーまだ、何も知らない。
ーー彼女との約束は守る。
ーー次に来た彼女には、最後を見せない。
私はその言葉を何度も目で追った。
彼女。
どの彼女のことを言っているのか、分からない。
「……次に?」
ページの文字が、いつの間にか読みづらくなっていた。
続きのページは破れ去られている。
切れ端だけが挟まっていた。
顔を上げる。
窓の外は、もう暗い。
……静かだった。
あれほど賑やかだった大通りから、何の音もしない。
少しして、2階から足音。
コツ。
コツ。
教主様がたいまつを持って降りてくる。
「まだいたのか」
私は返事をするより先に、教主様の姿を見た。
いつもの白い法衣ではない。
全身を覆う、黒い装束。
背には、見慣れない大きなバックパックを背負っている。
肩に食い込むほど重そうだった。
「……その格好」
教主様は答えない。
たいまつの火が揺れる。
影が、黒い服の上を這う。
私は立ち上がった。
「何をするつもりなんですか」
教主様は私ではなく、テーブルの上の手記を見る。
少しして。
「二階に」
私は眉をひそめる。
「君が求めていたものがある」
「……私が?」
教主様はそれ以上何も言わなかった。
そのまま扉へ向かう。
「待ってください」
足を止めない。
私は階段を見る。
それから、教主様を見る。
黒い背中が扉の向こうへ消えていく。
迷ったのは、ほんの少しだった。
「……白いの。行きましょう」
私は階段を上がる。
二階は暗かった。
たいまつの明かりも届かない。
壁に手をつきながら進む。
ひとつだけ、扉から光が漏れていた。
その部屋へ入る。
机。
椅子。
積まれた紙。
そして。
床に、一枚だけ紙が落ちていた。
端が不自然に破れている。
手記と同じ紙。
私は拾い上げる。
そのとき。
階下から、重いものを床に置くような音がした。
ゴトン。
少しして。
何かの蓋を開けるような音。
カチ。
私は階段の方を見る。
「……教主様?」
返事はない。
また、物音。
今度は何かを引きずるような音だった。
けれど、すぐに遠ざかっていく。
私は手元の紙へ視線を戻した。
教主様の字。
間違いない。
そのページを読む。
ーーもう私には、あの子が見えていない。
ーー声も聞こえない。
ーーそれでも、明日は来る。
ーーそして、また彼女が来る。
ーー彼女との約束は守る。
ーー次に来た彼女には、最後を見せない。
ーーだから、眠ってもらう。
ーー彼女がまた止めに来る前に、全部終わらせる。
私は、その一文を指でなぞった。
ーー今度こそ、誰も苦しませない。
ふいに、窓の外がわずかに橙色へ染まった。
「まさか……」
窓へ駆け寄る。
橙色の光が、ひとつ。
またひとつ。
夜の街に広がっていく。
火だった。
街が、燃えている。
私は窓から表へ飛び降りた。
着地した足元で、乾いた音が鳴る。
顔を上げる。
教主様の姿はない。
代わりに、通りの向こうで炎が揺れていた。
建物の軒先。
積まれた木箱。
遠くの屋根。
橙色の光が、夜の街を少しずつ染めていく。
「教主様……!」
声を張る。
返事はない。
私は走り出しかけて。
足を止めた。
……静かだ。
あれだけ火が上がっているのに。
悲鳴がない。
誰かが走る音も。
助けを呼ぶ声も。
扉が開く音すら聞こえない。
昼間はあれほど人で溢れていた大通り。
今は、誰の姿もなかった。
「……どうして」
炎の弾ける音だけが響いている。
ぱち。
ぱち。
私は辺りを見回した。
閉じた窓。
暗い家。
動かない街。
そのとき。
川の中に立っていた教主様の姿が、頭をよぎった。
三本の瓶。
水面に広がった波紋。
一斉に飛び立った鳥たち。
胸の奥が冷たくなる。
私は一番近くの民家へ飛び込んだ。
「誰かいますか!」
返事はない。
奥へ進む。
床に、水差しが倒れていた。
こぼれた水が、板の隙間へゆっくり染み込んでいる。
そのすぐそば。
妖精が一人、倒れていた。
「大丈夫ですか!」
駆け寄る。
肩を揺する。
「起きてください!」
反応はない。
私は息を止めた。
首元へ手を伸ばす。
わずかに。
呼吸している。
「……よかった」
眠っている。
ただ、深く。
外で何かが崩れる音がした。
顔を上げる。
窓の向こうが赤い。
火が、近づいている。
「まずい……」
私は妖精の身体を抱き起こした。
重い。
それでも、このままにはできない。
時間を止める。
音が消える。
炎も止まる。
舞い上がった火の粉が、空中に縫い付けられたように静止した。
「これなら……」
妖精を抱え直す。
その瞬間。
ふっと。
赤い光が消えた。
「……え?」
時間は止めたままのはずだった。
炎が消えたわけじゃない。
光そのものが、なくなった。
私は窓を見る。
暗い。
さっきまで燃えていたはずの街が見えない。
「どうして……」
そのとき。
靴の中に、冷たい感触。
私は足元を見る。
水。
いつの間にか。
床一面が、水に沈んでいた。
一瞬で。
膝まで。
「……なに、これ」
水位が上がっていく。
時間は止まっている。
それなのに。
水だけが、動いていた。
じわじわと。
膝から腰へ。
「……なんで」
私は妖精を抱え直した。
白い塊は私の頭に駆け上がる。
扉へ向かう。
取っ手を掴む。
押す。
動かない。
「っ……!」
もう一度、力を込める。
びくともしない。
向こう側から押しつける水の重さだけが、はっきり伝わってくる。
水位がまた上がる。
「このままじゃ……」
私は窓を見る。
迷っている暇はなかった。
妖精を片腕で抱え直す。
もう片方の腕で窓を叩き割る。
ガラスが砕ける。
その破片さえ、時間の止まった空中で静止した。
でも。
水だけは止まらない。
窓から一気に流れ込む。
「……っ!」
私は妖精と白い塊を抱えたまま、窓枠を蹴った。
外へ飛び出す。
そのまま空中へ。
水面から距離を取る。
街を見下ろす。
さっきまで燃えていたはずの場所が、水に沈んでいる。
屋根。
道。
街路樹。
すべてが、水の下。
私は息を切らしながら手元を見る。
時間停止。
まだ続いている。
意味がない。
私は解除した。
瞬間。
世界に音が戻る。
轟々と流れる水。
遠くで崩れる建物。
風。
私は近くの高台へ降りる。
頭の上にしがみついていた白い塊を、そっと両手で抱き下ろした。
足元へ置く。
白い塊は少しよろめいてから、こちらを見上げた。
「ここにいてください」
返事はない。
けれど、その場から動かなかった。
私は腕の中の妖精を見る。
まだ目を閉じたまま。
胸は、ゆっくりと上下している。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
濡れた草の上へ、できるだけ静かに横たえた。
髪が顔にかかっていたので、そっと払う。
白い塊が妖精の隣へ寄っていく。
私はもう一度、呼吸を確かめた。
生きている。
そのことだけを確認して、立ち上がる。
少し離れたところに、橙色の光が見えた。
たいまつ。
その下に、黒い装束。
教主様だった。
炎はまだ、消えていなかった。
教主様は、こちらを見上げなかった。
水面の向こうを見たまま。
「……今度は、みんな苦しまずに済んだか」
その声に、安堵とも諦めともつかないものが混じっていた。
私は何も言えない。
教主様は背中の荷物を下ろす。
ドサリ。
さっきまでより、ずっと軽そうだった。
ベルトが緩み、空になった容器のようなものが中で小さくぶつかる。
カラン。
教主様はそれを一度だけ見下ろした。
「……今度は?」
教主様は答えない。
水没した街を見つめている。
「……これでいい」
「よくないです」
「そうかな」
少し間。
「少なくとも、誰も叫ばなかった」
私は思わず教主様を見る。
「それで、いいわけないでしょう」
教主様は少しだけ顔を向ける。
「じゃあ」
風が吹く。
「どうすればよかった?」
私は答えられない。
その瞬間。
教主様の輪郭が揺れた。
黒い装束の向こうに、遠くの空が透ける。
「……また」
手元を見る。
97%。
次の瞬間。
音が消えた。
水も。
沈んでいた屋根も。
妖精王国も。
一瞬にして、何もなくなった。
さっきまで街があった場所には、ただ広い草原だけが続いている。
私は言葉を失う。
教主様だけが、その光景を見ていた。
驚きもしない。
少しして、こちらへ顔を向ける。
「ほら……」
ほんの少し、口元が歪む。
「なにか言ったらどうだい?」
「……街が」
「消えたね」
淡々と続ける。
「こういうことだよ」
教主様は草原へ目を向ける。
「君が助けた子も、もうここにはいない」
私は反射的に振り返る。
高台に寝かせた妖精。
白い塊はいる。
でも妖精だけがいない。
「それでも、救う?」
「……救います」
教主様はしばらく私を見ていた。
何かを確かめるように。
やがて、視線を逸らす。
「……そう」
それだけだった。
風が草を撫でる。
教主様は、何もなくなった街の方へ目を向けた。
「じゃあ、聞くけど」
静かな声。
「君は今まで、いくつの世界を救った?」
私は答えられない。
「いくつ凍らせた?」
胸の奥が痛む。
「いくつ、見捨てた?」
「……」
「救えないと分かったら、止めた」
教主様は淡々と続ける。
「見ていられなくなったら、凍らせた」
「違います」
「何が?」
すぐに返された。
「君は世界を救いたかったんじゃない」
教主様がこちらを見る。
「自分が苦しみたくなかっただけじゃないのか」
息が詰まる。
否定したかった。
でも。
言葉が出ない。
「誰かが苦しんでいるのを見たくない」
一歩、こちらへ近づく。
「自分が何もできないと認めたくない」
もう一歩。
「だから、止めた」
私は俯いた。
「それで今度は救う?」
小さく笑う。
「都合がいいな」
胸の奥で、何かが軋む。
「……そうかもしれません」
教主様の眉が、わずかに動いた。
「私は、自分のために救おうとしているのかもしれません」
声が震える。
「もう後悔したくないだけかもしれない」
「ならーー」
「でも」
私は顔を上げた。
「それでもです」
教主様が黙る。
「怖いです」
「また失敗するかもしれない」
「また誰かを傷つけるかもしれない」
「全部、間違っているかもしれない」
一つずつ。
自分に言い聞かせるように。
「それでも」
私は教主様を見る。
「分からないまま終わらせるのは、もう嫌なんです」
長い沈黙。
教主様は、たいまつを持った手を少し持ち上げた。
「言葉なら、今までの君も同じだったよ」
その一言だけで。
胸の奥が冷たくなる。
また。
今までの君。
私はたいまつを見る。
橙色の炎。
世界を終わらせるために、教主様が持っている火。
「なら」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「言葉じゃなければいいんですね」
「……何?」
私は息を吸う。
時間を止めた。
風が止まる。
草が止まる。
教主様の髪も。
たいまつの炎も。
世界から音が消えた。
私は教主様へ近づく。
いつもの私なら、きっとしない。
教主様の手から、一本たいまつを奪う。
教主様が持っている炎へ、自分のたいまつを近づけた。
火が移る。
一つだった炎が、二つになる。
私はそれを握りしめる。
時間を戻した。
風が吹く。
草が揺れる。
教主様の目が、私の手元へ落ちた。
自分のたいまつ。
その火を分けた、もう一本。
「……何をするつもりだい?」
私は答えずに歩き出す。
さっきまで街があった場所へ。
草の間に、焼け残った木片がいくつか転がっていた。
看板だったもの。
柱だったもの。
誰かの家の一部だったのかもしれない。
幸運ながらも濡れていないものを見つけて。
私はそれらを拾い集める。
ひとつ。
またひとつ。
教主様は何も言わない。
小さく積み上げた木片の前にしゃがみ込む。
たいまつを近づける。
炎が移った。
ぱち。
小さな火。
風に揺れながら、それでも消えずに燃えている。
「そんなことをして」
教主様の声。
「何になる?」
「……分かりません」
私は炎を見る。
「もう、あの街はありません」
「さっき助けた人も、いなくなりました」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。
それでも。
「だからって」
火が、またひとつ木片を包む。
「ここにあったことまで、なくしたくないんです」
教主様は黙っている。
「もし」
私は顔を上げた。
「まだ、どこかに誰かが残っているなら」
草原の向こうを見る。
「この火を見つけるかもしれない」
「ここに誰かがいたって、分かるかもしれない」
少しだけ間。
「帰ってこられるかもしれない」
教主様の目が、燃える火へ向く。
「火は」
私はたいまつを地面へ立てかけた。
「燃やすためだけにあるものではないですから」
風が吹く。
橙色の炎が、大きく揺れた。
その瞬間。
手元の装置が震える。
数字が書き換わっていく。
97.4。
97.7。
97.9。
そして。
98%。
私は息をのむ。
教主様も、その数字を見ていた。
やがて。
空の色が変わった。
青かったはずの空に、淡い光の帯が浮かぶ。
緑。
紫。
青。
夜でもないのに、オーロラのような光がゆっくりと揺れている。
「……なに、これ」
次の瞬間。
草原が消えた。
目の前に、妖精王国の大通りが現れる。
建物。
屋台。
行き交う妖精たち。
ほんの一瞬。
瞬きをする間もなく、それも消える。
今度は花畑。
見渡す限りの花。
風が吹く。
花びらが舞う。
また消える。
焼け野原。
黒く焦げた地面。
崩れた建物。
赤い空。
そして、また草原。
「……世界が」
言葉が続かない。
景色が定まらない。
妖精王国。
花畑。
水に沈んだ街。
凍りついた建物。
何もない平原。
それらが、何度も。
何度も。
入れ替わっていく。
でも。
ひとつだけ。
消えないものがあった。
さっき私がつけた篝火。
橙色の炎だけが、同じ場所で燃え続けている。
世界が変わっても。
空が変わっても。
地面が変わっても。
そこにある。
「……」
教主様も、それを見ていた。
また景色が揺れる。
一瞬。
篝火の周りに、妖精たちの姿が現れた。
何人も。
炎へ手をかざしている。
誰かが座っている。
妖精たちが、火のそばで笑っている。
その光景は、すぐに消えた。
篝火だけが残る。
教主様はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……始まったか」
「え?」
教主様は空を見上げる。
オーロラの向こうで、いくつもの空が重なっている。
「これで最後だ」
その声には、妙な落ち着きがあった。
私は教主様を見る。
「最後って……」
教主様がこちらを向く。
今度は、はっきりと。
「リニュア」
「君は飛ぶんだ」
「……え?」
「今すぐ、この次元から出ろ」
私は首を振る。
「でも――」
「いいから」
珍しく、強い声だった。
「ここから先は、君がいる場所じゃない」
「どうしてですか」
教主様は答えない。
代わりに、手元の装置へ目を落とした。
98%。
数字が、わずかに揺れている。
「もうすぐ、ここは一つの世界ではなくなる」
「だから」
一歩。
教主様が私との距離を詰める。
「飛べるうちに飛べ」
私は篝火を見る。
揺れる炎。
また一瞬。
知らない誰かが、そのそばに立っている。
すぐに消える。
「……嫌です」
教主様の眉がわずかに動いた。
「何?」
「飛びません」
私は教主様を見る。
「まだ、終わってないですから」
しばらく。
教主様は何も言わなかった。
それから。
ほんの少しだけ。
困ったように笑った。
「……本当に」
風が吹く。
「君は、今までの君とは違うみたいだ」
教主様は、ほんの少しだけ満足そうに笑った。
けれど。
その笑みは長く続かなかった。
視線を空へ戻す。
オーロラの向こうで、いくつもの世界が明滅している。
「でも、もう遅い」
「……何がですか」
教主様は答えるまで、少し間を置いた。
「もうすぐ、私は死ぬ」
私は言葉を失った。
「何を……」
「そのままの意味だよ」
いつもの調子で言う。
あまりにも静かに。
「たぶん、もうすぐね」
「待ってください」
「それから」
教主様は私の声を遮った。
「また戻る」
「……戻る?」
「数か月前に」
私は何も言えなかった。
教主様は、遠くを見る。
そこには一瞬だけ妖精王国が現れ。
次の瞬間には、焼け野原へ変わった。
「最初は、もう少し長かった気がする」
「何が……」
「戻る時間だよ」
教主様は淡々と続ける。
「数か月」
少し間。
「それが、だんだん短くなっている」
花畑。
水没した街。
凍った世界。
また草原。
「戻るたびに、同じことが始まる」
「そして」
教主様が私を見る。
「君が来る」
胸の奥が冷たくなる。
「……私が?」
「何度も」
教主様は笑わなかった。
「何度も君はここへ来た」
「何度も私に同じことを聞いた」
「何度も止めようとした」
私は首を振る。
「そんな……」
「でも、何も変わらなかった」
風が強く吹く。
篝火が揺れる。
それでも炎は消えない。
教主様は、その火をしばらく見つめた。
「だから」
少しだけ声が低くなる。
「もう、疲れたんだ」
私は何も言えない。
「ブルミの姿も」
教主様は目を伏せる。
「もう見えない」
一呼吸。
「声も聞こえない」
その言葉だけは。
今までより、少しだけ重かった。
「最初は、ずっと隣にいたんだけどね」
教主様は空を見る。
そこにはもう、オーロラしかない。
「いつからだったかな」
「気づいたら、いなくなっていた」
「それでも世界は戻る」
「私も戻る」
「君も来る」
教主様は小さく息を吐いた。
「でも」
「何も変わらない」
沈黙。
しばらくして。
教主様は私を見る。
「だから、リニュア」
「君だけでも、ここから出るんだ」
その瞬間。
手元の数字が跳ねた。
99%。
「教主様――」
言い終わる前に。
教主様の足元から、灰色が這い上がった。
脚。
腰。
胸。
石。
「……え」
次の瞬間。
砕けた。
いくつもの石片が、草の上へ落ちる。
私は手を伸ばす。
けれど。
世界が明滅した。
白。
次に見えたときには、教主様は地面に倒れていた。
血だまり。
白い法衣だったはずの場所が、赤く染まっている。
「教主様!」
また明滅。
黒い。
焼けた匂い。
人の形だけを残して、全身が炭のように崩れている。
また。
また。
また。
死んでいる。
戻る。
死んでいる。
戻る。
私はどれに手を伸ばせばいいのかも分からない。
そのとき。
どこからか。
「……たすけて」
教主様の声。
「教主様!?」
振り返る。
でも、もうそこには誰もいない。
次の瞬間には。
また別の教主様が、目の前で死んでいた。
「……教主様」
声が震える。
手元の装置が激しく明滅した。
99%。
87%。
63%。
91%。
74%。
また99%。
数字が、壊れたように上下する。
教主様の姿も、それに合わせて変わっていく。
立っている。
倒れている。
石になっている。
焼け焦げている。
また立っている。
「やめて……」
何に向かって言えばいいのかも分からない。
白い塊が吠えた。
一度。
もう一度。
今まで聞いたことのないほど強く。
「どうすればいいんですか……!」
返事はない。
また教主様の身体が崩れる。
私は手を伸ばす。
届く前に、消える。
「教主様!」
鋭いノイズが頭の奥を走った。
【ーーニューー】
私は顔を上げる。
「……エレナ様?」
ノイズ。
途切れた声。
【ーー最後のーー】
「エレナ様!」
【最後のアドバイスだ】
声が遠い。
今にも消えそうだった。
【この世界をーー凍らせろ】
私は息をのむ。
【揺らぎの高い状態をーー維持するんだ】
「凍らせる……」
手元を見る。
凍結の魔導書。
何度も使ってきたもの。
何度も。
終わらせるために。
【リニュアーー】
「待ってください!」
【あとはーー】
ノイズ。
「エレナ様!」
何も聞こえなくなった。
静寂。
手の中には、凍結の魔導書。
目の前には、死に続ける教主様。
装置の数字は、まだ激しく上下している。
99%。
68%。
84%。
97%。
私は魔導書を開く。
冷たい光が、ページの間から漏れた。
これを使えば。
止められる。
全部。
この世界も。
教主様も。
苦しみも。
私はページに指をかける。
そのとき。
少し離れたところで、炎が揺れた。
篝火。
世界が何度変わっても、消えなかった火。
私はそれを見つめる。
教主様の火を分けてもらって。
ここに何かがあったことを残すためにつけた火。
手の中の魔導書を見る。
凍らせれば。
また残せる。
何も動かないまま。
何も失わないまま。
何も変わらないまま。
「……また」
声が漏れる。
「また、同じことをするんですか」
誰も答えない。
私は魔導書を閉じた。
そして。
篝火へ向かって歩く。
一歩。
もう一歩。
迷いは、消えていた。
「……もう」
私は魔導書を持ち上げる。
「同じことはしません」
炎の中へ投げ入れた。
ページが燃え上がる。
青白い光が、一瞬だけ炎の中に浮かんだ。
氷の紋様。
それが、音もなく砕ける。
冷気が消える。
紙が黒く縮れていく。
私は最後まで見ていた。
そのとき。
手元の装置から、短い音が鳴った。
見る。
99.0%。
数字が止まっている。
「……え?」
もう下がらない。
上がらない。
99%。
白い塊が、こちらへ歩いてくる。
口に何かを咥えていた。
「それ……」
COCO。
白い塊は私の足元まで来る。
ぽとり。
地面へ落とした。
私はしゃがみ込む。
拾い上げる。
重い。
冷たい。
見慣れたはずのそれが、今は何の答えにも見えなかった。
「これで……」
私は世界樹を見る。
遠くに立つ、大きな影。
次に。
教主様を見る。
また輪郭が明滅する。
「何を撃てばいいんですか……」
返事はない。
白い塊も。
エレナ様も。
アメリア様も。
誰も、答えてくれなかった。
私はCOCOを握りしめる。
ただ一人で。
その答えを探すしかなかった。